万年初心者のための世界史ブックガイド

2010年4月19日

引用文(伊藤之雄2)

Filed under: 引用文 — 万年初心者 @ 06:00

伊藤之雄『伊藤博文』(講談社)408ページより。

都合よく、非常に適切にまとまった文章なので、少々長いが以下にメモ。

すでに述べたように、大久保利通が暗殺された後の1878年から第二次伊藤内閣が倒れる1896年まで、伊藤は伊藤体制を維持し、政府を主導し、「憲法政治」(立憲政治)を定着させていった。それが可能であったのは、(1)明治天皇の信任を得、薩摩系の有力者とすら協調できる明朗な人柄、(2)英語力や中国・日本の古典などに裏付けられた法律や経済・歴史などに対する深い洞察力と西欧の規範への理解、(3)現実主義の立場から内政や外交を処理する実務能力と、「剛凌強直」な性格による政治への決断力、などがあったからだった。

ところが、わずか五ヵ月半で第三次伊藤内閣が倒れたように、伊藤体制は明らかに機能していない。20年近くも続いた伊藤体制が凋落したのは、なぜだろうか。

それは第一に、政党が台頭したからである。

伊藤の目指す「憲法政治」(立憲政治)とは、より多くの国民に教育を普及させ、国民の自覚を促し、少しずつ国民の政治参加を拡大することである。その結果、政府(行政府)と議会(立法府)とが、合理的な議論を積み重ね、自覚した幅広い国民の意思を反映した国策の決定ができる、と伊藤は考える。これが、伊藤の理想とする政府と議会の調和した体制である。これは、国力を強めるための源泉となるのみならず、日本が「文明国」であるとの実績を列強に誇示でき、条約改正などの外交交渉にも役立つ、と伊藤は考えた。

初期議会以来、伊藤は日本の政党の状況に不満を持っていたが、右の目的のため、政党(議会)側と妥協し、その要求もできる限り受け入れようとした。また、政府が暴力的に政党を抑圧しようとするのを阻止した。

このため、政党が着実に力をつけ、日清戦争後には、自由党、次いで進歩党が政府与党となり、それぞれ板垣退助や大隈重信の入閣を実現し、党員を高級官僚に就官させた。自信をつけた自由・進歩の二大政党は、藩閥政府と提携する見返り条件をさらに膨張させ、伊藤の統制から離れていった。

伊藤の腹心だった陸奥宗光が、伊藤から精神的に離れ始めたのも、陸奥の病気の進行に加え、政党が台頭したことが大きい。

伊藤体制が凋落した第二の理由は、政党の台頭への対応をめぐって藩閥内で意見の対立が生じ、各勢力が自立し始めたことである。

その最も大きなできごとは、日清戦争後に、山県有朋を盟主とする山県系官僚閥が形成されたことである。

1880年代まで、山県は同じ長州の伊藤や井上馨に支えられて、薩摩の大山巌と連携して陸軍を統制し、近代化を図った。しかし、山県の狙いは、専門家集団としての陸軍が、なるべく政府から干渉されない形で自立することだった。陸軍は、日清戦争に勝つことで威信を高めて自立を強め、日清戦争後は伊藤ですら人事等の重要事項に関与できなくなっていった。

また、初期議会以降に藩閥政府と政党が対立した際に、伊藤が政党に融和的な姿勢を見せたことも、山県系官僚閥の形成を促進した。1892年の第二回総選挙における品川内相の選挙干渉問題や、日清戦争後の第二次伊藤内閣と自由党の接近によって、内務官僚は山県の下に結集するようになった。

それのみならず、薩摩系も伊藤から離れていくようになった。

伊藤が品川内相の選挙干渉をとがめて、薩摩系閣僚の多い松方正義内閣を倒したことで、松方など薩摩系の有力者は、伊藤と冷ややかな関係になっていった。たとえば、それまで松方は、薩摩出身ながら「伊藤味噌」と言われるほど、伊藤に従っていた。ところが、第一次内閣を倒されて以降、伊藤からの自立を強め、第二次伊藤内閣でも、財政上の意見の違いで、わずか五ヶ月余り蔵相を務めただけで辞任した。その後、大隈重信と連携し、伊藤の再度の入閣要請に応じず、松隈内閣として第二次松方内閣を作った。

また、大久保亡き後、薩摩の最有力者であった黒田清隆とも、伊藤は比較的良好な関係にあった。しかし、1889年に伊藤が大隈条約改正を中止させるため、黒田内閣を倒すことになって以降、伊藤と黒田はしっくりいかなくなった。また黒田は政党に対して元来否定的な感情を持っていた。そのことにも関連し、伊藤が影響力を及ぼせる薩摩系有力者は、海軍の長老西郷従道ぐらいしかいなくなった。

盟友井上馨も、伊藤に自分の主張を強く述べて通そうとするという意味で、伊藤からの自立を始めた。第三次伊藤内閣への入閣に際しても、1898年1月、井上は伊藤と対立し、伊藤が山県有朋に助力を求める手紙を書くほどであった・・・・。井上は、蔵相として副総理格で入閣したが、かつて板垣が不正事件で井上を失脚させようとして以来、板垣とは不仲であった。同年四月にはその感情をむき出しにし、板垣が入閣するなら蔵相を辞任する決意すら示した・・・・。

この頃までに藩閥の有力者は、ほとんど組閣を経験している。まだ組閣したことがないのは、兄の西郷隆盛に関する責任から組閣を辞退し続けている西郷従道を除けば、井上馨だけだった。年齢を考えると、井上もそろそろ組閣したいと願うようになった。重要閣僚であっても、伊藤を助けるためのみに入閣することに、以前のように張り合いを感じられなくなったのである。

以上のように、伊藤の権力、すなわち伊藤体制は衰えていたにもかかわらず、伊藤はそのことを十分に自覚せず、第三次伊藤内閣ではかなり強引な政権運営を行おうとした。これが伊藤体制の凋落をさらに早めることになる。

・・・・・・・

いずれにしても、伊藤体制が凋落した状況では、伊藤が藩閥勢力に立脚しながら政党をも従えて「憲法政治」の定着を図ることは困難になる。「憲法政治」の定着のためには、政党創立を土台作りからやる必要がある。伊藤がこのような考えを持つようになるには、もう少し時間が必要だった。

以上の文章の意味が、内閣の成立順と年代を思い浮かべながら理解できれば、本書の内容の重要部分は咀嚼できたと言っていいんじゃないでしょうか。

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