万年初心者のための世界史ブックガイド

2010年3月20日

フランソワ・ポンショー 『カンボジア・ゼロ年』 (連合出版)

Filed under: 東南アジア — 万年初心者 @ 06:00

1975年成立したポル・ポト政権下のカンボジアの実態に迫った著名なルポ。

著者はカンボジアに10年滞在したフランス人カトリック神父。

ポル・ポト政権がまだ存続していた1977年に原著が出て、翻訳は79年、それから20年後の昨年新版が刊行されている。

『共産主義黒書 コミンテルン・アジア篇』の記事で触れた、本多勝一『検証カンボジア大虐殺』(朝日文庫)を読んだ時から、その存在は知っていたはず。

カンボジア現代史の概観を得るためには、冨山泰『カンボジア戦記』(中公新書)ミルトン・オズボーン『シハヌーク』(岩波書店)を参照。

本文に入る前にまず、国名と民族名の確認。

現在ほとんど聞かなくなったが、この時代「カンボジア」以外にも国号として「カンプチア」が用いられていた。

(三文字目が潰れていて区別がつかないでしょうが、カンプチア「pu」です。)

ポル・ポト政権時代に「民主カンプチア」を自称していた。

「ニホン」と「ニッポン」のようなものか?

他に国号・民族名としてカンボジアをクメールと呼ぶことがある。

1975年4月、クメール・ルージュ(カンボジアの共産勢力)がプノンペンに入城しロン・ノル政権を打倒した時、著者はシアヌーク時代とロン・ノル時代の腐敗と圧制を知るが故に、むしろこれを好意的に眺めていたという。

しかし、その直後からプノンペンなど全ての都市からの住民の強制退去が始まる。

病人・老人・子供・女性を含め、一切の容赦無く、極めて性急かつ過酷に行われた農村への強制移住で多くの犠牲者が出る。

それを目撃して出国した後も、著者は国外に脱出した難民への詳細な聞き取り調査から、農村での極めて劣悪な強制労働、旧政権関係者への徹底した粛清、宗教の全面的禁止と僧侶への弾圧、オンカー(革命組織)への絶対的忠誠を強要する徹底した住民統制など、異常な原始共産主義政策とそれがもたらした100万人以上の犠牲者について述べている。

第10章「革命までの三十年」および第13章「どこへ行くカンプチア」は、政治史の流れを概観している章なので、ここは他の章と違い、固有名詞に注意して読み進むのが良い。

後にクメール・ルージュの中心となったポル・ポト(本名サロト・サル)、イエン・サリ、キュー・サンパン、フー・ユン、フー・ニムなどは全てフランス留学生。

帰国当初、前二者がシアヌークを打倒の対象とする強硬派、後三者がシアヌークとの協力を排除しない穏健派(1960年代の一時期入閣していたこともある)。

63年イエン・サリ(とポル・ポトも?)が地下活動に入る。

以下の文章を読むと、こういう好人物であっても政権を掌握した後したことを考えると、イデオロギー狂信の恐ろしさや、単純な理屈で人間社会を把握しようとすることの危険を思い知らされる。

笑顔を絶やさず、人当たりの柔らかいイエン・サリは、最貧層の学生から自分の授業に対する月謝を受けとろうとはしなかった。彼はチャムカーモンに近い家に住み、自転車で通っていた。イエン・サリは謙虚で客扱いのいい人物だったから、学生たちは彼の家を訪ね、講義について助けを求めることができた。「先生、生徒であっても、我々はみな平等なのだ。社会的階級などはない」と彼はよく口にしていたものである。時々彼は君主制に強い不満を表わしていた。それは人々を奴隷におとしめたものだった。彼は「アンコールワット建造で、どれだけの人命が失われたのか」と叫び、王たちへの軽蔑をあらわにしていたという。彼はまたフランス語で書かれた中国に関する本を持っており、読みたい人には誰にでも貸していた。

66年当局の腐敗と対応のまずさから、西部サムロートで大規模な農民反乱。

67年フー・ユン、フー・ニム、キュー・サンパンが政府と訣別、地下活動へ。

同時期北東部少数民族も反乱を起こし、北ヴェトナムとヴェトコンに協力。

シアヌークは東部国境地域における北ヴェトナム・ヴェトコンの活動を黙認していたが、68年テト攻勢以後、迷いを生じる。

北ヴェトナムから距離を置くようになり、米軍のカンボジア領内ヴェトコン基地爆撃を表向き非難しつつも実際は黙認。

しかし、ここでより思い切った措置を取ろうとする右派のロン・ノル首相と対立、クーデタが起こり、シアヌークは追放。

シアヌークはクメール・ルージュと共闘、ヴェトコン・北ヴェトナム軍に加え一時米軍も介入し、国内は大混乱の渦に。

シアヌークが共産勢力の表看板なので、右派のロン・ノル政権が「クメール共和国」を自称しているのに対し、クメール・ルージュが「カンプチア王国民族連合政府」を名乗るという奇怪な状況。

結局上述の通り、1975年4月プノンペン陥落、ロン・ノル政権崩壊、ポル・ポト政権成立。

この75年には南ヴェトナムが崩壊し、ラオスでもパテト・ラオが政権を奪取して、インドシナ三国が全て共産化したというのは基本事項なので、もちろん憶える。

76年シアヌーク派が消滅、77年にはキュー・サンパンを除く元「穏健派」のフー・ニム、フー・ユンらが失脚、北ヴェトナムとの関係が濃い親越派の「クメール・ヴェトミン」も排除・抹殺され、同年ポル・ポトはカンプチア共産党を正式に名乗り、自派の完全な独裁を固める。

中ソ対立の中、ソ連がヴェトナムの後ろ盾となり、カンボジアを中国が支援。

本書の範囲外だが、ますます統一ヴェトナムとの対立を深めるカンボジアに、1978年末ヴェトナム軍が進攻、翌79年1月プノンペン陥落、親越派のヘン・サムリン政権樹立(その後を継いだのが現首相のフン・セン)。

これはあまりにあからさまな主権侵犯で、ヴェトナムのインドシナ覇権への野望も指摘され、統一後のヴェトナム自身、南部で相当抑圧的政策を取っていたことも事実なので、西側諸国(と中国)から非難されたが、ポル・ポト体制の残虐行為があまりに桁違いなので、公平に見て、この軍事行動にも効用が間違いなくあったと見なさざるを得ない。

ちなみにこの1979年は実に多くの事件があった年で、まず中東でイラン革命が起こり、現代史上初のイスラム原理主義政権が生れ、第2次石油危機が世界を揺さぶる。

イラクではサダム・フセイン政権成立(翌80年からイラン・イラク戦争)、ソ連がアフガニスタンに侵攻、米ソ冷戦は最終対決期を迎え、同年締結されたばかりのSALTⅡ(戦略兵器制限条約)は事実上破棄される。

サダト大統領の見事なリーダーシップでエジプト・イスラエル平和条約が結ばれるが中東和平はそれ以上の広がりを見せず。

アメリカの「裏庭」ではニカラグア革命が起こり、キューバ革命以来の親マルクス主義的政権が誕生して緊張が高まり、アメリカは同国右派勢力「コントラ」を支援。

キッシンジャー訪中から8年、ニクソン訪中から7年を経て米国・中国間の国交が正式に樹立、対ソ戦略上の協力関係が進展。

イギリスではサッチャー保守党政権成立、社会民主主義的福祉国家の見直しを進め、81年レーガン政権、82年中曽根政権、コール政権など先進各国で80年代に生れた右派政権の嚆矢となる(フランスだけは81年よりミッテラン社会党政権。ただし後に経済政策は右寄りとなる)。

そしてヴェトナム軍のカンボジア占領、それに対して「懲罰」と称して中国軍がヴェトナム国境地域に侵攻(中越戦争)。

以上ほぼ全て、高校教科書範囲内なので要記憶。

ヴェトナムに対し、シアヌーク派、ポル・ポト派、ソン・サン派の三派連合が対抗し内戦が続くが、1991年パリ和平協定と翌年国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)下の総選挙で国内統一、ポル・ポト派は参加せずタイ国境地帯で一定の勢力を保持していたが、1998年ポル・ポト死亡後、消滅。

タリバン、アルカイダなんてものが出てくる前は、ポル・ポト派は北朝鮮およびリビアと並んで不気味な勢力だった記憶があるんですが、結局さしたる混乱もなく消え去ってくれて良かったと言っていいのか。

(ポル・ポト本人は裁きを受けずに死んでしまいましたが。しかし死ぬ直前に自派から吊るし上げをくらってはっきりした写真が報道されたのには驚いた。)

通史としては不十分な点があるが、20世紀でも最も恐ろしい全体主義体制の一つをごく初期の段階で、告発した本として重要。

(個人的には北朝鮮の方がより醜悪で残忍だと思われるが。)

読む価値は十分あります。

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