万年初心者のための世界史ブックガイド

2010年6月3日

プラトン 『国家 下』 (ワイド版岩波文庫)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 06:00

上巻に続けて取り組む。

哲学無用論と偽哲学者への批判、哲人統治者のための教育プログラム、善のイデアに関する「太陽の比喩」と有名な「洞窟の比喩」、と来て、続いて国家の諸形態を論ずる部分が出てくる。

哲人王が統治する理想国家としての優秀者支配制が、名誉支配制(スパルタなど)→寡頭制(金権・富者支配制)→民主制→僭主独裁制という順に堕落していく有様が述べられる。

本書では、この国制に関する部分が一番面白かった。

以後、詩・演劇に対する批判・告発があり、最後に現世と死後における正義の報酬を述べて大団円を迎える。

この下巻も、途中かなりサボった日もあったにも関わらず、一週間弱で読めた。

非常に良い。

内容的には、現在の社会で理想とされる自由民主主義とは適合しない叙述が多い。

しかし、ある人が言っていたように、そもそも政治哲学が民主主義批判と共に始まったことの意味を深く考えさせられる。

私でも楽に通読できたのだから、騙されたと思って皆様も手に取ってみて下さい。

これだけの古典だけあって、読み終えた後、非常な充実感がある。

どう考えても以下引用文中の「巨大な動物」の一員でしかありえない私としては、一瞬だけ自分自身を反省する気持ちになります。

文字通り「一瞬」だけで、次の瞬間には普段通り何も考えない状態に戻るのが私の限界ですが。

政治哲学の古典中の古典として、やはり一度は通読しておいていいんじゃないでしょうか。

是非お勧め致します。

 

 

「彼ら大衆が国民議会だとか、法廷だとか、劇場だとか、陣営だとか、あるいはその他、何らかの公に催される多数者の集会において、大勢いっしょに腰をおろし、大騒ぎをしながら、そこで言われたり行われたりすることを、あるいは賞賛し、あるいは非難する――どちらの場合も、叫んだり手を叩いたりしながら、極端な仕方でね。さらに彼ら自身に加えて、岩々や彼らのいる場所までが、その音声を反響して、非難と賞賛の騒ぎを倍の大きさにするのだ。

このような状況のただなかにあって、若者は、諺にも言うように、『いったいどのような心臓(こころ)になる』と思うかね?個人的に受けたどのような教育が、彼のために抵抗してくれると思うかね?そんな教育などは、このような非難・賞賛の洪水のために、ひとたまりもなく呑みこまれて、その流れのままにどこへでも流されて行ってしまうとは思わないかね?そしてその若者は、彼ら群衆が美しいと主張するものをそのまま美しいと主張し、醜いと主張するものをそのまま醜いと主張するようになり、彼らが行なうとおりのことを自分の仕事とするようになり、かくて彼らと同じような人間となるのではなかろうか?」

「そうです、ソクラテス」とアデイマントスは答えた、「それはまったく避けられないことです」

 

 

 

「例の、賃銭をもらって個人的に教えるほうの連中、――この連中のことをしも、彼ら大衆はソフィストと呼んで、自分たちの競争相手と考えているのだが、そのひとりひとりが実際に教えている内容はといえば、まさにさっき話したような、そういう大衆自身の集合に際して形づくられる多数者の通念以外の何ものでもなく、それが、このソフィストたちが『知恵』と称するところのものにほかならない、ということだ。

それはたとえば、人が、ある巨大で力の強い動物を飼育しながら、そのさまざまの気質や欲望について、よくのみこむ場合のようなものだ。この動物にはどのようにして近寄り、どのようにして触れなければならないか。どういうときにいちばん荒々しく、あるいはおとなしくなり、何が原因でそうなるのか。どういう場合にそれぞれの声を発する習性があるか。逆に、こちらからどういう声をかけてやれば、おだやかになったり、猛り立ったりするか、等々。

こういったすべてのことを、長いあいだいっしょにいて経験を積んだおかげで、よくのみこんでしまうと、彼はこれを『知恵』と呼び、ひとつの技術のかたちにまとめ上げたうえで、それを教えることへと向かうのだ。その動物が考えたり欲したりする、そういったさまざまのもののうち、何が<美>であり<醜>であるか、何が<善>であり<悪>であるか、何が<正>であり<不正>であるかについて、真実には何ひとつ知りもせずにね。こうした呼び方のすべてを、彼はその巨大な動物の考えに合わせて用いるのだ。つまり、その動物が喜ぶものを『善いもの』と呼び、その動物が嫌うものを『悪いもの』と呼んで、ほかにはそれらについて何ひとつ根拠をもっていない。要するに、必要やむをえざるものを『正しい事柄』と呼び『美しい事柄』と呼んでいるだけのことであって、そういう<必要なもの>と<善いもの>とでは、その本性が真にどれほど異なっているかについては、自分でも見きわめたことがないし、他人にも教え示すことができないのだ。

――さあ、教育者がこのようなありさまだとしたら、ゼウスに誓って、まことに奇妙な教育者だとは思わないかね?」

「ええ、たしかに」と彼。

「それでは、種々雑多な人々の集まりからなる群衆の気質や好みをよく心得ていることをもって、<知恵>であると考えている者――それは絵画の場合でも、音楽の場合でも、それからむろん政治の場合でもそうだが――そういう者は、いま述べたような動物飼育者とくらべて、いささかでも違うところがあると思うかね?実際、もし誰かがそういう群衆とつき合って、自分の詩その他の製作品や、国のための政策などを披露し、その際必要以上に自分を多数者の権威にゆだねるならば、そのような人は、何でも多数者がほめるとおりのことを為さざるをえないのは、まさに世に言うところの『ディオメデス的強制(必然)』だろうからね。けれども、その多数者がほめることが、ほんとうに善いことであり美しいことであるという理由づけの議論となると、君はこれまでそういう連中のうちの誰かから、噴飯ものでないような議論を聞いたことがあるかね?」

「いいえ」と彼は言った、「将来も聞くことはないだろうと思います」

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