万年初心者のための世界史ブックガイド

2010年8月1日

浜渦哲雄 『イギリス東インド会社  軍隊・官僚・総督』 (中央公論新社)

Filed under: イギリス, インド — 万年初心者 @ 06:00

本文200ページ足らずのごく短い本。

著者には『英国紳士の植民地統治』(中公新書)、『大英帝国インド総督列伝』(中央公論新社)などの著作有り。

後者を読もうとしてそのまま放ったらかしだった。

前書きで、これまでイギリスのインド統治は否定的に捉えられがちであったが、最近のインドの急速な経済発展とともにその遺産が再評価されているとの記述にややギョッとする人もいるかもしれないが、本文中にはそうした視点は強く浮き上がってはこない。

「インド史の最大のアイロニーに一つは、インドがイギリス政府でなく、民間人が所有する特許会社によって征服されたことである」(T・パーソン)

という記述を裏書して、その過程を辿っている。

イギリス東インド会社は1600年ちょうどという憶えやすい年代に設立。

ロンドンと東洋(アフリカ喜望峰と南米ホーン岬間)の貿易独占特許を持つ。

オランダ東インド会社が1602年、フランス東インド会社が1604年と二年刻みの設立だというのは高校世界史でも出てきます。

フランス会社が不振で即解散したのは周知ですが、航海ごとに出資・清算を繰り返していたイギリス会社もこの時期はオランダに圧倒されていた。

1623年アンボイナ事件が起こるが軍事力劣勢のためオランダへの報復を断念、東南アジアから撤退しインド進出を目指す。

インドでのイギリスの三大拠点は、名前はもちろん位置関係も高校レベルでも確実に記憶しなけりゃいけませんでしたね。

ガンジス川下流ベンガルにあるカルカッタ、東海岸コロマンデル海岸沿いのマドラス、西海岸北寄りのボンベイ。

恥を忍んで言うと、高校生の頃しばらくの間、ヴァスコ・ダ・ガマが到達した西海岸マラバール海岸沿いのカリカットと上記カルカッタを混同してました。

これに対しフランスの拠点二ヶ所も重要暗記事項。

カルカッタ近くのシャンデルナゴル、マドラス近くのポンディシェリ(「近く」といっても全インドが入る地図で見ればの話ですが)。

高校時代どっちがどっちだったかなと迷ったときには、五十音順で「シ~」が上(北)、「ポ~」が下(南)だと無理やりゴロ合わせしてました。

イギリスの最初の拠点はボンベイのさらに北にあるスーラトと、マドラスよりかなり北のマスリパタム。

それぞれ1613年、1611年に商館建設(前者には異説があるらしい)。

ムガル朝はアクバルが1605年死去、ジャハンギール帝時代(~27年)。

マスリパタムの商館建設に許可を出したのはゴールコンダ王国という地方のイスラム政権。

この王国は後にアウラングゼーブ帝に滅ぼされる。

スーラト進出後、先行していたポルトガルとの衝突が起こる。

ムガル帝国はその最盛期においても海軍は弱体で、この時期アラビア海の制海権はポルトガルに握られ、メッカ巡礼や紅海貿易にはポルトガルの許可証が必要だったと書かれてある。

数度の戦闘と交渉の後、イギリスが制海権把握。

1640年マドラスに要塞建設、1661年チャールズ2世がポルトガル王室キャサリンと結婚、その婚資としてボンベイ獲得。

1664・70年マラータのシヴァージーがスーラトを襲撃、大きな被害が出ると、英国の西海岸の拠点はボンベイへ移る。

進出が遅れていたベンガルにも1697年カルカッタに商館兼要塞を建設。

フランスは1664年コルベールが東インド会社を復興させた後、イギリス嫌いのアウラングゼーブ帝の支援を得てシャンデルナゴル、ポンディシェリに拠点獲得。

18世紀初頭アウラングゼーブ死後、ムガル帝国は分裂・崩壊、群雄割拠の状態となりここから東インド会社の領土的拡大が始まる。

高校時代から思ってましたが、このムガル朝分裂の急激さは一種異様とも感じます。

古代以来の最大版図からあまりに極端な転落は世界史上極めて例が少ないような・・・・・・。

何か理由があるんでしょうか?

英仏が南インドで衝突、オーストリア継承戦争、七年戦争と連動して1744~63年三次に亘るカーナティック戦争。

インド植民地化の過程で起こった戦争は第○次と付くものが非常に多く、それがややこしいんですが、とりあえずは細部はパスしますか。

ムガル朝から事実上独立していたベンガル太守がイギリスと対立、太守に妥協的姿勢をとったフランスと連携、1757年有名なプラッシーの戦いが起こる。

ロバート・クライヴ指揮の英軍が太守・仏連合軍を破り、インド植民地化の基点となった戦いだが、その規模は極めて小さく小競り合い程度。

兵力こそ英側3000、太守側5万を動員しているが、戦死者が英側7人、太守側16人と書かれているのを見ると、「ホントかよ???」と目を疑ってしまう。

上記アンボイナ事件と並んで、実際の規模と後世の影響とが著しく乖離した出来事と言えるのかもしれない。

1758年クライヴがベンガル知事に就任。

クライヴが一時帰国中、イギリスが立てたベンガル太守が反抗、ムガル朝および隣国アワド国王と同盟、1764年バクサルの戦いで三者連合が英軍に敗北。

ヨーロッパの軍事的優勢をまざまざと示したものとしては、プラッシーよりもこのバクサルの戦いの方が重要だと、中公世界史全集の『ムガル帝国から英領インドへ』では書いてあった。

インドに戻ったクライヴの交渉を経て、65年ベンガルとそれぞれ北西と南西に隣接するビハール、オリッサの徴税権を獲得、実質領土化。

ベンガル獲得がプラッシー戦の直後ではなくワンクッション置いていることは頭の片隅に入れておいた方が良い。

この短い本で複数記事を書くとは思ってませんでしたが、終わらないので続きます。

(追記:続きはこちら→イギリス東インド会社についてのメモ

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