万年初心者のための世界史ブックガイド

2010年8月5日

引用文(高坂正堯6)

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高坂正堯『時代の終わりのとき  続・外交感覚』(中央公論社)より。

 

 

フランス革命二百周年      (1989・7)

フランス革命から二百年を経たこの七月、パリ祭の十四日をはさんで先進国首脳会議(サミット)がおこなわれ、そこで中国における学生・市民運動に対する武力弾圧が重要なテーマとなった。私はそこに「歴史のアイロニー(皮肉)」をしみじみと感じた。

まず、フランス革命は体制(レジーム)をひっくり返したものであるのに、サミットは現在の世界の体制の管理・維持者である。その、いわば「体制側」が、二百年を経た今日では、「反体制側」の成立を祝うことができるのである。しかも、中国の天安門事件は四十年前の「反体制」が「体制側」となり、新しく出現した「反体制」を弾圧したものであって、政治の力学と歴史の歩みはまことに一筋縄ではないことを思う人は少なくないであろう。これもまた皮肉であった。

もっとも、中国の強硬派の人々は、自分たちがフランス革命と同じことをしているのだ、といえないものではない。フランス革命は「自由、博愛、平等」というすばらしい理想を掲げつつ、やがて「恐怖政治」へと堕落していった。「革命はその子をむさぼり喰う」という言葉が示すように、他人をギロチンにかけた人が、何ヵ月かすると自分がギロチンにかけられるということで、血は血を呼び、犠牲者が次々に増えていった。

それ故、フランス革命後二百年を経過する少し前から、フランス革命の意義を疑う歴史家が、むしろ多数派に近い形で現れるようになったのも不思議ではない。例えば、フランス革命は中産階級の登場を促し、民法典など新しい制度を作ったと言われるけれども、歴史をよく調べると、そうしたものは「旧体制」下ではぐくまれており、革命は流血という犠牲のわりに、それをたいして加速しなかった、といったことが認められるようになった。

より重要なことは、革命によって権力を得た人々がきわめて急速に堕落したことで、その理由は、彼らが自らを人民の代表と規定し、それ故、自分たちには権力の病は取りつかないと考えたことにある、という指摘であろう。いかに主観的に自分は権力ではないと思ったとしても、いったん権力の座に着けば、やはり権力である。「人民」を代表するというのは、したがって真実ではなく、虚偽は罪を生む。

今回の鄧小平にしても、彼は自らを「人民」の代表であると信じており――あるいはその立場に立っており――、それ故、天安門に座り込んだ学生や市民は「革命の敵」であり、「人民」の敵と決めつけることができた。だから彼の頭では、「人民解放軍」は「人民」に対して発砲したわけではないのである。ここに反省材料としてのフランス革命の意義がある。

しかもなお、フランス革命には積極的な価値がある。フランス革命は西欧の政治制度の伝統の不可欠の部分――濫用されてきたが故に誤りも多くを含みはするが――、「民主主義」と言ってよいものを代表するものなのである。だからこそ、フランスは、二百年近く前の大量虐殺の非にもかかわらず、それを誇りうるのである。その伝統のエッセンスとは、「普通の人々」が十分な数で、十分に怒るならば、それが感情的なものであり、理性的でなかったとしても――、否、それだからこそ――、政府を打倒しうるのが、善き政治体制の保証であることを承認すべきだというものである。

なぜならば、権力はどのようなものであれ、すなわち、その座に着くものが善意で、使命感にあふれていたとしても、知らず知らずのうちに「普通の人々」から離れていき、腐敗がしのび寄ってくる。それを正すのは「普通の人々」の怒りしかない。その効果がなくなるとき、専政となり、社会はやがて停滞してしまう。権力が危険性を内包するが故に、それに対する最終の制約要因は劇薬しかないのである。「普通の人々」の怒りは、怒りであるが故に、いったん力を得ると、極端にまでいってしまう。人間は怒りを正当化する存在であるが故に、そうならざるをえない。そこに、フランス革命後の「恐怖政治」が現れた。だが、怒りは「下剤」であっても、統治の原理たりえない。

だからこそ、統治の責任をになうものは、その劇薬の恐ろしさを十分に認識し、それが使われずにすむように、日々自制しなくてはならないのである。こう考えてくると、日本の政治家こそ、フランス革命二百周年の意味をよくよく考えてみなくてはならないように思われる。統治とは、深い谷間でおこなう綱渡りというところがある。その行為に対する緊張感を失うとき、統治者は堕落する。その緊張感を失いかけている政治家は、決して少なくない。私はその点を憂慮する。

私は、乏しいながらもこれまでの読書経験から、フランス革命についてこれより遥かに悪いイメージを持っていますが(プティフィス『ルイ16世』(中央公論新社)等)、高坂先生のこうした柔軟でバランスの取れた見方には深い敬意を持つものです。

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