万年初心者のための世界史ブックガイド

2010年3月26日

荒井一博 『自由だけではなぜいけないのか  経済学を考え直す』(講談社選書メチエ)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 06:00

09年10月刊。

新自由主義的な市場観・社会観に対する批判として非常に面白かった。

「個人の独立性という虚構」、「法化社会で自己利益を追求する個人という虚構」、「高能力を持つ合理的な個人という虚構」、「情報の非対称性」、「取引費用と契約の不完備性」、「個人の好みを絶対視する風潮」などの項目で、新自由主義とその基盤をなす新古典派経済学のパラダイムを徹底的に批判し、素人でもその欠陥がよくわかるように説いてくれている。

著者は、経済学を専門的に学んだことのない一般読者にも理解してもらえるように書いたとしているが、それは十二分に達成されている。

読み出したら止まらなくなり、一気に読めた。

ネットワークと社会関係資本という概念を論じ、社会の構成員間の信頼とそれを生み出す文化の重要性を著者は強調している。

個人的には本書の主張ほぼ全てに賛成。

非常に面白く有益な本なので、是非お読みになることをお勧めします。

人間は組織や社会を形成して生きざるをえない動物です。そのため、公共心や利他心が希薄になれば、法の力に頼ってその行動を強くコントロールする必要が生じます。また、他者に配慮することのない人間からなる社会の中で発生する争いは、法に基づき裁判で解決されることになります。「法化社会」の出現です。

今日の日本が法化社会に近づいていることは、さまざまな面に現れています。・・・・・「個人は法と契約を遵守するという条件の下で自己利益を追求する」と新古典派経済学が想定していることを先に指摘しましたが、法化社会の出現はまさに新古典派の浸透にふさわしい現象です。

「人間が守るべきルールは法律などにすべて明文化し、厳格に遵守させればよいのであって、法化社会のどこが悪いのか」と主張する人たちもいるはずです。特に法律関係の職業に就いている人たちには、そのような考え方をしている人が多いと推察されます。また、その主張に違和感を抱いている多数の人も、明確に反論できないかもしれません。そのため、ここでその誤りを明らかにしておきましょう。

法律万能の社会で争いや個人間のトラブルが生じたら、裁判によって解決することになります。しかし、個人が裁判を利用すると多額の費用を負担しなければなりません。弁護士費用や自分の時間的・心理的費用などです(これらは後に検討する取引費用の例です)。普通のトラブルでも最低数十万円の費用がかかるでしょう。自分では正しいことをしたと信じていても、裁判に負ける可能性(経済学的には「危険」)も低くありません。そのため、裁判によってよほど大きな利益が得られると期待されなければ、裁判は実際に利用されません。法による不正の抑止や紛争解決には限界があるのです。

これに関して恐ろしいのは、私が「司法のパラドックス」と呼んでいる現象です。すべての争いは法に基づいて解決されるべきであるという社会通念が形成されると、裁判に訴えられない行為はすべて正当であるとみなされるようになります。すると、右記の裁判費用を下回る被害を生み出す不正は、実行しても訴えられないので正当とみなされ、日常的に発生するようになります。裁判に訴えられないと踏んで、他者に積極的に害悪を与えて自己利益を得る合理的個人が多くなるからです。

法は社会の公正と秩序を達成するために作られるはずですが、規範として法のみが社会を支配する法化社会では、裁判費用の存在のためにかえって不正や混乱が多くなってしまいます。不正抑止を目的とした法・司法制度の充実や法重視の風潮が、不正を生みだすというパラドックスです。これを「第一の司法のパラドックス」と呼ぶことにしましょう。

以上の議論に依拠すると、裁判費用を上回る被害ならば法が抑止してくれそうだと期待できますが、裁判自体が確実に事実を反映した判決をする保証はありません。使える証拠が不十分であったり、裁判の相手が辣腕弁護士を雇ったり、裁判官が有能でなかったり私情を入れたりなどして、不当な判決のなされることも少なくありません。

さらに人間がとりうるすべての行動を予想して十分に詳細な法を整備することはできないという「法の不完備性」の問題があります。どんな悪事も、これに関する法の規定がなければ罰することはできません。そのため、新古典派経済学の浸透によって私利追求と法重視の風潮が強まると、法の網の目を抜ける悪事が多発するだけでなく、悪事を合法だとうそぶいて平然を決め込む人間が増えます。

私利追求と法重視の風潮が法の不完備性を利用した悪事を増大させることを、「第二の司法のパラドックス」と呼ぶことにしましょう。法が万能視されるほど、その網の目を抜けることは正当である、また勝手に信頼し騙されるのが悪いということが平然と主張されるようになります。ここにも、法律万能論のような単純で極端なイデオロギーの恐ろしさが見られます。付言すれば、今日のように変化の激しい時代では、将来起こりうるすべての場合を想定して十分に詳細な法律を作ることがとりわけ困難です。そうした場合は無数に存在するからです。

注意すべきは、法の完備性を高めようとすると、恐ろしく非効率的な社会が出現する可能性があることです。詳細な法を制定して、それに関連するすべての条件を確認しながら複雑な人間関係を維持することはきわめて非効率だからです。そのため現実社会では、多くの場合に他者に対する期待(信頼)に基づいて人間関係を維持せざるをえません。法の完備性を高めて、組織内の人間関係や教師と生徒の関係などを細かくコントロールすることはできないのです。そのために、例えば一方が情報操作(隠蔽工作も含む)をすることによって、容易に他方を騙せる場合も生じます。職場や学校や親族などの信頼重視が当然視される人間関係では、騙しが特に容易に実行できるのです。

法化社会を維持するためには多大な費用がかかることも重大な問題です。これは法重視を唱える人たちが見逃しがちな点でもあります。公的部門としては、各種の監視・警察活動の展開・裁判所の運営・刑罰の執行などのために税金を使わなければなりません。さらに個々人も、裁判を行なうときだけでなく、つね日ごろから弁護士と相談しながら自分の行動を決める必要が生じ、法に関係する費用がかさむようになります。このように、法によって社会(市場を含む)を維持するためには多大な費用がかかります。しかし、新古典派経済学のパラダイムでは、そうした維持費用は無視されていて一切存在しません。そうした歪んだ社会観が法化社会の利点を強調するために利用されているのです。

さらに個人の名誉や他者に対する配慮に価値を置かず、すべての人間関係を法で割り切る法化社会では、人間同士の連帯や友愛が生れません。表面的には連帯や友愛が存在するかのように振る舞う人間も、他者を金銭的に利用していることがそのうちに見抜かれて、人間関係は解消してしまうはずです。法化社会は、こうしたことが頻繁に起こる離合集散の激しい人間関係の社会です。日本はこのような社会になりつつあります。

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