万年初心者のための世界史ブックガイド

2010年2月26日

福田和也 『昭和天皇  第三部 金融恐慌と血盟団事件』 (文芸春秋)

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1926年の即位から1932年五・一五事件直前の血盟団事件まで。

現在刊行されているのはこの巻までです。

単に第二部を読む前に『大正天皇』を挟んだからかもしれないが、何かこの第三部を読み始めると、二部との間に省略があるような感じがするのは気のせいか。

日本共産党の結成などが詳しく扱われていないのもあるんでしょう。

本文にじっくり取り組みながら、今何年の話をしているのか、常に把握しながら読むこと。

しつこいですが、現代史は年代を正確に記憶しないと絶対に駄目です。

前近代なら精選された最重要の年号を記憶すればいいでしょうが、現代史は一年刻みに何があったかを確認できなければ、歴史の流れも理解できない。

本書の範囲内で言うと、まず昭和改元が1926年。

大正天皇崩御が12月25日なので、昭和元年は約一週間。

この年は、憲政会内閣首相の加藤高明が病死、若槻礼次郎が後継首相となる。

アメリカではクーリッジ政権下、バブル的な空前の経済繁栄が続いている。

ヨーロッパでは前年のロカルノ条約を受けてドイツが国際連盟に加盟、ソ連ではスターリンがトロツキーおよびジノヴィエフとカーメネフに対する権力闘争でほぼ勝利を固めている。

以上の通り、欧米では戦間期の束の間の小康状態であり、大きな事件は起きていないが、日本の隣国、中国では大きな動きがありましたよね?

憶えていらっしゃるでしょうか?

国民党の北伐開始ですね。

西暦の下二桁を強く意識して、1926年北伐開始、26年北伐開始と、とにかく頭にこびり付くように記憶するようにしましょう。

次、1927年(昭和2年)には金融恐慌、若槻憲政会内閣崩壊、田中義一政友会内閣成立、東方会議、第1次山東出兵。

ヨーロッパ、アメリカでは前年と同じく格段の出来事は無し、ただしやはり中国では上海(四・一二)クーデタと国共分離という大事件有り。

若槻内閣総辞職は台湾銀行救済が枢密院で否決されたからですが、この昭和初期の内閣では何が原因で倒閣になったのかをしっかり把握すること。

1928年(昭和3年)には張作霖爆殺事件、三・一五事件(日本共産党大検挙)、第2次山東出兵、済南事件、パリ不戦条約、ソ連では第1次五ヵ年計画開始。

中国史で1924年第1次国共合作→25年孫文死、五・三〇事件→26年蒋介石国民革命軍司令、北伐開始→27年上海クーデタ、国共分離→28年北伐完了、張作霖爆殺事件、という一年刻みの流れは当然すぐ頭に浮かぶようにすること。

同時期ヨーロッパの23年ルール占領→24年ドーズ案→25年ロカルノ条約も同様。

イメージ的にあまり結びつかないが、不戦条約締結時は田中義一内閣であったことは要記憶。

野党の民政党が「人民の名の下に」という文言を捉えて政府を攻撃したことは、二年後同じく野党となった政友会がロンドン海軍軍縮条約で統帥権干犯を言い立てたのと同じく、政党政治の自滅行為と言わざるを得ない。

1929年(昭和4年)、四・一六事件、田中内閣辞職、浜口雄幸民政党内閣、世界では言うまでも無くウォール街株価暴落と世界恐慌、付け加えるならヤング案成立とラテラン条約、英第2次マクドナルド労働党内閣。

第一次世界大戦は休戦が1918年、ヴェルサイユ講和条約締結が1919年。

それからちょうど10年で世界恐慌と大動乱期突入と憶える。

1930年(昭和5年)、金解禁、昭和恐慌、ロンドン海軍軍縮条約、統帥権干犯問題、浜口首相狙撃。

1931年(昭和6年)、浜口首相辞任、第2次若槻民政党内閣、三月事件、満州事変、十月事件、犬養毅政友会内閣成立。

同年フーヴァー・モラトリアム、英マクドナルド挙国一致内閣、ウェストミンスター憲章、中華ソヴィエト共和国臨時政府。

満州事変が起こったこの1931年は、言うまでも無く日本にとって一大転機の年。

若槻礼次郎はいずれも前任者の死または遭難で急遽政権を担ったが、穏健で良心的ではあっても、万難を排して国家の運命を転回させるというほどの実行力は無かったという印象だったが、本書での評価もやはりそんな感じ。

9月18日に柳条湖事件、同年それを挟んで前後に三月事件・十月事件という軍部によるクーデタ未遂が起こっている。

1932年(昭和7年)、第1次上海事変(第2次は1937年の日中戦争初期)、満州国建国、五・一五事件、オタワ会議とイギリス連邦のブロック経済化、アメリカ大統領選挙とドイツで二度の総選挙があり、翌33年のルーズヴェルト、ヒトラー両政権成立に繋がる。

以上、すべて高校レベルの事項なので要確認。

歴史解釈の面で、本書の特色を挙げると、張作霖爆殺事件の処分問題で田中義一が辞職したことについての記述がある。

この時、当初真相発表と断固とした処分を奏上していた田中が変節し、それを先帝が強く叱責したため内閣が崩壊したが、普通この事件の関与者への不処罰が軍の暴走と下克上を招いたとされる。

西園寺公望なども当初は事件の徹底解明を主張していながら、腰砕けになっており、昔は「全くとんでもない、それでも元老か」と思っていた。

しかし、本書では先帝と側近の善意を認めながら、これは経験の乏しかった治世初頭における先帝の失策であったと論じている。

中立的調停者としての天皇の役割を踏み越えており、その権威低下をもたらしてしまった。

後任の浜口雄幸への過度の肩入れや、ロンドン海軍軍縮条約で艦隊派(条約反対派)の加藤寛治軍令部長の(手続き上は何ら問題ない)上奏を侍従長が拒否したことなどと併せて、以後反対勢力が「君側の奸」を排除すると称して急進化・暴力化することに拍車をかけてしまった。

相当数の世論の支持を受けた軍人などの一筋縄ではいかない凶暴な連中を制御するには、善意や誠実さだけでなく、狡猾な権力意識や悪辣さすら必要だったのだが、先帝や牧野伸顕内大臣、鈴木貫太郎侍従長にはそれらが決定的に欠けていたとする。

鈴木の前任者で、1929年初頭に死去した外交官出身の珍田捨巳侍従長が存命であれば、同年の田中首相への問責は違った形となり、昭和の歴史は全く変っていたのではないかと書かれている。

明治国家がかなりの程度民主化され、大衆社会が成立した後、得体の知れない粗暴・矯激な世論に煽られ少壮軍人を中心とする急進的勢力が下から国家を揺さぶる。

二大政党(特に政友会)は衆愚的世論に引きずられ、愚かにも、野放図な対外強硬論を競い合い、党利党略のためには政党政治のルール自体を破壊することも厭わない。

国家の最上層の指導部に重厚・老獪な人材は払底し、ただ無思慮な多数派が形作る状況に流されるままとなる。

あとがきで著者は改めて、昭和初期における原敬と加藤高明の不在を嘆いている。

なお昭和唯一の元老西園寺に関して、いずれ読もうかと思っている伊藤之雄『元老西園寺公望』(文春新書)では、この事件で西園寺が取った態度をむしろ評価しているような記述だったはず。

以上の見解については、「へえ、そういう見方もあるのか」と非常に興味深く思った。

面白い。

相変わらずスラスラ読める。

さすがに同時代の世界史についての叙述には穴が目立つが、背景説明としては十分。

時間をかけて熟読する価値有り。

しかし3巻まで来て、1932年冒頭ですか。

やはり5巻までなら、昭和20年にも達しないでしょう。

以下、十月事件首謀者たちの描写。

「御上!」といって哄笑する声があった。「近衛の兵隊が御所で夜間警備についていた時の話だ。遅くまで、御座所の灯りがついている。大変なご勉強だと感服したら、皇后相手に麻雀の研究をされていた・・・・・」

「参謀総長や陸軍大臣が拝謁すると、御上は、嫌な顔をするらしいぞ・・・・・」

ケッ、と誰かが舌打ちをした。

だらしない声で至尊を揶揄する。それが「皇道」を唱える革新派将校たちの実態だった。兵隊たちに陛下のためにすべてを投げ出せと教えながら、君主にたいして一片の崇敬心ももっていない。

美しい理念としての「皇道」が、高く掲げられれば掲げられるほど、現し身の天皇が軽視されるという、無惨な逆説が昭和初年を象徴していた。

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2010年2月24日

フレドリック・R・ディキンソン 『大正天皇  一躍五大洲を雄飛す』 (ミネルヴァ書房)

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『昭和天皇 第二部』を終えて第三部を読む前に、大正の終焉まで行ったこともあって、少し気になっていた類書を片付けることにする。

「ミネルヴァ日本評伝選」というシリーズの中の一巻。

この手の日本史関係の伝記シリーズでは吉川弘文館の「人物叢書」が有名だが、これはそれに対抗して(?)2003年ごろから刊行され始めたもののようだ。

巻末の目録を見ると、既刊本は少ないものの、ものすごい数の歴史人物がラインナップに並んでいる。

著者はアメリカ人で、京都大学に留学し高坂正堯先生に学んでおり、本書を高坂氏に捧げている。

病弱で在位期間が短く存在感の薄い天皇という一般的イメージを退け、日本の近代化の深化と国際協調路線の象徴としての存在を再評価する内容。

あくまで、国内外における立憲君主としてのイメージを主に扱った本であり、個々の具体的史実について詳しく知ることができるわけではない。

また、近代化という価値をほぼ何の留保もなく肯定的に捉えているように思えるが、個人的にはそこにやや違和感を感じないでもない。

とは言え、読むに耐えないということもない。

200ページほどで、さほどの労力も要らずに読めるから、通読しておいても無駄にはならないでしょう。

2010年2月23日

引用文(福田和也1)

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福田和也『昭和天皇 第二部』(文芸春秋)より。

虎の門事件を起こした難波大助の大杉栄に対する複雑な感情を記した後。

森銑三によれば、震災の前年、大正十一年の夏に大杉栄と伊藤野枝が、赤坂霊南坂の頭山満を訪ねたという。

来る者を拒まない頭山は、二人を座敷に通した。

大杉は、「近頃官権の迫害がますます厳しくて、ひどい目に遭はされてゐます。少しでも緩和してくれるやうに、御尽力願はれないでせうか」と懇願したという(「頭山・杉山・大杉」『森銑三著作集』続編第五巻)。

頭山は断った。彼もまた若い頃は官憲に追及されたことがあるから、その窮状はわかるけれども、いくらなんでも筋が通らない話である。

続いて、大杉は、後藤新平を紹介してくれ、と頼んだ。

頭山は後藤を識らなかったが杉山茂丸なら紹介してくれるだろう、と云って名刺を書いてくれた。

杉山は、右翼、壮士というような枠ではかたづけられない人物である。

杉山は、大杉に、このように問いかけたという。

「君はまだその主義を押通すつもりかい。なぜ罷めてしまはないんだ」

大杉の答えが凄まじい。

「実は罷めたいとも思ふのですが、罷めたら仲間に殺されてしまひます。それから主義者でゐるからこそ食つて行かれますが、主義を棄てたら、口が干上つてしまひます」

ここまで率直に語られては、さすがのホラ丸も笑うしかなかった。

不幸にして、大杉は、みずからの生涯を憲兵によって絶たれた。伊藤野枝と甥を道連れにするという陰惨な形で。

しかし、もしも、大杉一人だけが殺されていたのならば、そんなに悪い結末でもないような気がする、というと酷すぎるだろうか。

2010年2月20日

福田和也 『昭和天皇  第二部 英国王室と関東大震災』 (文芸春秋)

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第一部に続けて読了。

皇太子時代のヨーロッパ歴訪から大正天皇崩御まで。

本巻では、1921年に行われた欧州外遊に非常に多くの紙数が割かれ、およそ半分のページが占められているのが特徴。

(第一次大戦後の西欧情勢が併せて語られるので、間延びした感じはしない。)

同年帰国後、大正天皇の健康状態が悪化したので、先帝が摂政に就任することになる。

叙述スタイルは前巻と変らず。

次々と場面を変換させ、特徴的なエピソードを積み重ねていくので、全く退屈しない。

1921年先帝を送り出したのは原敬首相だが、先帝帰国直後の、この年11月東京駅で壮士気取りの青年に原は刺殺されることになる。

その直前、9月には安田財閥創始者安田善次郎が斬殺。

東大・安田講堂のようにしかるべき寄付はしていたにも関わらず、「世論を形成する、卑しいけれど執拗な人びとを相手にしなかったため」、金を公のために投じない吝嗇金満家と憎まれていた。

『総理の値打ち』でも見られるように、著者は原敬を極めて高く評価している。

もし原が暗殺されず、昭和初期に元老として存在していれば、日本の運命は全く変っていただろうと述べている。

実際には原は亡く、いろいろな問題点はあってもやはり有能な政治家であった加藤高明は首相在任中の26年に病死、山県有朋は22年に、大隈重信も同年、松方正義は24年にそれぞれ死去、昭和に入る頃には西園寺公望だけが独り残された状態になってしまう。

日本にとっても先帝にとっても、本当に不運としか言い様がない。

なお、原は「平民宰相」と呼ばれながら普通選挙導入には消極的だったが、昭和の歴史を顧みると、やはり普選は時期尚早だったのではないかと著者は見ているし、そう言われると私も同じ感想を持つ。

1923年の関東大震災、大杉栄惨殺、亀戸事件、虎の門事件についての記述には粛然とさせられる。

元号が変っているのでかなり間が空いているように思うが、日露戦争からここまで20年も経ってないんですよね。

アナキスト・コミュニストのテロリズムとそれに対する国家の峻烈な弾圧の記述を読んでいくと、挙国一致のナショナリズムから短期間での社会風潮の変化に驚いてしまう。

現代から見ると極めて硬直的に思える国家主義的教育にも関わらずそうなったのだから、個人主義なり価値相対主義なり平等主義なりといった傾向は、近代においては浸透を遅らせることはできるが、結局いかなる手段を用いても阻止することはできないということなのかと思った。

それを楽観視できる要素と見るか、嘆かわしく危険なことと見るかは、人によって意見が分かれるでしょうが。

この第二部も非常に良い。

スラスラ読めて、かなりのスピードで通読できる。

平易な叙述でありながら、多くの知識と有益な見方を得ることができる。

初心者にとってはかなり得でしょう。

しかし、全5巻予定と広告に書いてありましたが、2巻末で即位直前なんだから、絶対終わらないでしょう。

昭和64年まではもちろん、昭和20年終戦まで行くかどうかもあやしいんじゃないでしょうか。

それがちょっと気になります。

日本郵船の奉安丸は、サイパンから北上する途中で、関東大震災の報を聞いた。同船には、南方視察を終えた元帥上原勇作と、その幕僚たちが乗りこんでいた。

三日の昼、船の事務長が、上原の副官今村均少佐の許を訪れた。

さきほど、震災後、不逞鮮人が各所を襲撃しているという電文を傍受したという。

三等船室に二人の朝鮮人がいる。みなで監視しているので、大丈夫だと思うが是非、元帥の身の上にくれぐれも気をつけていただきたい、と真剣な面持ちで云うのだ。

今村は呆れ、情けなくなった。

船には、百人からの日本人が乗りこんでいる。一体、二人で何ができるというのか。心細く、不安なのは、むしろ朝鮮人のほうだろう、と諄々と諭すと、納得したのか、しなかったのかとにかく引き下がった。

今村も、乗客や船員たちが、家族のことなどが不安で精神が不安定になっていることは認識していた。

[中略 横浜入港後]

船に戻ると、翌日の朝食に赤飯がつけられていた。

こんな時にと、今村が憤慨していると、事務長が満面の笑みであらわれた。

日本郵船本社の命令で避難民数百人を船内に収容した。そのなかの若妻が産気づき、無事男児を出産したという。

「日本の船では、船中の出産をもっとも目出度いことにしております」と、事務長はつい数日前に二人の朝鮮人に怯えたとは思えない顔で、避難民たちがいかにこの慶事に勇気づけられたかを述べた。

善良で、臆病で、残忍で、優しい日本人の顔だった。

2010年2月17日

福田和也 『昭和天皇  第一部 日露戦争と乃木希典の死』 (文芸春秋)

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先帝陛下の伝記。

この第1巻は1901(明治34)年の生誕から1921(大正10)年の欧州外遊直前まで。

月刊「文芸春秋」で連載中だが、雑誌で見たときはやや面倒に感じて飛ばし読みしたところもあったのが、単行本を手に取ると非常に面白く、読み出したら止まらなくなった。

伝記的記述に併せて、時代背景を成す出来事を一見無造作に描き出しながら、歴史の流れをパノラマのように読者の眼前に見せる。

著者のこういうスタイルを嫌う人もいるかもしれないが、私は非常に好きです。

宮中に関する史実には知らないことが多く、大変興味深い。

また、意外なところで著名人物が登場したり、登場人物の係累と交際関係がややくどいほど細かく語られているのも、なかなか読ませる。

先帝の生涯を辿りながら、日本と世界の重要史実もきちんと押さえられているので、通史的な知識も十分得られる。

史実に対する著者の評価や批評も独創的で興味深いものが多い。

はっきりとした価値観が表明されていない場合でも、さりげなく記される事実によって読者を固定観念から解き放ち、考えさせるところがしばしばある。

全般的に見た、私的感想を記すと、本書に描かれた明治・大正の国家を眺めると、人々が同質的でない、それぞれの立場を持ち、個々の役目を慎ましく果たしていたことに強い印象を受ける。

もちろん時代の流れによる変容も避けられなかっただろうが、こういう国家を敗戦による屈折も欠落も無しに、後世に伝えられていればより好ましかったのではないかと思った。

本書で描かれる日本国家の中にはもちろん、アナキスト・社会主義者などの反体制派も含まれる。

彼らを描く著者の筆致は、確かに、邪悪な国家体制に対して勇敢に戦った英雄という感じでは無いが、かといってひたすら悪罵を以て貶めるというものでもない。

そうした人々が生れるだけの矛盾と腐敗が当時の国家と社会にあったことを十分認めながら、硬直した正義感と個人的不平不満が入り混じった、ある種奇妙な存在としても描かれている。

以下、大逆事件の記述。

天皇に爆弾を投げる計画に加わり、実際に準備したのは宮下、管野、新村、古河の四人であり、幸徳秋水は宮下らに迫られても、気乗りせずはぐらかしてばかりいた。とはいえ天皇に対する直接行動に管野らが及んだことについて、幸徳をまったく無関係であるとするわけにはいかないだろう。このことは、彼らを即決裁判で死刑に処したことの当否とはまったく別のことであるが。

・・・・・政府当局が過敏になってもしかたがない状況ではあったけれども、ほとんど事件と無縁といっていい人間に、証人尋問もない裁判で、死刑判決を下したということは、明治史の一大汚点という以外ないだろう。

幸徳秋水や、管野らが天皇を敵視した経緯を見てみると、政府からのたびかさなる弾圧が主要な動因となっていた。

怜悧な論争家であり、類い稀な文章家であった幸徳秋水が、爆弾テロを構想――というほどの具体性もなかったが――するに至るのは、彼自身の、女性関係を主とする生活上のだらしなさもあずかっていたものの、容赦のない発禁や罰金、逮捕、収監などのたび重なる弾圧によって追い詰められ、救いがたい絶望感に突き動かされた側面があった。

一件を裏で指導したとされる山縣有朋とその配下の平田東助内務大臣や平沼騏一郎検事ら官僚の強圧策が賢明だったかどうか、結論づけるのはさほど難しくあるまい。強権策は、大きな反発を批判勢力に生み、それを抑えるためにさらなる強圧を政府が発動し、より強い反発を生む。不毛な連鎖が、どれほど大正の世を、そして昭和を暗くやりきれないものにしたか。

具体的記述についてあと一点。

加藤高明とアメリカとの関係。

加藤は親英派・知英派だったが、アメリカとは感覚的に距離を置いていた。

義和団事件直後、外相だった加藤は(第4次伊藤内閣か?)、台湾の対岸にあり、当時日本の勢力圏下だった福建省に租借地と貯炭基地を設けたいという米国の要請を拒否した。

義和団事件と同時期にアメリカではジョン・ヘイ国務長官が中国の「門戸開放」「機会均等」「領土保全」を唱道しているが、その直後自らがそれに矛盾する政策を取ろうとしたわけである。

この事実はジョージ・ケナン『アメリカ外交50年』でも触れられており、ケナンによればそもそも門戸開放宣言自体が当時の中国の状況に全く不適合であり、国内選挙目当ての非現実的政策であったと評している。

著者はこれを加藤の失敗とし、この時点で米国にも中国分割に参加させておけば、以後日本の中国政策を批判・妨害することはできなかったのではないかと記している。

どの本か忘れたが、あるアメリカ政府高官が「アジアに支配的な覇権国が台頭するのを防ぐことがアメリカの一貫した政策だ」と言ったことに対して、岡崎久彦氏が、「アメリカがそのような政策を一貫して取っていた事実は無い、1930年代以降の日本の軍事行動をアメリカが承認しなかったのは事実だが、20世紀初頭ロシアが東アジアを制覇する動きを見せたときに、協同してロシアを抑止しようという日本の提案をアメリカは拒否した、結局ロシアの覇権を阻止するには日本が日英同盟の助けを借りて、国運を賭けて戦わなければならなかった」という意味の反論を書いていたのを思い出す。

(岡崎氏は現在の問題では閉口するほど硬直した親米派なんですが、歴史的問題については時々こういうことを書いているのが面白い。)

以上の経緯をすべて勘案すると、1930年代に米国が執拗かつ居丈高に日本を非難し、ついに開戦にまで追い込んだことは、(日本も中国大陸での軍事行動を拡大させた責任はあるにせよ)非常に腹立たしく思えてくる。

かなり面白い。

多面的な切り口を持った視野の広い本。

先帝の個人的生涯を知る以外にも、幅広く使える。

「こんな右寄りの著者が書いた昭和天皇伝なんて読みたくないよ!!!」という方にこそ、是非読んで頂きたい本。

2010年2月15日

中島敦 『李陵・山月記』 (新潮文庫)

Filed under: 中国 — 万年初心者 @ 06:00

時々ある、以前一読したまま忘れていた本のタイトルだけ出して誤魔化す記事です。

「山月記」は高校の現代文の教科書に載ってたので読みました。

それが中々面白く、やたら薄い本ながら一応歴史小説も入っているというので、大学時代読んだはずです。

漢の武帝に仕えた李陵・蘇武・司馬遷の三者三様の生き様を活写した「李陵」。

孔子の弟子で、直情家の硬骨漢である子路を描いた「弟子」。

普通の歴史小説はこの二編か。

短いので楽に読めるし、それでいて面白いです。

他には・・・・・・書くことが無い・・・・・・。

今日はこれだけです。

2010年2月13日

夏目漱石 『私の個人主義』 (講談社学術文庫)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 06:00

漱石の講演だけを集めた本。

「道楽と職業」、「現代日本の開花」、「中味と形式」、「文芸と道徳」、「私の個人主義」の5編。

そのうち「現代日本の開花」は、高校の現代文の教科書で見た覚えがあるが、今の教科書でも載せられているんでしょうか。

どれも極めて平易で楽に読める。

それでいて中々考えさせられる部分が多い。

『思想史の相貌』では、福沢諭吉、福田恒存と並んで高く評価されている数少ない人。

本書を読むと、「中庸の徳」、「健全な平衡感覚」、「安定した常識」といった印象を強く受ける。

誰でも読める本なので、一読しておくと良いでしょう。

今までの論旨をかい摘んで見ると、第一に自己の個性の発展を仕遂げようと思うならば、同時に他人の個性も尊重しなければならないという事。第二に自己の所有している権力を使用しようと思うならば、それに付随している義務というものを心得なければならないという事。第三に自己の金力を示そうと願うなら、それに伴う責任を重じなければならないという事。つまりこの三ヵ条に帰着するのであります。

これを外の言葉で言い直すと、いやしくも倫理的に、ある程度の修養を積んだ人でなければ、個性を発展する価値もなし、権力を使う価値もなし、また金力を使う価値もないという事になるのです。それをもう一遍いい換えると、この三者を自由に享け楽しむためには、その三つのものの背後にあるべき人格の支配を受ける必要が起って来るというのです。もし人格のないものが無暗に個性を発展しようとすると、他を妨害する、権力を用いようとすると、濫用に流れる、金力を使おうとすれば、社会の腐敗をもたらす。随分危険な現象を呈するに至るのです。・・・・・

話が少し横へそれますが、御存じの通りイギリスという国は大変自由を尊ぶ国であります。それほど自由を愛する国でありながら、またイギリスほど秩序の調った国はありません。実をいうと私はイギリスを好かないのです。嫌いではあるが事実だから仕方なしに申し上げます。あれほど自由でそうしてあれほど秩序の行き届いた国は恐らく世界中にないでしょう。日本などは到底比較にもなりません。しかし彼らはただ自由なのではありません。自分の自由を愛するとともに他の自由を尊敬するように、小供[ママ]の時分から社会的教育をちゃんと受けているのです。だから彼らの自由の背後にはきっと義務という観念が伴っています。England expects every man to do his duty といった有名なネルソンの言葉は決して当座限りの意味のものではないのです。彼らの自由と表裏して発達して来た深い根柢をもった思想に違いないのです。

それで私は何も英国を手本にするという意味ではないのですけれども、要するに義務心を持っていない自由は本当の自由ではないと考えます。というものは、そうした我儘な自由は決して社会に存在し得ないからであります。・・・・・

それからもう一つ誤解を防ぐために一言しておきたいのですが、何だか個人主義というとちょっと国家主義の反対で、それを打ち壊すように取られますが、そんな理屈の立たない漫然としたものではないのです。一体何々主義という事は私のあまり好まない所で、人間がそう一つの主義に片付けられるものではあるまいとは思いますが、説明のためですから、ここには已むを得ず、主義という文字の下に色々の事を申し上げます。ある人は今の日本はどうしても国家主義でなければ立ち行かないようにいい振らしまたそう考えています。しかも個人主義なるものを蹂躙しなければ国家が亡びるような事を唱道するものも少なくありません。けれどもそんな馬鹿気たはずは決してありようがないのです。事実私共は国家主義でもあり、世界主義でもあり、同時にまた個人主義でもあるのです。

個人の幸福の基礎となるべき個人主義は個人の自由がその内容になっているには相違ありませんが、各人の享受するその自由というものは国家の安危に従って、寒暖計のように上ったり下ったりするのです。これは理論というよりもむしろ事実から出る理論といった方が好いかも知れません、つまり自然の状態がそうなって来るのです。国家が危くなれば個人の自由が狭められ、国家が泰平の時には個人の自由が膨張して来る、それが当然の話です。いやしくも人格のある以上、それを踏み違えて、国家の亡びるか亡びないかという場合に、疳違いをしてただ無暗に個性の発展ばかり目懸けている人はないはずです。私のいう個人主義のうちには、火事が済んでもまだ火事頭巾が必要だといって、用もないのに窮屈がる人に対する忠告も含まれていると考えて下さい。

2010年2月11日

植手通有 責任編集 『日本の名著34 西周 加藤弘之』 (中央公論社)

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この巻で読んだのは、加藤弘之の『人権新説』だけです。

猪木正道『軍国日本の興亡』と同じく、こちらのブログを見て、読む気になりました。

この「日本の名著」シリーズは基本的に、前近代のものは現代語訳して、本書を含め近代のものは仮名遣いなどを変更して読みやすくしてあるみたいです。

高校時代文系だったくせに、古文が死ぬほど嫌いだった私にはありがたい。

あの「古典文法」というやつは、今思い出してもジンマシンが出そうです。

閑話休題。

「加藤弘之?知らんなあ・・・・・」と思ってたんですが、明治初期に社会進化論の立場から民権派の天賦人権論を批判したと、『人権新説』の書名と共に、日本史教科書にちゃんと名前が出てますね。

すっかり忘れてました。

「社会進化論? ダーウィンの適者生存説のことか。そういう弱肉強食の世界観から普遍的な人権概念を否定したのか? 全くとんでもない奴だ! 低劣な藩閥政府の御用学者め!」というのが大概の人の第一印象かと思いますし、私も高校生の頃そう感じたはずです。

実際読んでみると、そうそう矯激なことを言っているわけでもない。

まず「優勝劣敗」という進化主義の原則が人間社会の歴史においても貫徹していることを強調するが、社会契約説が想定するような自然状態は文字通りの弱肉強食の凄惨な世界であり、その中の最優等者が徐々に秩序を形成し弱者を保護してきたとする。

著者はそれを「大優勝劣敗の作用を用いて、もって小優勝劣敗の作用を制するをえたる」と表現している。

そうした歴史的経緯を経て人々の多様な権利は成り立ってきたのであり、無条件かつ機械的に同質的権利が全ての人間に与えられているとするのは「妄想」だとまで言っている。

また社会の優勢なる勢力が必ずしも正義でないことも認めている。

優勝劣敗の文字たる、もとより字面において明瞭なるが、ごとく、ただ優者が勝ち、劣者が敗るというの義を徴するのみ。・・・・・けだし正善なる優者が勝を得て、暴悪なる劣者を倒せば、これすなわち良正なる優勝劣敗というべく、また暴悪なる優者が勝を得て、正善なる劣者を倒せば、これすなわち邪悪なる優勝劣敗というべきなり。・・・・・はたしてしからばたんに力の一点よりいえる優勝劣敗の文字をもって、ただちにこれを不祥文字とし、したがいてこの書をもって人民を不正・不義に誘導するにたるの悪書となすがごときは、はなはだしき暴言といわざるをえざるなり。

「優勝劣敗」が過去においてはしばしば多くの不正を含んでいたが、近代において上流市民が優者として社会の実権を握るにつれ、概ね公正で穏当な秩序が作られるようになった、こうした社会の漸進的進歩を急進的変化によって遮ってはならない、といったことが書いてあるんだと思います。

かなり短い作品だし、以上の要約は多分それほど間違っていないと思いますが・・・・・・。

例によって、あまり当てにしないで下さい。

自然科学の概念をそのまま適用して、社会を解釈する姿勢に何とも言えない違和感を感じますし、他にも今読むと「いや、これはちょっと・・・・・」と思う所がいくつかありますが、まあ面白くないことはない。

ボルク氏[英人]は、仏国顚覆党の主義を駁撃せる論説中に「およそ邦国はひとり今日生存するところの吾人人民の団結社会にあらず。吾人人民が吾人の祖先よりこれを享受し、さらに吾人の子孫に譲与するものなれば、ひとり今日の吾人人民がみだりにこの社会を紊乱するがごときはけっして許すべからず」といい・・・・・・

という部分があるんですが(「ボルク氏」ってまず間違いなくバークのことでしょうね。『フランス革命の省察』に上記引用文と同意味の文章があった記憶が確かにあります。)、社会進化論ではなく、こういう視点をもっと前面に出して論じてもらえば、今読んでもより説得的な作品になったのではないかと、偉そうな言い方ですが感じてしまう。

読んでも無駄にはならないでしょう。

本作への評価は別にして、自由とか民主主義とか人権とかの概念は、現代においてもう疑いようもない価値と認められているのだから、我々が福沢諭吉など明治の先人に学ぶべきなのは、むしろ近代の意義を十分認めながらも同時にそれらへの懐疑を保っていた一面ではないかなと愚考する次第です。

2010年2月9日

細川道久 『カナダの歴史がわかる25話』 (明石書店)

Filed under: アメリカ — 万年初心者 @ 06:00

初めて読むカナダ史単独の本。

カテゴリはやむを得ずアメリカにします。

この出版社からは「エリア・スタディーズ」と題して、『○○を知るための○○章』といったタイトルの本が国別に、ものすごい数が出ており、本書は書名は似ているがそれとは別のシリーズのようです。

本文が200ページ弱と短いし、非常に平易で読みやすい記述スタイル。

史書というより、歴史エッセイに近い体裁。

しかし、高校世界史では、カナダ史などは英仏植民地抗争の所と、大英帝国内の自治領成立だけしか触れられない状態ですから、ほぼ白紙状態の初心者が最初に読むにはこれくらいの本の方がいいでしょう。

一番平易な概略だけ確認すると、まず15世紀末英国王ヘンリ7世の命を受けたジョン・カボットがカナダ東岸を探検。

16世紀前半フランスのカルティエがセントローレンス川を探検、17世紀初頭にはシャンプランがケベックを建設、カナダはフランス勢力下に入る。

スペイン継承戦争とアン女王戦争後の、1713年ユトレヒト条約によってニューファンドランド島、アカディア(ノヴァスコシア)、ハドソン湾地方という周縁部がイギリス領に。

七年戦争とフレンチ・インディアン戦争後の、1763年パリ条約でケベックを中心とするカナダ本体もイギリス領に。

アメリカ独立戦争では本国への忠誠を守り、13植民地に荷担せず。

主要都市として、セントローレンス川沿いにケベックがあり、南に遡るとモントリオール。

トロントはさらに南、五大湖のオンタリオ湖西岸沿いにあり、トロントとモントリオールの間に首都のオタワがある。

中心はケベック州とオンタリオ州で、ケベック州にはフランス系住民が多く、分離独立の要求が根強くあった。

太平洋側のブリティッシュ・コロンビア州にもうすぐ冬期五輪が行われるヴァンクーヴァーがある。

1867年カナダ自治領成立。

初代首相ジョン・A・マクドナルド。

(他の首相として、19世紀末南アフリカ戦争時のローリエ、戦間期と第二次大戦時のキングの名前が出てくる。)

この自治領(ドミニオン)は内政自治権のみを持ち、外交・防衛はイギリス本国が依然権限を持っている。

1867年と言えば、アメリカは南北戦争が終了した直後で同年ロシアからアラスカを買収して南北双方でカナダと接し、イギリス本国では第2回選挙法改正、マルクスが『資本論』を刊行し、ドイツでは前年の普墺戦争を受けて、北ドイツ連邦結成、オーストリア・ハンガリー二重帝国成立、そして日本ではもちろん大政奉還があった年。

ちなみに1901年オーストラリアが、1907年ニュージーランドが、1910年南アフリカがそれぞれ自治領になっている。

これが1926年英帝国会議で本国と自治領の対等の地位が認められ、1931年ウェストミンスター憲章制定、独自の外交権も認められ、英帝国は英連邦に変わる。

今も、カナダは(オーストラリア、ニュージーランドと同じく)英国王を元首とする立憲君主制で、現地には総督が存在。

何年か前に、オーストラリアで共和制移行を問う国民投票があり否決されましたが、もちろんオーストラリア現地に王様がいるわけはなく、エリザベス女王を元首とするのを止めて大統領を選出するかどうかが問われたもの。

なお、カナダとイギリス、アメリカの三国関係について、ジョージ・ケナンが『アメリカ外交50年』で、19世紀のアメリカの安全は実質イギリスに依存しており、英海軍の力が欧州列強から新大陸を守っていた、そして英海軍自体がアメリカを害さない保証として、英帝国の一部であるカナダは絶妙な「人質」の役目を果たしていたという意味のことを書いていたのが記憶に残っている。

まあ、普通です。

最も初歩的な入門書としては悪くないんじゃないでしょうか。

しかし、次のカナダ史として何を読むべきかわかりません。

2010年2月7日

山県有朋についてのメモ その2

Filed under: おしらせ・雑記, 近代日本 — 万年初心者 @ 06:00

その1の続き。

1900年旧自由党勢力の憲政会が伊藤博文を党首に立憲政友会結成、同年第4次伊藤内閣が成立するが短期間で倒れる。

1901年第1次桂太郎内閣。

日英同盟と日露戦争、山県は参謀総長に。

戦後政友会に政権を譲る代わりに戦中の協力を取り付ける密約。

1906年第1次西園寺公望内閣。

政友会。

日露戦争後も日本陸軍の南満州占領が続いており、戦争前のロシアに対するのと同じような疑惑の目が日本に向けられ、アメリカや同盟国のイギリスなど列強からの批判が集まる。

児玉源太郎が軍政継続に固執したのに対し、伊藤博文がそれを徹底的に論破、日本の権益はポーツマス条約で認められたもののみであり、満州の主権は疑いなく清国にあるとして軍政を廃止させる。

陸軍を完全に押さえ込み、国際協調路線を貫徹した、伊藤のこの見事なリーダーシップは猪木正道『軍国日本の興亡』(中公新書)でも絶賛されていた。

前回「その1」の記事でも書いたアモイ事件と併せて、児玉の良好なイメージがかなり崩れる事例ではある。

『坂の上の雲』では乃木とは比べものにならないほど好意的に描かれていた東郷平八郎元帥も最晩年はロンドン条約統帥権干犯問題で艦隊派に担がれたりと、いろいろあったようですから、人物の評価というのは本当に難しいものですね。

この問題でも山県は当初児玉に理解を示すが、結局意見を変え伊藤に同意。

著者はこの種の柔軟性を山県の長所として認めている。

1908年第2次桂内閣。

山県と桂の関係が悪化。山県は陸相の寺内正毅に期待をかける。

09年伊藤暗殺、10年韓国併合。

1911年第2次西園寺内閣。

11年辛亥革命、12年明治天皇崩御。

1912年第3次桂内閣。

護憲運動、大正政変。

1913年第1次山本権兵衛内閣。

政友会の支持を受け、内相原敬など閣僚の多くが政友会党員。

軍部大臣現役武官制を改め、(政党にも加入できる)予備役・後備役の大将・中将でも可能とする。

文官任用令を改正、各省次官など自由任用拡大、要するに第2次山県内閣と全く逆のことを行う。

シーメンス事件で倒壊。

1914年第2次大隈内閣。

外相加藤高明、蔵相若槻礼次郎。

第一次世界大戦参戦、15年二十一か条要求、これで勃興しつつあった中国ナショナリズムの標的にわざわざ日本がなってしまう。

大隈・加藤の政党政治家がこの愚行を為したのには困ったもんだなあと思う。

後年、犬養毅がロンドン海軍軍縮条約をめぐって政府を統帥権干犯として攻撃したが、高坂正堯先生がこれについて『世界史の中から考える』(新潮選書)で、

・・・・・そのようなことを“憲政の神様”が言ったことは、考えさせられることで、どうも日本では立派な抽象的原則をふりかざして民衆に訴える人間が、政略となると道義心をかなぐり捨てて恥じないところがあるように思われる。

と書いていたのをふと思い出した。

山県は、この時期、人種間紛争の激化を懸念、中国との関係改善と日露同盟を主張。

ロシア革命が起こるなど、予測は大きく外れるが、強圧的な中国政策の転換を主張したことは評価される。

大陸進出はあくまで列強との協調が前提であり、満蒙利権のみならず中央政府に日本人の政治・財政・軍事顧問を置くなどとした第五号要求を入れたため、二十一か条要求が中国以外の国々からも異議を受けたとして、山県は批判した。

1916年寺内正毅内閣。

超然内閣。

加藤高明、憲政会結成(1898年に出来たのは憲政「党」)。

シベリア出兵。

山県はボリシェヴィキへの反感と帝政への同情を持ちながらも、アメリカが共同出兵を持ちかけるまで出兵に慎重であった。

米騒動などの不手際で寺内にも失望。

1918年原敬内閣。

政友会の本格的政党内閣。

筋金入りの政党嫌いにも関わらず、最晩年の山県は原の力量を認め高く評価するようになる。

しかし1921年原は暗殺され、高橋是清が後任。

原かせめて加藤高明でも元老として昭和に生きていれば、日本の運命も変ったかもしれないと別の本に書かれてあった。

1922年山県死去。

同年の直前に大隈も亡くなっている。

国葬にも関わらず、参列者は少なく寂しいものだったと書かれている。

やっと終わりました・・・・・・。

疲れましたが、明治の政治史を復習できてよかったと思うことにします。

2010年2月5日

山県有朋についてのメモ その1

Filed under: おしらせ・雑記, 近代日本 — 万年初心者 @ 06:00

伊藤之雄『山県有朋』(文春新書)の記事続き。

1891年第1次松方正義内閣。

大津事件で青木周蔵外相の条約改正交渉挫折。

この時期から政党に妥協的な伊藤とそれに批判的な山県との対立。

1892年第2次伊藤内閣。

この内閣で日清戦争を戦う。

山県は第一軍司令官として出征するが病気もあり帰国。

戦後、山県はイギリスを警戒し、ロシアと談合することを説くが、実際にはロシアが中心となって露・仏・独の三国干渉が行われ、その方針は全く的外れとなる。

山県には鋭い外交感覚があったとは言えず、この時も政党政治の発達したイギリスへの嫌悪が判断を濁らせたと書いてあり、そういう価値観は全くわからないでもないが、やはりこれは大きなエラーだなと思ってしまう。

96年ニコライ2世戴冠式出席するため訪露、山県・ロバノフ協定締結、朝鮮における日露対等の地位を認める。

この時期の国内政局では伊藤が自由党と、松方が進歩党(改進党)と連携し、山県が藩閥官僚の頭首となる(96年には板垣退助が内相として入閣)。

1896年第2次松方内閣。

外相大隈。

このように、明治政治史をやや細部まで見ていくと大隈・板垣の政党勢力がしばしば入閣している。

少し後の隈板内閣以外にも、こうした積み重ねがあって大正の原敬内閣があるんだなと実感。

ここで動きの激しい、1898(明治31)年の政局が来ます。

1898年第3次伊藤内閣。

山県の子飼いで後継者の桂太郎が陸相就任。

ロシアと西・ローゼン協定。前述の山県・ロバノフ協定と同じく朝鮮での日露対等を定めるが日本の経済進出を認めるやや有利な内容。

1898年自由・進歩両党が合併して絶対多数政党、憲政党を結成、第1次大隈重信内閣。

陸海相以外の閣僚は憲政党員、初の政党内閣、内部対立で短期間で崩壊。

自由党系の憲政党と進歩党系の憲政本党に分裂。

1898年第2次山県内閣。

板垣ら土佐派から星亨に主導権の移った憲政党と連携。

文官任用令改正・文官分限令制定、勅任官の自由任用制限、政党の官僚進出阻止。

軍部大臣現役武官制。

1900年北清事変(義和団の乱)。

ここで非常に注目すべきだなと思ったアモイ(厦門)事件というものの記述が出てくる。

本書を読むまで全く知らなかったのだが、義和団事件の際、当時の児玉源太郎台湾総督がドサクサ紛れに対岸の福建省支配を狙ってアモイで意図的な騒乱を起こし、小兵力を本国から派兵させた事件。

イギリスなど列強から撤兵要求がきて、児玉はアモイ占領に固執したが、伊藤博文は強く撤兵を主張。

山県は児玉と同じく大陸進出に同意する意見も持つが、列強からの孤立を恐れる慎重さも持ち合わせており、首相の山県と軍中央は撤兵に応じる。

児玉源太郎といえば、司馬遼太郎『坂の上の雲』(文春文庫)では、精神主義が空回りする乃木希典に対して、日本陸軍のリアリズムと合理性を象徴するヒーローとして描かれているが、本書でのこのアモイ事件や後述する日露戦後の満州軍政継続問題での動きを見ると、危ういなあという感想を禁じえない。

旧軍の悪しき部分の萌芽は、乃木ではなくむしろ児玉にあったのではないかとさえ思うというのは言い過ぎか。

同じ1900年には治安警察法制定、これは主に労働運動取締りのためで、1875年讒謗律(←つぶれていて読めないかもしれませんが「ざんぼうりつ」と読みます。「ざんぼう」の読みで一発漢字変換できたのに驚いた。)と新聞紙条例、1880年集会条例、1887年保安条例が政党勢力を抑圧するためのものであったのとは異なる。

文字を大きくしましたが、これでも見にくいですね。→讒謗

第2次内閣まで来ましたが、本格的にメモしだすと止まらない。

まだ続きます。

2010年2月3日

伊藤之雄 『山県有朋 愚直な権力者の生涯』 (文春新書)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 06:00

この人のことを好きだという人は、果たしているんでしょうか?

陸軍長州閥の祖で、「主権線」と「利益線」の概念により大陸進出への志向を持ち、軍部大臣現役武官制の制定で後世の軍国主義に道を開き、開明的な伊藤博文に対して、政党政治に執拗な敵意を持ち大正年間に至るまでそれを妨害し続けた頑迷固陋な藩閥政治家、といったところが、大抵の人が高校までの歴史教育でこの人物について持っているイメージでしょう。

個人的には、『石橋湛山評論集』(岩波文庫)で、死去時に「死もまた社会奉仕」とまで書かれていたことが印象に残っている。

本書は、そうしたイメージを一度御破算にして、その政治人生を忠実に辿っていくもの。

09年2月刊、最近なぜか増えたような気がする分厚い新書で、470ページ超。

山県は1838年に長州藩下級武士の子として生れる。

前年の1837年には大塩平八郎の乱があり、英国ではヴィクトリア女王が即位している。

吉田松陰の松下村塾に入門、のち奇兵隊の軍監(隊長である総管に次ぐ地位)となり、戊辰戦争で活躍。

この幕末の部分では、大体のストーリーは頭に入っているのだが、年号を覚えていないので、史実と史実の間隔がうまくつかめていない。

以下、簡易年表を書き出す。

1853年  ペリー来航

1854年  日米和親条約

1858年  日米修好通商条約

安政の大獄

1860年  桜田門外の変

1861年  和宮降嫁

1862年  坂下門外の変

生麦事件

1863年  長州藩、外国船砲撃

薩英戦争

八月十八日の政変

1864年  禁門の変

第1次長州征討

四国艦隊下関砲撃事件

奇兵隊蜂起

1866年  薩長同盟

第2次長州征討

1867年  大政奉還、討幕密勅、王政復古の大号令

最初の十年は幕藩体制が動揺しつつも動きは比較的ゆったりで、十年後の1863年あたりから、薩長が攘夷論から徐々に転換し、倒幕の動きが急になるイメージか。

同郷の木戸孝允を庇護者に明治新政府内で台頭、1873(明治六)年陸軍卿、1874年参議兼任、1883年内務卿、1885年内務大臣となる。

1885年内閣制度導入まで明治政府は太政官制。

1871年廃藩置県後、正院・左院・右院の3院制となる。

これは現在のような議院制ではなく、正院が中央政府、左院が立法機関にあたる諮問機関(1875年以降は元老院に)、右院は各省長官・次官の協議機関。

正院は、太政大臣・左右大臣の他、数人の参議からなり、この参議が実質的な閣僚となる。

1873年徴兵令公布。

同年の征韓論争では木戸と、陸軍内で恩義を受けた西郷隆盛との間で、あいまいな態度を取り、木戸に疎まれ、伊藤博文に参議就任を先に越される。

1877年西南戦争では戦地の作戦の実質的責任者。

78年大久保利通暗殺、竹橋騒動(近衛兵反乱)、参謀本部創設、山県が初代参謀本部長に。

この前後の記述で特に強調されるのが、明治国家においてはシビリアン・コントロールが順調に機能しており、武官の暴走をしっかりと抑止していたということ。

1881年明治十四年の政変、征韓論政変の教訓から山県はぶれることなく伊藤を強く支持。

82年朝鮮での壬午軍乱、84年甲申事変に対応。

82年軍人勅諭発布。

1885年内閣制度導入、初代首相伊藤博文、山県は内務大臣。

この辺の陸軍整備、軍制改革の記述はやや煩瑣なので、一部飛ばし読み。

1882~87年井上馨の条約改正交渉(鹿鳴館など欧化政策と法典整備・内地雑居)が失敗し民権派の批判が強まると、1887年保安条例、運動弾圧。

条約改正の動きは日本史教科書では一箇所にまとめて出てくるが、どの内閣(政権)の時代かがわかりにくい。

山県が中心となり、88年市制・町村制、90年府県制・郡制公布。

「山県と地方自治」というのは結びつきにくい感じだが、ドイツ人顧問モッセと協力して、中央政府の権限が強い形でだが、山県が地方自治制度を整備したと教科書にもちゃんと書いてあった。

伊藤内閣末期に大隈重信が外相として入閣、1888年黒田清隆内閣でも留任、条約改正交渉を進めるが、大審院に外国人判事任用を認める内容に反対が続出、失敗。

1889年第1次山県内閣。

同年大日本帝国憲法が発布されており、最初の議会を迎える。

国境としての「主権線」とともに朝鮮を含む「利益線」防衛のための軍備増強主張。

90年教育勅語発布。

自由党土佐派と妥協、予算成立、議会運営を乗り切る。

「土佐派の裏切り」とされるが、列強に対し文明国として議会運営能力を見せ、政府が憲法停止などの強硬措置に走らざるを得なくなるのを防ぎ、未熟な議会制のルールを守ったことでは、良かったとも言える。

第1次内閣までメモしましたが、全然終わりませんね。

続きます。

(追記:続きは以下。

山県有朋についてのメモ その1

山県有朋についてのメモ その2

2010年2月1日

プラトーン 『ソークラテースの弁明 クリトーン パイドーン』 (新潮文庫)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 06:00

たとえ判らなくても、たまにはこういう本も読まにゃいかんなと思い、これを手に取る。

以前、表題作のうち前二者の入った岩波文庫の訳本を読んだことがあった。

この訳だと『パイドン』も入っていてお得だなと思うところが、自分の場合読むのが余計面倒になると感じるのだから、お里が知れる。

しかし、以下のHPを眺めていると、不思議と読書意欲が湧いてくる。

ギリシア哲学への招待状

架空の講義形式でギリシア哲学を平易に解説しているが、読んでいると楽しい。

うちのブログもこういうふうに見た人の読書意欲を促進するものであればいいんですがね・・・・・・。

訳者の一人は、有名なギリシア哲学者の田中美知太郎氏。

本書を読み始めるとき、「まあ一日40ページ程だけ読むことにして、一週間くらいかけて読了できればいいか」と思っていたんですが、結果的には週末の一日半で済んだ。

自分でも驚くほど平易に通読できた。

ペロポネソス戦争敗戦後の紀元前399年、アテネで裁判にかけられた際のソクラテスを記した『弁明』と、獄中のソクラテスを訪ね脱獄を勧める親友に対して語った対話『クリトン』、死刑執行直前に霊魂の不滅について弟子と語った『パイドン』。

『弁明』と『クリトン』では、民主主義国家アテネで、多数派が振るう言論の暴力に対する抵抗という、岩波文庫版を読んだ時には明確に思い浮かばなかった一面を感じた。

『パイドン』で魂の不死・不滅を証明しようとする論理とレトリックは、私のように哲学に全く暗い人間でもじっくり読めば理解できるし、面白さを十分感じ取れる。

末尾の、もう一人の訳者池田美恵氏による解説も非常に有益。

全くの初心者でも、臆せず手に取るべき本。

解説にもあるように近代以降の哲学書に比べれば、この時代の本はまだしも読める。

と言って、私の場合類書を次々読むということはできそうにないですが・・・・・・。

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