万年初心者のための世界史ブックガイド

2010年9月28日

引用文(内田樹6)

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内田樹『街場のアメリカ論』(文春文庫)より。

 

高校で世界史を教えている先生が、「今の高校生は世界史がぜんぜんわかっていない」と嘆いておられました。何しろ、明治、大正、昭和の順番を正しく答えられない高校生さえいるそうです。それじゃ、世界史がわからなくても当然です。でも、やっぱり基礎的なことは知らないとまずいです。

今、学校で歴史の授業というと「年号の丸暗記」だと言って生徒さんたちは反発しますね。「年号じゃなくて流れを教えろ」「物語を語れ」と要求する人がいる。でも、歴史を理解するためには、まず出来事と年号を覚えないと話しにならないと思うんです。

「流れ」と一口に言うけれど、歴史の「流れ」というのは、そこに実在するものではありません。「流れ」というのは史書の書き手がつくった「お話」です。この事件があったのでこの事件が起きましたというのは、その人が散乱している歴史的事実から読み出して一つながりにしてくれた「お話」です。

・・・・・・

だから、「個別的な歴史的事実なんか教えてもらいたくない。原因結果の流れだけ教えてほしい」と歴史の授業で要求するのは、あまり賢いとは言えません。だって、その人は要するに「よくわからないこと」について「私にはわかっている」と言い張っている人間の話を聞きたいと言っているわけですからね。でも、その人の「私にはわかっている」という断定をあなたはどうして信頼できるんです?声がでかいから?それともあなたには他の人に比べてその人の歴史観がより正しいと判定できるだけの歴史学的知識がもうあるということですか?でも、そこまでわかっている人は歴史の教科書なんかに用はないはずですよね。

・・・・・・

そして、自分の頭を使えと言ったあとにこう続けると矛盾しているように聞こえるかもしれませんけれど、自力で考えるためには歴史上のランドマークになる出来事とその年号を覚えることがまず必要です。

私はその点では「受験勉強有用論」です。

「何年にどこで何があった」という歴史の生データを暗記しておくと、同じ年にここでこんなことが起こっているということに気づきます。あれとこれをつなげて考えてみると、「あれ」と「これ」の間に実は「こんなこと」があったのかもしれない・・・・・という推理が可能になります。

・・・・・・

たしかに「流れ」は大事ですし、「物語」的に構成された歴史教科書は読みやすいというのもほんとうでしょう。でも、それは結局他人の作った「物語」を丸飲みすることにすぎません。

だから年号を暗記することを軽んじてはダメですよ、と申し上げているわけです。

過去から現在までがまっすぐに直線的な因果関係でつながっているというようなシンプルな物語に依存しないためには年号を覚えておくことがぎりぎりの防衛線なんです。歴史ってそんなシンプルなものではありません。至るところに分岐点があって、そこで歴史の進路は切り替わっているんです。私たちが今いるこの世界はこっちへ行くかあっちへ行くかの選択を繰り返して、たまたまここに至っているだけなんです。

・・・・・・

ですから、ある歴史的な出来事の意味を理解するためには、「なぜ、この出来事は起きたのか?」と問うだけでは足りません。「なぜ、この出来事は起きたのに、他の出来事は起きなかったのか?」という問いも同時に必要なのです。私たちの知性は「起きた出来事の因果関係」を発見するのと同じくらい、「起きてもよかったのに起きなかった出来事」をどれだけ多く思いつけるかによっても試されているのです。

この問いの立て方は推理小説の読み方に似ています。

・・・・・・

歴史を学ぶ楽しみもそれと同じです。出来事や人物が何を意味するのか、いかなる機能を果たしているのかについての決定を急がないこと。未決定に耐えるということ。それが歴史を読むという作業に快楽を備給しています。軽々な判断を慎み、決定をできる限り先延ばしにすること。

・・・・・・

あらかじめ与えられたシンプルなストーリーで「決め打ち」的にしか歴史を読めない人と、歴史を過去未来にまたがる「ひろがり」として大きくとらえ、一つ一つの出来事の意味をできるだけ未決の状態にキープしておいて、ミクロの揺れに身を任せて読む人の差は、知性の死活にかかわることだと私は思います。

高坂正堯『大国日本の世渡り学』(PHP文庫)参照。

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2010年9月26日

半藤一利 『昭和史  戦後篇 1945-1989』 (平凡社ライブラリー)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 06:00

『幕末史』、戦前篇『昭和史』と同じ著者。

これも講演を基にして話し言葉で書かれているので極めて読みやすく、相当のスピードで通読できる。

600ページ超の分量がまるで気にならない。

タイトルに「1945-1989」とあるが、占領期に圧倒的比重があり、終戦から1951年サンフランシスコ講和条約までで約半分、55年体制成立までで三分の二の紙数が費やされている。

以後も細かな記述があるのは1972年の沖縄返還までで、それから平成改元まではざっと流すだけ。

教科書には普通出てこないような社会風俗の描写や、興味深い人物評、エピソードを交えながら語っていくので、飽きさせず読ませる。

著者は占領時代のGHQの政策について、1948年と49年の間に大きな裂け目を見て、48年までを日本「民主化」と弱体化、49年以降を日本の復興と利用を目的とした時期としている。

なお、東京裁判の章で、最初被告が28人指定され、ソ連が梅津美治郎と重光葵の追加を要求したためその分真崎甚三郎と阿部信行が外されたと本書では書いているが、『解明・昭和史』では、これはもともと児島襄が唱えたもので根拠のない俗説だと批判されている。

他にも慎重に構えるべき部分があるのかもしれないし、これ以外何も読まないというのはもちろんまずいでしょうが、初心者がまずざっと読んで基礎を作るには悪くない本でしょう。

できれば読了後、教科書や年表でもう一度史実や年代を確認するとよい。

読後感は上記『幕末史』『昭和史』より、こちらの方がずっと良かった。

普通にお勧めできます。

(1945年末、憲法問題調査委員会[委員長・松本烝治]における美濃部達吉の言葉)

「いや、臣民という言葉には封建的な響きが感じられます。国民としたほうがよろしいのではないですか」

これを聞いた美濃部先生は突然、怒り出しました。

「臣民は臣民でいいじゃないですか。御詔勅には『汝臣民』とある。これを変えるということは、国体を変革することにもつながりかねない」

戦前は右翼に殺されかけて、戦後は誰が見ても「保守反動」という、こういう人が私は一番好きです。

2010年9月23日

坂野潤治 大野健一 『明治維新  1858-1881』 (講談社現代新書)

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明治維新を後進国近代化の稀に見る成功例として捉え、それを可能にした要因を俯瞰的に考察する本。

坂野氏は『自由と平等の昭和史』の共著者である政治史家、大野氏は開発経済学者。

著者たちによれば、明治日本の最大の成功要因は、その政治における「柔構造」にある。

幕末開港期に商業活動と政治改革構想を通じて軍事力および対外交渉力を獲得した少数の雄藩は、藩を行動単位として、明治維新の前後を通じて複数の国家目標(幕末期には「富国強兵」「公議輿論」の二つ、維新期には「富国」「強兵」「憲法」「議会」の四つ)を追求しつづけた。いずれの目標を標榜するグループも、単独では十分な政治力が得られなかったので、他のグループとの協力関係を築くことによって自己の政策を実現しようとした。グループ間の政策闘争においては、「国家目標」「合従連衡」「指導者」という三つのレベルの可変性・柔軟性が顕著であった。すなわち、目標の数や内容、指導者のめざすもの、グループ連合の組み方それぞれが、状況に応じて変わっていったのである。しかも、そのことが大きな混乱や消しがたい遺恨を生むことはほとんどなかった。当時の日本が具現していたこの政治的「柔構造」は、複数目標を同時に達成する能力、内外ショックへの適応力、政権の持続性のいずれにおいても、東アジアの開発独裁の単純な硬構造よりもはるかに強靭であったというのが我々の仮説である。・・・・・・

こういう視点から、1858年日米修好通商条約をはじめとする安政の五ヵ国条約締結から、1881年明治十四年の政変までの政治情勢を分析していく。

まず明治期の四つの政策目標とそれを標榜するグループの代表者として、「富国」派の大久保利通、「強兵」派の西郷隆盛、「憲法」派の木戸孝允、「議会」派の板垣退助が挙げられている。

ただし、以上は最終的な立ち位置であり、各人が常に単一目標を追求していたわけではないとされている。

幕末期から明治初年にかけては藩を単位にした封建議会と分権的重商主義の時代とされ、それが廃藩置県で突破される。

岩倉使節団に随行した大久保が「富国」派に、木戸が「公議輿論」から分離した「憲法」派になる。

その間留守政府では、維新と廃藩をもたらした「革命軍」を背景に、西郷隆盛ら「強兵」派が突出。

1873年征韓論争、74年台湾出兵、75年江華島事件と危機が続発するが、75年の大阪会議と「立憲政体樹立の詔」で木戸・板垣が一時政府に復帰し、政府外の「強兵」派に対する「富国」派・「憲法」派・「議会」派の連合が成立。

76年日朝修好条規締結を境に外交危機は沈静化し、77年西南戦争によって国内の「強兵」派も鎮圧、「富国」派が主導権を握る「殖産興業」政権が誕生する。

代表者は大久保、黒田清隆、大隈重信。

しかしこの政権は大久保の暗殺、官営企業の不振、財政赤字膨張、外貨危機が重なり、間もなく行き詰る。

1880年頃から、井上馨を指導者とした「憲法」派と山県有朋に率いられる「強兵」派が政府内で勢力を回復。

井上馨は政府の「憲法」派と「富国」派に、政府外の「議会」派を加えた「四分の三連合」を再び成立させようと目論むが、ここで「富国」派の代表者だったはずの大隈が複雑な動きを見せ、最急進的な議会開設論を唱えたため「議会」派の板垣との提携にも失敗、この動きは挫折、明治十四年の政変に至る。

1880年工場払下概則が制定、81年には松方正義大蔵卿による緊縮財政(松方財政・松方デフレ)がはじまり、国家主導の「殖産興業」路線は清算される。

以後は「富国」「強兵」「憲法」派連合の政府に対し、在野の「議会」派が対峙し、両者の対立と妥協のうちに政党政治が漸進的に実現していくという、我々がよく知る展開になると考えていいのか。

上記の勢力争いの中でも、幕末の藩間交流で培われた相互信頼・ナショナリズムと尊王思想の共有によって、政治闘争は一定の枠内でのみ行われていたと強調されている。

なお、ちょっと気になるのが上記政府内での「憲法」派復活の主導者が井上馨とされていて、伊藤博文の名は少ししか出てこないこと。

伊藤之雄『伊藤博文』(講談社)で、日本の立憲政治確立における伊藤の貢献を坂野氏が過小評価しているという意味の註が確かあったはず。

この辺、私ごときには判断しかねます。

以上、誤読もあるかもしれませんが、ここまでが第一部です。

第二部は改革諸藩の比較。

雄藩主導の封建議会で主導権を取ると認識されていたのは薩摩・土佐・佐賀(肥前)・福井(越前)の四つ。

長州は幕府とあからさまな内戦状態にあったので外れているが、維新後は福井が脱落、よく知られる薩長土肥となる。

なお佐賀は自藩の「富国強兵」策が成功し過ぎ、他藩との連携や横断的結合が不足したため、維新後の影響力が低く、同藩出身者の大隈重信・江藤新平・大木喬任・副島種臣なども単独行動が多かったとされている。

第三部は明治の変革を可能にした江戸時代日本の経済的社会的状況についての考察。

面白い。

短いのであっという間に読めるが、密度は異常に濃い。

もともとイギリスの学者との共同研究を前提にしたものらしく、その分一部表現に生硬さがあったり、くどさが感じられたりもするが、見方を変えればそれも反ってわかりやすいとも言える。

とは言え、本書の歴史解釈の鋭さを味わうには、教科書レベルの事実関係が大体でも頭に入ってないといけないでしょう。

他の普通の概説や伝記作品にも地道に取り組むことをお勧めします。

より保守的な立場から、本書のような「明治礼賛論」に距離を置く見方もあるでしょうが、やはり非常に優れた入門書と言えると思います。

2010年9月20日

服部正也 『ルワンダ中央銀行総裁日記 増補版』 (中公新書)

Filed under: アフリカ — 万年初心者 @ 06:00

1972年初版、2009年増補版。

増補版刊行時点で、著者はすでにお亡くなりになっています。

日本銀行から国際通貨基金(IMF)に出向した後、さらにルワンダの中央銀行総裁に請われて就任し、1965~71年の間在任した著者の回想。

歴史書というのとはちょっと違うかもしれないが、以前から書名を知っていた本で最近増補版が出たし、数が少ないアフリカカテゴリに追加できる点で貴重だしと思って手に取った。

「ルワンダ」と言われても、全く名前を聞いたこともないか、「90年代に大虐殺があった国」としか記憶がない人が大半でしょう(私も後者です)。

ルワンダはアフリカ中央内陸部にある小国で、北はウガンダ、東はタンザニア、西はコンゴ(旧ザイール)、南はブルンジに接する。

首都はキガリ、公用語はフランス語(とルワンダ語。現在は英語も)。

ちなみに上記「コンゴ」はアフリカのど真ん中にあるでかい国のコンゴ民主共和国(首都キンシャサ)で、そのさらに隣にある小さい方のコンゴ共和国(首都ブラザヴィル)じゃないです。

国名が同じってややこしいですよね。

ザイールと呼んでた頃はちょうどよかったんですが、まあモブツ独裁政権が改称した名ですから、使われなくなったのもしょうがないですね。

あと似た事例として、中米カリブ海にドミニカ共和国とドミニカ国があります。

ドミニカ共和国がハイチと同じ島で東半分に当たる国、ドミニカ国はその南に連なる小アンチル諸島にある小国。

なお、アンゴラの首都名が「ルアンダ」ですが、これとも混同しないようご注意。

話が逸れ過ぎました。

閑話休題。

19世紀末のアフリカ分割でドイツ領、第一次大戦後ベルギーの委任統治領に。

主要民族は多数派のフツ族、少数派のツチ族。

「多数派は普通だからフツ族」とでも語呂合わせで憶えましょうか。

支配民族は少数派のツチ族の方で、植民地時代もツチ系王国が存続する間接支配の状態。

1950年代末に王国内部の紛争とフツ族解放運動が重なり、共和国宣言を経てフツ族中心政権成立、1962年に独立。

初代大統領カイバンダ。

その際、ツチ族の一部が近隣諸国に亡命し、以後ルワンダの不安定要因となる。

(なお民族構成を同じくするブルンジではツチ族支配体制が基本的に続いたと書いてある。)

独立間もない時期に着任した著者は大統領の信任を得て、二重為替相場制度廃止と平価切り下げなどの通貨改革、適切な国債発行と予算精査による財政再建、商業銀行規制など金融制度整備、ルワンダ人現地商人育成と輸出至上志向ではない農業中心の経済建設政策、バス路線などの交通インフラ整備を遂行し、ルワンダ経済を成長軌道に乗せることに成功する。

本論はここまで。

以後、著者が「ルワンダ大虐殺」について書いた論文と、別の方が著者を偲んで書いた文章が増補されている。

著者が帰国した後、1973年クーデタでハビャリマナ政権樹立。

1990年ウガンダの支援を受けたツチ族主体の「ルワンダ愛国戦線(RPF)」による北部侵攻。

そして悲劇の1994年を迎える。

同年ハビャリマナ大統領を乗せた飛行機が撃墜され、大統領死亡。

これに激高したフツ族が少数派ツチ族とフツ族穏健派を大量虐殺。

ウガンダのムセベニ政権の支援を得たRPFが反撃、ルワンダに進撃しフツ族勢力を打倒、全土を制圧、RPFの実力者カガメが副大統領就任。

著者はこの過程で米国メディアに見られたツチ族寄りの報道を批判している。

フツ族による虐殺行為は決して許されるものではないと述べた上で、それがフツ族政府の計画的行動であったことには疑問を呈し、発端の大統領暗殺事件はRPFの仕業である可能性が高いのではないかと推測している。

また西南部に安全地帯を設け、RPFが虐殺加担者として指名した人々をそのまま引き渡さず、国連の中立的機関によって裁かれるべきだとしたフランス軍の姿勢を評価している。

以後2000年に上記カガメが大統領就任、民族融和に努め、順調に経済発展を遂げているそうです。

なお、フランスが大統領乗機撃墜へのRPF関与を示唆する報告書を作成したことにカガメ政権が反発し関係が悪化、仏と一時疎遠になったルワンダは旧英国植民地でもないのに英連邦に加盟したと少し前の新聞の国際面で読んだ記憶がありますが、うろ覚えです。

加えて先日、カガメが再選されたが野党勢力への抑圧も指摘されるとか、新聞に載ってましたね。

なかなか良い。

読み物として面白く、経済音痴の私でも何とか読めるレベル。

わからないところは飛ばし読みでいいでしょう。

マイナー分野で地道に知識を伸ばすために適切な本です。

2010年9月18日

田中克彦 『ノモンハン戦争  モンゴルと満洲国』 (岩波新書)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 06:00

1939年5~9月に満洲国とモンゴル人民共和国国境地帯で起こった、日本・満洲国軍とソ連・モンゴル軍との大規模な軍事衝突として著名なノモンハン事件(著者はノモンハン戦争と呼ぶ)に関する書。

田中氏は『草原の革命家たち』(中公新書)の著者。

まず事件の起こった1939年が第二次世界大戦勃発の年であることを真っ先にチェック。

次に月もじっくり眺めて下さい。

5月から9月にかけてということは、8月下旬の独ソ不可侵条約締結、9月初めの独・ポーランド侵入と英仏の対独宣戦がまさに重なることも同時に確認。

満洲国北西部、モンゴル人民共和国に接するハルハ河沿いの土地をめぐって争われたもの。

前年1938年満洲国東部、朝鮮にも近いソ満国境で戦われた張鼓峰事件と場所を区別。

戦闘の推移自体については最初の章でごくあっさり触れるのみ。

軍事的勝敗のみにこだわり、ソ連崩壊後に公開された機密史料に拠って「ソ連軍の損害は以前考えられていたよりもはるかに多く、実は日本が勝っていた」というような議論とははっきり距離を置いている。

モンゴル人民共和国と満洲国に分かれて敵味方として戦わざるを得なかったモンゴル民族の視点から事件を眺めることに多くの紙数を割いている。

満洲国には内モンゴル東部が組み込まれており、興安省として独自の行政区画があった。

これは漢族の進出からモンゴル民族を保護する観点から、当時一定の評価が与えられており、ワルター・ハイシッヒやオーエン・ラティモアなど著名なモンゴル学者の肯定的言説が紹介されている。

(特に後者のラティモアは「反日的」学者と一般に見做されているだけに興味深い。)

とは言え、同時に興安省のモンゴル人指導者が独立運動に関与したとして、日本によって無慈悲に処刑されたことも記されている。

さらに、当時のモンゴル人民共和国がソ連の強大な圧力下にあり、満洲国と同じく傀儡国家であったことが様々な痛ましい事例とともに述べられる。

1930年代後半、ソ連における大粛清の嵐がモンゴルにも押し寄せ、首相のゲンデン、国防相のデミドも死に追いやられる。

その後、モンゴルの指導者になったチョイバルサンは、多数の同志を粛清し「モンゴルのスターリン」とも呼ばれるが、本書ではソ連に面従腹背しながらモンゴルの最低限の独立を何とか維持しようとした人物として、同情的に扱われている。

他には、偽文書「田中メモランダム」についてや、事件を拡大し後の国境画定交渉を妨害した関東軍参謀辻政信への批判など。

非常に読みやすく、スラスラ最後までいける。

細かな部分は飛ばせばよいと思う。

岩波新書でこのテーマでも、右とか左とかの話は全然気にならなかった。

普通に役立つ本です。

2010年9月16日

南宋・モンゴルについてのメモ その2

Filed under: おしらせ・雑記, 中国 — 万年初心者 @ 06:00

その1に続き、モンゴル史について高校レベルの基礎的事項を復習してメモ。

まず、遊牧民族の風習で兄弟継承が多かったので、中国史の他の王朝と違い、系図をしっかり把握しないといけない。

チンギス・ハンの長子がジュチ、次子がチャガタイ、三男オゴタイ、末子がトゥルイ。

ジュチの子がバトゥ、オゴタイの子がグユク、グユクの甥がハイドゥ、トゥルイの子がモンケ、フビライ、フラグの兄弟。

これだけ頭に入れて、次に大ハン位の移動順とその在位中にどこの国が滅ぼされたのかをチェック。

まず1206年にはじまるチンギス・ハン時代だが、意外にも滅ぼされたのはホラズム朝と西夏だけ。

西遼(カラ・キタイ)領も手に入れているが、これはモンゴル高原から追い出したナイマンがまず西遼を簒奪して滅ぼし、そのナイマンをさらにチンギスが倒した形になっている。

ややこしくてすっきりしないがこの経緯は高校レベルでも出てくるだろうから、仕方ないので記憶。

実はホラズムも存続年代は1077~1231年で、滅亡はチンギスの死(1227年)以後なのだが、これは実質的にチンギス遠征時に滅亡したと考えていいのか。

中国華北から中央アジア・北西インドにまで侵攻しているが、チンギス一代では結局モンゴル統一とホラズム・西夏征服のみとチェック。

次にオゴタイ・ハン時代(1229~41年)。

バトゥの征西、ロシア征服と1241年ワールシュタットの戦い。

1234年(イチ、ニ、サン、シで憶えやすい)には金が滅亡、華北征服。

グユク・ハン時代は皇后の称制などを挟んでごく短期間、取り立てて何も無し。

モンケ・ハン時代(1251~1259年)は、まず何といっても弟フラグの征西、1258年バグダード入城とアッバース朝滅亡が最大事件。

1259年には高麗服属。

1254年に大理国滅亡、1257年にはタイでスコータイ朝が成立しているが、柿崎一郎『物語タイの歴史』(中公新書)では、この両者を直接結び付けるのは根拠が薄く、近代以降の「大タイ主義」の影響でそう考えられるようになった、みたいなことが書いてあったと思うが、うろ覚えです。

1260年フビライ・ハン即位。

1266~1301年のハイドゥの乱は、上記系図を踏まえて「末子トゥルイ系統のハン位継承が続いたことに対するオゴタイ系の反乱」という意味も記憶しておく。

1271年国号を「元」、1274年文永の役、1279年南宋滅亡、1281年弘安の役。

南宋滅亡が二度の元寇に挟まれていることをチェック。

元成立後はフビライに「ハン」を付けて呼ぶべきではないのか?

例えば、元寇時の元の君主は?と問われた場合。

受験時代に模試でそれでバツをくらった覚えがあるんですが。

1368年には明が成立しモンゴルは中国から追い出されるのだから、王朝の成立あるいは中国全土統一のどちらから数えても、結局元朝は100年も続いてない。

1284年からヴェトナムの陳朝とチャンパーを攻撃するが、両者は持ちこたえ、1287年(1299年としている本もあり)にはビルマのパガン朝滅亡、1292~93年にはジャワ遠征、元軍撤退後の1293年には最後のヒンドゥー王国マジャパヒト朝成立。

1294年フビライ死去。

以後の元朝については類書も少なく、全然頭に入っていないのでパス。

たまに復習しないと、以上程度のことすら所々忘れる。

私は関連本を読んだ時に教科書や用語集や年表を読み返してます。

それだと割りと頭に入りやすいので皆様にもお勧め致します。

2010年9月14日

南宋・モンゴルについてのメモ その1

Filed under: おしらせ・雑記, 中国 — 万年初心者 @ 06:00

前回記事、田中芳樹『海嘯』を読んだ後、年表・用語集等で確認した、高校レベルのごく基礎的な事項を以下にメモ。

まず宋について。

この辺、年代をあやふやなままにしていた部分があるので、まずそれを確認。

北宋成立が960年、遼との澶淵の盟が1004年、靖康の変が1126~1127年

この三つは当然暗記。(靖康の変と、永楽帝が即位した原因の1399~1402年靖難の変はもちろんしっかり区別。)

1127年に南宋成立、上記『海嘯』の記事のように滅亡は1279年

そうなると、北宋と南宋の存続期間はうまい具合にそれぞれ150年ずつほどとなる(北宋は160年を超えるが)。

しかしなぜか、南宋は盛期が短く、儚げなイメージが高校時代からある。

それはたぶん、1234年に金が滅ぼされ、以後の半世紀近く、モンゴルの軍事的圧力を常に受け続けていたからだと思う。

そう考えると平穏だったのは最初の100年だけか。

いや、初期には秦檜、岳飛の争いがあり、金の圧迫を受けていたのだから、盛期はもっと短いか。

女真族に華北を追われ、江南でやっと落ち着いたかと思いきや、もっと恐ろしい敵であるモンゴルに長年脅かされ、ついに滅ぼされるんですから、気の毒なイメージを拭い切れない王朝ですねえ。

南宋の文化人で最大の大物である朱熹の生没年が1130~1200年と書かれてあるのをたまたま見て、「この人、ちょうどうまい時に生まれて亡くなったんだなあ」という感想を持った。

次に皇帝位について。

徽宗の子で、欽宗の弟、高宗が初代皇帝。

この人には子が無く、北宋時代太祖趙匡胤の弟太宗系統の継承がここで終わる。

太祖の系統から孝宗、光宗、寧宗と三代が父子継承で順に即位。

その後、太祖の別系統から理宗が即位、この人の代に金が滅亡。

次が甥の度宗、度宗の子、恭宗が臨安で元に降伏。

恭宗の兄弟の端宗を擁して南宋残存勢力が南へ退避、端宗病死後、さらに兄弟の衛王(帝「へい」。漢字が出ない。たぶん「日」の下に「丙」だと思うんですが、違うのかな。)を立てるが厓山で滅亡。

次にモンゴルについて。

テムジンがチンギス・ハンに即位し、モンゴル帝国が成立した1206年は当然絶対暗記事項。

以下、四ハン国と元朝の存続年代をそのまま書き出してみる。

オゴタイ・ハン国  1225ごろ~1310年

チャガタイ・ハン国  1227~14世紀後半

キプチャク・ハン国  1243~1502年

イル・ハン国  1258~1353年

元  12711368年

1258年はイル・ハン国成立年代としてではなく、アッバース朝滅亡年度として暗記が必要。

オゴタイ・ハン国はチャガタイ・ハン国に併合。

キプチャク・ハン国はモスクワ大公国自立後、しばらく細々と存続。

要するに「13世紀はモンゴルの世紀で世界史上稀に見る大膨張を遂げるが、もう次の14世紀半ばにはロシアのキプチャク・ハン国以外はバタバタ倒れる」ということを頭の中でイメージしておく。

続きます。

2010年9月12日

田中芳樹 『海嘯』 (中公文庫)

Filed under: 中国 — 万年初心者 @ 06:00

『蘭陵王』に続けて読む、田中氏の中国歴史小説。

元の世祖フビライの攻撃による南宋の滅亡を描いたもの。

タイトルは「かいしょう」と読んで、津波の意。

モンゴル軍の怒涛のような侵攻の比喩。

なお「嘯」は難しい字ですが、「うそぶく」を漢字変換するとすぐ出てきます。

物語は前史を長々と語ることなく、いきなり南宋末の奸臣・賈似道の誅殺と首都臨安(杭州)攻防戦から始まる。

最低限の説明は後で出てくるし、この展開の速さは読みやすくて反って良い。

元軍に圧迫され、一部の帝室と忠臣が臨安から温州、福州、泉州と逃れ、最後に広州の南にある厓山で壊滅し、1279年南宋が完全に滅亡するまでをテンポの良い文体で記している。

南宋側の登場人物は、文天祥、陸秀夫、張世傑、李庭芝、陳宜中など。

文天祥は南宋滅亡直前に宰相となった人物で、後に元軍に捕らわれた時に作った「正気(せいき)の歌」で一番有名。

本書でも一応は主人公という扱いか。

しかしやや協調性を欠く性格で他の忠臣とのわだかまりもあり、海上に逃れて沿岸部を転々とした朝廷とは行動を共にせず、内陸部で転戦、元軍相手に奮戦するが、最後には捕らえられる。

陸秀夫と武人の張世傑は「海上朝廷」を大黒柱として支え続けたが、陸秀夫は厓山で死、張世傑は再起を目指して逃れるが、まもなく嵐で乗船が沈み死去。

最後の張世傑の猛烈な戦い振りは感動的ですらあり、本書の読み所かと思える。

李庭芝は長江北の揚州で元軍を防ぐが、敗死。

陳宜中は文官で国外に出て、チャンパー(占城)やラームカムヘン王時代のスコータイ朝に援助を求める。

この陳宜中は優柔不断で決断力に欠け、しばしば行動を誤る人物として描かれてはいるが、著者の筆致はある意味同情的でもある。

元側の登場人物はフビライの他、バヤン、アジュ、アラハン、サト、張弘範、呂文煥、范文虎、アリハイヤ、李恒など。

最初の四人はモンゴル人、次の三人は漢人、アリハイヤはウイグル人、李恒はタングート族で西夏の王族出身、と元軍らしく多民族構成。

臨安陥落まではバヤンが最高司令官で、以後南宋朝廷を追い詰め厓山で滅ぼしたのは張弘範。

張弘範はモンゴルで史天沢に次ぐ漢人将軍だった張柔の子。

呂文煥、范文虎は南宋降将で、呂文煥はかつて襄陽攻防戦で勇名を馳せ、范文虎は少し後1281年に二度目の日本遠征軍(弘安の役)の指揮官となる。

他に注目すべき人物として泉州(マルコ・ポーロの言うザイトン)を本拠に海上勢力を率いていた蒲寿庚(ほじゅこう)がいる。

アラブ人であったというのがこれまでの通説で、元に通じ、逃れてきた南宋朝廷を攻撃している。

これもかなり面白い。

最も有名な文天祥のみに注目するのではなく、多くの人物・事件に目配りし、ある特定の人物を極端に美化するのではなく、それぞれの登場人物の長所・短所をバランスよく描いていると思われる。

この時代の雰囲気や大まかな流れを誰でも理解しやすいように提示してくれている。

上記『蘭陵王』と同じく、話の展開が速く、退屈な部分はほとんどない。

登場人物が相当多いが、さりげなく補足説明を交えて前出事項を思い出させてくれるので、ボーっとしながら読んでも、途中どんな人物だったのか忘れるということはまずない。

これは中々の腕だなあと感心した。

相当のスピードで読めて、基礎的知識が身に付くので便利。

これも初心者向け歴史小説として良好な出来だと思われます。

(追記:以下関連項目のメモ

南宋・モンゴルについてのメモ その1

南宋・モンゴルについてのメモ その2

2010年9月10日

津野田興一 『世界史読書案内』 (岩波ジュニア新書)

Filed under: 読書論 — 万年初心者 @ 06:00

このブログでは、ど真ん中ストレートで対象になる本。

著者は都立高校で世界史を教えていらっしゃる先生だそうです。

ジュニア新書ということで、主として高校生向けに合計92冊の本を紹介している。

最初と最後に、「はじめに」と「終章 歴史の中で生きてゆく」で概括的に各2冊の本を挙げて、それ以外は四部に分かれた構成。

「第1章 国民国家が生れて、広がる」で近代史14冊。

「第2章 二〇世紀という時代」で現代史25冊。

「第3章 世界各地の「個性」がつくられた!」で前近代の各地域の歴史33冊。

「第4章 世界がひとつにつながった!」で近世以降の世界の一体化に関係する16冊。

巻頭の全リストを見ると、宮崎市定先生の『科挙』『大唐帝国』などを始めとして、このブログで紹介した本ともかなり重なっている(数えたら26冊にもなった)。

やはり基本、高校レベルの本しか読んでないのかと、我ながら苦笑。

本文を読むと、簡潔平易な説明ながら、どれも面白く、読む気を起こさせて、考えさせる文章が多い。

当ブログのように興醒めなネタバレも無い。

本の選択もざっと見たところ何と言うか、センスがいい(偉そうな言い方で恐縮です。ただし私が読んでる本が多いからという自画自賛的理由ではございません)。

通常の歴史書だけでなく、小説(歴史小説に限らず)・雑学的解説書・ブックレット・古典的著作など様々な種類の本が採り上げられていて、一部には漫画もある。

これも退屈さを避けるという意味で、全然悪い印象は受けない。

ブックガイドとして社会人にも向いている。

これを目安に一部を取捨選択した上で、2、3年かけて全巻読破を目指してもよい。

類書で『世界史のための文献案内』もあるが、あまりにも膨大な数の本が挙げられていて、初心者はそれに気圧されてやる気が削がれる恐れがある。

この種の読書案内では、思い切って数を絞って「最低限これだけ読めば大丈夫」というリストを提出してくれた方が、初心者にとっては有益。

例を挙げると、この記事で触れた中嶋嶺雄『国際関係論』(中公新書)巻末の文献案内は必読書30点を明示してくれているのが何よりの長所となっている。

このブログも採り上げた本の数はそこそこ増えているが、それで反って利用しづらくなっているのかもしれない。

全記事から抽出した30~50冊くらいのリストを提示した記事が必要なのかなと考える今日この頃です。

本書は非常に良い。

借りてもいいが、買う価値も十分あります。

手元に置いて暇な時に眺めて、気になるものは一つ一つ読破していきましょう。

2010年9月9日

引用文(「聖書」3)

Filed under: 引用文 — 万年初心者 @ 06:00

『世界の名著13 聖書』より。

新約聖書「マタイ福音書」。

裁くな、裁かれないために。あなた方がひとを裁くようにみずからも裁かれ、ひとを量るようにみずからも量られる。なにゆえ兄弟の目にあるちりが見えて、あなたの目にある梁(はり)に気づかないか。どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取ってあげよう、といえるか、相変わらずあなたの目に梁があるのに!偽善者よ、まずみずからの目から梁を取れ。見えたうえで兄弟の目からちりを取るようにせよ。

聖なるものを犬にやるな。真珠を豚の前に投げ与えるな。さもないと、彼らはそれを足で踏みつけ、向き直ってあなた方を噛み裂こう。

2010年9月7日

引用文(「聖書」2)

Filed under: 引用文 — 万年初心者 @ 06:00

『世界の名著13 聖書』より。

旧約聖書「イザヤ書」。

主は一言をヤコブに送り、

これをイスラエルにくだした。

この民はみな知っている、

エフライムもサマリアの住民も。

しかも彼らは傲りと慢心をもって言う。

「れんがが崩れたら切り石で建てよう、

シカモア材が倒れたら香柏で新築しよう」

そこでヤハウェが彼らの敵をもちあげ、

彼らの仇をふるい立たせる。

東からはアラム、西からはペリシテ、

ともに大口あけてイスラエルをのもうとする。

それでも主の怒りはやまず、なおみ手を伸ばす。

しかもこの民はおのれを打つ者に帰らず、

万軍のヤハウェを求めない。

そこでヤハウェはイスラエルから頭と尾、

棕櫚と葦とを一日のうちに切り倒す。

長老と貴族が頭、預言者と偽教師が尾である。

かくしてこの民の指導者は誤る者となり、

指導される者は、滅びへの引導を渡される。

それゆえ、主は若者をも惜しまず、

孤児と寡婦をも憐れまない、

彼らはみな不敬虔で悪に染まり、

口をそろえて愚かなことを語るゆえ。

それでも主の怒りはやまず、なおみ手を伸ばす。

げに悪は火と燃えて、茨とおどろを焼きつくし、

林の茂みに燃え移り、火炎は天に沖するばかり。

万軍のヤハウェの憤りによって地は焦げ、

民は劫火にさいなまれ、同胞相憐れまず、

右をつかんでも飢え、

左を食いつくしても飽き足りず、

おのおのその腕の肉を食らう。

マナセはエフライム、エフライムはマナセを攻め、

両者はともにユダを侵す。

それでも主の怒りはやまず、なおみ手を伸ばす。

わざわいなるかな、不正の法規を作り、

不法の記録を書きとめる者。

彼らは弱い者の裁きを曲げ、

わが民の貧しい者の権利を奪い、

寡婦を人質にし、孤児を食いものにする。

審判の日にはどうするつもりだ、

遠くから嵐が吹いてくるとき、

だれのもとに逃れて助けを求め、

どこでおまえたちの名誉を保とうとするのか。

囚人の足下に伏し、処刑者の手に倒れるだけだ。

それでも主の怒りはやまず、なおみ手を伸ばす。

それゆえ、ヤハウェの怒りは民にむかって燃え、

み手を伸ばして彼らを打つ。山々は震い動き、

彼らの死体は町なかの芥のようになった。

それでも主の怒りはやまず、なおみ手を伸ばす。

2010年9月6日

引用文(「聖書」1)

Filed under: 引用文 — 万年初心者 @ 06:00

『世界の名著13 聖書』より。

旧約聖書「イザヤ書」。

わざわいなるかな、家に家を建て連ね、

畑に畑を増し加えて、余地を残さず、

国内におのれ一人住まおうとする者。

(それゆえ)万軍のヤハウェが耳うちする。

「まことに、多くの家は荒れ塚となり、

壮麗な邸も住む人なく、

十反の葡萄園から一バテしか取れず、

一ホメルの種から一エパを産するのみ」

わざわいなるかな、早朝から強い酒をあおり、

夜おそくまで葡萄酒にひたる者。

その宴席には琴と竪琴、鼓と笛が酒興をそえる。

しかし、ヤハウェのみわざに目をとめず、

み手の働きを顧みない。

それゆえ、わが民は無知のままに捕らわれてゆき、

貴族は餓死し、庶民は渇きに絶え入るばかり。

それゆえ、陰府(よみ)が喉を鳴らし、大口開けば、

都の栄華、喧騒、歓楽はみなのまれる。

かくて、子羊が牧場にあるように草をはみ、

滅びた跡に子山羊が餌をあさる。

わざわいなるかな、偽りの縄で咎を引きよせ、

不義の綱で罪をつなぐ者。彼らは言う。

「早く彼(神)のわざをして見せてもらおう。

イスラエルの聖なる者とやらの

計画の運びぐあいを知りたいものだ」

わざわいなるかな、悪を善、善を悪と言う者。

彼らは闇を光に、光を闇に、

苦味を甘味に、甘味を苦味に化する。

わざわいなるかな、おのれを知者とし、

みずから聡明を誇る者。

わざわいなるかな、葡萄酒の満を引く丈夫(ますらお)、

強い酒を調合する勇士。彼らは賄賂のために

悪人を無罪とし、義人から義を奪う。

それゆえ、火の舌が刈り株をなめ、

枯れ草が炎に倒れ伏すように、

彼らの根は朽ちはて、花は塵のように飛び散る。

万軍のヤハウェの教えを捨て、

イスラエルの聖なる者の言葉をしりぞけたからだ。

2010年9月4日

前田護郎 責任編集 『世界の名著13 聖書』 (中央公論社)

Filed under: ローマ — 万年初心者 @ 06:00

同じ「世界の名著」シリーズの『孔子 孟子』の記事で少し触れたこれを通読した。

結果、事前に思っていたより、はるかに面白く読めた。

まず、巻頭にある前田護郎氏の解説がなかなか読ませる。

前田氏自身信仰を持っている方なのに、戦国時代、日本への最初のキリスト教伝来について、

・・・・・政略軍略商略を基本とする植民地帝国主義の先鋒として大名に武器を与えて教勢拡張に資するなどの手段が繰り返され、キリシタン禁止令がしかれるに至った経緯も今日からみれば当然である。布教の内容自身に中世的要素が多く、アジア諸国の小乗的雰囲気をそのまま日本にも当てはめた傾向があったことも否めない。邪宗の烙印は当時の日本の下した判断として首肯しえよう。

なんて、こんなこと書いていいんですか???、みたいなことが述べられている。

本文は旧約聖書と新約聖書の部分に分かれており、旧約で収録されているのは、「創世記」「出エジプト記」「イザヤ書」「伝道の書」の四つ。

「創世記」を最初から地道に目を通していくと、思っていたよりはるかに楽に読める。

天地創造とアダムとエバ(イヴ)、カインとアベル、ノアの箱舟と大洪水、ノアの息子セム・ハム・ヤペテ、バベルの塔、セムの系列から出たアブラハム・イサク・ヤコブ・ヨセフ、ヨセフのエジプト移住、と順に読んでいくだけで物語として十分面白い。

全巻通じて、一部省略があり、収録されている部分においても全訳ではなく抄訳になるようだが、別に気にならずかえって読みやすいと感じる。

モーセの言行を述べた「出エジプト記」も古典的史書みたいな感覚で楽に読める。

カナン征服についての「ヨシュア記」やダヴィデ・ソロモン王の栄華を記す「列王紀」「歴代志」などは省かれており、次は預言書の内で最重要の「イザヤ書」。

ヘブライ王国南北分裂後の衰退期、王国の腐敗・堕落と外敵侵入の危機的状況下で作られたもの。

全編韻文で綴られており、これはきついだろうなあと思っていたのだが、意外や意外、本書の中ではこれが一番面白かった。

今の世の中やどうしようもなく下らない自分のことを考えると、クリスチャンでないのはもちろん、仏教・神道的な信仰心もカケラも無いはずなのに、いろいろ思うところがあった。

諸書から、割と短めの「伝道の書」を載せて旧約の部分は終わり。

新約ではイエス・キリストの言行を記した「マタイによる福音書」「マルコによる福音書」「ルカによる福音書」「ヨハネによる福音書」に加えて、パウロの書簡から「ローマ書」と「ピレモン書」を収録。

最初目次を見たとき、福音書を四つ全て載せるより、「マタイ」と「ヨハネ」くらいだけにしておいて、「使徒行伝」のいくつかを入れてくれた方が良かったんじゃないかなあと思っていたのですが、実際福音書を読み比べてみると、「あれっ、この話ここでしか載せてないのか・・・・・」と思ったことがかなりあったので、やはり新約の中心である以上、基本テキストを提供するこのシリーズに四つ採録したのは正解だと思います。

子供の頃から断片的に知っていたイエスの教えや説話や奇跡譚を確認しながら読むのは、なかなか興味深いもんです。

ここで12人の直弟子の名前だけメモしましょうか。

二人ずつセットで憶えましょう。

まずペテロ(元の名シモン)とアンデレの兄弟。

ゼベタイの子、(大)ヤコブとヨハネの兄弟。

ピリポとバルトロマイ(元の名ナタナエル)。

トマスと徴税人のマタイ。

アルパヨの子(小)ヤコブとタダイ。

熱心党のシモンとイスカリオテのユダ。

熱心党というのはローマに対して過激な抵抗運動を行った党派、みたいな説があるそうです。

福音書でよくイエスの側にあって名前が出てくるのはペテロ、大ヤコブ、ヨハネ辺りですか(裏切り者のユダは完全な別格ですが)。

何にも知らない超初心者(つまり私)はまずペテロとパウロを区別して、パウロが直弟子には含まれないことからまず憶えて下さい。

なお、よく言われるように「ヨハネ福音書」だけ少し他と毛色が変わっていて、イエスの言行録というものから離れて、より神学的色彩が濃いとされているが、確かに私のような素人が一読しただけでもそれは感じた。

パウロの手紙である「ローマ書」は面白い部分もあるが、やや読みにくい。

「ピレモン書」は二段組で1ページ半という短さで、特にどうということもない。

なかなかいいんじゃないでしょうか。

日本聖書協会の「新共同訳聖書」や、岩波文庫でバラバラに収録されているものなど、多くの版がありますが、初心者がとりあえず通読できる分量で概略をつかむには、これでもいいと思います。

参考文献としては、何と言っても阿刀田高氏の『旧約聖書を知っていますか』(新潮文庫)『新約聖書を知っていますか』(新潮文庫)に尽きます。

この二つは超初心者向け入門書としては最高に読みやすくてわかりやすい。

それと本書を併読すれば、一般常識としてのキリスト教の基礎的知識は得られると思います。

『ギリシア神話を知っていますか』(新潮文庫)『コーランを知っていますか』(新潮文庫)もついでにどうぞ。

ちなみに日本神話に関しては、石ノ森章太郎『マンガ日本の古典1 古事記』(中公文庫)辺りでも読めば最低限の知識は身に付くでしょう。

以下、「イザヤ書」より(一部変更あり)。

げに、見よ、主なる万軍のヤハウェが、

エルサレムとユダから、

その柱石と仰がれる者を除き去る、

すべてのパンの杖、すべての水の柱すなわち、

武将と軍人、裁判官と預言者、

占い師と長老、五十人の長と貴族、

参議と魔術に長けた者、知者と魔法に巧みな者を。

「わたしは青二才を彼らの長とし、

悪童らに彼らを治めさせる」

民は互いに虐げ合い、同胞相はむ。

青二才が年寄りに、若輩が先輩にたてつく。

たまたま、人が兄弟を家でつかまえ、

「おまえにはまだ上着[身分・財産を表わす]がある、われわれの

頭となって、この破局を収拾してくれ」

と言えば、その日、彼は悲鳴をあげて、

「収拾どころか、家にはパンも上着もない。

民の頭などおことわりだ」と答えよう。

ああ、エルサレムは躓き、ユダは倒れた。

その舌とわざがヤハウェに背き、

栄光の目を犯したからだ。

彼らの顔つきが彼らを告発し、

その罪をソドムのように物語る。

あわれなる彼の身の上よ、

まいた種は刈らねばならぬ。

義人はさいわいだ、善行の余徳を受けるから。

悪人はわざわいだ、悪行の報いが臨むから。

わが民は暴君に振り回され、女らに治められる。

わが民は指導者に迷わされ、道案内が道を誤る。

ヤハウェが論告に立ち、民の裁きの座につく。

・・・・・・・・・・

2010年9月1日

加藤陽子 『戦争の日本近現代史』 (講談社現代新書)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 06:00

この著者は、去年出した『それでも日本人は「戦争」を選んだ』(朝日出版社)がかなり売れましたが、それにいく前にとりあえず本書を読んでみた。

存在は知っていましたが、これまで手に取ることは無かった。

2002年初版ですから思ったより随分前ですね。

「東大式レッスン! 征韓論から太平洋戦争まで」という、何となくゲンナリする副題が付いてます(あまり安っぽいキャッチコピーみたいな副題は付けないでもらいたいと、編集者様には希望します)。

内容は月並みな重要史実をただ並べただけの「研究書を水割りしたような概説」ではなく、幕末・明治の日本人の対外認識から筆を起こし、時の為政者と国民が対外戦争を合理化し納得して行う上で、どのようなロジックを用いたのかを、政治家・軍人・知識人の言説を豊富に引用しながら検討するというもの。

その叙述はまあまあ面白いかなといった感じ。

最初はやや退屈に感じる部分もあるが、だんだん興味深い部分が増えてくる。

最後の、日中・太平洋戦争の章における外交史整理は結構面白い。

全体の感想は・・・・・・普通、ですね。

読んで損したとは思わないが、目が冴える思いがしたとか、そういう感じはしない。

初心者が読んでもそれなりに有益だし面白みもあると思うが、上記『それでも日本人は~』を含め、こういう歴史解釈に関わる本だけ読んでわかった気になるのではなく、重要史実とその繋がり、年号など細かな事実関係を記した著作に地道に取り組むことも初心者にとって疎かにしてはいけないと、自戒を込めて思います。

日本の深いジレンマを考える前に、日中両軍の偶発的な衝突から始まった日中戦争が、いやおうなく欧州やソ連の情勢とリンクしてゆく状況をまずはおさえておきましょう。入江昭はこれを、日中戦争の国際化、という概念で説明しています。

1938年に起こった次の五つの事象を契機として、日中戦争は、激変しつつある世界情勢の変数として組みこまれてゆきました。(1)ドイツが五年間にわたる中国援助の実績を放棄し、対日接近を明確にするという政策転換をおこなったこと、(2)日本が蒋介石の国民政府を、中国の正統な政府として認めないとの政策を打ち出し、親日政権樹立を画策した上で、長期持久戦態勢に入ったこと、(3)英米両海軍の共同戦略会議が秘密裏にロンドンで開始されたこと、(4)ソ連内に対日強硬論が生まれ、これまでの中国援助策以上の、対日強行策を選択する動きがみられるようになってきたこと、(5)イギリスが日本へある程度の宥和姿勢をみせたため、日本のなかにイギリスに圧力をかけて日中戦争を解決しようとする気持ちが生じたこと。

イギリスは来るべき戦争に備えるために、帝国の防衛順位を決めました。その上で、1938年9月30日にミュンヘン協定を成立させ、ドイツに対する宥和をおこない、日本に対しても、その対アジア政策を軟化させたのです。一方、ドイツは同年5月12日、独満修好条約の締結に踏みきり、満州国を承認しました。

ナチス・ドイツとファシスト・イタリアと日本帝国による陣営が着々と形成されつつあるなかで、イギリスの防衛順位は、大西洋と地中海に限定されました。そして極東から太平洋一帯においてイギリスのなす術はないと知らされたとき、アメリカに残された道は非常に限られたものになりました。それは、第一に、中国を自己の陣営から離脱させないこと、第二に、ソ連を日独伊の陣営に加わらないようにしておくことでした。アメリカの外交史家ウオルドゥ・ハインリクスが明快に述べているように、1941年6月の日本の南部仏印進駐、7月の関特演(関東軍特別演習の略称。演習とは名ばかりで、現実には対ソ連戦準備のための軍事行動)に対して、アメリカが在米日本資産凍結、対日石油禁輸という強硬手段で応じたのは、大部分、ソ連に対するアメリカの援護と解釈できます。日中戦争が世界の陣営の二分化を促進し、その結果、中国とソ連を媒介として日米対立が前面に出てくるという構造でした。

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