万年初心者のための世界史ブックガイド

2010年5月25日

引用文(西部邁4)

Filed under: 引用文 — 万年初心者 @ 06:00

西部邁『大衆への反逆』(文芸春秋) ミルトン・フリードマン『選択の自由』書評より。

フリードマンは嘆く。「人びとは、強力な政府が自由にとってどんなに危険な存在かということを忘れてしまった。それどころか、“もしも政府の権力が『正しい』手にあれば”という条件つきではあったが、強い政府によってだけ達成できる良いことに心を奪われてしまうことになった」と。私も一緒に大衆の無知を嘆いたって構わない。しかし、そんなふうに大事なことを忘却し、危険な短絡を犯すのが大衆というものだとしたら、大衆の自発的に営む市場行動の成果をなぜ手放しで楽観できるのか。ケインズが大衆を騙かしたのだとしても、そう易々と騙されるのが大衆の社会ならば、市場の中心にもしケインズのような利口者が出てきたら、いったいどうするのか。

・・・・・「自由市場体制とより広い社会的・文化的諸目標の追求との間には、どんな矛盾も存在していない。また、自由市場体制と不幸な人への同情との間にも何の矛盾もない」などと極楽トンボでおられるためには、完全無欠な合理的人間を仮想しなければなるまい。再び問い質したい。そんな完全無欠な人々がなにゆえかくも巨大かつ危険な政府を容認したのかと。

・・・・・スミスは「公平で事情に通じた観察者の同感」が社会に安定性を与えるだろうと展望したのであるが、事態はスミスの思ったようにはうまく進まなかった。・・・・・自分たちこそ公平な観察者だとまかり出てくる社会主義的あるいはケインズ主義的な計画者たちの傲慢はすでに明瞭である。しかしだからといって、大衆をジュピターの地位に祭り上げるわけにはいかない。そんなふうにいうのは「利害関係がからんだ詭弁」というものであろう。「能力に応じて開かれている人生」を私も歓迎するが、いったい私のどんな能力がと、大衆人たる私は自問しないわけにはいかない。かりに自己懐疑の能力を失った人間を大衆人とよぶのなら、私は大衆人でありたくない。そしてフリードマンの言辞にはたしかに大衆社会のノーベル賞にふさわしく懐疑のかけらも見られないのである。

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