万年初心者のための世界史ブックガイド

2010年1月29日

後藤乾一 山崎功 『スカルノ  インドネシア「建国の父」と日本』 (吉川弘文館)

Filed under: 東南アジア — 万年初心者 @ 06:00

「歴史文化ライブラリー」というシリーズの中の一冊で2001年刊。

このシリーズは相当の数が出ているが、ほとんどが日本史関係の巻で、本書のような世界史関係は珍しい気がする。

ちなみに、巻末の「刊行のことば」を読むと、「小社は、安政四年(1857)の創業以来・・・・・」という文字が目に入って「おおっ、そんなになるんですか」と思った。

インドネシア初代大統領の伝記。

読む前に中学レベルの事を以下で確認。

インドネシアは東南アジア最南部の島嶼国家。

人口は2億人を超え、世界最大のイスラム教国。

外務省HPに1億6千万人と書いてあるので、次がパキスタンか?

だとすると1位・2位が東南アジア・南アジアの国が占め、いずれも中東ではないのが面白い。

まずマレー半島に沿う形でスマトラ島があり、その東に一回り小さなジャワ島。

国の中心はジャワ島で首都のジャカルタは島の北西部にある。

人口がジャワ島に集中し過ぎているので他の島への移住を政府が奨励しているという新聞記事を数年前読んだ記憶があります。

ジャワ島のすぐ東に観光地として有名なバリ島があり、ここはヒンドゥー文化圏が残存。

さらに東にいくつかの島があって、その先にはティモール島。

東半分はオランダ植民地ではなくポルトガル領で、1975年ポルトガル民主化を契機に76年インドネシアが併合、スハルト体制崩壊後2002年に独立、という経緯は周知の通り。

ジャワの北側にカリマンタン島というやたらでかい島があり、北西部はマレーシア領と独立国のブルネイがあるが他の領域はインドネシア領。

その東側に何とも妙な形のスラウェシ島。

この二つの島は面積は大きいが重要性は低いようで、本書を含めインドネシア史の本ではあまり表舞台には出てこない。

さらに東に進むと香料産地として大航海時代に出てくるモルッカ(マルク)諸島があり、その隣がニューギニア島。

その西半分はイリアンジャヤとしてインドネシア領、東半分は独立国パプア・ニューギニア(1975年オーストラリアから独立)。

前置きが長過ぎましたが、以下内容メモ。

スカルノは1901年、20世紀開幕と共に、東ジャワの州都スラバヤに下級貴族の子として生れる。

父の友人で1911年(本書では1912年)結成された民族主義団体サレカット・イスラム(イスラム同盟)党首チョクロアミノトの家に寄宿し、政治への関心を深めてのち、バンドン工科大学で学ぶ。

他の組織として1908年ジャワの知識青年が結成した穏健ナショナリズム路線のブディ・ウトモがある。

第一次大戦後の1920年にはインドネシア共産党結成。

中国共産党が1921年、日本共産党が1922年結成だから、それらよりも早く、これがアジア初の共産党(同20年にはモンゴル人民革命党も誕生しているがこれは名称も違うし数えないんでしょうな)。

1927年スカルノを中心にバンドンでインドネシア国民同盟(翌28年に国民党と改称)結成。

武力闘争を否定すると共に、蘭印政庁との協力路線も拒否し、大規模な大衆運動を組織する「非協力」路線を選ぶ。

アジア唯一の帝国主義列強、日本に対する複雑な期待と警戒。

西欧的社会主義に傾倒する同志のハッタ、シャフリルと同じく、マルクス主義の洗礼を一部受けたスカルノも対日警戒心を持つが、国際関係の悪化に伴い、以下のように発言していたという。

「民主主義と軍国主義のどちらを選ぶかと尋ねられれば民主主義を選ぶ。しかしながら、もしオランダ民主主義を選ぶか日本軍国主義を選ぶかと問われれば、日本軍国主義を選ぶ」

31年国民党分裂、穏健派のハッタがインドネシア国民教育協会結成。

33年スカルノは逮捕され、以後八年間流刑生活を強いられる。

1942年3月蘭領東インド崩壊、日本軍政時代始まる。

スカルノは対日協力に踏み切り、日本への批判と警戒をより強く持っていたハッタもやむを得ず行動を共にする。

日本は重要資源確保の思惑から、ビルマ・フィリピンと異なり、当初はインドネシア独立を容認せず、1943年の大東亜会議にもインドネシア代表は招かれず(44年ジャワのみの、近い将来の独立が約束される)。

日本降伏直後、1945年8月17日共和国独立宣言。

復帰してきたオランダとの独立闘争開始。

この時期の叙述、独立派が一枚岩ではなく、抗争と交渉が繰り返されるので、非常にわかりにくい。

まず、優位にある連合国との交渉のため、「対日協力者」のレッテルを貼られた大統領のスカルノが表舞台から退いて、日本軍との軋轢があった副大統領ハッタと、同じく穏健派で対日協力を行わなかった首相シャフリルが前面に出る形となる。

ハッタ、シャフリルの漸進的協調的独立路線に対して、スカルノを支持する一般民衆の急進的独立路線が対立、各地でオランダとの武力紛争が頻発。

タン・マラカら民族共産主義勢力に主導権が移るのを恐れるスカルノは当初シャフリル路線を支持するが、46年1月オランダの圧迫を受けて共和国政府がジャワ島中部ジョクジャカルタに遷都すると、シャフリルは孤立化。

一時シャフリルが辞任するが、スカルノはオランダとの交渉をまとめるため再度シャフリルに組閣を命じ、暴発してクーデタを企てたとしてタン・マラカ派を逮捕・投獄。

46年11月リンガルジャティ協定締結、ジャワ・スマトラを領域とする共和国の事実上の独立、オランダ女王を首長とするオランダ・インドネシア連合樹立、非インドネシア人の権利・財産回復、ジャワ・スマトラ以外では親オランダ的な傀儡的国家や自治地域が存在。

47年6月オランダが実質的に植民地体制再建に等しい要求を行うと、シャフリルは退陣、同じ社会党系のシャリフディンが組閣、それに乗じて7月にオランダは「警察行動」と称して軍事侵攻開始。

48年1月国連の仲裁・監視の下、リンガルジャティ協定実施を定めたレンヴィル協定調印。

シャリフディン内閣に対する非難が巻き起こり、内閣退陣、ハッタが組閣、下野したシャリフディンは左傾化し共産党と連携、スカルノは共産党への対抗策として、同じ左派勢力ながら民族主義色が強く、親ソ的な共産党とは強く対立していたタン・マラカ派の関係者を恩赦・釈放。

48年ビルマ・マラヤの共産党武装蜂起に続き、モスクワから帰国したムソが共産党を指導、シャリフディン派の軍隊が東ジャワのマディウン市で反乱を起こし、スカルノを攻撃。

オランダと共産勢力との両面作戦を強いられた共和国政府は危機に陥るが、国軍はスカルノへの忠誠を守り、マディウン蜂起を鎮圧。

48年12月オランダが「第二次警察行動」として軍事侵攻開始、スカルノ・ハッタが捕らえられるが、共和国側は臨時政府を樹立し激しく抵抗、オランダの国力も限界に達し、49年12月ハーグ円卓協定で連邦国家内の共和国優位を定められ、同月インドネシア連邦共和国に主権移譲(ただし西ニューギニアはオランダ領のまま)。

翌50年親オランダ勢力の反乱を鎮圧して単一のインドネシア共和国樹立。

(確か、インドも47年に独立した時にはインド連邦で50年から共和国ですね。)

長くなり過ぎたので、独立後の続きは後日。

(追記:続きはこちら→スカルノについてのメモ

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