万年初心者のための世界史ブックガイド

2010年8月29日

『改訂版 世界史B用語集 [2008年版]』 (山川出版社) その2

Filed under: 教科書・年表・事典 — 万年初心者 @ 06:00

その1の続き。

ハミルトン(1)は低い。

ジェファソンとの対比で知っておくべき人物と思える。

それはまあいいとしても、ワシントン(10)が載っていない教科書は検定を通してはいけない気がします・・・・・。

(初代大統領としてでなく、独立戦争の箇所で頻度10。巻末索引で確認しても同じ。)

フンボルトベルリン大学[参考]扱い。

これには驚いた。

プロイセン・フランス戦争(11)という表記が主、括弧して普仏戦争と書いてある。

前にも書きましたが、この表記法すごく嫌いなんですよ。

ちなみに新聞の見出しで「米露」のことを「米ロ」と書いてあるのもゲンナリします。

ポグロム(2)、ユダヤ人への集団暴行・迫害のこと。

頻度は低いが、これは知っておいた方がいい言葉だと思います。

しかしホロコースト(5)はいかにも低い。

これは一般常識として必ず理解しておくべき言葉でしょう。

1870年代以降の世界的な不況(大不況)(6)、1873年からの、帝国主義の背景をなす不景気だが、高校時代、これは『世界史A・Bの基本演習』(駿台文庫)などの参考書でしか見た覚えが無い。

フランス社会党(統一社会党)(5)は何でこんなに掲載教科書が少ないのか?

と思ったら、別の箇所では(9)だった。

ラサール(2)が1863年全ドイツ労働者協会を結成、ベーベル(2)が1869年マルクス主義的な社会民主労働党(アイゼナハ派)結成、両党が合併して1875年折衷的ゴータ綱領でドイツ社会主義労働者党結成、それが1890年マルクス主義的エルフルト綱領でドイツ社会民主党に改称、と昔はやたら細かい社会主義政党の歴史を教えられたものです。

ロックフェラー(3)カーネギー(1)モルガン(1)ということは、カーネギー・モルガンが載っているのは三省堂教科書のみか。

ウラービー(オラービー)の反乱(9)、もう「アラービー・パシャの反乱」とは一切言わなくなったのか・・・・・。

辛亥革命直後、1912年宋教仁が中心となって結成した国民党(9)

前にも書いたようにこの「最初の方の国民党」の頻度が高いのは相当不可解。

直後の1914年結成された中華革命党なんて(3)ですよ(別の箇所では(4))。

レンテンマルク(7)なのは高い。

しかし関連事項のシュトレーゼマンドーズ案(10)

この二つは全教科書に載せておいた方がいいんじゃないでしょうか。

ブハーリン(1)があって、ジノヴィエフ、カーメネフがないのはバランスに欠けてる気がする。

黄埔軍官学校[参考]なのは如何なもんでしょうか。

これは載せるべきでしょう。

それでいて浙江財閥(11)なのは解せない。

ネヴィル・チェンバレン(11)なのはいいとしてダラディエ(8)

ミュンヘン会談出席者として名前を出さざるを得ないというわけなんでしょうが、その1の記事で書いた第二回三頭政治のレピドゥスと似たようなもんですね。

戦後史の項目を見ていて、「ヴェトナム」がすべて「ベトナム」になっているのに強い違和感(「ベトナム戦争」、「南ベトナム解放民族戦線」、「ベトナム和平協定」等々)。

これはやめてもらえませんかねえ。

キング牧師(11)に驚く。

私が高校生の頃は確かゼロのはず。

ブレジネフ(8)なのはちょっとまずいんじゃないでしょうか。

アンドロポフ(1)チェルネンコ(2)はともかく、米国と並ぶ超大国だったソ連の最高指導者を十数年も務めたわけですから一応全教科書に載せるべき。

逆にその補佐役で首相を務めたコスイギン(3)なんて要らないでしょう。

同時多発テロ(11)ターリバーン(10)イラク戦争(10)

こういうのも教科書に載るようになったんですねえ。

私も歳をとりました。

最後に今回一番驚いたことを。

ニューディール政策のところで、ケインズ(1)となっている。

その時は「ふーん」と思っただけだったが、後ろの方のページにある「現代文明」の「社会科学」の項目を見ると載っていない!!

驚いて巻末の索引を見ても頻度1!!!

これにはひっくり返りそうになった。

どうせ「政治・経済」で教えるからとか、そんな問題ではない。

一般常識として絶対知っておくべき人名のはず。

今の普通の経済ニュースでも「ケインズ政策は有効だ」「無効だ」なんてやってるでしょう。

本当に載ってないんでしょうか?

この用語集に採録してないだけじゃないんですか?

できればそうであって欲しいと思わざるを得ません。

あーだこーだと埒も無いことを書き連ねましたが、社会人でも一冊持っていると便利です。

800円代で買えますし、角川の世界史辞典が高く感じれば、これが簡易辞典として使えます。

なお私は、ここで紹介してるような世界史関係の本を読んだ後、この用語集の関連事項をざーっと眺めるということをよくやるんですが、効率よく史実や年代が確認できてなかなか良いです。

教科書と違って手軽に入手できますから、とりあえず手元に置いておかれたら如何でしょうか。

2010年8月26日

『改訂版 世界史B用語集 [2008年版]』 (山川出版社) その1

Filed under: 教科書・年表・事典 — 万年初心者 @ 06:00

2002年に買った『世界史B用語集』をこの度8年ぶりに買い換えてみました。

奥付を見ると、「2008年第1版第1刷  2010年第1版第3刷」となっている。

前のやつは「2000年第1版第1刷  2002年第1版第5刷」。

毎年ではなく、教科書の検定ごとに改訂するはずだから、2000年から4年ごとの改訂で今回が2度目といったところか?

まずすぐ気付くのが、装丁について。

自分の高校時代以来、カバー部分が本体から少しはみ出していたのが、今回は本体と同じ大きさに。

次に用語の登場頻度。

すべての教科書のうち、何冊に載っているのかを用語のすぐ後に載せているのが、この本の最大の特徴だが、前回は最大頻度が19だったのだが、今回は11

私の頃の冊数がいくつだったのかは忘れたが、書店で立ち読みしたのを記憶している限り、今回まで減ったのを見た覚えはないので、なぜか物悲しい気分に襲われる。

もっとも世界史教科書が19種類もあるのが「バブル的」かもしれませんが。

あと、最近削除された用語でも解説が必要と思われるものには[参考]として載せてあるのが目に付く。

以下、ざーっと眺めた上で記した適当な感想。

(括弧内は頻度。複数の箇所に載っている場合、最も高い数字を書いているつもりですが見落としがあるかもしれません。「あれっ」と思うほど頻度が低い場合、他の箇所で主に載っている可能性がありますので注意が必要です。)

アッカド人(10)ということは載ってない教科書があるということですか・・・・・・。

ミタンニ(9)フルリ人(2)について、支配層は印欧系としながらも、最近は支配層含め全てフルリ人との説があると書いてあるのは、中公世界史全集『人類の起源と古代オリエント』の記述と同じ。

私の高校時代には聞いたこともなかったが、こういう新しい学説が教科書にも徐々に反映してるんだなと実感。

上記アッカド人と同じく、ハンニバル(10)が載ってない教科書に不安を感じる。

逆にレピドゥス(8)東京書籍の教科書の記事で書いたように、不要の気がしないでもない。

ローマ帝国の「3世紀の危機」(2)という言葉は、教科書レベルではこれまで見た記憶無し(前回の用語集でも収録ゼロ)。

マクシミヌス(1)が軍人皇帝の始めとして載っている。

この人は塩野ローマ史『迷走する帝国』に出てくるマクシミヌス・トラクスのこと。

私の頃の山川『新世界史』には、確か(セプティミウス・)セヴェルス帝の名が載っていたと思うが、今はどの教科書にも載っていない模様。

拓跋国家(1)というのがあって、「何ですか、それは?」と思い説明を見ると、「北魏以来の北朝から、隋・唐にいたる一連の王朝のこと。支配層には拓跋氏出身者が多く、国家の仕組みにも共通点が多かったことからの呼称。」とある。

後漢滅亡から北宋成立まで、この時期の中国史については、門閥貴族が勢威を振るい、皇帝権は弱体で、みたいなことをしっかり頭に入れればいいので、こういう見慣れない用語は無理に載せなくてもいいんじゃないでしょうかと思う(一種類の教科書だけですが)。

オゴタイ・ハン国(8)について、「オゴタイ系の勢力は存在したものの安定した政治勢力とならなかったため、この国は事実上存在しなかったとの説もある」と「ええっ!!」と思うことが解説に書いてある。

こんなこと、杉山正明先生の『大モンゴルの時代』でも読んだ記憶無いですが・・・・・。

(忘れてるだけか・・・・・?いや、しかしやはり覚えは無い。)

(追記:以上やはり杉山氏の説のようです。完全に忘れてますね・・・・・。)

モンゴル人第一主義がたったの(3)(これも杉山先生の影響?)。

でも「タタールの平和」(3)だ。

マテオ・リッチ(11)アダム・シャール(9)フェルビースト(7)ブーヴェ(8)カスティリオーネ(11)と、中国で布教したイエズス会宣教師の頻度がやたら高いのは、私の頃と同じですが、何でなんでしょうね?

「イスラム」がすべて「イスラーム」になっているのが正直鬱陶しい。

ハールーン・アッラシード(10)も満数じゃないのか・・・・・。

サッファール朝(1)の説明で、ターヒル朝(これは頻度ゼロ)から自立して建国したイラン系初のイスラム王朝と書いてあるが、じゃあターヒル朝はイラン系じゃないのか?

どうだったのか忘れた。

イドリース朝(2)ザンギー朝(2)は高校時代全く聞いたことが無かった。

アッティラ(8)って低過ぎませんか?

ユーグ・カペー(8)も。

フランク王国(11)について、「ゲルマン諸国家中、イギリス王国とともに長く存続し」と書かれていて、言われてみれば初歩的過ぎて盲点だが、確かにそう。

他は大抵イスラム、東ローマ、フランクに滅ぼされているので、歴史の継続性から見れば昔から英国はヨーロッパの別格だったことがわかる。

(フランク=フランスではないでしょうが、フランク最初の根拠地としての重要性からするとフランスも。)

神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(2)フリードリヒ2世(3)

これはもっと高くてもいいような・・・・・。

ダンテ(10)ブルボン朝(10)などが満数でないのは理解に苦しむ。

私は文化史について何か言える人間ではないが、ルネサンスの項でティツィアーノが載ってないのには「あれっ」と思った(旧版では頻度3で載ってる)。

タイの現王室、ラタナコーシン朝(チャクリ朝)(7)の別称として「バンコク朝」が載らなくなっている。

これは何か理由があるんだろうか?

その創始者ラーマ1世(1)も昔は「プラヤー・チャクリー」という名が載っていたが、ロン・サヤマナン『タイの歴史』には、確かこれは本名というより一種の称号だというようなことが書いてあった記憶がある(ただしうろ覚え)。

時代を遡って、スコータイ朝のラームカムヘーン(1)王も消滅寸前ですね。

『角川世界史辞典』で同項を引くと、「タイ文字の制定者、理想の統治者として王の功績を記したラームカムヘーン碑文は、最近19世紀の偽作との疑いが出された」と驚くようなことが書かれてあるが、ひょっとしてこうしたことも関係しているのか?

ジギスムント[参考]扱いなので少々驚いたが、前回からすでに載ってなかった。

「金印勅書」のカール4世の息子だし、コンスタンツ公会議を主催したりと、この人結構重要だと思うんですけどね。

マゼランを敗死させたフィリピンの首長ラプラプ(2)が載っているのが目を引く。

近代世界システム(4)再版農奴制(4)社団国家(1)17世紀の危機(6)(環)大西洋革命(4)と、こういう用語も載るようになったんですねえ・・・・・。

「17世紀の危機」なんて半分以上の教科書に載ってるわけですか。

コーヒーハウス(9)なのがやや不可解。

世論形成の場として重要なのは『コーヒーが廻り世界史が廻る』(中公新書)でもわかりますが。

近代以降は次回に続きます。

(追記:続きはこちら→その2

2010年8月24日

引用文(内田樹5)

Filed under: 引用文 — 万年初心者 @ 06:00

内田樹『女は何を欲望するか?』(角川oneテーマ21)より。

価値観はばらけている方がよい、というのは私の持論である。有限の希少財に同じ欲望を持つ多数の人々が雪崩打って殺到することは、誰にとっても生き延びる上で不利なことである。だからこそ太古から人間社会では、その成員たちを細かく下位集団に分割し、それぞれが自分の欲望を「他の集団と競合しないもの」に照準するという知恵を働かせてきたのである。

それは喩えて言えば「潜水艦の遮蔽壁」に似ている。潜水艦は無数の遮蔽壁によって、いくつもの船室に分けられている。だから、ある箇所が浸水しても、ハッチを閉めれば、船体そのものは浮力を維持できる。それがシステムを細分化することのメリットである。潜水艦が遮蔽壁のない「ワンルーム」であったら、わずかなひび割れからの浸水で、船はたちまち沈没してしまうだろう。

社会をいくつものニッチに区分けし、それぞれに別の機能を分配し、あいだに擬制としての「壁」を設けることには、手間も暇もかかる。しかし、それは全員のふるまいが同一のものになるリスクを回避するための人類学的コストなのである。「男は男らしく」「女は女らしく」「子どもは子どもらしく」「大人は大人らしく」「老人は老人らしく」・・・・という社会的に設定された「らしさ」は、そのような人類学的なセグメントである。

「身分」や「階級」もそうだ、とは内田先生のお立場では決しておっしゃらないでしょうが、私はそう思います。

2010年8月21日

筒井清忠 編 『解明・昭和史  東京裁判までの道』 (朝日選書)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 06:00

第1回普通選挙から東京裁判まで、誰でも知っている重要事件について、編者を含め14人の研究者が1章ずつ執筆した本。

いい加減な「昭和史本」の氾濫を憂い、「研究の第一線と一般書との間のすさまじいまでの懸隔を埋めるため」、最新の研究成果をわかりやすく紹介するという立場から書かれたものだそうだ。

執筆者には、私でも知っている著名なお名前がちらほら。

各章ごと、末尾に参考文献が載っているので、これを見て次に読むべき本を見つけるのも良い。

内容自体は、もちろん各章に差はあるものの、基本的には高校レベルの初心者が読んでも有益なものだと思う。

以下、いくつかの章について、本書の内容には必ずしも沿っていない個人的感想とメモ。

(括弧内は執筆者名。)

第1章 第1回普通選挙(奈良岡聰智)

ただし、注意すべきは、日本の民主化が欧米と比べものにならないほど遅れていたわけではないことである。・・・・・イギリスで議院内閣制が発足してから男子普通選挙が実現するまで約180年もかかっていたのに比べ、日本では議会開設以来30年で、男子普通選挙実現の直前にまで到達している。日本は欧米が百年以上かけて進めてきた民主化のプロセスを数十年で一挙に行ったのであり、種々の限界があったとはいえ、全体として、民主化をかなり積極的に推し進めたと評価できる。

ここここで以前も書きましたが、戦前日本の破局は自由や民主主義の欠如ゆえと言うより、急速な民主化がもたらした混乱に国家と社会が耐え切れなかったためだとする方が余程実情に合っていると思う。

デモクラシーがしばしば自己崩壊を起こして、ファシズムになったり共産主義に道を開いたり、日本のように軍国主義と極端な国粋主義を生み出したりするのだから、そもそも「民主化」というものを無条件で「善」だとする考え方自体如何なもんでしょうかと感じる。

この章でもそうした懐疑的視点は感じられるが、一貫してそういう観点から叙述された近代日本史の本が無いものでしょうか。

第2章 張作霖爆殺(戸部良一)

やはりこの事件の不徹底な処罰が、軍人の政治化と暴走を生んだのであって、後世への悪影響は甚大だなと再確認。

第4章の満州事変は研究史の整理に多くの紙数を割き、割と面白いが短すぎるのが難点。

第5章の血盟団事件、五・一五事件は詳細な事実関係の記述が続き、初心者には読みにくい。

第7章 二・二六事件(筒井清忠)

よくまとまっていて内容は普通。

ただ、参考文献として高橋正衛の『二・二六事件』(中公新書)『昭和の軍閥』を好著として挙げているが、初心者の私はあまりいいとは思わない。

この辺の皇道派とか統制派とかの話を知りたい場合は、川田稔『浜口雄幸と永田鉄山』(講談社選書メチエ)をまず勧める。

第10章 日独伊三国同盟(服部聡)

本書では外交史を扱ったこの章が一番面白い。

松岡洋右外相らが日独伊三国同盟を締結した思惑は、三国同盟にソ連を加えた日ソ独伊四国協商に発展させ、それを背景に日米交渉と日中和平を推進することだとするのが、これまでの通説。

それに対し本書では、ソ連の加入は三国同盟の前提ではなかった、1940年当時既にドイツに降伏したフランス・オランダおよび降伏目前と見られていたイギリスの東南アジア植民地を戦争終結までにドイツと結ぶことによって獲得し、必要な資源を確保することが主目的だったとしている。

この時期の重要史実は、年度はもちろん月も含めて正確に記憶する必要がある。

39年  5月  ノモンハン事件

     7月  アメリカが日米通商航海条約破棄通告

     8月  独ソ不可侵条約

     9月  第二次世界大戦勃発

40年  1月  日米通商航海条約失効

     6月  フランス降伏

     9月  北部仏印進駐

41年  3月  米国、武器貸与法

     4月  日ソ中立条約

     6月  独ソ戦

     7月  南部仏印進駐→米、在米日本資産凍結・対日石油禁輸

     12月 真珠湾攻撃、日米開戦

ほぼすべて高校教科書レベルだが、日米通商航海条約破棄で経済制裁の引き鉄をいつでも引ける状態になったことと、40年の北部仏印進駐と41年の南部仏印進駐では意味合いが全く異なり、後者によって米国が対日戦の決意を固め、石油禁輸によって日米開戦の導火線に火が付いたことになり、これが戦争への「ポイント・オヴ・ノーリターン」になったことは要チェック。

参考文献は本書と見方が異なるが、もちろん三宅正樹『スターリン、ヒトラーと日ソ独伊連合構想』(朝日選書)

もの凄く面白いということもないが手堅い本。

機会があればどうぞ。

2010年8月18日

引用文(トクヴィル1)

Filed under: 引用文 — 万年初心者 @ 06:00

アレクシス・トクヴィル『フランス二月革命の日々』(岩波文庫)より。

これは七月革命を目撃した私が、それから十七年たって、再び実現するのをまのあたりにすることになった革命なのだ。

二つの革命はともに私を悲しい思いにかり立てた。しかし二度目の革命が私にひきおこした印象は、いかに堪え難く、より苦いものだったことか! シャルル十世に対しては最後まで、祖先から受けついできた敬愛の念が私の心の中に残っているのを感じていたが、しかし、この国王は私が貴重だと考える諸権利を侵害したために打ち倒されたのであり、私はわが国の自由が、この国王が打倒されたために消え失せることはなく、むしろよみがえるだろうと、希望を持つことができたのだった。現在、この自由は死滅したように私には思われる。逃亡した王族たちは私にはどうでもよいことなのだが、私自身が抱いていた自由の大義が失われてしまったように感ずる。私は若い頃、自由を再びとりもどして繁栄に向かい偉大さを再現したようにみえた社会の中で、最もすばらしい年月をすごした。私はそのなかで、中庸をえた自由の理念、逸脱することなく信仰と良俗と法によって支えられた自由の理念を抱くにいたったのである。私はこの自由の魅力に心を奪われた。自由は私の生涯を通じての情熱となった。その自由が失われてしまったことで、私はいやしがたい心の苦痛を感じていた。自由を放棄しなければならなくなったという事態を、今や私は充分に経験したのだった。

今度の場合、私は人並みの経験を充分してきたので、無益な言葉によって心が慰められるようなことはなかった。たとえ一つの国で大革命が自由を樹立しえたとしても、それに続くいくつかの革命が、節度のある自由を長い間にわたり不可能にしてしまうということを私は知っていた。

こうしたことからどういうことが起るのか、まだ私にはわからなかったが、私を満足させうるようなものは何もそこから生まれてこないということは、はっきりしていた。私たちの子孫に予定された運命がどのようなものであれ、私たち自身の今後の運命は、容認と抑圧が交互にやってくる反動のただなかで、自分の生命を惨めにすり減らすことなのだと、私は予感していた。

・・・・・・

アンシャン・レジームの後を引き継いだのは立憲王政であった。この王政の後に共和政が、共和政の後に帝政、帝政の後に復古王政がくる。その後にやってきたのが七月王政だった。この相つぐ変り目のそれぞれで、人は自分勝手に自らの事業と称したものを完成させ、フランス革命は終了したと宣言したものだった。こう宣言することで、人は実際そうなのだと信じ込んだ。悲しいかな、私も復古王政のもとで、そうあってほしいと望んだし、復古王政の政府が倒れた後も、そのように考えていたのだ。そしてまたフランス革命が始められた。というのも、いつも同じことだったからなのだ。われわらが前に進むと、到達点は遠くになり、その輪郭がぼやけてしまうのだった。以前の予言者と同様にうぬぼれの強い新たな予言者が保証しているように、われわれは、これまで誰も予見しなかったし欲することもなかった、そしてわれわれ自身も想像できなかったような、より完全でより深いところに達するような社会変動に到達するのだろうか。それともあの断続的におこる無政府状態、かつての民衆の間でよく知られたあの周期的に起る不治の病に、おそらく到達してしまうだけだというのだろうか。私はといえば、これに答える能力はないし、このような長い旅路がいつ果てるのかさえはっきりしない。私は岸に向かって、人を欺くばかりの汽船を次々と乗り継いで行くことに疲れてしまった。それで私はしばしば、われわれがずっと以前から探し求めているしっかりとした陸地は、実際に存在しているのか、あるいはわれわれの運命は、むしろ永久に海原をさまよい歩くことにあるのではないか! と自問自答してみるのである。

2010年8月15日

フランス二月革命についてのメモ

Filed under: おしらせ・雑記, フランス — 万年初心者 @ 06:00

カール・マルクス『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』(平凡社ライブラリー)の記事続き。

革命後制定された憲法では大統領と議会の双方の権限が強力で、両者の関係を調整する手段が熟慮されておらず、大統領の再選も禁止されていたため、クーデタを誘発する可能性が高かったというようなことが書いてあった。

ルイ・ナポレオンが大統領として最初に任命した内閣はオルレアン派バロと正統王朝派ファルーの秩序党内閣。

国民衛兵と第一師団(パリ防衛を担当する常備軍)司令にはシャンガルニエ任命。

国民衛兵とは一定の財産資格を持つ市民からなる非正規民兵。

1849年5月憲法制定議会に替わる立法国民議会選挙でブルジョワ共和派激減、秩序党の勝利と社会民主派の進出。

6月小市民的民主派の武装蜂起、一年前に続く「もう一つの六月暴動」、シャンガルニエにより粉砕、ルドリュ・ロラン亡命。

小市民的基盤を持つ国民衛兵は一年前の「最初の六月暴動」では正規軍と共にプロレタリアを鎮圧したが、この「二度目の六月暴動」では自ら蜂起に加わり鎮圧される。

以後議会は秩序党が支配、それと権力を虎視眈々と狙うナポレオンが対立する情勢。

11月バロ内閣解任。

1850年5月新選挙法、三年間の居住規定で選挙権制限、普通選挙を事実上廃止。

これをボナパルト派が利用し、普通選挙復活のスローガンを世論対策に使うことになる。

この時期秩序党内部で正統王朝派とオルレアン派の対立が深まり、秩序党の解体が進む。

議会で多数を占めているのに二つの王朝の争いから王政復古の絶好の機会を逃すというのは第二帝政崩壊直後の第三共和政初期とも共通する展開だなと思った。

1851年1月軍総司令シャンガルニエ解任。

48年の四月総選挙と六月暴動で革命的共産主義者と社会主義者鎮圧、49年五月総選挙でブルジョワ共和派惨敗、同年「第二の六月暴動」で小市民的民主派鎮圧、秩序党は他党派の恨みを買って孤立した上に、上記内部抗争で分裂、結局ボナパルティスト優位の情勢が固まっていく。

大統領任期延長を可能にする憲法改正成立せず。

ルイ・ナポレオンは、安定と繁栄を望む議会外ブルジョワを籠絡し秩序党の支持基盤を切り崩し、確固たる利益代表者を持たなかった分割地農民(小農?)の支持も得て、各階級・各党派を操る。

12月クーデタ勃発。

翌1852年第二帝政開始。

末尾に柄谷行人氏による解説がある。

柄谷氏の名前は知っていたが、私が読めるレベルの著者ではないので、著作は一冊も読んだことがない。

しかしこの解説は意味を十全に読み取れたとは言えないが、それでも興味深く思う部分があった。

重要なのは、社会的諸階級が「階級」としてあらわれるのは言説(代表するもの)によってのみだということ、そしてその場合、つねに代表するものと代表されるものの関係に恣意性あるいは浮動性がつきまとうことである。そして、このことは普通選挙による代表制と切り離せない。・・・・・すべてがこのような形態のrepresentation、つまり代表制を通じてしかあらわれてこないということは、ファシズムあるいは今後の政治過程を見る上で、決定的に重要である。たとえば、ヒトラー政権はワイマール体制の内部から、その理想的な代表制のなかから出現した。さらに、しばしば無視されていることだが、日本の天皇制ファシズムも1925年に法制化された普通選挙ののにちはじめてあらわれたのである。

マルクスが見いだす「反復」は、ナポレオンが皇帝になるまでの過程がシーザーのそれを反復しているということである。もちろん、それはナポレオン自身がシーザーを模倣していたということだけでなく、そこには彼らの意識を超えた構造の同型性があるということだ。・・・・・「王殺し」ののちに成立した共和制があり、そこにおける欠落、不安定を埋めようとする運動が「皇帝」に帰結する。つまり、共和制(議会制)そのものが皇帝を生み出すのだ。ここでわれわれは「王」や「皇帝」を、それらの慣用的な意味から離れて考えなければならない。ここで定義を試みれば、「王」が生まれながらに王であるのに対して、「皇帝」は大統領と同じく諸階級の「代表」としてあるということを意味する。彼は国民に君臨しながら、同時に国民の代表者でなければならない。・・・・・

面白くないこともないが、皮肉や毒舌に満ちたわかりにくい文体なので、慣れるまで苦労する。

批判的比喩の意味を知るために訳注を頻繁に参照する必要があるのも面倒。

(同じページにあるのではなく、巻末にまとめてある昔ながらの形式なので余計。)

なおこの本では、前の記事で触れた政治党派と時代区分に関する表が無いと効用が激減すると思う。

(だから別の版で読むのは勧めません。)

ただ最後まで読めば、そこそこの面白みも有り、初心者にとって有益な点もあろうかと思います。

類書としては、まずマルクスの伝記としてE・H・カー『カール・マルクス』(未来社)

ルイ・ナポレオンについては鹿島茂『怪帝ナポレオンⅢ世』(講談社)が手ごろ。

二月革命については、何と言ってもアレクシス・トクヴィル『フランス二月革命の日々』(岩波文庫)に止めを刺す。

これは是非とも読むべき。

透徹した見解と迫真の事実描写が結合された傑作です。

本書で史実のあらましと主要人物像を頭に入れて準備運動をしてから取り組めばより良いと思います。

2010年8月13日

カール・マルクス 『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日 [初版]』 (平凡社ライブラリー)

Filed under: フランス — 万年初心者 @ 06:00

マルクス、エンゲルスの著作でこれまで読んだことのあるのは、『共産党宣言』、『空想より科学へ』、『賃労働と資本』、『賃金・価格および利潤』、『反デューリング論』くらい。

マルクスの本読むのも20年ぶりくらいですか。

その著作で歴史書に近いものというと本書のほかに、『ドイツ農民戦争』、『フランスの内乱』、『家族・私有財産・国家の起源』などがあると思いますが、本書が最も読みやすいでしょう(たぶん)。

2008年に手に取りやすい体裁で出た新訳なので、試しに読んでみることにした。

1848年フランス二月革命が1851年12月の軍事クーデタによってルイ・ナポレオンの独裁に帰着するまでの歴史を分析した本。

現在の歴史学からすると、本書の記述に対して数多くの異論が出ているんでしょうが、とりあえずマルクスが解釈した通りにその展開を追ってみることにする。

まず本文に入る前に、後ろの方に載っている「政治党派と階級的基盤」、「時期区分と階級闘争の構図」という二つの表をじっくりと眺める。

読む途中でも、常にこの表に立ち返って確認すると良い。

前者の表について以下にメモ。

正統王朝派=ブルボン王家支持、土地所有ブルジョワジー、代表的人物はファルー、ベリエ

オルレアン派=金融・大工業ブルジョワジー、ギゾー、ティエール、モレ、バロ、デュパンと多士済々、軍人ではシャンガルニエ

ブルジョワ共和派(純粋共和派)=中産階級、ラマルティーヌ、マラスト、ジラルダン、軍人ではカヴェニャック、ラモリシエール、ブドー

小市民的民主派(モンターニュ派)=ジャコバン派(山岳派)の流れを汲む、小商店主、手工業者、ルドリュ・ロラン

社会主義者=プロレタリアート、ルイ・ブラン、コシディエール

革命的共産主義者=プロレタリアート、ブランキ

ボナパルト派=ルンペンプロレタリアート、マニャン、モルニ公、モーパ

正統王朝派とオルレアン派は1848年5月以降「秩序党」を形成。

小市民的民主派と社会主義者は49年1月以降「社会民主派」を形成。

冒頭に私でも知っている有名な言葉有り。

ヘーゲルはどこかで、すべての偉大な世界史的事実と世界史的人物はいわば二度現れる、と述べている。彼はこう付け加えるのを忘れた。一度は偉大な悲劇として、もう一度はみじめな笑劇として、と。

人間は自分自身の歴史を創るが、しかし自発的に、自分で選んだ状況の下で歴史を創るのではなく、すぐ目の前にある、与えられた、過去から受け渡された状況の下でそうする。

「第1次フランス革命」においては、主導権がフイヤン派(自由主義貴族・上層市民)→ジロンド派(中産市民)→ジャコバン派(下層市民・サンキュロット)という風に、より社会階層が下部で、急進的党派に移っていくが、二月革命においては全く逆に、まず労働者階層が六月暴動で鎮圧され、ブルジョワ共和派の支配も徐々に王党派連合に地位を譲り、最後は王党派がボナパルティストに支配権を奪われた、との指摘は面白いし、事実その通りに思える。

1848年2月革命勃発。

臨時政府首班ラマルティーヌ。

社会主義者ルイ・ブランも入閣したことは、昔から教科書に載っている。

当初はブルジョワ共和派・オルレアン左派・小市民的民主派・社会主義者の幅広い連立政権。

4月男子普通選挙で憲法制定国民議会選出。

議席をブルジョワ共和派・モンターニュ派・秩序党の三党派が分け合う。

教科書にある「農民が土地を失うことを恐れて社会主義者が大敗した四月総選挙」はこの憲法制定国民議会選挙のこと。

6月これも有名な史実だが国立作業場閉鎖の方針を知って蜂起したパリのプロレタリアートを、全権委任された行政長官カヴェニャックがラモリシエール、ブドーらと共に鎮圧した六月暴動。

カヴェニャックはこのことで「反動」のイメージが強いが、上記の通り正統王朝派でもオルレアン派でもなく、ブルジョワ共和派の属する人物であることにご注意。

11月憲法公布。

12月大統領選挙。

ルイ・ナポレオンが対立候補カヴェニャック、ルドリュ・ロラン、ラマルティーヌ、シャンガルニエらに圧倒的大差をつけて当選。

今日はここまで。

例によって続きます。

(追記:続きはこちら→フランス二月革命についてのメモ

2010年8月11日

引用文(ケナン3)

Filed under: 引用文 — 万年初心者 @ 06:00

ジョージ・ケナン『二十世紀を生きて』(同文書院インターナショナル)より。

二種類のナショナリズムへの以上の論評を終えるにあたり、私はその中には個人と集団の二種類の人間の反応も内在していたことを承知している。穏健で現実的なナショナリズムの形――それを私は正常で正統的だとし「愛国者」という言葉と結び付けたが――について書いている間、私の心中にはっきりしていたのは、単独の人間が自分の内輪の、自律的で孤独ともいえる思索の中で、自分と国の関係の問題に対決する際の考え方、ないしは少なくとも考え方の可能性というものだった。そして私が書いたことは、我々の中の大勢が、個人として、この問題に対処する仕方はかくのごときものと示唆するために着想したまでで、それは、こうした個人的思考の性格として、まったく似た思考は二つとありえず、あるはずもないとわかっていたからだ。

だが、ナショナリズムの病的、排外的形態となると、話は別だった。ここでも私は単独の人間の態様として敢えて説明を行なったが、自分が実際に心に描いていたのが集団的反応――あまた大勢の人々の共通の強迫感情――であることを私は承知していたし、その力は、本人らも自覚していたように、まさに大勢が同じ気持ちになるというところにあった。この形のナショナリズムは本質的に集団ヒステリーで、この性格がまさに力を生んだのである。「我々」は大勢だ、「我々」の考えはすべて同じだ、ということが、賛同者の心の中では「我々」はすべて正しいはずだということの、十分な証拠なのだった。こう考えてくると、個人的反応と集団的反応の対比の考察へと発展するが、両者は私が持っているといってよい哲学的態度に関係するし、いまはそれを取り上げるにふさわしい時点である。

先に見たように、よく起こることだが、大衆の反応というものが、本質的に、個人の反応を集団的な規模へと転換しようとする試みである場合には、集団版は必ず個人版の過度の単純化と俗悪化――いずれにせよ、歪曲化――となる。集団的反応は知的でなく、本質的に感情的で、寛容な感情となる時もあるが、決して考え抜かれたものではなく、最小公分母の一切の弱点を抱えざるをえない。

大衆、世間一般、人々など、何と呼ぼうと、彼らは一部の者が思ったような「大いなる野獣」ではないかもしれない。だが集団心理は、特に高揚し示威的な現われ方をする際は、個人心理よりはるかに危険な現象となる。ユーモアがなく、無反省で、他者追随に汲々とし、時に自己中心、被害妄想、手に負えない猜疑心などの症状を呈するが、これが個人の場合には本当の精神障害と思われてしまう。だがこうした極端なことにならなくても、真面目な社会的、政治的理念が集団的な理解や表現に転化すると、せいぜい本物の戯画に終わるのがおちだ。これがそもそもの原因で、私は人々が群をなして、金切り声を挙げ、スローガンを叫び、国旗を振り回し、拳を振り上げるのが大嫌いだし、それは彼らの熱狂の原因のいかんを問わない。彼らが表明しようとすることがまったく間違っているとは限らない。だが彼らがスローガンやプラカードで叫び立てていることは単純化され過ぎていて、ほとんど真面目な中身に欠けていると思ってよい。この点で私の確信は極めて強いから、この種の群衆が私自身の思想の解釈めいたものをスローガンにして叫んでいたら、私は重大な誤解と誤伝(それ以外にあり得ない)にさらされたに違いないと信じて、慄然とするだろう。

2010年8月8日

B・H・リデルハート 『第一次世界大戦  その戦略』 (原書房)

Filed under: 近現代概説 — 万年初心者 @ 06:00

同じ著者の『第二次世界大戦』(中央公論新社)の記事で触れた『第一次世界大戦』とは厚さが違い過ぎますんで、たぶん別の著作。

原題は“THE WAR IN OUTLINE”。

戦間期の1936年刊で、1939年冨山房から出た翻訳を、仮名遣いと漢字を新字体に改めて原書房が1980年に復刊、それをさらに今年新装刊したものが本書。

一年ごとに章分けして、綿密な戦史を叙述していく形式。

まず総論として、特に機関銃の発達により、当時の軍事技術では攻撃側に対する防御側の優位が揺るぎないものとなっており、そのため歩兵兵力の大きさが実際の戦力に反映せず、それを悟らなかった軍事指揮官が無意味な攻勢を採ったため、犠牲のみを大きくしたといったことが書いてある。

本文を読んでいく上で、各国の軍司令官として、フランスのジョッフル、ニヴェル、ペタン、フォッシュ、イギリスのフレンチ、ヘイグ、キッチナー、ジェリコー、ドイツの小モルトケ、ファルケンハイン、ヒンデンブルク、ルーデンドルフ、アメリカのパーシングなどの名前は頭の片隅に記憶しておいた方が良い。

以下ごく基礎的な事項のみ挙げた、簡略な年表形式のメモ。

 

 

1914

6月末  サライェヴォ事件

7月末  オーストリア、対セルビア宣戦

8月初  ドイツ、対露・対仏宣戦、ベルギー中立侵犯→イギリス、対独宣戦

8月末  タンネンベルクの戦いでドイツ軍がロシアに圧勝

9月末  マルヌの会戦  フランス軍がドイツ軍の進撃を押し止め、戦線膠着化・持久戦へ

この「マルヌの奇跡」を現出したフランス軍司令はジョッフルだが、本書ではジョッフル自身はこの時点での反撃計画に消極的だったとして、その評価は甚だ低い(というかイギリス軍含め評価の高い軍司令官などほとんどいないんですが)。

10月  トルコ、同盟側に参戦

 

 

1915

2月~  トルコ・マルモラ海のエーゲ海側入口にあるガリポリへの英軍上陸作戦失敗

5月   ルシタニア号撃沈事件

同月   イタリア、三国同盟破棄し対オーストリア宣戦

といってもイタリア軍は極めて不振で、歴史地図を見るとオーストリアにヴェネツィア近くにまで攻め込まれている。

9月   フサイン・マクマホン協定(アラブの蜂起は翌年)

10月  ブルガリアが同盟側参戦

結局、同盟国は独・墺・土・ブルガリアの四ヶ国。本書では“四国同盟”との表記あり。

ここで中小国の参戦・中立態度を整理。

バルカン諸国ではセルビアが連合(協商)国側なのは当然として、兄弟国(?)のモンテネグロも連合国側。

ブルガリアは上述の通り同盟国、ルーマニアとギリシアは連合国側。

セルビアとルーマニアは国土のほとんどが占領された状態に陥っている。

1913年独立したばかりのアルバニアは中立国の表示だが、地図を見ると領土のかなりの部分が独墺に占領されているような表示となっている。

北欧諸国のデンマーク・ノルウェー・スウェーデンは中立、フィンランドは当時ロシア領で国自体存在せず。

ベルギーは当然連合国、戦後のルール占領にフランスと共に参加したことを想起。

隣のオランダは中立、そのため戦後ヴィルヘルム2世が亡命し、連合国が引渡しを要求しても応じなかった。

イベリア半島ではスペインが中立なのに対し、ポルトガルは連合国側で参戦(ちなみにポルトガルは1910年以降フランス・スイスと並んで第一次大戦前の欧州には珍しい共和国)。

スイスはイメージ通り両大戦とも中立。

第二次大戦ではデンマーク・ノルウェー・オランダ・ベルギーはフランス攻略の露払いのような感じでドイツに撃破され、スウェーデンのみ中立、フィンランドはソ連に攻撃されたこともあって枢軸側、フランコ政権のスペインとサラザール政権のポルトガルは賢明にも中立を守り、チェコ・ユーゴ・ギリシアがドイツに占領されたのに対し、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアは同盟関係といったところはもちろん記憶。

 

 

1916

2月~12月にかけて断続的にドイツの攻勢によるヴェルダン要塞攻防戦

6月~11月には逆に英仏の攻撃によるソンムの戦い

両者とも莫大な犠牲を出しながら決定的勝利を得られず。

私はこのソンムの戦いをなぜか1917年の出来事と以前記憶していたが16年です。

6月   ユトランド沖海戦  英・独両艦隊が激突するが勝敗つかず

同月   フサイン挙兵によるアラブの反乱(しかし同年サイクス・ピコ協定)

高校教科書レベルで出てくる個々の戦いは、第二次世界大戦ではミッドウェーとスターリングラードだけですが、第一次大戦では上記マルヌ、タンネンベルク、ヴェルダン、ソンム、ユトランド沖と、こちらの数の方が多いのも何か不思議な感じがしないでもない。

11月   墺帝フランツ・ヨーゼフ1世(位1848~)死去

12月   英ロイド・ジョージ内閣

開戦時の英国政権は1908年以来のアスキス自由党内閣。

アスキス自身は指導力に乏しいパッとしない人という感じの評価らしく外相のグレーの方が有名。

この辺の記述を読んで思うのがドイツ軍の精強さ。

西部で英仏とがっぷりよつに組みながら、ロシア・イタリア戦線でオーストリアの危機を救い、劣勢を挽回。

イギリスが中立を守り、もちろんアメリカも参戦しないという条件なら、仏・露二正面作戦になっても勝ってたんじゃないかと思わせる。

無論そうしたドイツの大陸制覇を防ぐためにイギリスは参戦したんでしょうが。

 

 

1917

2月   独、無制限潜水艦戦

これに対してロイド・ジョージら英国首脳らは渋る海軍に護送船団方式を強要。

少々理解に苦しむが、それまで軍艦が商船を直接護衛するという発想は、護衛を必要とする船団の数の問題などから、全く無かったらしい。

春頃には仏軍内で抗命・反乱の動きが広がる。

この時フランス軍司令官がニヴェルからペタンに代わるが、ペタンは援護火力を重視し、犠牲のみ多い無謀な攻撃を退けることで軍内部の動揺を鎮めたとして、本書での評価はかなり高いようである。

3月   ロシア三月革命

4月   アメリカ、対独宣戦

11月  ロシア十一月革命、仏クレマンソー内閣、バルフォア宣言

 

 

1918

3月   ブレスト・リトフスク条約

これを受けて東部戦線から兵力を移動したドイツが春に西部戦線で最後の大攻勢をかける。

しかし夏には連合国軍が反攻。

11月  ドイツ革命と休戦条約調印

結局、ドイツ本国内に攻め込まれる前に休戦。

これがドイツは戦場で敗れたのではなく革命によって背後を一突きされたのだ、という「匕首伝説」を生み、それをナチスはじめ極右勢力が利用したとかいう話は教科書には出てこないが、初心者でも頭に入れておきましょう。

開戦が1914年、ヴェルサイユ条約が1919年というのは憶えている人が多いが、実際の戦闘中止をもたらした休戦条約が18年なのは要チェック。

評価は「普通」です。

初版の発行年代が発行年代ですから、言い回しが古く読みにくく感じる部分がある。

前半部分に一箇所明らかな乱丁があり、誤植も数箇所あった。

上記リデル・ハートの同名著より分量が少ないのはいいが、A・J・P・テイラー『第一次世界大戦 目で見る戦史』(新評論)より特に本書が優れているということもない。

あまり強くお勧めする気は湧いてこない本でした。

2010年8月5日

引用文(高坂正堯6)

Filed under: 引用文 — 万年初心者 @ 06:00

高坂正堯『時代の終わりのとき  続・外交感覚』(中央公論社)より。

 

 

フランス革命二百周年      (1989・7)

フランス革命から二百年を経たこの七月、パリ祭の十四日をはさんで先進国首脳会議(サミット)がおこなわれ、そこで中国における学生・市民運動に対する武力弾圧が重要なテーマとなった。私はそこに「歴史のアイロニー(皮肉)」をしみじみと感じた。

まず、フランス革命は体制(レジーム)をひっくり返したものであるのに、サミットは現在の世界の体制の管理・維持者である。その、いわば「体制側」が、二百年を経た今日では、「反体制側」の成立を祝うことができるのである。しかも、中国の天安門事件は四十年前の「反体制」が「体制側」となり、新しく出現した「反体制」を弾圧したものであって、政治の力学と歴史の歩みはまことに一筋縄ではないことを思う人は少なくないであろう。これもまた皮肉であった。

もっとも、中国の強硬派の人々は、自分たちがフランス革命と同じことをしているのだ、といえないものではない。フランス革命は「自由、博愛、平等」というすばらしい理想を掲げつつ、やがて「恐怖政治」へと堕落していった。「革命はその子をむさぼり喰う」という言葉が示すように、他人をギロチンにかけた人が、何ヵ月かすると自分がギロチンにかけられるということで、血は血を呼び、犠牲者が次々に増えていった。

それ故、フランス革命後二百年を経過する少し前から、フランス革命の意義を疑う歴史家が、むしろ多数派に近い形で現れるようになったのも不思議ではない。例えば、フランス革命は中産階級の登場を促し、民法典など新しい制度を作ったと言われるけれども、歴史をよく調べると、そうしたものは「旧体制」下ではぐくまれており、革命は流血という犠牲のわりに、それをたいして加速しなかった、といったことが認められるようになった。

より重要なことは、革命によって権力を得た人々がきわめて急速に堕落したことで、その理由は、彼らが自らを人民の代表と規定し、それ故、自分たちには権力の病は取りつかないと考えたことにある、という指摘であろう。いかに主観的に自分は権力ではないと思ったとしても、いったん権力の座に着けば、やはり権力である。「人民」を代表するというのは、したがって真実ではなく、虚偽は罪を生む。

今回の鄧小平にしても、彼は自らを「人民」の代表であると信じており――あるいはその立場に立っており――、それ故、天安門に座り込んだ学生や市民は「革命の敵」であり、「人民」の敵と決めつけることができた。だから彼の頭では、「人民解放軍」は「人民」に対して発砲したわけではないのである。ここに反省材料としてのフランス革命の意義がある。

しかもなお、フランス革命には積極的な価値がある。フランス革命は西欧の政治制度の伝統の不可欠の部分――濫用されてきたが故に誤りも多くを含みはするが――、「民主主義」と言ってよいものを代表するものなのである。だからこそ、フランスは、二百年近く前の大量虐殺の非にもかかわらず、それを誇りうるのである。その伝統のエッセンスとは、「普通の人々」が十分な数で、十分に怒るならば、それが感情的なものであり、理性的でなかったとしても――、否、それだからこそ――、政府を打倒しうるのが、善き政治体制の保証であることを承認すべきだというものである。

なぜならば、権力はどのようなものであれ、すなわち、その座に着くものが善意で、使命感にあふれていたとしても、知らず知らずのうちに「普通の人々」から離れていき、腐敗がしのび寄ってくる。それを正すのは「普通の人々」の怒りしかない。その効果がなくなるとき、専政となり、社会はやがて停滞してしまう。権力が危険性を内包するが故に、それに対する最終の制約要因は劇薬しかないのである。「普通の人々」の怒りは、怒りであるが故に、いったん力を得ると、極端にまでいってしまう。人間は怒りを正当化する存在であるが故に、そうならざるをえない。そこに、フランス革命後の「恐怖政治」が現れた。だが、怒りは「下剤」であっても、統治の原理たりえない。

だからこそ、統治の責任をになうものは、その劇薬の恐ろしさを十分に認識し、それが使われずにすむように、日々自制しなくてはならないのである。こう考えてくると、日本の政治家こそ、フランス革命二百周年の意味をよくよく考えてみなくてはならないように思われる。統治とは、深い谷間でおこなう綱渡りというところがある。その行為に対する緊張感を失うとき、統治者は堕落する。その緊張感を失いかけている政治家は、決して少なくない。私はその点を憂慮する。

私は、乏しいながらもこれまでの読書経験から、フランス革命についてこれより遥かに悪いイメージを持っていますが(プティフィス『ルイ16世』(中央公論新社)等)、高坂先生のこうした柔軟でバランスの取れた見方には深い敬意を持つものです。

2010年8月3日

イギリス東インド会社についてのメモ

Filed under: おしらせ・雑記, イギリス, インド — 万年初心者 @ 06:00

浜渦哲雄『イギリス東インド会社』(中央公論新社)の記事続き。

ベンガル・ビハール・オリッサ徴税権を手に入れたものの、統治費用の増大から東インド会社はかえって倒産の危機に陥る。

イギリス政府が支援に乗り出し、1773年ノースの規正法制定。

政府が会社の監督を強化、ベンガル総督を設置しボンベイ、マドラスの上位にあって全インドを総攬することとする。

1784年ピットのインド法でインド庁設置、会社権限をさらに縮小。

1813年東インド会社の(インドでの)貿易独占権廃止、33年中国での貿易独占も廃止、商業活動を停止(この二つは高校教科書にも載っているが、たいていインド植民史とイギリスの自由主義改革の部分に分かれて出てくる)。

軍隊について。

国王軍と会社軍の並立。

国王軍はイギリス人のみで構成、会社軍は白人兵のみの部隊もあるが、数の上では将校がイギリス人、兵士がインド人の部隊が圧倒的。

宗教・カースト・民族が違えばイギリス人の指揮下で同じインド人と戦うのもさしたる抵抗が無かったのだろうが、考えてみればイギリスが長州・薩摩人を率いて徳川幕府を倒し日本を植民地化するようなものですよね。

根本的な価値観の共有と同胞意識の涵養がいかに重要かを再認識します。

官僚制について。

ICS(インド高等文官)制度に関して、初期は会社役員の縁故採用が多かったが、のちにイギリス本国の官吏採用よりも早く公開試験制を導入したとか、そのようなことが書いてある。

末尾は簡略なインド総督列伝。

最初はまだ総督ではなくベンガル知事のクライヴ(1758~60、65~67年)から。

プラッシーの英雄、社員の綱紀粛正に取り組むが敵も多く、帰国後反ネイボップ(インド成金)感情もあって汚職と権力濫用を議会で糾弾され自殺。

ウォーレン・ヘイスティングス(1772~85年)=ベンガル知事から初代ベンガル総督に就任。マイソールのハイダル・アリ、ハイデラバードのニザーム(藩王)、マラータ諸侯の間を離間し、マイソールに攻撃集中。

チャールズ・コーンウォリス(1786~93、1805年)=第3次マイソール戦争でハイダル・アリの息子ティプ・スルタンを破る。インドに来る前は確かアメリカ独立戦争で英軍を率いて敗れているはず。

ジョン・ショア(1793~98年)=不介入政策、財政健全化。

リチャード・ウェルズリー(1798~1805年)=1799年第4次マイソール戦争に完全勝利、ティプ・スルタン敗死。ワーテルローの英雄ウェリントン公(アーサー・ウェルズリー)は弟。(ウェリントンの本名とこのベンガル総督の存在は知っていたが血縁関係自体は全然知らなかった。)

ミントー(1807~13年)=ナポレオン戦争中にジャワ占領、配下のラッフルズが1819年シンガポール建設、東南アジア英植民地の端緒を作る。

モイラ(1813~23年)=グルカ(ネパール)戦争、第3次マラータ戦争。

アマースト(1823~28年)=第1次ビルマ戦争。

ベンティンク(1828~35年)=サティ(寡婦殉死)禁止、会社の商業活動停止、ベンガル総督の名称がインド総督へ。

オークランド(1836~42年)=第1次アフガン戦争。

エレンボロー(1842~44年)=アフガン撤兵、インダス川下流シンド地方併合。

ヘンリー・ハーディング(1844~48年)=第1次シク戦争。

ダルフージ(1848~56年)=第2次シク戦争・パンジャーブ併合、第2次ビルマ戦争。

チャールズ・カニング(1856~62年)=インド大反乱、会社解散。

以上細かな年代はともかく、イギリス支配地が18世紀半ばベンガル→18世紀末南インド・マイソール、19世紀第一四半期中部インド・マラータ→19世紀半ば北西インド・シクと広がっていったことを戦争の順番と共に憶えるといいでしょう。

それほど悪いとも思わないが、かと言って特筆すべき内容があるわけでもない。

浅田實『東インド会社』(講談社現代新書)と比べると新しい知識や見解が盛り込まれてはいるんでしょうが、私のような初心者がそれを十分汲み取れるかというと心もとない。

それと、この薄さの単行本で定価2310円というのも随分高く感じる。

まあ普通ですね。

2010年8月1日

浜渦哲雄 『イギリス東インド会社  軍隊・官僚・総督』 (中央公論新社)

Filed under: イギリス, インド — 万年初心者 @ 06:00

本文200ページ足らずのごく短い本。

著者には『英国紳士の植民地統治』(中公新書)、『大英帝国インド総督列伝』(中央公論新社)などの著作有り。

後者を読もうとしてそのまま放ったらかしだった。

前書きで、これまでイギリスのインド統治は否定的に捉えられがちであったが、最近のインドの急速な経済発展とともにその遺産が再評価されているとの記述にややギョッとする人もいるかもしれないが、本文中にはそうした視点は強く浮き上がってはこない。

「インド史の最大のアイロニーに一つは、インドがイギリス政府でなく、民間人が所有する特許会社によって征服されたことである」(T・パーソン)

という記述を裏書して、その過程を辿っている。

イギリス東インド会社は1600年ちょうどという憶えやすい年代に設立。

ロンドンと東洋(アフリカ喜望峰と南米ホーン岬間)の貿易独占特許を持つ。

オランダ東インド会社が1602年、フランス東インド会社が1604年と二年刻みの設立だというのは高校世界史でも出てきます。

フランス会社が不振で即解散したのは周知ですが、航海ごとに出資・清算を繰り返していたイギリス会社もこの時期はオランダに圧倒されていた。

1623年アンボイナ事件が起こるが軍事力劣勢のためオランダへの報復を断念、東南アジアから撤退しインド進出を目指す。

インドでのイギリスの三大拠点は、名前はもちろん位置関係も高校レベルでも確実に記憶しなけりゃいけませんでしたね。

ガンジス川下流ベンガルにあるカルカッタ、東海岸コロマンデル海岸沿いのマドラス、西海岸北寄りのボンベイ。

恥を忍んで言うと、高校生の頃しばらくの間、ヴァスコ・ダ・ガマが到達した西海岸マラバール海岸沿いのカリカットと上記カルカッタを混同してました。

これに対しフランスの拠点二ヶ所も重要暗記事項。

カルカッタ近くのシャンデルナゴル、マドラス近くのポンディシェリ(「近く」といっても全インドが入る地図で見ればの話ですが)。

高校時代どっちがどっちだったかなと迷ったときには、五十音順で「シ~」が上(北)、「ポ~」が下(南)だと無理やりゴロ合わせしてました。

イギリスの最初の拠点はボンベイのさらに北にあるスーラトと、マドラスよりかなり北のマスリパタム。

それぞれ1613年、1611年に商館建設(前者には異説があるらしい)。

ムガル朝はアクバルが1605年死去、ジャハンギール帝時代(~27年)。

マスリパタムの商館建設に許可を出したのはゴールコンダ王国という地方のイスラム政権。

この王国は後にアウラングゼーブ帝に滅ぼされる。

スーラト進出後、先行していたポルトガルとの衝突が起こる。

ムガル帝国はその最盛期においても海軍は弱体で、この時期アラビア海の制海権はポルトガルに握られ、メッカ巡礼や紅海貿易にはポルトガルの許可証が必要だったと書かれてある。

数度の戦闘と交渉の後、イギリスが制海権把握。

1640年マドラスに要塞建設、1661年チャールズ2世がポルトガル王室キャサリンと結婚、その婚資としてボンベイ獲得。

1664・70年マラータのシヴァージーがスーラトを襲撃、大きな被害が出ると、英国の西海岸の拠点はボンベイへ移る。

進出が遅れていたベンガルにも1697年カルカッタに商館兼要塞を建設。

フランスは1664年コルベールが東インド会社を復興させた後、イギリス嫌いのアウラングゼーブ帝の支援を得てシャンデルナゴル、ポンディシェリに拠点獲得。

18世紀初頭アウラングゼーブ死後、ムガル帝国は分裂・崩壊、群雄割拠の状態となりここから東インド会社の領土的拡大が始まる。

高校時代から思ってましたが、このムガル朝分裂の急激さは一種異様とも感じます。

古代以来の最大版図からあまりに極端な転落は世界史上極めて例が少ないような・・・・・・。

何か理由があるんでしょうか?

英仏が南インドで衝突、オーストリア継承戦争、七年戦争と連動して1744~63年三次に亘るカーナティック戦争。

インド植民地化の過程で起こった戦争は第○次と付くものが非常に多く、それがややこしいんですが、とりあえずは細部はパスしますか。

ムガル朝から事実上独立していたベンガル太守がイギリスと対立、太守に妥協的姿勢をとったフランスと連携、1757年有名なプラッシーの戦いが起こる。

ロバート・クライヴ指揮の英軍が太守・仏連合軍を破り、インド植民地化の基点となった戦いだが、その規模は極めて小さく小競り合い程度。

兵力こそ英側3000、太守側5万を動員しているが、戦死者が英側7人、太守側16人と書かれているのを見ると、「ホントかよ???」と目を疑ってしまう。

上記アンボイナ事件と並んで、実際の規模と後世の影響とが著しく乖離した出来事と言えるのかもしれない。

1758年クライヴがベンガル知事に就任。

クライヴが一時帰国中、イギリスが立てたベンガル太守が反抗、ムガル朝および隣国アワド国王と同盟、1764年バクサルの戦いで三者連合が英軍に敗北。

ヨーロッパの軍事的優勢をまざまざと示したものとしては、プラッシーよりもこのバクサルの戦いの方が重要だと、中公世界史全集の『ムガル帝国から英領インドへ』では書いてあった。

インドに戻ったクライヴの交渉を経て、65年ベンガルとそれぞれ北西と南西に隣接するビハール、オリッサの徴税権を獲得、実質領土化。

ベンガル獲得がプラッシー戦の直後ではなくワンクッション置いていることは頭の片隅に入れておいた方が良い。

この短い本で複数記事を書くとは思ってませんでしたが、終わらないので続きます。

(追記:続きはこちら→イギリス東インド会社についてのメモ

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