万年初心者のための世界史ブックガイド

2010年5月27日

引用文(西部邁5)

Filed under: 引用文 — 万年初心者 @ 06:00

西部邁『大衆への反逆』(文芸春秋) 「ハイエクの激しさ」より。

それにしても、今ある巨大な経済学者の集団とは、理性の濫用を宗として科学主義の傲慢を発揮しつづけてきた技術者・科学者の集団のことなのであるが、そういう経済学の最後の支えが、自らにたいする最も手強い批判者であるハイエクに求められているというのは、いったいどうしたことなのか。そのカラクリは自由のイデオロギーにある。近代の経済学は、つまるところ、市場的自由のイデオロギーを水面下に隠しもつ技術知の浮島である。そのイデオロギーのための哲学と理論と説得術とを有しているのはハイエクである。社会を「主観的意味の宇宙」とみなすハイエクにあっても、自由のイデオロギーだけは、解釈されるべきものというよりもむしろ、経済学の生命線を維持するための究極のクレドなのである。この信仰箇条を共有する限り、科学主義者も反共・自由の協会の準会員ぐらいにはなりうるわけである。

「自分の仕事をそれ自体完結したものとみる技術者の見解を多かれ少なかれ幻想とみなすことが大切である」とハイエクはいう。「かれ(技術者)は自分には無意味と思える膨大な事柄に注意を払う必要性にたいし腹を立てる」と技術者を揶揄しもする。しかし真に冷酷な理論家ならば、そして真正の自由主義者ならば、自由の名において創造された事柄の負の側面にもっと注意を払う理論を、そしてそういう理論をつくるための認識の自由を、もつべきではないのか。自由がその反対物たる抑圧を産み落とすのは、可能どころか現実ではないか。英国の経験論が産み出した最も上質な政治思想は、いわゆる積極的自由にたいする懐疑としての保守主義だったのではないのか。自由の発揚がなにか善き事態を結果するであろうという進歩主義にたいする懐疑はとうぜん市場的自由にもむけられなければならない。その懐疑を避けようとすれば、民衆の自由を手放しで賛美するという大衆迎合に陥るほかない。しかもおそらく、舞台裏では、冷酷な理論家として、中央ヨーロッパ人にいかにもふさわしく、冷ややかな孤独の牢獄の中で大衆蔑視の思想を傲岸に鍛えながらである。このようなかれにおける憂鬱質の欠如を私はあまり好まない。

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