万年初心者のための世界史ブックガイド

2010年8月11日

引用文(ケナン3)

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ジョージ・ケナン『二十世紀を生きて』(同文書院インターナショナル)より。

二種類のナショナリズムへの以上の論評を終えるにあたり、私はその中には個人と集団の二種類の人間の反応も内在していたことを承知している。穏健で現実的なナショナリズムの形――それを私は正常で正統的だとし「愛国者」という言葉と結び付けたが――について書いている間、私の心中にはっきりしていたのは、単独の人間が自分の内輪の、自律的で孤独ともいえる思索の中で、自分と国の関係の問題に対決する際の考え方、ないしは少なくとも考え方の可能性というものだった。そして私が書いたことは、我々の中の大勢が、個人として、この問題に対処する仕方はかくのごときものと示唆するために着想したまでで、それは、こうした個人的思考の性格として、まったく似た思考は二つとありえず、あるはずもないとわかっていたからだ。

だが、ナショナリズムの病的、排外的形態となると、話は別だった。ここでも私は単独の人間の態様として敢えて説明を行なったが、自分が実際に心に描いていたのが集団的反応――あまた大勢の人々の共通の強迫感情――であることを私は承知していたし、その力は、本人らも自覚していたように、まさに大勢が同じ気持ちになるというところにあった。この形のナショナリズムは本質的に集団ヒステリーで、この性格がまさに力を生んだのである。「我々」は大勢だ、「我々」の考えはすべて同じだ、ということが、賛同者の心の中では「我々」はすべて正しいはずだということの、十分な証拠なのだった。こう考えてくると、個人的反応と集団的反応の対比の考察へと発展するが、両者は私が持っているといってよい哲学的態度に関係するし、いまはそれを取り上げるにふさわしい時点である。

先に見たように、よく起こることだが、大衆の反応というものが、本質的に、個人の反応を集団的な規模へと転換しようとする試みである場合には、集団版は必ず個人版の過度の単純化と俗悪化――いずれにせよ、歪曲化――となる。集団的反応は知的でなく、本質的に感情的で、寛容な感情となる時もあるが、決して考え抜かれたものではなく、最小公分母の一切の弱点を抱えざるをえない。

大衆、世間一般、人々など、何と呼ぼうと、彼らは一部の者が思ったような「大いなる野獣」ではないかもしれない。だが集団心理は、特に高揚し示威的な現われ方をする際は、個人心理よりはるかに危険な現象となる。ユーモアがなく、無反省で、他者追随に汲々とし、時に自己中心、被害妄想、手に負えない猜疑心などの症状を呈するが、これが個人の場合には本当の精神障害と思われてしまう。だがこうした極端なことにならなくても、真面目な社会的、政治的理念が集団的な理解や表現に転化すると、せいぜい本物の戯画に終わるのがおちだ。これがそもそもの原因で、私は人々が群をなして、金切り声を挙げ、スローガンを叫び、国旗を振り回し、拳を振り上げるのが大嫌いだし、それは彼らの熱狂の原因のいかんを問わない。彼らが表明しようとすることがまったく間違っているとは限らない。だが彼らがスローガンやプラカードで叫び立てていることは単純化され過ぎていて、ほとんど真面目な中身に欠けていると思ってよい。この点で私の確信は極めて強いから、この種の群衆が私自身の思想の解釈めいたものをスローガンにして叫んでいたら、私は重大な誤解と誤伝(それ以外にあり得ない)にさらされたに違いないと信じて、慄然とするだろう。

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