万年初心者のための世界史ブックガイド

2010年6月28日

塚本哲也 『メッテルニヒ  危機と混迷を乗り切った保守政治家』 (文芸春秋)

Filed under: ドイツ — 万年初心者 @ 06:00

高校世界史レベルでも「何となくイメージの悪い人」というのはいるものです。

ヒトラーは完全な別格ですが、ネロ帝やジョン王などがまずそうでしょう。

次に「傾国の君主」といった感のある、徽宗、ジェームズ2世、アウラングゼーブ、ヴィルヘルム2世辺りが来ますか。

君主以外では袁世凱、フランコ、フーヴァー、ネヴィル・チェンバレン等々・・・・・・。

本書の主人公メッテルニヒも教科書の記述からくるイメージは決して良好なものではない。

フランス革命の理念に背を向け、言論の自由と諸民族のナショナリズムを圧殺し、貴族的秩序を無理やり再興した保守反動の抑圧政治家、というのが通り相場でしょう。

しかし、虚心坦懐にメッテルニヒ以後の歴史を眺めてみると、近代技術と結合した野放図なナショナリズムが人類史上最悪の大戦争を引き起こし、煽動された民衆の暴走が左右の全体主義を生み出し、その抑圧は君主政や貴族政下では考えられなかったほど悲惨なものとなったわけで、単に「歴史の進歩に逆らった反動」と片付けられないものがある。

そもそも反動的ウィーン体制の「抑圧」と言っても、20世紀の全体主義体制下の強制収容所と大量虐殺に比べれば、率直に言って桁違いに軽いものと言わざるを得ない。

メッテルニヒに対してどちらかと言えば否定的評価を下している、ゴーロ・マン『近代ドイツ史』(みすず書房)でも、悪名高き1819年の「カールスバートの決議」について以下のように書かれている。

この決議の主な点は次の通りだった。国家に対する破壊活動を調査するため委員会を設立し、その調査の結果を、各国は、自己の判断に従って活用する。新学生組合を解散し、大学を政治的に監視する。二〇折より以下のあらゆる印刷物に事前検閲を行ない、これを統制する。こんな措置が陰惨な専制主義だとみられた時代は、なんと幸福で、悪意がなかったかと、またも言いたくなる。・・・・・現在“全体主義的”と呼ばれている権力をうちたてるためには、狂信的な意志と信念を持たねばならないが、メッテルニヒとその仲間たちは、これがなかった。

(ただし、上記「・・・・・」で省略した部分では、「だが、各時代は、それぞれ固有な尺度ではかられなければならない。十九世紀初頭が、ヨーロッパ、アメリカなど至る所で目指していたものは、政治的問題の自由討議を含む市民的自由であった。だから、この意図を圧殺しようと試みた人は、時代精神に対して罪を犯した。」とも書かれてある。)

「絶対王政」よりも、しばしばそれを倒した市民革命後の国家の方が余程「絶対的」であった(ジャン・クリスチャン・プティフィス『ルイ16世 下』引用文(坂井榮八郎2))。

ヨーロッパ的自由の伝統と全く無縁な専制主義として嫌悪と恐怖の的だったロシアのツァーリズムですら、ボリシェヴィキの独裁に比べれば遥かに犠牲者の少ないものだったことについては、『共産主義黒書 ソ連篇』参照。

またメッテルニヒが対峙したフランス革命がもたらした被害について、本書ではルネ・セディヨ『フランス革命の代償』から以下の文章を引用している。

「大革命期と(ナポレオン)帝政期の人的損失をもういちど足し算してみよう。1800年までの戦争における死者が40万人、ナポレオン戦争で100万人、内乱で60万人、念のためつけ加えるならさらに断頭台での死者もいる。総計200万人が死んだのである」

著者はメッテルニヒのプラス面とマイナス面を冷静に比較考量して、バランスの取れた評価を下しながら、その生涯を詳しく叙述している。

メッテルニヒは、1773年ライン河沿いの街コブレンツで生まれる。

フランス革命勃発時にはストラスブール大学に在学中、当地で革命暴動を目撃し深い嫌悪の情を抱く。

「私はちょうど、自らを民衆と呼ぶ無知な人びとに囲まれて、ストラスブール市庁舎の焼き打ちを目撃してきたところであった。これは、錯乱状態の下層民が犯した文物破壊(ヴァンダリズム)の蛮行であったが、その連中もまた自ら民衆と称していた」(『メッテルニヒの回想録』

「このジャコバン党員の説く教義と民衆的情熱への呼びかけは、私に一種の嫌悪感を覚えさせた。この気持ちは、私が年をとり経験を積むに従って、ますます増大するばかりであった。私は、たとえ自分がもっとも賤しい地位にあったとしても、またいかなる時代においてであろうと、私と同時代の人びとがあのように多く陥った誘惑に影響されることはけっしてなかっただろうと確信している。・・・・・」

ただし同時に亡命してきたフランス貴族の腐敗と堕落にも気付き、そこに革命の一因を見出している。

父に従って神聖ローマ帝国に仕え、1794年にはイギリスに渡り、エドマンド・バークと直接会談(これは知らなかった)。

かつて「外交革命」を主導した宰相カウニッツの孫娘と結婚、1801年外交官となり、1809年外相となる。

教科書ではウィーン会議のところで初登場だが、実質この時期からオーストリア外交の指導者。

1799年ブリュメール18日のクーデタから1815年ワーテルローの戦いまでのナポレオン時代は、一年ごとに何があったのかを把握しておいた方が良い。

年表を見ると、重要事件や大きな戦いが無かったのは1811年くらい。

ハプスブルク皇女マリー・ルイーゼ(マリ・ルイーズ)とナポレオンの結婚を容認。

ロシア遠征失敗後、武装中立の姿勢のまま和平を提案するが、ナポレオンが拒否すると対仏同盟に加わり、これを打倒。

ウィーン会議では勢力均衡の観点からロシアの過度の進出を警戒、フランスへの懲罰的措置を回避し、英仏墺の連携を作り上げ、ポーランド全土を要求するロシアと同様にザクセン全ての併合を求めるプロイセンに対抗、結果露・普両国はそれぞれ一部のみの領有に留まる。

結局、第一次大戦勃発まで、百年続くヨーロッパの平和の基礎を築くことに成功。

1822年良き協力者であったイギリス外相カースルリー(カッスルリー)が自殺、後任は自由主義的なカニングで、ギリシアとラテンアメリカの独立運動が高まる最中、英国との齟齬が大きくなる。

ここで皇帝名のチェック。

1790年代表的啓蒙専制君主ヨーゼフ2世死去、弟のレオポルド2世即位(この両者はマリー・アントワネットの兄)。

わずか二年でレオポルドが死去、1792年子のフランツ2世即位。

1806年神聖ローマ帝国滅亡、フランツ2世はオーストリア皇帝フランツ1世に。

メッテルニヒ時代の大部分はこのフランツ1世の治世で、1835年子のフェルディナント1世が継ぎ、1848年革命で退位、甥のフランツ・ヨーゼフ1世が若干18歳で即位。

このフランツ・ヨーゼフ1世が実に在位68年を数え第一次世界大戦中の1916年まで帝位にあり、実質的には最後の皇帝。

フランツ・ヨーゼフ1世の兄弟が銃殺されたメキシコ皇帝マクシミリアン、甥がサラエヴォ事件で暗殺された皇太子フランツ・フェルディナンド、最後の皇帝カール1世は別の甥の息子。

オーストリア帝国を名乗った時点で皇帝名の○世の部分がリセットされ、以上しか皇帝がいないのだから、考えてみるといちいち○○1世と付けなくてもいいのか。

本書でも「フランツ皇帝」というような言い方がほとんどである。

後半部の章で面白いのは、メッテルニヒ体制の「抑圧」を象徴する検閲制度と、ナポレオン没落後のマリ・ルイーズとその子ナポレオン2世(元のローマ王、後にライヒシュタット公)の生涯を描いた部分。

前者について書くと、20世紀以降の全体主義体制に比べればその検閲はザルに等しいものだったことが述べられ、以下のような文章が引用されている。

さらに歴史家アラン・スケッドは書いている。

「検閲制度について指摘すべき第二の点は、この制度がある程度まで支持されていたことである。言いかえれば、検閲は一切廃止すべきだ、という意見を支持する人はおそらくほとんどいなかっただろう。宗教的感情からこうした検閲廃止論はなじまなかったし、慣習からいってもそうだった。・・・・・1845年に検閲制度に反対する請願がメッテルニヒに提出され、当時の主要作家29人の署名が添えられていたが、彼らが要求したのは検閲の即時廃止ではなく、ただ検閲法規の緩和だけだったのだ。

それどころか検閲官の給料アップと環境改善が要求としてあげられている。判断を下すべき原稿に気分よく臨むだけでなく、もっと時間をかけ神経を注ぐことができるようにという思惑である。またそうすれば、検閲官が原稿について当の作家ときちんと話し合う時間もできるだろう、という読みもあった」

そして、当時ワイマル公国にいたゲーテがカールスバートの決議を支持していたことが記される。

「・・・・・彼が多数決原理を認めていなかったことは前にも書いたが、とりわけ『出版の自由』には反対であった。『言論の自由を叫ぶ者は、それを濫用しようとする者にほかならない』(『箴言と省察』)。・・・・・ゲーテの方は『出版の自由』(プレス・フライハイト)は『出版の厚顔』(プレス・フレヒハイト)だなどといい出している」(『ゲーテとその時代』坂井栄八郎)。

著者はさまざまな要素を考慮し、この点についてメッテルニヒを一方的に非難することはしていない。

しかしどの途避けがたい時代の趨勢を押し止めようとするだけで、イギリスに見られたようにそれを善導し、少しでも害の無いものにしていく努力を放棄していたとして、総合的には上記ゴーロ・マンと同じく、メッテルニヒに批判的な態度を示している。

それはそれで一つの立派な見識だと思うが、しかし、「現代は当時と比べ、教育も普及し、識字率も高く、社会常識も広まり、民主主義の理念が浸透し、批判精神も旺盛で社会を混乱させるような過激な言論はまずありえない。」という著者の言葉はあまりに楽観が過ぎるように思われる(ホイジンガなどを読んだだけでも)。

個人的には、言論の自由というものが、どんな状況下でも、どんな主題についても、どんなレベルにおいても、発言者がどのような資質の持ち主であろうとも、どんな弊害や副作用があろうとも、絶対的に擁護されるべき究極の価値だとは、率直に言って全く思わないので(マイケル・オークショット『政治における合理主義』等参照)、少なくとも当時においてのメッテルニヒへ批判は当たらないように感じるし、さらに言えば「本当は今もそうした自由の制限が必要な場合が多々あるんじゃないんですかあ」と思うだけ。

1848年革命によって退陣、イギリスに亡命、1859年イタリア統一戦争中、ソルフェリーノにおけるオーストリア敗戦の報を聞きつつ86歳で死去。

結構面白い。

ご病気で半身麻痺の状態で執筆されているという著者に対して非常に失礼ですが、文体はあまり流暢とは言えない気がします(「そもそもお前が言うな」と言われるでしょうが)。

しかし読みやすい文章であることは間違いなく、平易で堅実な印象を与える記述で、一章の分量も適切。

本書と『エリザベート』および『マリー・ルイーゼ 上・下』(文春文庫)を合わせて「ハプスブルク三部作」としているが、『マリー・ルイーゼ』は本書と完全な同時代に属する本なので、とりあえず『エリザベート』と本書を読むだけでいいんじゃないでしょうか。

以上記事中にリンクした以外の関連書としては、高坂正堯『古典外交の成熟と崩壊』を絶対必読本として挙げておきます。

なお、本書でもゴーロ・マン『近代ドイツ史』がしばしば引用されていますが、この本は本当に素晴らしい。

初読よりも再読、再々読の方が印象が良くなった。

歴史叙述というものの一つの完成形態といっても過言ではない。

たまに本棚から取り出して眺めると止まらなくなる。

このブログで取り上げた全ての本の中で、間違いなくベスト10に入る。

高坂先生の本と並んで是非お勧めします。

みすず書房様、何とか復刊してもらえませんか。

この本が新刊で手に入らないのは、岩波文庫のトゥキュディデス『戦史』ホイジンガ『朝の影のなかに』、ゴーロ・マンの父が書いたトーマス・マン『非政治的人間の考察』と同じく、ほとんど文化的醜聞に等しいと思う。

「いま社会は新しい階級によって危機にさらされている。新しい階級―それは王室、貴族と庶民の間にある中産階級、ブルジョワジーである。主に文学者、会計士、法律家、弁護士、役人、先生、教授などで、彼等は何世紀の間培われてきた人間の尊厳と忠誠を、いま言論の自由というむちを使って破壊しようとしている。彼等は合法的な方法でその欲求を実現しようとしているが、我々はこのような動きに屈服してはならない」

「アメリカが短い間にあれだけの発展をしたのは、民主主義のおかげであろう。しかしヨーロッパには合わない。デモクラシーは人々を離間し、人々の敵対心を煽り、競争によって人々の間を疎外させてしまう。王朝だけが人々を一体化させ、人々をまとめ、効果を発揮するようにできる。また最高度の文化と文明をもたらすことができる」

トクヴィルが民主主義について語っていることも知っている。民主主義はもっとも古くもっとも単純で、もっとも複雑な政治制度であるといっているようだ。アメリカはこれからも民主主義を続け、さらに続けていくだろう。しかしそれは何時、どのようにして終わるのだろうか。それは静かな成熟した形で終わることはできないだろう」

広告

WordPress.com で無料サイトやブログを作成.

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。