万年初心者のための世界史ブックガイド

2010年6月19日

ウィリアム・コーンハウザー 『大衆社会の政治』 (東京創元社)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 06:00

書名はかなり前から知っていたものの、なかなか手に取る機会が無く、読むことのなかった本書だが、たまたま古書店で見かけて、結構安かったので買ってみた。

1959年に出た大衆社会論の本。

まず冒頭で、これまでの大衆社会論を貴族主義的大衆批判と民主主義的大衆批判とに分ける。

貴族主義的大衆批判者はエリートの排他性・隔離性の喪失とその地位を大衆が簒奪することによる社会の文化的政治的劣化を非難する。

挙げられている代表者はブルクハルトル・ボンオルテガなど(バークもそうか)。

それに対し、民主主義的大衆批判者は社会の平等化それ自体は問題視せず、国家と個人の間にある中間組織が崩壊して民衆が原子化・孤立化し、極めて煽動に弱く操作されやすくなることを指摘する。

代表者はレーデラー、ハンナ・アレント(加えて、『自由からの逃走』の著者フロムなども含むか。なおレーデラーは上記リンク先記事では貴族主義的批判に近い面も持っているように思えた)。

トクヴィルは両方の面を持っているとされる。)

著者はこの双方の認識が共に重要であり、それぞれ補完し合うことが必要だとしている。

簡単に言うと、前者はエリートへの接近可能性を批判し、後者は非エリートの操縦可能性を問題視する。

本書では、この二つの基準の強弱で社会を四つの種類に分類している。

まず支配層が世襲原理や身分制によって確固とした状態に保護・隔離され、同時に民衆が身分・宗教組織・地域社会・各種組合によって固く拘束され、集団煽動に乗せられにくい社会がある(この場合エリートへの接近可能性および非エリートの操縦可能性ともに小)。

基本的に前近代の社会がこれに属するが、著者はこれを「共同体的社会」と呼ぶ。

「進歩」への可能性は乏しいが、一番安定していて最も危険の少ない社会でもある。

近代以降、民主化が徐々に進展し、多くの民衆が政治に参加するようになるが、国家以外の様々な中間団体が勢力を均衡させながら存在し、民衆がその団体に属することによって欲求や価値観を自制しているのが「多元的社会」であり、著者はこれを最も望ましい社会と考えている模様(ここではエリートへの接近可能性大、非エリートの操縦可能性小)。

しかし、民衆が原子化・孤立化すると極めて情緒的で煽動に乗ぜられやすくなり、ここにエリートへの接近可能性・非エリートの操縦可能性ともに大となる「大衆社会」が成立する。

そこでは暗示やプロパガンダで煽動されたことを自らの意志や選択だと信じ込んだ大衆が中間組織による媒介や干渉も無しに、無分別な要求や感情を直接的に社会の指導層にぶつける(その際大衆煽動に利用されるイデオロギーや宣伝文句の左右を問わない)。

同じくエリートへの接近可能性が大だと言っても、多元的社会の民衆の政治参加が定期的な選挙など厳格なルールに則った間接的なものなのに対し、大衆社会では暴力・脅迫・誹謗中傷・示威行動などしばしば無規則・非常識なものとなる(今で言えば、本来複雑な問題について、回答者の資質を問わずに単純な世論調査の結果を絶対視することなどもそうか)。

当然、このような社会は極めて不安定で、政治的経済的危機に対しては著しく脆弱である。

様々な大衆運動が惹起し、社会が混乱を極める中、それを利用して大衆志向的な全体主義エリートが台頭し、遂には彼らが社会全体を転覆、既存のエリートを追放・抹殺し、支配権を手中に収める。

こうして成立した「全体主義社会」はエリートへの接近可能性は小、非エリートの操縦可能性は大である。

ここでは国家に抵抗力を持つ中間団体はすでに消滅しており、統制の容易な、バラバラに孤立した個人しか存在しない。

全体主義エリートはイデオロギー闘争や対外戦争などの緊張状態に大衆を置いて、自発的組織を発達させる隙を与えないようにするだけで、全能の支配権を振るうことができ、社会は国家権力に押し潰され、いかなる制約要因も持たない最悪の独裁制が誕生する。

近代以降の歴史はまさに以上の通り進行したように思える。

人間の平等という概念が独裁や全体主義に対する防壁になるのではなく、多数決原理を梃子にして、むしろその勝利の前提条件となってしまうパラドクスを明解に説明している。

本書では続けて、以上四つの社会類型における文化や個人的パーソナリティの分類、階級社会論との関わり、欧米諸国の具体的大衆運動の検証などが記されている。

あと、大衆行動の特性として、疎外感や不平不満を持った人間が、個人的経験や日常生活から遠く隔たった問題に自立性・現実感・責任を欠く形で直接的情緒的に関わることだ、などと書かれていて、ああ自分もこういう傾向があるなあ、私も間違いなく「大衆」だなあと反省させられた。

非常に良い。

近現代の世界史を見る基本的視座を提供してくれる本。

著者がアメリカ人ということもあって、叙述がやや民主主義的大衆批判に傾きがちであるのが気になったり、オルテガなどは精神主義的大衆批判とでも言うべきではないかとの批判も別の本で読んだこともあるが、やはり必読書と言える。

しかし、これが新刊ルートで手に入らないのは極めて遺憾。

中公文庫か講談社学術文庫、ちくま学芸文庫のどれかに収録されて常時在庫されるべき本。

なんとかしてもらえませんかね・・・・・。

[以下引用、一部変更有り]

「社会の諸条件が平等である国におけるほど、絶対的な独裁政治を打ち建てるのに容易なところはない、と私は思う。さらにもしこのような政治が、いったんそのような国民の間に確立したならば、その政治は人々を抑圧するだけでなく、ついには各人から人間としての最高の品位をいくつか奪い去ってしまうだろう、と私は考える。」[トクヴィル]

「大衆が指導者に圧力をかけうるあいだは、もろもろの価値は次から次へと犠牲に供されねばならない。地位、財産、宗教、すぐれた伝統、高い学殖などの価値が。」[ブルクハルト]

「ニーチェの予言したごとく、民主主義的な平等の権利が普及すれば、お互い平等に、権利を気やすく蹂躙できるようになる。」[Viereck]

「これまで文明というものは、小数の知的貴族階級によって創造され、導かれてきたのであって、けっして群集によっておこなわれたのではない。群集が力を示すのは破壊においてだけである。」[ル・ボン]

「保守的傾向をもった人たちの大きな誤りの一つは、真の共同体への欲求をかれらがなおざりにしてきたことだと思う。」[Kirk]

「第一次世界大戦いらい、ほとんどすべての西欧諸国が深刻な困難に直面してきているが、スカンジナビア、オランダ、イギリス連邦の立憲君主国家のほうが、フランス、ドイツ、スペイン、イタリアなどの共和国よりも辛抱づよく、自由の秩序を守りとおすことにかけて、より大きな能力のあることを示したことは、意味深長なことと私は考える。少なくとも示唆的であることはたしかである。・・・・・はかりがたい権力の雲散霧消、集会と大衆的有権者への完全な依存、これらが国家の二つの機能の間に成り立っていた力のバランスを破ってしまった。執行部は物質的ならびに精神的権力の両方を失ってしまった。集会と大衆的有権者が有効な権力を独占してしまった。」[リップマン。ただしコーンハウザーはこの文章を貴族主義的批判に傾きすぎた例として引用している。]

「ヨーロッパの民主化は同時に独裁者を育てあげる意図せざる準備である」[ニーチェ]

貴族主義的批評家も民主主義的批評家もともに認めていることは、大衆社会は伝統的な独裁形態に対してよりも、全体主義に対して脆弱だということである。ナチズムと共産主義とが台頭するずっと以前に、ドゥ・トックヴィルは大衆社会のもつ著るしい脆弱さを指摘していた。かれは次のように記している。

現在民主国家を脅かしている圧迫は、世界にかつて存在したいかなる圧迫とも異なったものだと私は考える。・・・・・それについて私が抱いた思想を、遺漏なく正確に伝えうる表現を私はさがすのだが、うまくみつからない。独裁主義(デスポティズム)、僭主制度(ティラニイ)といった昔からの言葉も適切でない。事柄自体が新しいのである。

大衆社会を論じた最近の一批評家は次のように記した。すなわち現代の全体主義は「民衆の熱狂の上に築かれた独裁であり、その意味で、神権を享受した王や、成り上がりの僭主によって行使された絶対権力とはまったく異なるものだ」と(Talmon)。特にレーデラーとアレントとの二人は、大衆社会が全体主義に脅かされていることを強調した。かれらの主張によれば、大衆社会は自由主義的支配形態だけでなく、真に権威主義的な支配形態の発展をも阻止する。なぜならば制度としての権威主義は、たとえ中央集権化されたものであっても、その権力には限度があるからである。

民主主義に敵対的な大衆運動は、民主主義に敵対する伝統的な運動からも、きっぱり区別されねばならない。すべて反民主的なイデオロギーが、大衆志向的なものだとはかぎらない。君主制政党――たとえばイタリアのP・N・M[全国王党]――は大衆運動ではない。ナチ以前のドイツ保守党のように、ヨーロッパの貴族主義的政党も大方、大衆志向的なものではない。主として上流階級によるこの種の民主主義への抵抗は、イタリアにおけるファシズム、ドイツにおけるナチズムおよび所を選ばず活動している共産主義運動などに要約される反民主的大衆運動とは大変異なったものである。これらの大衆運動に特徴的なことは、民主的制度や制度的自由に対する人民主義的な攻撃にある。それらは真底から革命的である。なぜならば、貴族的ないし神権的な支配のある形態を復活させようとするのではなく、政治権力に課せられるあらゆる制度的制約を撤廃しようとするものだからである。

共同体や団体の衰微は、大衆運動が権力に課せられる制度的拘束を打破し、権力の在り方を変革する絶好のチャンスとなる。そんなわけで、全体主義は大衆の支持を土台とした独裁であり、かつ集権化した組織のエリート支配を土台としたものであるが、その著るしい特徴は、それが断えざる動員状態におかれている大衆運動であり、生活の全領域を支配しようとするものだということである。全体主義的独裁は、伝来の法律や規範(伝統的権威主義はこれによって拘束される)によっても、さらには統治機能の限界(古代の僭主制にはこれがある)によっても制約を受けない全体的支配をめざすものである。なぜならば、全体主義的独裁は国家と社会のけじめを認めないからである。全体主義に課せられる唯一の拘束は、大多数の民衆を、エリートによって統制された不断の活動状態に配置しておかねばならないことだけである。

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