万年初心者のための世界史ブックガイド

2010年3月3日

引用文(西部邁1・高坂正堯5)

Filed under: 引用文 — 万年初心者 @ 06:00

西部邁・中島岳志『保守問答』(講談社)より。

中島  少し話が変わりますが、戦後保守の流れでお伺いしておきたいと思っているのは、高坂正堯さんのような現実主義の議論です。1963年に「現実主義者の平和論」が書かれたわけですが、同時代的に西部先生はどういうふうにお考えでしたか。

西部  昔も今も同じ感覚です。あなたもご存知だと思うけど、アメリカに対しては、相当クレージーな変な国だということは高坂さんはかなりよくわかっていた。ちらちらっといってもいる。でも、アメリカは厄介な国なんだ、変な国なんだということをわかっていただきたい、というようなことを、前面に押し立てていったことは一度もない。

そこは関西人の(笑)巧みなところで、上手なんだ。僕なんか変な国だと思ったら大声で変な国、っていうんだけど、彼はちらっとしかいわない。今にして思うと、現実主義っていうのを、僕は理想主義よりも嫌うところがある。どっちかとる必要もないんですけどね。理想主義者はすごく偽善的欺瞞的になるけど、良き理想主義者には、少なくとも命を懸けた理想主義者にはなんとなく敬礼のひとつもささげたくなる。

現実主義といえばアングロサクソンになるのかもしれないけど、アングロサクソンには彼らの経験論とか歴史論があるわけで、日本人のようなご都合主義の状況適応主義の現実主義とはちょっと違う気がする。アメリカじゃなくてブリテンのアングロサクソンにはね。

高坂正堯『文明が衰亡するとき』(新潮選書)より。

実際、群衆の君臨と専政[ママ・引用者註]、民主政治と独裁政治は案外親近性を持っている。それは二十世紀の半ばに提出された大衆社会論の中心的テーマとなったものである。たとえばコーンハウザーは、大衆社会の批判者たちを貴族主義的批判者と民主主義的批判者とに分けた。前者は悪平等あるいは反貴族主義を以て大衆社会の特徴とする。すなわち、それは以前には少数者のために留保されていた領域に、多数者が介入する機会が著しく増大した社会であり、そのため、政治や文化基準の決定がその能力を持たない多数者によってなされることになる。大衆の圧力がものごとを決めるので、自由が破壊され、社会生活の質的低下がおこるのであり、それ故、社会は文化的頽廃と政治的暴政への抵抗の道徳的基礎を欠くものとなるというのである。しかし、多くの人間が政治や文化に参加するようになることだけで、そうしたことがおこるとは限らないと民主主義的批判者は言う。そうした危険はあるものの、大衆は普通、彼らの属する集団やその価値によって自己を規制している。そうしたものがなくなったとき、大衆は手取り早い方法で欲するものを得ようとするのであるから、個人が原子化されているのが大衆社会の特徴である。当然そこでは、大衆は操作されやすい。

そのどちらを強調するのかは別として、大衆社会がこの二つの特徴を持つことは間違いない。そして、ローマの社会にもその二つの傾向があったと言ってよいであろう。政治の質の低下、文化的頽廃、そして政治的専政は相互に関連し、したがって容易に克服できないものとして帝政ローマに存在し、次第に進行した。こうして、大衆社会化にローマの衰亡の原因を見ることは的外れではない。

彼[ロストフツェフ]は「すなわち、高度の文明を、その水準を落としたり、質を薄めて消失させてしまうことなしに、下層階級にまで広げることは可能であろうか、・・・・・いかなる文明も、それが大衆に浸透し始めるや否や、衰微せざるをえないのではなかろうか」という問いでその主著『ローマ帝国社会経済史』を終えているが、彼の言わんとするところはきわめて明白である。

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