万年初心者のための世界史ブックガイド

2010年3月31日

引用文(西部邁3)

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西部邁『焚書坑儒のすすめ エコノミストの恣意を思惟して』(ミネルヴァ書房)より。

経済学は、「選択の機会」が大切であると主張し、「機会の平等」(equal opportunity)を最大限に強調します。ところが、この機会という言葉自体が大変やっかいなものなのです。マルクスがかつていったことですが、「人間は可能なことのみを為す」のです。教育が受けられずに、健康を保障されずに、財産の相続も受けずに、社会環境上の安全も保障されないとしたら、その人のopportunityが形式的に他人のと同じく平等に開かれていたとしても、実際上の選択肢には入ってきません。

機会の平等と結果の平等を二分してはならない、ということを再確認しておかなければなりません。もちろん、「結果の平等」(equal result)を過剰に推し進めれば、悪平等、画一主義、均一主義、平均主義になるでしょう。しかし逆に、機会の形式的な平等であれば、それはうわべだけのことであって、選択の自由とはいえない。実質と形式のあいだにある程度の補強関係がなければ、平等とはいえません。経済学のように「機会の平等」を形式的に貫いているだけでは、人びとの選択行為について、何の評価もできないはずなのです。それなのに、「市場は諸個人の自由選択の結果を社会的に調整している」というふうに市場を礼賛するエコノミストが跡を絶ちません。そんなばかげたイデオロギーが経済学の似非倫理と張り合わされているのです。

実質を伴った平等を実現するにはどうすればいいのか。community(共同体)およびsociety(社会体)におけるさまざまな秩序の体制を整えなければならない。その体制を守るのは、自由・権利ではなく、責任・義務の倫理です。経済学においては「法の下での平等」という秩序観しかないようです。しかし、法律の形成・解釈・運用が平等かどうか、経済学では問われません。その平等の基準は、共同体の維持と社会体の安定という歴史的方向に求めざるをえないはずなのです。

2010年3月29日

引用文(西部邁2)

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西部邁『焚書坑儒のすすめ エコノミストの恣意を思惟して』(ミネルヴァ書房)より。

フリードリヒ・フォン・ハイエクはケインズよりもやや年の若い人で、単なる経済学者の枠を超えて、社会哲学者としても現代思想に強い影響を与えました。

しかし彼もまた、ケインズ同様にしばしば誤解されております。「ハイエクは新自由主義で、ケインズは新社会主義だ」などと論じられることがありますが、そういう単純な理解は間違いです。ハイエクは、たしかに表面上は1930年代の、ファシズム・ナチズム・スターリニズムという全体主義に政治的に抵抗した自由主義者ですから、その文脈で読めば、彼は個人の自由を最大限に強調したとみえます。だから「自由主義者」のレッテルが彼に貼られています。しかし、ハイエクの全著作を眺めれば、彼はアメリカの市場原理主義者、ミルトン・フリードマンとは似ても似つかず、「さすがヨーロッパの社会哲学者だ」といいたくなるぐらい、奥行きのある人物なのです。

彼のいう「自由」は、いかにもヨーロッパ的に、「自生的秩序(spontaneous order)」に根差しています。つまり、「長い歴史のなかで、おのずと生れてきたものとしての秩序がマーケットの基礎にあるし、あらねばならない」ということを、ハイエクはまず前提としているのです。それは、無秩序なところに個人たちが現れて、勝手に自分らの欲望と打算で自由な交換を行うという、「歴史なき北米大陸」の自由主義とは全く逆です。

歴史なき場所で大がかりな秩序を作るやり方を、ハイエクはconstructivism(設計主義)とよんで、それが全体主義の源になると批判したのです。アメリカの個人主義・自由主義は、一見したところ、設計主義の逆を行っていると思われます。しかし、そうした主義に偏向するのも、社会価値における設計主義だといわなければなりません。そうであればこそ、「個人の自由」が無秩序を招来したとき、アメリカ社会にはconformism(画一主義)に頼るしかなくなるのです。

歴史という土台があって、おのずからなる秩序が、消費者にも生産者にもマーケットにもあるとされています。しかし、その秩序はがんじがらめのものではありません。社会の「歴史的な構造」という範囲のなかで、人々は、自分の個性や特徴を生かして、さまざまな自由な取引を行っている、と考えるのがハイエキアンなのですね。

そのことを無視してハイエクとケインズを対立させて考えるのは、大きな間違いです。言葉を替えれば、ハイエクは生物学でいう「ホメオスタシス」つまり「動的な恒常性」のような過程として社会の動きをとらえ、その姿形は歴史によってもたらされると考えたのです。この動的恒常性の社会において、人々が個性を発揮し差異を競い合う、そういう意味での「自由」をハイエクは考えました。つまりハイエクの世界では、歴史にもとづく社会の安定性、人間関係の恒常性というものがあるとした上でのマーケット肯定である、ということを忘れてはなりません。

間宮陽介『ケインズとハイエク』(ちくま学芸文庫)参照。

2010年3月26日

荒井一博 『自由だけではなぜいけないのか  経済学を考え直す』(講談社選書メチエ)

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09年10月刊。

新自由主義的な市場観・社会観に対する批判として非常に面白かった。

「個人の独立性という虚構」、「法化社会で自己利益を追求する個人という虚構」、「高能力を持つ合理的な個人という虚構」、「情報の非対称性」、「取引費用と契約の不完備性」、「個人の好みを絶対視する風潮」などの項目で、新自由主義とその基盤をなす新古典派経済学のパラダイムを徹底的に批判し、素人でもその欠陥がよくわかるように説いてくれている。

著者は、経済学を専門的に学んだことのない一般読者にも理解してもらえるように書いたとしているが、それは十二分に達成されている。

読み出したら止まらなくなり、一気に読めた。

ネットワークと社会関係資本という概念を論じ、社会の構成員間の信頼とそれを生み出す文化の重要性を著者は強調している。

個人的には本書の主張ほぼ全てに賛成。

非常に面白く有益な本なので、是非お読みになることをお勧めします。

人間は組織や社会を形成して生きざるをえない動物です。そのため、公共心や利他心が希薄になれば、法の力に頼ってその行動を強くコントロールする必要が生じます。また、他者に配慮することのない人間からなる社会の中で発生する争いは、法に基づき裁判で解決されることになります。「法化社会」の出現です。

今日の日本が法化社会に近づいていることは、さまざまな面に現れています。・・・・・「個人は法と契約を遵守するという条件の下で自己利益を追求する」と新古典派経済学が想定していることを先に指摘しましたが、法化社会の出現はまさに新古典派の浸透にふさわしい現象です。

「人間が守るべきルールは法律などにすべて明文化し、厳格に遵守させればよいのであって、法化社会のどこが悪いのか」と主張する人たちもいるはずです。特に法律関係の職業に就いている人たちには、そのような考え方をしている人が多いと推察されます。また、その主張に違和感を抱いている多数の人も、明確に反論できないかもしれません。そのため、ここでその誤りを明らかにしておきましょう。

法律万能の社会で争いや個人間のトラブルが生じたら、裁判によって解決することになります。しかし、個人が裁判を利用すると多額の費用を負担しなければなりません。弁護士費用や自分の時間的・心理的費用などです(これらは後に検討する取引費用の例です)。普通のトラブルでも最低数十万円の費用がかかるでしょう。自分では正しいことをしたと信じていても、裁判に負ける可能性(経済学的には「危険」)も低くありません。そのため、裁判によってよほど大きな利益が得られると期待されなければ、裁判は実際に利用されません。法による不正の抑止や紛争解決には限界があるのです。

これに関して恐ろしいのは、私が「司法のパラドックス」と呼んでいる現象です。すべての争いは法に基づいて解決されるべきであるという社会通念が形成されると、裁判に訴えられない行為はすべて正当であるとみなされるようになります。すると、右記の裁判費用を下回る被害を生み出す不正は、実行しても訴えられないので正当とみなされ、日常的に発生するようになります。裁判に訴えられないと踏んで、他者に積極的に害悪を与えて自己利益を得る合理的個人が多くなるからです。

法は社会の公正と秩序を達成するために作られるはずですが、規範として法のみが社会を支配する法化社会では、裁判費用の存在のためにかえって不正や混乱が多くなってしまいます。不正抑止を目的とした法・司法制度の充実や法重視の風潮が、不正を生みだすというパラドックスです。これを「第一の司法のパラドックス」と呼ぶことにしましょう。

以上の議論に依拠すると、裁判費用を上回る被害ならば法が抑止してくれそうだと期待できますが、裁判自体が確実に事実を反映した判決をする保証はありません。使える証拠が不十分であったり、裁判の相手が辣腕弁護士を雇ったり、裁判官が有能でなかったり私情を入れたりなどして、不当な判決のなされることも少なくありません。

さらに人間がとりうるすべての行動を予想して十分に詳細な法を整備することはできないという「法の不完備性」の問題があります。どんな悪事も、これに関する法の規定がなければ罰することはできません。そのため、新古典派経済学の浸透によって私利追求と法重視の風潮が強まると、法の網の目を抜ける悪事が多発するだけでなく、悪事を合法だとうそぶいて平然を決め込む人間が増えます。

私利追求と法重視の風潮が法の不完備性を利用した悪事を増大させることを、「第二の司法のパラドックス」と呼ぶことにしましょう。法が万能視されるほど、その網の目を抜けることは正当である、また勝手に信頼し騙されるのが悪いということが平然と主張されるようになります。ここにも、法律万能論のような単純で極端なイデオロギーの恐ろしさが見られます。付言すれば、今日のように変化の激しい時代では、将来起こりうるすべての場合を想定して十分に詳細な法律を作ることがとりわけ困難です。そうした場合は無数に存在するからです。

注意すべきは、法の完備性を高めようとすると、恐ろしく非効率的な社会が出現する可能性があることです。詳細な法を制定して、それに関連するすべての条件を確認しながら複雑な人間関係を維持することはきわめて非効率だからです。そのため現実社会では、多くの場合に他者に対する期待(信頼)に基づいて人間関係を維持せざるをえません。法の完備性を高めて、組織内の人間関係や教師と生徒の関係などを細かくコントロールすることはできないのです。そのために、例えば一方が情報操作(隠蔽工作も含む)をすることによって、容易に他方を騙せる場合も生じます。職場や学校や親族などの信頼重視が当然視される人間関係では、騙しが特に容易に実行できるのです。

法化社会を維持するためには多大な費用がかかることも重大な問題です。これは法重視を唱える人たちが見逃しがちな点でもあります。公的部門としては、各種の監視・警察活動の展開・裁判所の運営・刑罰の執行などのために税金を使わなければなりません。さらに個々人も、裁判を行なうときだけでなく、つね日ごろから弁護士と相談しながら自分の行動を決める必要が生じ、法に関係する費用がかさむようになります。このように、法によって社会(市場を含む)を維持するためには多大な費用がかかります。しかし、新古典派経済学のパラダイムでは、そうした維持費用は無視されていて一切存在しません。そうした歪んだ社会観が法化社会の利点を強調するために利用されているのです。

さらに個人の名誉や他者に対する配慮に価値を置かず、すべての人間関係を法で割り切る法化社会では、人間同士の連帯や友愛が生れません。表面的には連帯や友愛が存在するかのように振る舞う人間も、他者を金銭的に利用していることがそのうちに見抜かれて、人間関係は解消してしまうはずです。法化社会は、こうしたことが頻繁に起こる離合集散の激しい人間関係の社会です。日本はこのような社会になりつつあります。

2010年3月23日

玉木俊明 『近代ヨーロッパの誕生  オランダからイギリスへ』 (講談社選書メチエ)

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大づかみ過ぎて内容がよくわからないタイトルで、副題を見てもはっきりしないでしょうが、中味は16世紀から18世紀までの近世ヨーロッパ経済史です。

読む前にまず前提として、極めて大雑把でいいから、世紀ごとに近世ヨーロッパ政治史の横の繋がりを確認。

16世紀は、スペインとオーストリアのハプスブルク家が大きな勢力を保ち、その両者とヴァロワ朝フランスが死闘を繰り返す。

イギリスはテューダー朝絶対王政下に繁栄の道を歩み始め、イタリアはルネサンスの栄光からスペイン支配下へ転落。

全体としてスペイン覇権時代と言えるが、世紀後半にはオランダが独立、次世紀の覇権を準備する。

東欧ではポーランドでヤギェウォ朝が断絶し選挙王制に移行、バルカンにはオスマン朝が進出し、ロシアがモスクワ大公国の下、統一への一歩を進める。

17世紀は、オランダの黄金時代。

スペイン、イタリアは没落、イギリスでは二度の革命、ドイツでは三十年戦争と各国で危機が続発する中、フランスはブルボン朝の下、世紀後半に覇権に手を伸ばす。

ロシアではロマノフ朝が成立するも、この時期の北欧の雄はスウェーデン。

18世紀、オランダが衰退、前世紀末に議会制的政治体制を整えたイギリスがフランスと激しい植民地争奪抗争を繰り広げる。

スペインがブルボン朝に変わるが、ルイ14世の野心は阻止される。

ドイツでオーストリア継承戦争、七年戦争を経てプロイセンが台頭、東・北欧ではピョートル大帝が北方戦争でスウェーデンを蹴落とし、同地域での覇権はロシアに。

植民地戦争で世紀半ばにイギリスが決定的勝利を得るが、アメリカ独立によってやや後退、世紀末にはフランス革命と産業革命、それを経て19世紀初頭にはイギリスの覇権が揺るぎないものとなる。

以上のような政治史を頭に入れて、本文を読み進むべき。

ざっと内容をメモすると、まず16世紀のヨーロッパ経済の中心は依然イタリア(特にヴェネツィア)で、それが同世紀後半にはブリュージュ・アントウェルペンからアムステルダムへ移行。

17世紀にはイタリアなど地中海諸国は明らかに衰退し、オランダ・イギリスの台頭が顕著となる。

著者はこれを、地中海貿易が衰微し、大航海時代からの大西洋貿易に取って代わられたからだと、単純に解釈することを戒める。

16世紀を通じてヨーロッパの人口が増大を続け、特に地中海諸国では穀物不足と食糧輸入への依存が高まる。

また森林資源も枯渇し、工業用材料・船舶用資材も不足。

地中海諸国がこれらをバルト海地方(特にポーランドの穀物)からの輸入に頼るようになり、そのバルトの商業・海運業をオランダに押さえられていたことこそ決定的であったとされている。

17世紀オランダの黄金時代には、遠距離のアジア貿易よりバルト海貿易の方が重要だったらしい。

著者は貿易収支だけに注目する従来の経済史研究を批判し、輸送料の重要性を強調する。

この時期のオランダは貿易収支の赤字を輸送料と貿易商人の利益が上回っている貿易構造。

また「中継貿易しかできない商業資本主義だったので、オランダは後に産業資本主義のイギリスに敗れた」という解釈は単純過ぎるとしている。

アムステルダムはヨーロッパの物流だけでなく、商業に関する情報・知識・ノウハウの中心となり繁栄を極める。

なお16世紀のいわゆる「価格革命」について、本書では以下のように書かれている。

かつて「価格革命」といえば、スペイン領アメリカからの貴金属流入量が大幅に増加したために生じたとする貨幣数量説の見解が主流であったが、こんにちではむしろ価格革命と呼ばれる現象自体存在しておらず、人口増のため農作物価格が工業製品の価格以上のスピードで上昇したという見方が一般的である。

これは教科書にある通説と全く異なる説明で、非常に面白いと思った。

18世紀、大西洋貿易の拡大とともにイギリスが台頭。

「分裂国家」オランダに対して、イギリスが中央集権的であったことが強調される。

日独など後発資本主義国が国家の主導・介入による経済発展を遂げ、先進国へのキャッチアップを果たしたのに対し、イギリスは自生的で国家介入のない産業発展が進行したと従来思われてきたが、現実にはイギリス自身がオランダに対して経済的には後進国であり、中央集権的「財政=軍事国家」として航海条令など重商主義政策を採用し、国家が企業の保護費用を負担したことが重要であったと述べられている。

オランダが支配していたバルト海貿易にイギリスも参入。

なお当時の北欧では、ロシアの主要貿易港は新首都サンクト・ペテルブルクの他に、はるか北の白海にあるアルハンゲリスクがある。

スウェーデンは現フィンランドの領域も有し、ノルウェーはデンマーク領になっている。

教科書で確認したら、ノルウェーはその後1814年にスウェーデン領に変わり、1905年平和的に独立と書いてあった。

この辺、武田龍夫『物語北欧の歴史』(中公新書)を読み返して確認する必要がありますね。

18世紀に入って、ヨーロッパの商業・金融の中心はアムステルダム一極集中からアムステルダム・ロンドン・ハンブルクの鼎立体制に変わる。

高校世界史では、この時期のハンブルクの繁栄は全く触れられていないはず。

英仏の植民地をめぐる争いの中、新大陸の物産を扱うボルドーが発展するが、著者は当時の三大経済都市の一つは、フランスとの関係が深かったハンブルクだとしている。

ここで、旧ハンザ同盟都市の位置関係を確認。

北ドイツ沿岸部で、ユトランド半島の東にあるのがリューベック、ハンブルクは西、そのさらに西にブレーメンがある。

ナポレオン戦争・大陸封鎖令の影響でハンブルクは衰退、19世紀初頭にはロンドンが首位を占めるようになる。

面白い。

著者の研究書を一般読者向けに語り直したものらしいが、非常に良い。

通説と最近の学説を常に比較対照するのが興味深い。

こういう経済史なら私でも読める。

高校教科書での経済史がごく大まかにでも頭に入っていれば、十分読み進められるレベル。

200ページ弱と短いのも何より。

堅実な良書であり、お勧めします。

2010年3月20日

フランソワ・ポンショー 『カンボジア・ゼロ年』 (連合出版)

Filed under: 東南アジア — 万年初心者 @ 06:00

1975年成立したポル・ポト政権下のカンボジアの実態に迫った著名なルポ。

著者はカンボジアに10年滞在したフランス人カトリック神父。

ポル・ポト政権がまだ存続していた1977年に原著が出て、翻訳は79年、それから20年後の昨年新版が刊行されている。

『共産主義黒書 コミンテルン・アジア篇』の記事で触れた、本多勝一『検証カンボジア大虐殺』(朝日文庫)を読んだ時から、その存在は知っていたはず。

カンボジア現代史の概観を得るためには、冨山泰『カンボジア戦記』(中公新書)ミルトン・オズボーン『シハヌーク』(岩波書店)を参照。

本文に入る前にまず、国名と民族名の確認。

現在ほとんど聞かなくなったが、この時代「カンボジア」以外にも国号として「カンプチア」が用いられていた。

(三文字目が潰れていて区別がつかないでしょうが、カンプチア「pu」です。)

ポル・ポト政権時代に「民主カンプチア」を自称していた。

「ニホン」と「ニッポン」のようなものか?

他に国号・民族名としてカンボジアをクメールと呼ぶことがある。

1975年4月、クメール・ルージュ(カンボジアの共産勢力)がプノンペンに入城しロン・ノル政権を打倒した時、著者はシアヌーク時代とロン・ノル時代の腐敗と圧制を知るが故に、むしろこれを好意的に眺めていたという。

しかし、その直後からプノンペンなど全ての都市からの住民の強制退去が始まる。

病人・老人・子供・女性を含め、一切の容赦無く、極めて性急かつ過酷に行われた農村への強制移住で多くの犠牲者が出る。

それを目撃して出国した後も、著者は国外に脱出した難民への詳細な聞き取り調査から、農村での極めて劣悪な強制労働、旧政権関係者への徹底した粛清、宗教の全面的禁止と僧侶への弾圧、オンカー(革命組織)への絶対的忠誠を強要する徹底した住民統制など、異常な原始共産主義政策とそれがもたらした100万人以上の犠牲者について述べている。

第10章「革命までの三十年」および第13章「どこへ行くカンプチア」は、政治史の流れを概観している章なので、ここは他の章と違い、固有名詞に注意して読み進むのが良い。

後にクメール・ルージュの中心となったポル・ポト(本名サロト・サル)、イエン・サリ、キュー・サンパン、フー・ユン、フー・ニムなどは全てフランス留学生。

帰国当初、前二者がシアヌークを打倒の対象とする強硬派、後三者がシアヌークとの協力を排除しない穏健派(1960年代の一時期入閣していたこともある)。

63年イエン・サリ(とポル・ポトも?)が地下活動に入る。

以下の文章を読むと、こういう好人物であっても政権を掌握した後したことを考えると、イデオロギー狂信の恐ろしさや、単純な理屈で人間社会を把握しようとすることの危険を思い知らされる。

笑顔を絶やさず、人当たりの柔らかいイエン・サリは、最貧層の学生から自分の授業に対する月謝を受けとろうとはしなかった。彼はチャムカーモンに近い家に住み、自転車で通っていた。イエン・サリは謙虚で客扱いのいい人物だったから、学生たちは彼の家を訪ね、講義について助けを求めることができた。「先生、生徒であっても、我々はみな平等なのだ。社会的階級などはない」と彼はよく口にしていたものである。時々彼は君主制に強い不満を表わしていた。それは人々を奴隷におとしめたものだった。彼は「アンコールワット建造で、どれだけの人命が失われたのか」と叫び、王たちへの軽蔑をあらわにしていたという。彼はまたフランス語で書かれた中国に関する本を持っており、読みたい人には誰にでも貸していた。

66年当局の腐敗と対応のまずさから、西部サムロートで大規模な農民反乱。

67年フー・ユン、フー・ニム、キュー・サンパンが政府と訣別、地下活動へ。

同時期北東部少数民族も反乱を起こし、北ヴェトナムとヴェトコンに協力。

シアヌークは東部国境地域における北ヴェトナム・ヴェトコンの活動を黙認していたが、68年テト攻勢以後、迷いを生じる。

北ヴェトナムから距離を置くようになり、米軍のカンボジア領内ヴェトコン基地爆撃を表向き非難しつつも実際は黙認。

しかし、ここでより思い切った措置を取ろうとする右派のロン・ノル首相と対立、クーデタが起こり、シアヌークは追放。

シアヌークはクメール・ルージュと共闘、ヴェトコン・北ヴェトナム軍に加え一時米軍も介入し、国内は大混乱の渦に。

シアヌークが共産勢力の表看板なので、右派のロン・ノル政権が「クメール共和国」を自称しているのに対し、クメール・ルージュが「カンプチア王国民族連合政府」を名乗るという奇怪な状況。

結局上述の通り、1975年4月プノンペン陥落、ロン・ノル政権崩壊、ポル・ポト政権成立。

この75年には南ヴェトナムが崩壊し、ラオスでもパテト・ラオが政権を奪取して、インドシナ三国が全て共産化したというのは基本事項なので、もちろん憶える。

76年シアヌーク派が消滅、77年にはキュー・サンパンを除く元「穏健派」のフー・ニム、フー・ユンらが失脚、北ヴェトナムとの関係が濃い親越派の「クメール・ヴェトミン」も排除・抹殺され、同年ポル・ポトはカンプチア共産党を正式に名乗り、自派の完全な独裁を固める。

中ソ対立の中、ソ連がヴェトナムの後ろ盾となり、カンボジアを中国が支援。

本書の範囲外だが、ますます統一ヴェトナムとの対立を深めるカンボジアに、1978年末ヴェトナム軍が進攻、翌79年1月プノンペン陥落、親越派のヘン・サムリン政権樹立(その後を継いだのが現首相のフン・セン)。

これはあまりにあからさまな主権侵犯で、ヴェトナムのインドシナ覇権への野望も指摘され、統一後のヴェトナム自身、南部で相当抑圧的政策を取っていたことも事実なので、西側諸国(と中国)から非難されたが、ポル・ポト体制の残虐行為があまりに桁違いなので、公平に見て、この軍事行動にも効用が間違いなくあったと見なさざるを得ない。

ちなみにこの1979年は実に多くの事件があった年で、まず中東でイラン革命が起こり、現代史上初のイスラム原理主義政権が生れ、第2次石油危機が世界を揺さぶる。

イラクではサダム・フセイン政権成立(翌80年からイラン・イラク戦争)、ソ連がアフガニスタンに侵攻、米ソ冷戦は最終対決期を迎え、同年締結されたばかりのSALTⅡ(戦略兵器制限条約)は事実上破棄される。

サダト大統領の見事なリーダーシップでエジプト・イスラエル平和条約が結ばれるが中東和平はそれ以上の広がりを見せず。

アメリカの「裏庭」ではニカラグア革命が起こり、キューバ革命以来の親マルクス主義的政権が誕生して緊張が高まり、アメリカは同国右派勢力「コントラ」を支援。

キッシンジャー訪中から8年、ニクソン訪中から7年を経て米国・中国間の国交が正式に樹立、対ソ戦略上の協力関係が進展。

イギリスではサッチャー保守党政権成立、社会民主主義的福祉国家の見直しを進め、81年レーガン政権、82年中曽根政権、コール政権など先進各国で80年代に生れた右派政権の嚆矢となる(フランスだけは81年よりミッテラン社会党政権。ただし後に経済政策は右寄りとなる)。

そしてヴェトナム軍のカンボジア占領、それに対して「懲罰」と称して中国軍がヴェトナム国境地域に侵攻(中越戦争)。

以上ほぼ全て、高校教科書範囲内なので要記憶。

ヴェトナムに対し、シアヌーク派、ポル・ポト派、ソン・サン派の三派連合が対抗し内戦が続くが、1991年パリ和平協定と翌年国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)下の総選挙で国内統一、ポル・ポト派は参加せずタイ国境地帯で一定の勢力を保持していたが、1998年ポル・ポト死亡後、消滅。

タリバン、アルカイダなんてものが出てくる前は、ポル・ポト派は北朝鮮およびリビアと並んで不気味な勢力だった記憶があるんですが、結局さしたる混乱もなく消え去ってくれて良かったと言っていいのか。

(ポル・ポト本人は裁きを受けずに死んでしまいましたが。しかし死ぬ直前に自派から吊るし上げをくらってはっきりした写真が報道されたのには驚いた。)

通史としては不十分な点があるが、20世紀でも最も恐ろしい全体主義体制の一つをごく初期の段階で、告発した本として重要。

(個人的には北朝鮮の方がより醜悪で残忍だと思われるが。)

読む価値は十分あります。

2010年3月18日

ジャック・ル・ゴフ 『子どもたちに語るヨーロッパ史』 (ちくま学芸文庫)

Filed under: ヨーロッパ — 万年初心者 @ 06:00

著者はフランスの著名な中世史家。

アナール派社会史家で『煉獄の誕生』(法政大学出版局)などの著書で知られる、みたいなことは以前から知っていた。

大学で中世ヨーロッパ法思想史の講義を受けたとき、中世盛期に台頭著しい商人階層の救済のためにこれまでカトリックの教義には無かった煉獄という存在が生み出されて、何とかかんとかという話を聞いた際、ル・ゴフの名前も聞いた記憶がある。

上記本やその他の著作は私のレベルでは荷が重いので、たまたま目に付いたこれを読んでみた。

最近、やる気が出ないので、軽めのものばかり読んでますね・・・・・。

「子どもたちに語るヨーロッパ」と「子どもたちに語る中世」の2作品入り。

文字通り完全に子供向けのものなので、いくらヨーロッパ人読者を想定して書いたものでも内容については特にどうと言うことも無い。

自由で寛容で公正な統合ヨーロッパを目指そうとする著者の強い決意は心に迫るものがあるが、さすがに何か具体的史実で新たに知った情報は皆無。

ただ、中世の部分で、リューベックとハンブルクを中心としたハンザ同盟にロンドンが加入していたと読める文があり、「えっ?」と思って教科書で確認したら、単に在外商館があったというだけでロンドン自体は加盟していなかった。

あと、フランス革命の部分で、この短い紙数の中で、革命のプラス面だけでなくマイナス面にもきちんと触れているのは、極めて公平な態度だと思った。

260ページほどあるが、誰でも楽に通読できる。

是非読んでおくべきとは申しませんが、まあ機会があれば手に取っても損はしないんじゃないでしょうか。

2010年3月17日

『もういちど読む山川世界史』 (山川出版社)

Filed under: 教科書・年表・事典 — 万年初心者 @ 06:00

山川出版社の世界史教科書を一般読者向けに再編集したもの。

去年8月頃出て、かなり売れた本。

どんなもんか、試しに手に取ってみた。

適当にページをめくってみて、すぐ気付くのが、普通の教科書と違い、重要な歴史用語をゴチック体(太字)で記していないこと。

これはちょっと頂けない。

一般向け書物ということでそうしたんでしょうが、何が重要なのかについて目安が無く、反って判り辛くなっている。

本文の叙述もやけに簡略に思え、ひょっとして世界史Aを基準にしているのか、とも思った。

地図や系図が少な目なのもマイナス点。

目次を眺めると、古代・中世・近代・現代とはっきり時代区分して章分けしているのが大きな特徴。

「近世」が無いのは、いろいろややこしい議論があるからか。

中国では後漢までが古代で、これはまあ順当だが、中世の部分に三国時代から明・清まで放り込んでいる。

ムハンマドからヨーロッパ勢力の進出までのイスラム史も中世にすっぽり入っている。

結局ヨーロッパ史ではルネサンスと大航海時代の15・16世紀から近代、他の地域では18・19世紀頃ヨーロッパが進出してきてからが近代という区分のようだ。

これが穏当なのか適当過ぎるのか、よくわからない。

個人的にはあんまりいいとは思えない。

評判に釣られてこれを買うより、『詳説世界史B』を大型書店の学参コーナーか山川出版社のウェブサイトで買った方がいい気がする。

しかし社会人がざっと通読できる範囲の量で、世界史のあらましを理解するために手に取るという目的のためなら、こちらがいいのかもしれない。

2010年3月16日

佐藤幸夫 『完成350 世界史年代記憶術』 (代々木ライブラリー)

Filed under: 教科書・年表・事典 — 万年初心者 @ 06:00

去年12月に出た、割と最近の本。

著者については何も知らない。

東洋編と西洋編が完全に分かれているのが特徴。

ゴロは覚えやすい方だと思う。

しかし数は物足りない。

特に古代オリエント。

アケメネス朝の統一以前が実質ゼロなのには首を傾げる。

ただ、末尾付録の同年・同時代一覧表と国別の王朝(政治体制)年表は中々良い。

悪くはないと思うが、どうも決め手に欠ける印象。

やはり山村良橘『世界史年代記憶法』を復刊してもらえないでしょうか。

2010年3月15日

中谷まちよ 『世界史年代ワンフレーズnew』 (パレード)

Filed under: 教科書・年表・事典 — 万年初心者 @ 06:00

世界史年代ゴロ合わせの受験参考書。

監修は中谷臣氏。

著者は奥さんでしょうか?

『センター世界史B各駅停車』と同じく、発行元はパレード、発売は星雲社。

本文70ページ余りのごく薄い本。

ザーッと眺めていると、よく出来てるなとニヤリとしてしまうものもあれば、これはちょっと憶えにくいかなと思うものもある。

山村良橘氏の『世界史年代記憶法』に比べると、ややインパクトに欠けるかと感じた事項もある。

(先に出たものをそのまま使えない以上、仕方ない面もあるんでしょうが。)

19世紀と20世紀で半分を占めるが、個人的にはこういう近代史の年号はゴロ合わせ抜きでかなり憶えているので、できれば前近代を充実させて欲しかったところ。

とは言え、総合的に見て悪い本ではない。

特に所々に挿まれている同時代の事項をまとめている部分は有益。

前近代において世紀単位で別地域の趨勢を述べている所などは、うーんと唸らされた。

定価900円なんで買って手元に置いて、折にふれ眺めるのも良いでしょう。

社会人でも買う価値はあると思います。

2010年3月12日

ルネ・ミュソ・グラール 『クローヴィス』 (白水社文庫クセジュ)

Filed under: フランス — 万年初心者 @ 06:00

文庫クセジュは、どちらかと言うと苦手なのでできれば敬遠したいのだが、類書が少ないのでやむを得ずこれを読んだ。

メロヴィング朝フランク王国初代国王の伝記。

最初のフランス国王とは言えないが、本書カバーの言葉を借りれば、「フランスにおける最初の国王」なので、カテゴリはフランスで。

クローヴィスはサリー・フランク族に属する。

在位期間は481~511年。

西ローマ帝国滅亡が476年、東ゴート族によるイタリア征服が493年だから、オドアケルやテオドリック大王とほぼ同時代人か。

35ページに5世紀の東西ローマ皇帝の在位表が載っているんですが、名前を見た覚えはほぼ全ての人名であるのに、具体的人物像や在位順、即位と治世の経緯などは全然思い出せず、落ち込む。

ギボン『ローマ帝国衰亡史』の5巻と6巻で、この辺はかなり面白く読んだはずなのだが、内容をしっかり憶えておくのはやはり厳しい。

塩野七生『ローマ人の物語』の最終巻が文庫化された時に気合を入れて頭に入れることにしましょう。

父親のキルデリクスの後を継ぎ481年即位。

38ページの地図を見ると、当時のガリアは南西部は西ゴート王国、東南部はブルグンド王国が占め、北部はローマ人残存勢力でキルデリクスと同盟していたアエギディウスとその後を継いだ息子シャグリウスの領域に三分されており、フランク王国はシャグリウス領のさらに北、大西洋岸の一部を占めるのみ。

クローヴィスはまずシャグリウス領を併合。

ブルグンド国王グンドバドの姪クロティルドと結婚。

496年カトリックに改宗。

これは山村良橘『世界史年代記憶法』では、「ヨー(4)、クロー(96)ヴィスの改宗」という絶対忘れない憶え方が載ってました。

この改宗が、アリウス派に属する支配層とカトリックのローマ系住民の軋轢に苦しんだ他のゲルマン王国を尻目に、フランクの勢力伸張をもたらしたというのは高校教科書通り。

本書では他に、東ローマとの関係についても考察。

451年(奇しくも西ローマ、カタラウヌムでの対アッティラ戦と同年)カルケドン公会議で異端とされたにも関わらず、クローヴィスと同時期に在位した東ローマのアナスタシウス帝が単性論に傾く中で、ローマ教皇が東ローマから独立した権威をクローヴィスに保証したことなどが記されている。

507年西ゴート王アラリック2世と戦い、アラリックは敗死、フランクは南ガリアを手に入れ、西ゴートは以後ヒスパニアのみを領有することとなる。

パリに王城を構え、510年「サリ法典」制定、511年オルレアン公会議を召集した後、死去。

なお、サリ法典で、ローマ人とフランク人がそれぞれ殺害された場合の罰金額が、後者が前者より高額に定められているのは、民族差別の表れではなく、当時フランク族の間で一般的だった私的復讐(フェーデ)を抑えるためであり、むしろ王国内での法の統一を志向したものと見るべきだ、といったことが書いてあったのが印象に残った。

クローヴィス死後、王国は四子に分割。

以後の歴史はティエリ『メロヴィング王朝史話』に書いてあるようですが、この本は私には到底読めません。

要は北東部のアウストラシア・北西部のネウストリア、南東部のブルグンド(534年フランクに併合される)、南西部のアクィタニア(アキテーヌ)の四つの部分が、独立したり統一したり、複雑極まりない経緯を辿ることになるようです。

150ページと短いのは良い。

他の文庫クセジュの本と同様、生硬さや(日本人にとっての)説明の物足りなさなどは感じるが、そこそこ役に立つという印象を受ける。

ただできれば、こういう中世初期をテーマにした日本人著者の新書がより多く出て欲しいですが。

2010年3月9日

引用文(「マスメディアの構造と空気」)

Filed under: 引用文 — 万年初心者 @ 06:00

柴山佐利 編著 『マスメディアの「構造」と「空気」』(宣伝会議)より。

市場の外側を想定した「市場」

このように市場を異なった視点から捉え直すハイエクの議論では、それゆえに「すべてを市場に」という強い主張は成り立たない。つまり、あくまで市場という仕組みの有効性を説明する論理なのであって、市場がすべてに優先する唯一の回答であることを保障しない。ハイエクの論理は、市場が市場だけで成り立つものであることを証明するものでも、他のコミュニケーションとそれに基づく社会システムの有効性を否定するものでもないのである。確かに、ハイエクの言う通り、市場経済と計画経済の二者択一ということを考えるなら、資源配分の効率性という点でも、また人間の自由な意志決定という尊厳を保障するという点でも、市場経済の側に理があることは明らかである。しかし、その結論は、市場の仕組みに市場以外のさまざまなオルタナティブを組み合わせていくことの除外を含意してはいない。それどころか、よく考えてみるならば、ハイエクの言うところの「市場」には、あらかじめ市場以外の仕掛けとの並立が前提とされているとすら主張することが可能である。

何度も述べたように、貨幣は複雑な内容を一次元の尺度に縮減し、コミュニケーションの接続を拡大していく極めて強い力を持っている。しかし、その特性は同時に、意味体系のすり合わせという過剰なコトバ・表現の繰り返しを必要とする機能を、貨幣だけでは持ち得ないということにも繋がっている。要するに市場取引だけでは、取引を可能とする社会的な合意も、相互の信頼関係も生まれてはこない。だからこそ、ハイエクは市場の優位を語る一方で、その基礎としての社会の道徳や倫理を、アダム・スミスの継承者として常に強調せざるを得なかった。ハイエクの自由主義は、市場と道徳の二輪によって支えられているのだ。そのあり方は強欲を常とする新自由主義の姿と鋭い対照をなしている。市場の計画経済に対する優位性を説くことと、市場万能主義を振りかざすこととは、似ているようでいて全く異なる主張なのだ。

新自由主義の問題=ウェブ礼讃論への疑問

ウェブ礼讃論の考え方についていったんまとめよう。その考え方は大きく二つの流れからなっていた。一つは参加の平等性をウェブ優位の源泉とする「ウェブ民主主義」。もう一つはウェブを一種の市場、つまり個人の自由な選択の集計として動いていく仕掛けであるからこそ優位性があるとする、グーグルが主張するような「ウェブ新自由主義」の思想である。

しかし、これまで見てきたように、双方ともその原理原則となる思想には大きな矛盾がある。ウェブ民主主義でいえば、それは「完全に平等な立場」では議論は有限の時間内に収束し得ない、ということであった。これはアローの不可能性原理とも重複する論点である。議論というものは結局、各自の選好の単なる表明を越え、単純な話し合いで調整がきくようなレベルを離れ、多数の人の世界観や価値観そのものをすり合わせていくことでしかまとまっていかない。そうしたまとまりをつくっていくためには、同調の起点を与え、収束を加速するマスの仕掛けが必要となる。つまり議会やマスメディアといった「今までにもある」ような構造がどうしても求められるのである。これはウェブ民主主義の主張には実のところ新しさがない、ということを示している。確かにウェブという技術はコスト面などで有効かもしれない。しかし、ウェブで民主主義の意思決定のあり方が根本的に変っていくと主張するのは難しい。

一方、各自の好き嫌いを数値化して集計しさえすればいいというウェブ新自由主義の主張は、より大きな問題を孕んでいる。なぜならば、背景となる新自由主義のイデオロギーそのものが、もともと破綻したものだからだ。新自由主義は、各個人が森羅万象を知り尽くしているというあり得ない前提のもとで、しかも「市場の失敗」も大局的には例外事項でしかないという思い込みの下に、市場万能主義=政府による規制を徹底的になくしてすべて市場に任せてしまえ、ということを主張する。この無理を押し通した結果出現するのは、一部の富裕層やグローバル企業などの「私的権力者」の放縦の姿でしかない。新自由主義とは、現実問題としては自由の美名の下に既存の私的権力者層の利益を確保しようという恣意にほかならないのである。・・・・・・

参考記事。

西部邁『経済倫理学序説』(中央公論社)

間宮陽介『ケインズとハイエク』(ちくま学芸文庫)

松原隆一郎『経済学の名著30』(ちくま新書)

引用文(内田樹2)

2010年3月6日

J・L・ガディス 『冷戦 その歴史と問題点』 (彩流社)

Filed under: 国際関係・外交 — 万年初心者 @ 06:00

著者名のカタカナ表記がやや違いますが、『ロング・ピース』(芦書房)の著者と同一人物です。

他に『歴史としての冷戦』(慶應義塾大学出版会)(邦題がルイス・J・ハレーの本と同じ)も出ています。

この『歴史としての~』は叙述範囲が限られており、1962年キューバ危機までで、しかもやや読みにくい印象を得ていたので、代わりに記事タイトルの本を読んでみることにしました。

原著は2005年刊、冷戦後に入学してきた若い学生向けに書いたテキストだそうです。

結論を言うと、悪くは無いが期待したほどでも無いといった感じ。

第二次世界大戦直後から1990年代初頭まで、冷戦の全期間が扱われているものの、米ソ両大国指導層と国民の情勢認識や心理状態に焦点を絞って叙述が進められており、他の主要国も含めた細かな事実関係の記述ではさして得るところがない。

高校教科書の戦後史の部分をマスターしていればなんとか読みこなせるレベルではあるが、現代史テキストとしての網羅性は低く、本書だけでは明らかに不十分。

基礎的なことが頭に入った人がざっと読んで、新たな史的解釈を得るための本と言うべきではないでしょうか。

「訳者あとがき」でも書いているが、年代順に事実を記すのではなく、ある問題点を取り上げてその説明の中で史実を並べていくという形式。

その話の展開の仕方は(特に前半の章は)かなり上手いと思う。

第1章「恐怖への回帰」は大戦終結から朝鮮戦争まで、冷戦最初の5年間における米ソ対立の展開。

第2章「死のボートと救命艇」、核兵器の出現による「恐怖の均衡」成立、それによる抑止作用。

第3章「命令と自発性」、米ソのイデオロギー対立。

第4章「自立性の出現」、東西両陣営での中国とフランスの自立化傾向、米中接近。

第5章「公正さの復活」、ウォーターゲート事件、CIAの工作活動をめぐるアメリカ国内の政治的道義性に関する議論と1975年ヘルシンキ全欧安保協力会議の人権条項がソ連圏にもたらした影響など。

第6章「主役たち」、1970年末から二極体制の状況を動かすのに貢献したレーガン、サッチャー、ワレサ、ヨハネ・パウロ2世などの活動。

第7章「希望の勝利」、1989年東欧共産圏崩壊と冷戦の終結。

個人的感想だが、気になった点を記すと、スターリン政権など全体主義体制を表わすのに「権威主義」という言葉を用い、それと民主主義を対比させていることに何とも言えない違和感。

国際政治の本でそういうことに拘ってもしょうがないのかもしれないが、少々首を傾げた。

なお、本書での著者の見解について書くと、自国の欠点や失敗を十分認めながらも、基本的にアメリカの果たした役割に高い評価を与えている。

極端な夜郎自大的主張には思えないのでそれはまあいいんですが、気になる人がいるかもしれない。

ただ私としては、「ナチズムと共産主義を封じ込めて崩壊させたアメリカの役割は十分認めますが、しかしそれを民主主義の勝利とするのは如何なもんでしょうか、左右の全体主義はあなた方が嫌う君主や貴族の堕落ではなく、民衆の愚劣さや狂信が生み出したものですよね」と一言釘を刺したくなる。

版形が大きく300ページ余りあるが、比較的読みやすい。

補助的テキストとして使用するなら、それなりに役に立つと思います。

2010年3月3日

引用文(西部邁1・高坂正堯5)

Filed under: 引用文 — 万年初心者 @ 06:00

西部邁・中島岳志『保守問答』(講談社)より。

中島  少し話が変わりますが、戦後保守の流れでお伺いしておきたいと思っているのは、高坂正堯さんのような現実主義の議論です。1963年に「現実主義者の平和論」が書かれたわけですが、同時代的に西部先生はどういうふうにお考えでしたか。

西部  昔も今も同じ感覚です。あなたもご存知だと思うけど、アメリカに対しては、相当クレージーな変な国だということは高坂さんはかなりよくわかっていた。ちらちらっといってもいる。でも、アメリカは厄介な国なんだ、変な国なんだということをわかっていただきたい、というようなことを、前面に押し立てていったことは一度もない。

そこは関西人の(笑)巧みなところで、上手なんだ。僕なんか変な国だと思ったら大声で変な国、っていうんだけど、彼はちらっとしかいわない。今にして思うと、現実主義っていうのを、僕は理想主義よりも嫌うところがある。どっちかとる必要もないんですけどね。理想主義者はすごく偽善的欺瞞的になるけど、良き理想主義者には、少なくとも命を懸けた理想主義者にはなんとなく敬礼のひとつもささげたくなる。

現実主義といえばアングロサクソンになるのかもしれないけど、アングロサクソンには彼らの経験論とか歴史論があるわけで、日本人のようなご都合主義の状況適応主義の現実主義とはちょっと違う気がする。アメリカじゃなくてブリテンのアングロサクソンにはね。

高坂正堯『文明が衰亡するとき』(新潮選書)より。

実際、群衆の君臨と専政[ママ・引用者註]、民主政治と独裁政治は案外親近性を持っている。それは二十世紀の半ばに提出された大衆社会論の中心的テーマとなったものである。たとえばコーンハウザーは、大衆社会の批判者たちを貴族主義的批判者と民主主義的批判者とに分けた。前者は悪平等あるいは反貴族主義を以て大衆社会の特徴とする。すなわち、それは以前には少数者のために留保されていた領域に、多数者が介入する機会が著しく増大した社会であり、そのため、政治や文化基準の決定がその能力を持たない多数者によってなされることになる。大衆の圧力がものごとを決めるので、自由が破壊され、社会生活の質的低下がおこるのであり、それ故、社会は文化的頽廃と政治的暴政への抵抗の道徳的基礎を欠くものとなるというのである。しかし、多くの人間が政治や文化に参加するようになることだけで、そうしたことがおこるとは限らないと民主主義的批判者は言う。そうした危険はあるものの、大衆は普通、彼らの属する集団やその価値によって自己を規制している。そうしたものがなくなったとき、大衆は手取り早い方法で欲するものを得ようとするのであるから、個人が原子化されているのが大衆社会の特徴である。当然そこでは、大衆は操作されやすい。

そのどちらを強調するのかは別として、大衆社会がこの二つの特徴を持つことは間違いない。そして、ローマの社会にもその二つの傾向があったと言ってよいであろう。政治の質の低下、文化的頽廃、そして政治的専政は相互に関連し、したがって容易に克服できないものとして帝政ローマに存在し、次第に進行した。こうして、大衆社会化にローマの衰亡の原因を見ることは的外れではない。

彼[ロストフツェフ]は「すなわち、高度の文明を、その水準を落としたり、質を薄めて消失させてしまうことなしに、下層階級にまで広げることは可能であろうか、・・・・・いかなる文明も、それが大衆に浸透し始めるや否や、衰微せざるをえないのではなかろうか」という問いでその主著『ローマ帝国社会経済史』を終えているが、彼の言わんとするところはきわめて明白である。

2010年3月1日

遠藤雅子 『オーストラリア物語  歴史と日豪交流10話』 (平凡社新書)

Filed under: オセアニア — 万年初心者 @ 06:00

平凡社新書はひょっとして初めてか。

初版が2000年と少々古いが、シドニー・オリンピックに合わせて刊行されたものらしい。

先日の『カナダの歴史がわかる25話』と似たタイプの本。

これも史的エッセイという感じ。

全10章だが、普通のオーストラリア史は第6章までで、1901年の自治領、オーストラリア連邦成立までが叙述範囲。

残り4章は、普通の通史は語られず、日豪関係を概観する記述。

例によって偉そうな感想で恐縮ですが、あまり内容が濃いとは思えない本。

普通考えると、竹田いさみ『物語オーストラリアの歴史』(中公新書)を再読した方がいいんでしょうが、しかしオセアニアカテゴリに、とにかく何か追加したいという気持ちが勝って手に取る。

最小限の事項だけメモすると、1642年オランダ東インド会社のタスマンがタスマニア島とニュージーランドを発見。

七年戦争勝利後にイギリス海軍が派遣したジェームズ・クックの調査隊が1770年オーストラリア大陸東岸に到達。

1788年イギリスの流刑植民地ニューサウスウェールズ誕生。

初期の開拓の中心はシドニー。

1823年ニューサウスウェールズが自治植民地に。

1829年オーストラリア全土の領有を宣言。

ニューサウスウェールズから分離したり、新たに設置された植民地が広がっていく。

ここで主要都市の位置を確認。

まず、シドニーが東海岸やや南より。

南東部のヴィクトリア州の中心がメルボルン。

この両都市の妥協の結果、後に首都は両者の中間にあるキャンベラに設けられる。

(カナダで、トロントとモントリオールの中間に人口規模の劣る首都のオタワがあるのとよく似てる。)

北東部はクイーンズランド州で中心は東海岸のちょうど真ん中くらいにあるブリスベン。

南オーストラリア州にはアデレードがあり、南西部にパース、北海岸の中間にはダーウィン、北東海岸沿いにはケアンズ。

1901年各植民地が合同してオーストラリア連邦結成、自治領となる。

連邦を結成して後、白豪主義を採用したというより、白豪主義を維持するために連邦を結成したという(半)独立の経緯は、上記『物語オーストラリアの歴史』にもある通り。

以後の日豪関係を扱った章は、特に書くことも無いのだが、一点だけ、オーストラリアが日英同盟に反対し続けたという記述が気になった。

岡崎久彦『幣原喜重郎とその時代』(PHP文庫)などでの記述では、ワシントン会議において、日米対立が日英同盟に連動して米英関係を悪化させることを懸念したカナダは日英同盟継続にに反対したが、アメリカよりも日本に地理的に近いオーストラリアは、イギリスとの同盟関係が日本の行動を抑止し予測可能にするという観点からむしろ同盟継続を支持したと書いてあった気がする。

たぶん、私の記憶違いでは無いはずだが・・・・・・。

簡単に読めるのは良い。

とりあえず、一番最初のオーストラリア史はこれでもいいんじゃないでしょうか。

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