万年初心者のための世界史ブックガイド

2010年2月3日

伊藤之雄 『山県有朋 愚直な権力者の生涯』 (文春新書)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 06:00

この人のことを好きだという人は、果たしているんでしょうか?

陸軍長州閥の祖で、「主権線」と「利益線」の概念により大陸進出への志向を持ち、軍部大臣現役武官制の制定で後世の軍国主義に道を開き、開明的な伊藤博文に対して、政党政治に執拗な敵意を持ち大正年間に至るまでそれを妨害し続けた頑迷固陋な藩閥政治家、といったところが、大抵の人が高校までの歴史教育でこの人物について持っているイメージでしょう。

個人的には、『石橋湛山評論集』(岩波文庫)で、死去時に「死もまた社会奉仕」とまで書かれていたことが印象に残っている。

本書は、そうしたイメージを一度御破算にして、その政治人生を忠実に辿っていくもの。

09年2月刊、最近なぜか増えたような気がする分厚い新書で、470ページ超。

山県は1838年に長州藩下級武士の子として生れる。

前年の1837年には大塩平八郎の乱があり、英国ではヴィクトリア女王が即位している。

吉田松陰の松下村塾に入門、のち奇兵隊の軍監(隊長である総管に次ぐ地位)となり、戊辰戦争で活躍。

この幕末の部分では、大体のストーリーは頭に入っているのだが、年号を覚えていないので、史実と史実の間隔がうまくつかめていない。

以下、簡易年表を書き出す。

1853年  ペリー来航

1854年  日米和親条約

1858年  日米修好通商条約

安政の大獄

1860年  桜田門外の変

1861年  和宮降嫁

1862年  坂下門外の変

生麦事件

1863年  長州藩、外国船砲撃

薩英戦争

八月十八日の政変

1864年  禁門の変

第1次長州征討

四国艦隊下関砲撃事件

奇兵隊蜂起

1866年  薩長同盟

第2次長州征討

1867年  大政奉還、討幕密勅、王政復古の大号令

最初の十年は幕藩体制が動揺しつつも動きは比較的ゆったりで、十年後の1863年あたりから、薩長が攘夷論から徐々に転換し、倒幕の動きが急になるイメージか。

同郷の木戸孝允を庇護者に明治新政府内で台頭、1873(明治六)年陸軍卿、1874年参議兼任、1883年内務卿、1885年内務大臣となる。

1885年内閣制度導入まで明治政府は太政官制。

1871年廃藩置県後、正院・左院・右院の3院制となる。

これは現在のような議院制ではなく、正院が中央政府、左院が立法機関にあたる諮問機関(1875年以降は元老院に)、右院は各省長官・次官の協議機関。

正院は、太政大臣・左右大臣の他、数人の参議からなり、この参議が実質的な閣僚となる。

1873年徴兵令公布。

同年の征韓論争では木戸と、陸軍内で恩義を受けた西郷隆盛との間で、あいまいな態度を取り、木戸に疎まれ、伊藤博文に参議就任を先に越される。

1877年西南戦争では戦地の作戦の実質的責任者。

78年大久保利通暗殺、竹橋騒動(近衛兵反乱)、参謀本部創設、山県が初代参謀本部長に。

この前後の記述で特に強調されるのが、明治国家においてはシビリアン・コントロールが順調に機能しており、武官の暴走をしっかりと抑止していたということ。

1881年明治十四年の政変、征韓論政変の教訓から山県はぶれることなく伊藤を強く支持。

82年朝鮮での壬午軍乱、84年甲申事変に対応。

82年軍人勅諭発布。

1885年内閣制度導入、初代首相伊藤博文、山県は内務大臣。

この辺の陸軍整備、軍制改革の記述はやや煩瑣なので、一部飛ばし読み。

1882~87年井上馨の条約改正交渉(鹿鳴館など欧化政策と法典整備・内地雑居)が失敗し民権派の批判が強まると、1887年保安条例、運動弾圧。

条約改正の動きは日本史教科書では一箇所にまとめて出てくるが、どの内閣(政権)の時代かがわかりにくい。

山県が中心となり、88年市制・町村制、90年府県制・郡制公布。

「山県と地方自治」というのは結びつきにくい感じだが、ドイツ人顧問モッセと協力して、中央政府の権限が強い形でだが、山県が地方自治制度を整備したと教科書にもちゃんと書いてあった。

伊藤内閣末期に大隈重信が外相として入閣、1888年黒田清隆内閣でも留任、条約改正交渉を進めるが、大審院に外国人判事任用を認める内容に反対が続出、失敗。

1889年第1次山県内閣。

同年大日本帝国憲法が発布されており、最初の議会を迎える。

国境としての「主権線」とともに朝鮮を含む「利益線」防衛のための軍備増強主張。

90年教育勅語発布。

自由党土佐派と妥協、予算成立、議会運営を乗り切る。

「土佐派の裏切り」とされるが、列強に対し文明国として議会運営能力を見せ、政府が憲法停止などの強硬措置に走らざるを得なくなるのを防ぎ、未熟な議会制のルールを守ったことでは、良かったとも言える。

第1次内閣までメモしましたが、全然終わりませんね。

続きます。

(追記:続きは以下。

山県有朋についてのメモ その1

山県有朋についてのメモ その2

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