万年初心者のための世界史ブックガイド

2010年4月14日

伊藤之雄 『伊藤博文  近代日本を創った男』 (講談社)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 06:00

半年ほど前に出た伝記。

同じ著者の『山県有朋』(文春新書)も長かったが、これも分厚い。

単行本で600ページ近くにもなる。

副題の通り、近代日本で最重要・最優秀の政治家の伝記だから、やむを得ないとも思うが、やはり通読には相当骨が折れる。

途中でかなりダレ気味になり、10日ほどかけてようやく読み終えた。

上記『山県・・・・』の記事でもやったので、この際明治政治史の総まとめのつもりで内容をメモしようかなと思ったのですが、あまりに面倒臭いのでとりあえず1885年初代総理大臣に就任するまでの最初の部分だけ。

伊藤博文は長州藩の農民、林家の子として1841年に生れる。

幼名は利助(のちに利介・利輔)。

父親が跡継ぎのいない足軽の伊藤家の養子となり、自身も伊藤姓を名乗るようになる。

以後、幕末の活動については軽く流す。

この辺、歴史小説などで好きな人は多いんでしょうが、私はあまり興味が持てません。

吉田松陰、木戸孝允に見出され、後に最も親密な盟友となる井上馨と出会ったことだけチェック。

明治前半の歴史も苦手です。

1868年明治に入ってからは、この記事で書いたように、1873年明治六年政変、1877年明治十年西南戦争(と翌78年大久保利通暗殺)、1881年明治十四年政変の三つの区切りを念頭に置き、それぞれの間に何が起こったのかを把握しましょう。

まず明治初年においては木戸孝允の下にあって、大隈重信と共に急進的な近代化路線を主唱する新進大蔵官僚として出発。

大蔵卿の大久保利通とは対立していたが、1871年岩倉遣外使節団に同行することで大久保と意気投合し、逆に木戸との仲が微妙になる。

帰国後、1873年明治六年の政変では岩倉具視と連携して征韓論を押し止める。

この間、1871年廃藩置県、73年地租改正・徴兵令という大改革有り。

74年台湾出兵、民撰議院設立の建白書、佐賀の乱、75年台湾出兵に反対して下野していた木戸が大阪会議後復帰、立憲政体樹立の詔、讒謗律と新聞紙条例。

初期の外交では71年日清修好条規、72年琉球藩設置、75年江華島事件と日朝修好条規、樺太・千島交換条約、76年寺島宗則外務卿の条約改正交渉、79年沖縄県設置(琉球処分)。

大久保亡き後、政府の中心になり、1881年急進的国会開設論の大隈と激しく対立し、政府外に追放(明治十四年の政変)。

1882年憲法調査のため訪欧。

民権派はイギリス的な議会制憲法を制定すれば良いとし、政府内では逆にドイツ的な君権の強い憲法を作れば良いとする井上毅(こわし)らの法務官僚がいた。

その双方と異なり、伊藤は単なる外国の模倣ではオスマン朝のミドハト憲法のように必ず行き詰る、日本の伝統に合った調停的君主としての天皇を中心とした憲法を作成し、それが与野党の妥協と慣習的議会運営ルールの定着によって、着実に運営されることが何より重要だと考えた。

著者はこうした伊藤の姿勢を高く評価している。

1882年朝鮮で壬午軍乱、84年甲申事変、85年天津条約。

これにより開国後日本と接近していた閔氏政権は清国寄りに。

甲申事変と同年に清仏戦争が起こっているが、同じ「日清戦争の十年前」の事件でも、清はヴェトナムでは宗主権を失っているが、朝鮮では日本を押さえ込んでいることにご注意。

1885年内閣制度樹立、伊藤が初代首相に就任。

疲れるので、メモするのはここまでにします。

以後は、とにかく首相の名と任期を丸暗記。

普通教科書でバラバラに出てくる政権移動・自由民権運動・国会開設過程・政党結成・法典整備・外交交渉・条約改正交渉・対外戦争などをとにかく内閣在任期間で横にぶった切って、どの内閣時代に何があったのかを憶える。

この時期、明治政府内では伊藤派と山県派と薩摩派(黒田清隆・松方正義・西郷従道・大山巖ら)、政党勢力では板垣の自由党、大隈の改進党が存在。

憲法制定と国会開設後は、政党勢力に連なる陸奥宗光、星亨、西園寺公望、原敬らとも協力し、幾たびかあった憲法停止の危機を乗り切る。

これら政治的プレイヤーの連携・離反の過程を、本文を読みながらしっかり把握するようにしましょう。

他には、1895年閔妃暗殺事件の概要、日露戦争前に伊藤が推進した「満韓交換論」と「日露協商」路線への評価、1905年ポーツマス条約と第2次日韓協約後の統監としての対韓方針などの叙述が興味深かった。

閔妃暗殺については計画・実行は現地日本大使館の仕業であり、伊藤を含む日本の中央政府指導者の承認があったとする、最近の韓国での学説が史料を踏まえて具体的に批判されている。

日英同盟と日露戦争が近代日本における最も輝かしいサクセス・ストーリーと見做されているせいで、伊藤が強くこだわった「日露協商」路線はえてして非現実的で危険な一時凌ぎの策と評価されがちだが、当時のロシアの政策決定にはぶれがあり「満韓交換論」にも可能性があったこと、一度日露間の妥協が成立した場合、ヨーロッパでドイツと、中央アジアでイギリスとの対立関係を抱えたロシアが協定を破って再南下する可能性は低かったことが述べられ、伊藤の交渉が決して当を失したものではなかったと著者は書いている。

また当初韓国併合慎重論だった伊藤が容認に転じるが、それは植民地議会開設と一定限度の自治を前提にしたものであったと書かれている。

なお私生活でよく話題に上る「好色」だが、確かに外で子供をつくったとかいう記述がよく出てきて「お盛んですなあ」という印象を受けるが、岩倉具視の娘を強姦したなんて滅茶苦茶な話は反対派が流した悪質なデマだと強く否定されている。

悪くはないが、やはり長すぎる。

伝記を書こうとすれば、明治全史を語らざるを得ない超重要人物であるから、無理な注文なのかもしれないが、もう少しコンパクトにまとめられないものかなあと思ってしまった。

だが、註で他の本の様々な説を検討して穏当な結論を出そうとしているところなどは面白い。

まあ一度気合を入れて、本文を読みながら教科書や年表を確認して明治史を復習するのもいいのかもしれない。

以上、いつにも増して変な記事になってますが、この本は初心者でも何とか読めます。

叙述形式自体はオーソドックスだし、じっくり取り組む価値のある本だと思います。

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