万年初心者のための世界史ブックガイド

2010年2月7日

山県有朋についてのメモ その2

Filed under: おしらせ・雑記, 近代日本 — 万年初心者 @ 06:00

その1の続き。

1900年旧自由党勢力の憲政会が伊藤博文を党首に立憲政友会結成、同年第4次伊藤内閣が成立するが短期間で倒れる。

1901年第1次桂太郎内閣。

日英同盟と日露戦争、山県は参謀総長に。

戦後政友会に政権を譲る代わりに戦中の協力を取り付ける密約。

1906年第1次西園寺公望内閣。

政友会。

日露戦争後も日本陸軍の南満州占領が続いており、戦争前のロシアに対するのと同じような疑惑の目が日本に向けられ、アメリカや同盟国のイギリスなど列強からの批判が集まる。

児玉源太郎が軍政継続に固執したのに対し、伊藤博文がそれを徹底的に論破、日本の権益はポーツマス条約で認められたもののみであり、満州の主権は疑いなく清国にあるとして軍政を廃止させる。

陸軍を完全に押さえ込み、国際協調路線を貫徹した、伊藤のこの見事なリーダーシップは猪木正道『軍国日本の興亡』(中公新書)でも絶賛されていた。

前回「その1」の記事でも書いたアモイ事件と併せて、児玉の良好なイメージがかなり崩れる事例ではある。

『坂の上の雲』では乃木とは比べものにならないほど好意的に描かれていた東郷平八郎元帥も最晩年はロンドン条約統帥権干犯問題で艦隊派に担がれたりと、いろいろあったようですから、人物の評価というのは本当に難しいものですね。

この問題でも山県は当初児玉に理解を示すが、結局意見を変え伊藤に同意。

著者はこの種の柔軟性を山県の長所として認めている。

1908年第2次桂内閣。

山県と桂の関係が悪化。山県は陸相の寺内正毅に期待をかける。

09年伊藤暗殺、10年韓国併合。

1911年第2次西園寺内閣。

11年辛亥革命、12年明治天皇崩御。

1912年第3次桂内閣。

護憲運動、大正政変。

1913年第1次山本権兵衛内閣。

政友会の支持を受け、内相原敬など閣僚の多くが政友会党員。

軍部大臣現役武官制を改め、(政党にも加入できる)予備役・後備役の大将・中将でも可能とする。

文官任用令を改正、各省次官など自由任用拡大、要するに第2次山県内閣と全く逆のことを行う。

シーメンス事件で倒壊。

1914年第2次大隈内閣。

外相加藤高明、蔵相若槻礼次郎。

第一次世界大戦参戦、15年二十一か条要求、これで勃興しつつあった中国ナショナリズムの標的にわざわざ日本がなってしまう。

大隈・加藤の政党政治家がこの愚行を為したのには困ったもんだなあと思う。

後年、犬養毅がロンドン海軍軍縮条約をめぐって政府を統帥権干犯として攻撃したが、高坂正堯先生がこれについて『世界史の中から考える』(新潮選書)で、

・・・・・そのようなことを“憲政の神様”が言ったことは、考えさせられることで、どうも日本では立派な抽象的原則をふりかざして民衆に訴える人間が、政略となると道義心をかなぐり捨てて恥じないところがあるように思われる。

と書いていたのをふと思い出した。

山県は、この時期、人種間紛争の激化を懸念、中国との関係改善と日露同盟を主張。

ロシア革命が起こるなど、予測は大きく外れるが、強圧的な中国政策の転換を主張したことは評価される。

大陸進出はあくまで列強との協調が前提であり、満蒙利権のみならず中央政府に日本人の政治・財政・軍事顧問を置くなどとした第五号要求を入れたため、二十一か条要求が中国以外の国々からも異議を受けたとして、山県は批判した。

1916年寺内正毅内閣。

超然内閣。

加藤高明、憲政会結成(1898年に出来たのは憲政「党」)。

シベリア出兵。

山県はボリシェヴィキへの反感と帝政への同情を持ちながらも、アメリカが共同出兵を持ちかけるまで出兵に慎重であった。

米騒動などの不手際で寺内にも失望。

1918年原敬内閣。

政友会の本格的政党内閣。

筋金入りの政党嫌いにも関わらず、最晩年の山県は原の力量を認め高く評価するようになる。

しかし1921年原は暗殺され、高橋是清が後任。

原かせめて加藤高明でも元老として昭和に生きていれば、日本の運命も変ったかもしれないと別の本に書かれてあった。

1922年山県死去。

同年の直前に大隈も亡くなっている。

国葬にも関わらず、参列者は少なく寂しいものだったと書かれている。

やっと終わりました・・・・・・。

疲れましたが、明治の政治史を復習できてよかったと思うことにします。

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