万年初心者のための世界史ブックガイド

2010年4月29日

引用文(ポラニー2)

Filed under: 引用文 — 万年初心者 @ 06:00

カール・ポラニー『大転換』(東洋経済新報社)より。

ファシズムによる自由の完全な破棄は、実際のところ自由主義哲学の必然的な結果である。自由主義哲学は、権力と強制は悪であり、自由には人間社会における権力と強制の消滅が必要であると主張する。しかしこのようなことは不可能であり、複合社会においてこれは明白となる。自由主義哲学のような立場をとれば、次の二つの選択肢しかなくなる。すなわち、幻想にすぎない自由の観念を固守して社会の現実を否定するか、あるいは社会の現実を受け入れて自由の観念を拒絶するかである。前者は自由主義者の結論であり、後者はファシストの結論であった。これ以外の選択肢はないように見える。

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このディレンマの根本にあるのは、明らかに自由の意味それ自体をめぐる問題である。自由主義経済はわれわれの理想を誤った方向に導いた。それは、本質的にユートピア的な期待が実現できるかのように思わせたのである。しかしいかなる社会も、権力と強制がなければ存在できないし、力が威力を発揮しないような世界もありえない。人間の意志と希望だけで形成された社会を想定することは幻想であった。ところがこれが、経済を契約的関係と、そして契約的関係を自由と同一視した市場的な社会観の結果であった。こうした社会観から、人間社会において個人の自由意志から生み出されなかったものはなく、したがって再び個人の自由意志によって取り除けないものはないという、根本的な誤解が生じたのであある。

洞察は、市場によって限定を受けた。市場は生活を、自己の製品が市場に到達したときに終了する生産者部門と、自分のためのすべての商品が市場から生じる消費者部門に「分断」した。一方は、自分の所得を市場から「自由に」引き出し、他方はそれを市場で「自由に」使った。全体としての社会は、目に入らぬままであった。国家権力は何の重要性ももたなかった。というのは、国家権力が小さければ小さいほど、市場メカニズムは円滑に機能するからである。有権者にも資産所有者にも、生産者にも消費者にも、失業や貧困にともなって発生する容赦ない自由の制限の責任を負わせることはできなかった。普通の人間なら誰でも、自分が個人的に拒んだ国家による強制行為や、個人的に恩恵をこうむることのなかった社会における経済的な苦難について、自分はまったく責任を問われることはないと考えることができた。自分は、「一人でやってきた」し、「誰にも迷惑をかけてもいない」のであり、権力と経済的価値決定の悪に巻き込まれなかった。それらについて自分に責任がないことは明白である。したがって彼は、自己の自由の名において権力と経済的価値決定が生み出した現実を否定したのだった。

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