万年初心者のための世界史ブックガイド

2010年10月12日

ナチについてのメモ その1

Filed under: おしらせ・雑記, ドイツ — 万年初心者 @ 06:00

グイド・クノップ『ヒトラーの共犯者 下』(原書房)の記事続き。

 

第4章「手先」ヨアヒム・フォン・リッベントロープ。

1893年生まれ、第一次大戦に従軍。

戦後酒類販売業で成功、上流社会入りし、後の首相でナチの政権奪取に重要な役割を果すフランツ・フォン・パーペンとも親交。

1932年7月総選挙でナチが第一党になったのをうけて、当時の首相パーペンとナチの政権入りについて交渉するが、この時点では失敗。

同年11月選挙でナチは第一党の地位は守ったもののはじめての後退を経験し、党の財政難も相俟って危機的状況に陥るが、首相シュライヒャーと離反した前首相パーペンがヒトラーと大統領ヒンデンブルクとの間を仲介し、1933年1月ヒトラーが首相に任命される。

この際、パーペン、ヒンデンブルクら保守派との交渉に大きな役割を果したリッベントロープだが、自らの就任を望んだ外相にはリッベントロープではなく、保守派のノイラートが任命される。

しかし34年リッベントロープはヒトラーの外交顧問となり、外務省とは別の「リッベントロープ機関」を率い、二重外交との批判も受けながら、35年英独海軍協定、36年日独防共協定などの成果を挙げる。

36~38年には駐英大使となるが、ヒトラーの望んだ英独間の反共同盟締結には完全に失敗。

38年ヒトラーはノイラート外相、ブロムベルク国防相を解任し、政権内から保守派を追放した後、リッベントロープを外相に任命、同年からオーストリア併合・ズデーテン問題・ミュンヘン会談など大戦への危機続発。

ここで以下の記述があるのに気付き、大いに注目した。

チェンバレンは、臆病な「宥和主義者」ではなく、自分の国のためにミュンヘンで時間かせぎをしていた巧妙な外交官だった。ヒトラーに対抗して軍備を増強するための時間かせぎを。

ヒトラーとの交渉による平和維持が完全に不可能なことを示して国民の抗戦意志を固めたことと、譲歩で得られた束の間の時間を最大限有効に利用して猛烈な勢いで軍備を拡張しそれが1940年「バトル・オヴ・ブリテン」での勝利につながったことの、以上二点をもって、ネヴィル・チェンバレンの「宥和政策」をむしろ肯定的に評価する見解があることは、野田宣雄『ヒトラーの時代』を読んで以来知っていたが、本書も同じような立場を採っている模様。

39年チェコスロヴァキア解体後、リッベントロープがモスクワに飛び、独ソ不可侵条約締結、その直後ポーランド侵攻と第二次大戦勃発となるが、開戦後は外交官であるリッベントロープの役割は低下していった。

42年12月と43年夏の、独ソ単独講和の動きに一部関与したが、ヒトラーの断固たる拒否によって挫折。

戦後ニュルンベルク裁判で絞首刑。

第5章「死刑執行人」ローラント・フライスラー。

1893年生まれ、第一次大戦に従軍、ロシア戦線で捕虜となる。

ボリシェヴィキ新政権下の収容所内で「人民委員」となり、この事実が後々まで悪評を生み出し、それを否定するためにフライスラー本人はより狂信的になったと記されている。

戦後帰国して弁護士になり、ナチに入党、党員の裁判で活動。

33年ナチ政権成立後はプロイセン法務省次官に。

戦時中の42年に民族裁判所長官となり、有名なショル兄妹ら「白バラ」グループほか、体制反対派と見做された者に残忍な弾圧を加える。

スターリン時代のソ連粛清裁判におけるヴィシンスキーと似たような役割。

フライスラーはもう少尉ではないとはいえ、本国で戦っているも同様だった。戦場でも銃後でも多くの人間が死んでいくのを見て疑念を口にした者は民族に対する裏切り者である。「証拠隠滅者」、「国防力破壊工作者」「敗北主義者」といった言葉のもとに何千人もの人間が命を落とした。死刑判決が強制労働にまで減刑されることは滅多になかった。死刑になったほとんどが不注意にうっかりと「総統」や祖国防衛や戦争の進展についての批判を公共の場で口にした者であった。

郵便局員ゲオルク・ユルコフスキーなどは、1943年8月に「これだけはいえるが統領(ドゥーチェ ムッソリーニ)が捕まったんだから、ヒトラーも同じ運命だろう。1月には死んでいるだろう」とある婦人に言った。ユルコフスキーはナチズムについて反対の立場をとっているわけではなかった。しかし、いまや「総統」の権限や能力にただ疑念をさしはさんだだけで、その発言が命とりとなりかねなかった。

ユルコフスキーの運命は、フライスラーによって決定された。「被告はわれわれの敵国の破壊的な宣伝者であり、死刑をもって罰する」。エーレンガルト・フランク=シュルツは「国防力破壊工作」のかどで訴えられた。それは赤十字看護婦に向かって、「『現在の独裁政治』よりもイギリスに何年か支配された方がましね」と「生意気にも」主張したためであった。「被告の名誉を永遠に剥奪し、死刑をもって罰する」というのがフライスラーの判決だった。

1944年7月20日のヒトラー暗殺計画が失敗すると、ナチ支配下においても抵抗力を最後まで残していた貴族階級に多くが属する被告人に対して、フライスラーが邪悪な牙を剥く(引用文(ケナン1)参照)。

ペーター・ヨルク・フォン・ヴァルテンブルク伯爵「裁判長、すでに尋問で申し上げましたように、わたしは、国家社会主義の世界観がみせた展開について・・・・・」

フライスラー(さえぎって)「『賛成できなかった』!具体的には、シュタウフェンベルクに対して、ユダヤ人問題にかんしてはユダヤ人撲滅は好ましくない、国家社会主義の法解釈は好ましくなかっただろうと言いましたね」

フォン・ヴァルテンブルク「核心となるのは、それらすべての問題を結びつけているもので、つまり、国家が神に対する宗教上・道徳上の義務を果さずして無制限な権力を国民に対して行使することを主張することです」

フライスラーは、被告がどもりながら供述することを期待していた。しかし被告は態度を崩すことはなかった。フライスラーがどなって発する言葉の暴力に屈する被告はほとんどいなかった。

ウルリヒ・ヴィルヘルム・シュヴェーリン・フォン・シュヴァーネンフェルト伯爵「(ナチの)ポーランド人に対する態度について疑念をいだいたことは、実際何度もありました」

フライスラー(さえぎって)「疑念、それを国家社会主義のせいだとしましたね」

シュヴェーリン伯爵「はい。あれは殺人です!国内でも国外でも・・・・・」

フライスラー「殺人?お前は卑劣漢だ!卑劣な精神に毒されてしまったのか?『はい』ないし『いいえ』で答えていただきたい。毒されたのか?」

シュヴェーリン伯爵「裁判長!」

フライスラー「されたのか、されなかったのか、どちらかはっきり答えたまえ」

シュヴェーリン伯爵「いいえ!」

「自分が有罪だと認めますか?」とフライスラーはヘルムート・ジェイムズ・フォン・モルトケ伯爵にたずねた。

「いいえ」とモルトケ伯爵。

「なぜ総統に逆らったのですか?」とフライスラーは外務省勤務の公使館参事官ハンス・ベルント・フォン・ヘフテンにたずねた。

「ヒトラーのなかにあらゆる悪が体現されているのが見えるからです」とヘフテンが答えた。

「いいえ、有罪だとは思いません。わたしには実行する権利がありました。それはヒトラーが1923年11月9日に要求したのと同じ権利です」と陸軍中佐ツェーザー・フォン・ホーファッカーが言った。

フライスラー「同じ権利?とんでもない!そんなことがとおると思っているのか!」

・・・・・被告は通常何週間にもわたって拷問を受け、睡眠をとることも許されなかった。このような状態で、赤いローブの悪魔とやりあった被告はわずかしかいない。レジスタンス闘士フリッツ=ディートロフ・フォン・デア・シューレンブルク伯爵は、その数少ないひとりである。伯爵は7月20日事件裁判の間フライスラーからは「卑劣漢シューレンブルク」としか呼ばれていなかった。フライスラーが一度うっかりと「フォン・デア・シューレンブルク伯爵」と称号を使うと、被告は皮肉っぽく「卑劣漢シューレンブルク、でお願いします、もしよろしければ」と訂正した。カトリックの弁護士ヨーゼフ・ヴィルマーも伯爵と同類の勇気ある被告だった。ヴィルマーが「わたしを絞首刑にするとは、よほどわたしが怖いんですね」とフライスラーに向かって叫ぶと、フライスラーは怒って「まもなく貴様は地獄行きだ!」と言いかえした。それに対してヴィルマーの返事はこうであった。「あとからいらっしゃるのを楽しみにしております。裁判長殿」

フライスラー自身は戦犯裁判で裁かれることなく、1945年2月に空襲で死亡。

なお、本書の翻訳は基本的には巧いと感じるが、しかし299ページの「首相クルト・フォン・シュライヒャー元将軍」と302ページの「国防相グスタフ・ノスケ」という記述の最初の肩書きには「元」と付けないと誤解を招くと思う。

終わらねえ・・・・・・。

あと一人分続きます。

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