万年初心者のための世界史ブックガイド

2010年10月9日

グイド・クノップ 『ヒトラーの共犯者  12人の側近たち  下』 (原書房)

Filed under: ドイツ — 万年初心者 @ 06:00

少し前に上巻を読んでそれきりだったこれを手に取った。

この巻で採り上げられるのは、アイヒマン、シーラッハ、ボルマン、リッベントロープ、フライスラー、メンゲレの6人。

以上のうち、シーラッハのみ本書を読むまで名前も聞いたことが無かったが、青年団体ヒトラー・ユーゲントの指導者として載せられている。

上巻記事では書かなかったが、著者は第二ドイツ・テレビ現代史番組部局長で、本書自体もテレビシリーズの書籍化とのこと。

 

 

第1章「抹殺者」アドルフ・アイヒマン。

1906年生まれ。

オーストリアにある、ヒトラーと同じ高等学校を同じように中退。

ナチに入党するが、ヒトラー政権が成立した1933年には、年齢からいってまだ親衛隊の一般隊員だった模様。

34年保安諜報部(SD)入り、「ユダヤ人担当課」に配属、SD長官ハイドリヒの下で勤務。

38年オーストリア併合後、ユダヤ人の財産没収と国外追放を指揮。

第二次世界大戦勃発後、占領下にいたユダヤ人をどう処置するかが問題となり、最初財産強奪の上、マダカスカル島への追放が検討されるが、戦時下での移送は実現性が無く、計画放棄。

41年独ソ戦が始まると、事態は最悪の方向へ向かう。

戦線の背後でユダヤ人の大量射殺が繰り返される。

42年1月、ハイドリヒ、アイヒマン、ゲシュタポ長官ハインリヒ・ミュラーらが出席したヴァンゼー会議で「ユダヤ人問題の最終的解決」を決定。

射殺より「効率的な」処置としてガス室を備えたアウシュヴィッツなどの絶滅収容所を建設。

アイヒマンは、ユダヤ人を満載した「死の列車」を、前線における軍の要求を退けてまで優先的に稼動させる。

44年夏がホロコーストのピーク。

同年夏にはドイツの同盟国で大きなユダヤ人居住区のあったハンガリーへ独軍が進駐。

同国指導者ホルティの阻止にも関わらず、アイヒマンらはユダヤ人狩りを行い、10月「矢十字団」の政権奪取とホルティ失脚後はさらに甚だしくなる。

しかし12月には赤軍がブダペスト制圧、ホロコーストもようやく終焉を迎える。

アイヒマンは終戦時の混乱に紛れて逃亡、偽名でドイツ国内に潜伏した後、1950年南米アルゼンチンに渡る。

ナチ戦犯を追跡していたイスラエル秘密諜報機関モサドが60年にアイヒマンをアルゼンチンから拉致、イスラエルでの裁判の末、61年死刑判決、62年執行。

 

 

第2章「ヒトラー・ユーゲント団員」バルドゥール・フォン・シーラッハ。

1907年生まれ、父は貴族で母はアメリカ人の富裕な家という、ナチ指導者の中では相当異色の生い立ち。

第一次大戦敗北時に従軍していた兄が祖国の将来を悲観して自殺。

31年ヒトラー・ユーゲント、ナチ学生連盟、ナチ生徒連盟のトップに就き、後に第三帝国の青少年組織指導者に登り詰める。

「若者というのは、いつも自分の殻にこもりがちで、自分自身にとても愛着をもっている」

「だが、若者に拍手を贈り、敬意を表して、いい役まわりをあたえてやれば、そのことに感謝で報いてくれるのだ」

「君たちは未来のドイツだ」をスローガンに、シーラッハは少年少女の獲得にも奔走した。まるでハーメルンの笛吹き男について行くように、子どもたちはシーラッハの言葉に導かれ破滅の道をたどっていった。

40年ウィーン大管区指導者に。

狂信的反ユダヤ主義者ではなかったが、ウィーンからのユダヤ人追放にはためらいをみせず従事する。

本書では以下のようなエピソードを記している。

ヒトラーに対して批判的な発言をすれば、ただちに逆鱗に触れる。そのことを、シーラッハ夫妻が身をもって体験する事件が起きた。妻のヘンリエッテは、アムステルダムに滞在中、ユダヤ人の女性たちが追い立てられるように集められ、移送されるようすを、ホテルの窓から偶然目にした。

「ある晩のこと、わたしは人々の大きな叫び声や呼び声で目を覚ましました。そこで急いで窓に駆け寄り、一体、何が起きたのか、暗がりのなかで確かめようとしました。ホテルの下の通りを見ると、あきらかに大急ぎでかき集められたと思われる、二、三〇〇人の女たちが、制服を着た男たちに監視されながら、荷物をかかえて立っていました。やがて女たちのすすり泣く声が聞こえたかと思うと、、『アーリア人はここに残れ!』と命じる、甲高い声が耳に飛び込んできました。それから人々の集団は、ゆっくり歩き出しました。」

ヘンリエッテの驚きに拍車をかけたのは、顔見知りの親衛隊指導者が、ユダヤ人から奪いとった宝飾品を保管している倉庫があって、金や宝石が安く手に入ると話をもちかけてきたことだった。だが、そもそもウィーンでは、ユダヤ人が連日のように自宅のドアから追い立てられ、移送されていた。そのことを考えると、オランダのユダヤ人にまつわる一件にシーラッハの妻が衝撃を受けたというのは、逆に驚きである。

ともかくヘニーは、「本人は嫌がるかもしれないが」、今回の事件をヒトラーに話そうと決意した。ウィーンにもどると、ヘンリエッテはすぐにベルクホーフに、訪問してもさしつかえないかと電話をした。シーラッハ夫妻は、いつでもヒトラーにたずねることができたのである。ヒトラーの返事はいつもと変わりなかった。「ああ、もちろんだ。都合がつけば、いつでも来てくれ」

ベルクホークには、例のごとく大勢の人間が集まっていた。マルティン・ボルマンや、アルベルト・シュペーア、それにブラントやモレルといった、医師の姿もあった。シーラッハは妻に思いとどまるように忠告し、「心変わりは絶対にだめだ」と言いわたしていたが、妻は夜もふけた頃、アムステルダムで自分が経験したことをヒトラーに切り出した。すると、ヒトラーは憤慨して椅子から飛び上がった。「あなたはずいぶん感傷的ですな、フォン・シーラッハ夫人!あなたとオランダのユダヤ人女性と、一体、何の関係があるのですか!」・・・・・・「わたしが義務を負っているのはわが民族だけだ――あなたは憎むということを学ばなければならない」

戦後、ニュルンベルク裁判で禁固20年の判決を受け服役。

第3章「影の男」マルティン・ボルマン。

1900年生まれ、第一次大戦後農場で働いている時に右翼義勇軍による殺人事件に関与。

このときの実行犯の一人が後のアウシュヴィッツ収容所所長ルドルフ・ヘース。

1926年ナチ入党、長年党内の財政・経理畑を歩む。

33年政権獲得後はルドルフ・ヘス(上記ヘースとは別人)の配下となり、各国家機関の権限調整役を務めることにより、急激に権力の階段を登っていく。

41年ヘスの英への飛行後は党官房長を経て、さらにヒトラーの秘書長に納まり、常に独裁者の側にあることを利用して大いに権勢を振るう。

45年5月、ヒトラー自殺直後のベルリンから脱出しようとして戦死。

死体が未確認のため、しばしば逃亡説が唱えられたが、著者は死亡に間違いはないとしている。

長くなりましたので、残り三人は後日。

(追記:続きは以下

ナチについてのメモ その1

ナチについてのメモ その2

誰がヒトラーの共犯者になってもおかしくなかったはずである。犯罪的な国家が悪と正義の垣根をとりはらってしまうとき、誰もがその危険にさらされる。人間の本性だけを見れば、それは弱いものである。それどころか、人間が狼になるのにたいした手続は必要ない。誰の心にもアイヒマンやメンゲレ、ボルマンやリッベントロープ、シーラッハやフライスラーがどこかに潜んでいるからである。こういった連中はいずれも時代や状況が違えばごくふつうの人生をまっとうしていたはずであり、目立たない市民で終わっていたことだろう。リッベントロープやシーラッハにいたっては、もしも別の決断をしてさえいれば、時代が違わなくてもそうした人生が可能だったはずなのだ。

われわれの内なるアイヒマンはいつもそこにいる。だがわれわれはそれを眠らせておくという選択ができる。手遅れにならないうちにノーといえればよいが、それにはいっそう勇気を必要とする場合が多い。

だが人間のもつ人間らしさというものは、脆いものであり、人間性だけに頼るのは軽率だろう。明確な規範をもち、人間性の豊かな社会を土台とする強い国家だけが、歴史のなかで正義から悪が生まれるのを効果的に防ぐことができる。犯罪的な国家が生まれるような事態は、なんとしても招いてはならないのである。

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