万年初心者のための世界史ブックガイド

2010年3月31日

引用文(西部邁3)

Filed under: 引用文 — 万年初心者 @ 06:00

西部邁『焚書坑儒のすすめ エコノミストの恣意を思惟して』(ミネルヴァ書房)より。

経済学は、「選択の機会」が大切であると主張し、「機会の平等」(equal opportunity)を最大限に強調します。ところが、この機会という言葉自体が大変やっかいなものなのです。マルクスがかつていったことですが、「人間は可能なことのみを為す」のです。教育が受けられずに、健康を保障されずに、財産の相続も受けずに、社会環境上の安全も保障されないとしたら、その人のopportunityが形式的に他人のと同じく平等に開かれていたとしても、実際上の選択肢には入ってきません。

機会の平等と結果の平等を二分してはならない、ということを再確認しておかなければなりません。もちろん、「結果の平等」(equal result)を過剰に推し進めれば、悪平等、画一主義、均一主義、平均主義になるでしょう。しかし逆に、機会の形式的な平等であれば、それはうわべだけのことであって、選択の自由とはいえない。実質と形式のあいだにある程度の補強関係がなければ、平等とはいえません。経済学のように「機会の平等」を形式的に貫いているだけでは、人びとの選択行為について、何の評価もできないはずなのです。それなのに、「市場は諸個人の自由選択の結果を社会的に調整している」というふうに市場を礼賛するエコノミストが跡を絶ちません。そんなばかげたイデオロギーが経済学の似非倫理と張り合わされているのです。

実質を伴った平等を実現するにはどうすればいいのか。community(共同体)およびsociety(社会体)におけるさまざまな秩序の体制を整えなければならない。その体制を守るのは、自由・権利ではなく、責任・義務の倫理です。経済学においては「法の下での平等」という秩序観しかないようです。しかし、法律の形成・解釈・運用が平等かどうか、経済学では問われません。その平等の基準は、共同体の維持と社会体の安定という歴史的方向に求めざるをえないはずなのです。

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