万年初心者のための世界史ブックガイド

2010年5月4日

引用文(佐伯啓思1)

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佐伯啓思 三浦雅士 『資本主義はニヒリズムか』(新書館)より。

・・・・「科学」は、本来、合理的な推論と事実のみにかかわる。価値判断は行わない。合理主義と科学主義の制覇した現代社会では、「価値」は表立っては語られない。それは個人の主観の領域への体よく追いやられ、社会から価値ははく奪(deprived)され私事化(privatize)された。この価値はく奪と私事化を促進したものが近代の「自由」の観念であり、今日、いわゆるリベラリズムと称される思想的立場なのであった。今日のリベラリズムの最大の特徴は、「何が善いか」「どのように生きるか」といったことは、個人の価値の選択にすぎず、問題にすべきではない、という点にある。

だが、本当にそんなことは可能なのだろうか。実際、人は、いっさいの価値も価値判断もなく生活することはできない。そこでどうなるか。われわれの時代は、「科学」を至高の「価値」にしたのである。思想的には「リベラリズム」を至高の価値とみなしたのである。

「科学」が「哲学」をのっとり、合理性そのものを、事実上、価値とみなした。ここに現代の「科学主義」「技術主義」という似非価値が出現する。古典的な(アリストテレス的な意味での)政治哲学が崩壊した後に、科学や実証主義と手を結んだリベラリズムが政治哲学を自称するようになる。

いうまでもなく、これらは本質的な意味では「価値」ではない。本質的な意味とは、この場合、人間の生の意義や、人格や倫理、社会の「善」にかかわる、という意味である。「善」とは何かを明示的には定義できないにせよ、「善」とは何かという問いを内に秘めている、ということである。

しかし、「科学主義」も「技術主義」も「リベラリズム」も、その意味ではもはや価値にはかかわらない。「善」とは何か、と問いかけることを排除したわけである。もともとは科学も技術も自由も、人々が幸福をえるための条件にほかならない。「条件」は「目的」を必要とする。「幸福とは何か」という問いかけがあり、判断がなければならない。この判断を放棄もしくは喪失したとき、「条件」そのものが価値を僭称することになる。かくて、現代文明の核には、ある虚偽が埋め込まれたことになるだろう。いってみれば、「神」を殺しておいて殺したものが「神」の振りをして鎮座するという虚偽である。高度な価値を崩落させた後に、その価値に仕えたはずの実証主義者や科学者が自らを価値として特権化したからだ。・・・・・

今日の自由社会の政治は、社会に「意味」を与えることが大変難しくなっている。「自由な社会」とは、特定の価値を与えることのできない社会とみなされているからだ。全体社会というものに「意味」を与えることはできない。「意味」とは、繰り返すが、あるパースペクティブを選び取ること、価値選択の決断だからである。しかし、各個人の自由な価値選択を基底にすえる自由社会の政治は、特定の価値選択をほとんど放棄することになる。

このような自由社会では、シュトラウスのいうように、「哲学」と「科学」が分離し、事実上、哲学者は追放され、科学者(専門家)のみが生き残るからである。ここでは「いかに生きるべきか」「いかなる社会が望ましいか」という「善」にかかわる「哲学の問い」は放棄され、いかに効率的・合理的に物事を達成するかという「科学的・技術的な回答」だけが要求されるのだ。「哲学の問い」を放棄したとき、政治は価値選択の決断が不可能になる。政治は自らの役割を放棄する。こうして、社会の向う方向を決める舵手の役割を、政治は、市場に委ねたのであった。そしてそれを「小さな政府」とか「官から民へ」とか「国家の退場」などと称したのであった。

これはニヒリズムの典型というほかない。まさに、われわれの眼前で展開された金融市場の大混乱に始まった経済危機は、現代社会のニヒリズムの様相を浮かびかがらせた。しかし、そうだとすれば、これはまた金融市場の一時的失調などというものではない。政治・経済・社会の全般を覆う「無・意味化」であり、景気が回復しようがしまいが、そのこととは関係なく「現代社会の全般的危機」というべき事態というほかないであろう。

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