万年初心者のための世界史ブックガイド

2010年1月27日

引用文(ホイジンガ1)

Filed under: 引用文 — 万年初心者 @ 06:00

別の記事に付属していた引用文を独立して記事立てするために再録。

ヨハン・ホイジンガ『朝の影のなかに』(中公文庫)より。

 

教養があるなしにかかわらず、じつに多くの人のばあい、生に対する構えは、いぜんとして、あそびと人生とに対する少年の心そのままである。さきにわたしはたまたま、永遠の青年期と呼んでしかるべき、あのひろくみとめられる精神状況について語った。それを特徴づけるのは、適切なことと適切でないことをみわける感情の欠落、他人および他人の意見を尊重する配慮の欠如、個人の尊厳の無視、自分じしんのことに対する過大の関心である。判断力と批判意欲の衰弱がその基礎にある。このなかばみずからえらびとった昏迷の状態に、大衆はひじょうな居心地のよさを感じている。ひとたび倫理的確信のブレーキがゆるむや、いついかなる瞬間にも危険きわまりないものとなりうる状況がここにある。

 

このような精神状態は、ただたんに、自分じしんの判断を下す意欲に欠けるところがあり、集団組織の画一化作用が、できあいのワンセットの考えかたを押しつけ、つねに思考が皮相に流れてしまうところからもたらされたというにとどまるものではなく、じつに憂慮すべくも注目すべきことに、おどろくべき技術の発展それじたいが、じつはこのような精神状態をひきおこし、これにたっぷり餌を与えているところのものなのである。人間は、この驚異の世界にあって、文字どおり子供のようだ。お伽噺の世界のなかの子供のようだ。飛ぶ機械で旅することができる、いながらにして地球の反対側と話をすることができる、自動機械を使ってちょっとつまむことができる、ラジオを通じてひとつの大陸全部を自分のものにすることができる。ボタンを押せばそれでよい。生がかれのほうにやってくるのだ。このような生は、かれを成熟させるだろうか。まさに逆だ。世界はかれのおもちゃになってしまったのだ。おもちゃを手にしたかれが子供のようにふるまうからといって、それになんのふしぎがあろう。

 

技術の完成、経済および政治の機能の有効なはたらきという塁壁は、これは、なんら、わたしたちの文化を野蛮の侵入から守るものではないのである。野蛮は、これをしてみずからに奉仕せしめる。野蛮は、完成された手段と結び、ますます力を増し、ますます圧制的にふるまう。

 

野蛮は、高度な技術の完成と手に手をとって歩くばかりか、ひろく普及した学校教育とも連れ立って進む。文盲率の減少でもって文化の程度を測るというのは、これは、すでに過ぎ去った時代の素朴な知恵である。学校で教える知識がどれほどの量であろうと、それはいささかも文化の財産を意味するものではない。視線をあげて現代の精神状況全般をみるに、このようなみかたは、これをほとんどおおげさなペシミズムと呼ぶことはできないのである、以下のように証言しなければならぬと考えるのである以上は。

 

いたるところに妄想と妄語がはびこる。かつてないまでに、人びとは、ことばの、合言葉の奴隷となって、たがいに殺しあう、相手を議論で屈服させるのである。世界は、憎しみと誤解を負わされている。愚かなものがどのくらいおおぜいいるか、過去にくらべて、どのくらい多いか、その比率を測ろうにも尺度はない。だが、愚かさは、以前にもまして旺盛に害毒を流し、高く君臨している。生半可な教養を身につけた、にぶい精神に対しては、伝統、形式、礼拝といったことへの敬意も、しだいに歯止めとしてはたらかなくなってきた。最悪の事態は、いたるところにみとめられる「真理ということについての無関心」であって、これは、政治的欺瞞の推賞ということのうちに、その極みにまで達している。

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