万年初心者のための世界史ブックガイド

2010年1月30日

スカルノについてのメモ

Filed under: おしらせ・雑記, 東南アジア — 万年初心者 @ 06:00

昨日の後藤乾一 山崎功『スカルノ インドネシア「建国の父」と日本』(吉川弘文館)より。

独立後のスカルノの業績は、残念ながらあまり芳しくないように思える。

まず、1955年アジア・アフリカ会議(バンドン会議)という重要事項は年代と共に要記憶。

国民党、共産党(アイディットが指導)とイスラム政党であるマシュミ(ハッタの支持基盤)とナフダトゥル・ウラマの四大政党制。

経済不振が続き、地方での反乱が頻発、共産党が勢力伸張、対抗して陸軍も政治組織化を進める。

56年スカルノの容共政策に抗議してハッタが辞任。

57年「指導された民主主義」構想、権力集中を進め、オランダ資産国有化。

58年日本と賠償協定締結。

中国に接近し、スカルノは、ガーナのエンクルマ、アルジェリアのベン・ベラ、ギニアのセク・トゥーレと共に第三世界の急進派指導者として名を馳せる。

以上のうちセク・トゥーレを除く三人は1965~66年に相次いで失脚する。

それにより中国の反米反ソ「革命外交」は完全に挫折、まもなく国内では文化大革命が勃発し、1971年の米中接近まで中国の正常な外交活動は停止することになる。

穏健派指導者としてはインドのネール、エジプトのナセル、ユーゴのチトーなどを上記四人との対比として記憶。

(ちなみにこの辺は、『新世界史』(山川出版社)が教科書とは思えないほど巧みに説明しています。)

63年西イリアン(ニューギニア西部)施政権返還。

これで政治闘争は一旦終了させ、地道な経済建設に向えば良かったのだが、同年結成されたマレーシア連邦をイギリスの傀儡国家だとして対決政策を採り、ますます国内情勢を悪化させる。

運命の1965年、9・30事件が起こり、共産党クーデタへの支持が疑われたスカルノは実権喪失、スハルトが政権を掌握、「独立の父」を徐々に追い落とし、66年権限委譲、67年大統領代行就任、68年正式大統領。

9・30事件当時、確かスハルトは戦略予備軍司令官という立場だったはずですが、この戦略予備軍というのは西イリアン解放のための精鋭軍で最新装備を持っていたと白石隆『スカルノとスハルト』には書いていた記憶がある。

事件でのスハルトの動きについて、上記本では、妙な謀略説は書いていないが、事件勃発直後、スハルトがクーデタ派軍人に対して同調あるいは中立の立場を取ると匂わせ、それを利用して共産派の監視をくぐって軍司令部中枢に陣取り、一挙に事態を反転させたのではないかというふうなことが書いてあった。

以後スハルト政権下で親西側路線を取り経済の高度成長を達成、アジア経済危機までスハルト体制は続く。

98年ハビビ、99年ワヒド、01年メガワティ(スカルノの娘)と短期政権が続いて04年ユドヨノ大統領就任、昨年再選され久しぶりの長期政権になる見込み。

あと、この国にしか聞かない職名として「調整相」というのがある。

「○○担当調整相」という名称で複数いるのだが、これがどういう制度なのか、どこかの文章で読んだ記憶があるが、忘れてしまった。

見つけたら、また別の機会にでも書きます。

やっと終わった・・・・・。

長所。

コンパクトかつ平易で読みやすい。

高校教科書にゴチック体で載っている人名は漏れなく本書程度の簡単な伝記が新書・文庫版で出て欲しいもんです。

短所。

日本との関係に紙数を割き過ぎて、肝心の民族運動の説明がやや粗く感じる。

読者の興味を持たせるためにはいいんでしょうが、ややアンバランスな印象を持った。

また54ページに、ヒトラー政権成立を1931年とする、我が目を疑うような誤記(あるいは誤植)があった(第一刷では)。

といっても基本的には良書です。

高校世界史の次の段階で十分読めますので、気が向いたらどうぞお読み下さい。

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2010年1月29日

後藤乾一 山崎功 『スカルノ  インドネシア「建国の父」と日本』 (吉川弘文館)

Filed under: 東南アジア — 万年初心者 @ 06:00

「歴史文化ライブラリー」というシリーズの中の一冊で2001年刊。

このシリーズは相当の数が出ているが、ほとんどが日本史関係の巻で、本書のような世界史関係は珍しい気がする。

ちなみに、巻末の「刊行のことば」を読むと、「小社は、安政四年(1857)の創業以来・・・・・」という文字が目に入って「おおっ、そんなになるんですか」と思った。

インドネシア初代大統領の伝記。

読む前に中学レベルの事を以下で確認。

インドネシアは東南アジア最南部の島嶼国家。

人口は2億人を超え、世界最大のイスラム教国。

外務省HPに1億6千万人と書いてあるので、次がパキスタンか?

だとすると1位・2位が東南アジア・南アジアの国が占め、いずれも中東ではないのが面白い。

まずマレー半島に沿う形でスマトラ島があり、その東に一回り小さなジャワ島。

国の中心はジャワ島で首都のジャカルタは島の北西部にある。

人口がジャワ島に集中し過ぎているので他の島への移住を政府が奨励しているという新聞記事を数年前読んだ記憶があります。

ジャワ島のすぐ東に観光地として有名なバリ島があり、ここはヒンドゥー文化圏が残存。

さらに東にいくつかの島があって、その先にはティモール島。

東半分はオランダ植民地ではなくポルトガル領で、1975年ポルトガル民主化を契機に76年インドネシアが併合、スハルト体制崩壊後2002年に独立、という経緯は周知の通り。

ジャワの北側にカリマンタン島というやたらでかい島があり、北西部はマレーシア領と独立国のブルネイがあるが他の領域はインドネシア領。

その東側に何とも妙な形のスラウェシ島。

この二つの島は面積は大きいが重要性は低いようで、本書を含めインドネシア史の本ではあまり表舞台には出てこない。

さらに東に進むと香料産地として大航海時代に出てくるモルッカ(マルク)諸島があり、その隣がニューギニア島。

その西半分はイリアンジャヤとしてインドネシア領、東半分は独立国パプア・ニューギニア(1975年オーストラリアから独立)。

前置きが長過ぎましたが、以下内容メモ。

スカルノは1901年、20世紀開幕と共に、東ジャワの州都スラバヤに下級貴族の子として生れる。

父の友人で1911年(本書では1912年)結成された民族主義団体サレカット・イスラム(イスラム同盟)党首チョクロアミノトの家に寄宿し、政治への関心を深めてのち、バンドン工科大学で学ぶ。

他の組織として1908年ジャワの知識青年が結成した穏健ナショナリズム路線のブディ・ウトモがある。

第一次大戦後の1920年にはインドネシア共産党結成。

中国共産党が1921年、日本共産党が1922年結成だから、それらよりも早く、これがアジア初の共産党(同20年にはモンゴル人民革命党も誕生しているがこれは名称も違うし数えないんでしょうな)。

1927年スカルノを中心にバンドンでインドネシア国民同盟(翌28年に国民党と改称)結成。

武力闘争を否定すると共に、蘭印政庁との協力路線も拒否し、大規模な大衆運動を組織する「非協力」路線を選ぶ。

アジア唯一の帝国主義列強、日本に対する複雑な期待と警戒。

西欧的社会主義に傾倒する同志のハッタ、シャフリルと同じく、マルクス主義の洗礼を一部受けたスカルノも対日警戒心を持つが、国際関係の悪化に伴い、以下のように発言していたという。

「民主主義と軍国主義のどちらを選ぶかと尋ねられれば民主主義を選ぶ。しかしながら、もしオランダ民主主義を選ぶか日本軍国主義を選ぶかと問われれば、日本軍国主義を選ぶ」

31年国民党分裂、穏健派のハッタがインドネシア国民教育協会結成。

33年スカルノは逮捕され、以後八年間流刑生活を強いられる。

1942年3月蘭領東インド崩壊、日本軍政時代始まる。

スカルノは対日協力に踏み切り、日本への批判と警戒をより強く持っていたハッタもやむを得ず行動を共にする。

日本は重要資源確保の思惑から、ビルマ・フィリピンと異なり、当初はインドネシア独立を容認せず、1943年の大東亜会議にもインドネシア代表は招かれず(44年ジャワのみの、近い将来の独立が約束される)。

日本降伏直後、1945年8月17日共和国独立宣言。

復帰してきたオランダとの独立闘争開始。

この時期の叙述、独立派が一枚岩ではなく、抗争と交渉が繰り返されるので、非常にわかりにくい。

まず、優位にある連合国との交渉のため、「対日協力者」のレッテルを貼られた大統領のスカルノが表舞台から退いて、日本軍との軋轢があった副大統領ハッタと、同じく穏健派で対日協力を行わなかった首相シャフリルが前面に出る形となる。

ハッタ、シャフリルの漸進的協調的独立路線に対して、スカルノを支持する一般民衆の急進的独立路線が対立、各地でオランダとの武力紛争が頻発。

タン・マラカら民族共産主義勢力に主導権が移るのを恐れるスカルノは当初シャフリル路線を支持するが、46年1月オランダの圧迫を受けて共和国政府がジャワ島中部ジョクジャカルタに遷都すると、シャフリルは孤立化。

一時シャフリルが辞任するが、スカルノはオランダとの交渉をまとめるため再度シャフリルに組閣を命じ、暴発してクーデタを企てたとしてタン・マラカ派を逮捕・投獄。

46年11月リンガルジャティ協定締結、ジャワ・スマトラを領域とする共和国の事実上の独立、オランダ女王を首長とするオランダ・インドネシア連合樹立、非インドネシア人の権利・財産回復、ジャワ・スマトラ以外では親オランダ的な傀儡的国家や自治地域が存在。

47年6月オランダが実質的に植民地体制再建に等しい要求を行うと、シャフリルは退陣、同じ社会党系のシャリフディンが組閣、それに乗じて7月にオランダは「警察行動」と称して軍事侵攻開始。

48年1月国連の仲裁・監視の下、リンガルジャティ協定実施を定めたレンヴィル協定調印。

シャリフディン内閣に対する非難が巻き起こり、内閣退陣、ハッタが組閣、下野したシャリフディンは左傾化し共産党と連携、スカルノは共産党への対抗策として、同じ左派勢力ながら民族主義色が強く、親ソ的な共産党とは強く対立していたタン・マラカ派の関係者を恩赦・釈放。

48年ビルマ・マラヤの共産党武装蜂起に続き、モスクワから帰国したムソが共産党を指導、シャリフディン派の軍隊が東ジャワのマディウン市で反乱を起こし、スカルノを攻撃。

オランダと共産勢力との両面作戦を強いられた共和国政府は危機に陥るが、国軍はスカルノへの忠誠を守り、マディウン蜂起を鎮圧。

48年12月オランダが「第二次警察行動」として軍事侵攻開始、スカルノ・ハッタが捕らえられるが、共和国側は臨時政府を樹立し激しく抵抗、オランダの国力も限界に達し、49年12月ハーグ円卓協定で連邦国家内の共和国優位を定められ、同月インドネシア連邦共和国に主権移譲(ただし西ニューギニアはオランダ領のまま)。

翌50年親オランダ勢力の反乱を鎮圧して単一のインドネシア共和国樹立。

(確か、インドも47年に独立した時にはインド連邦で50年から共和国ですね。)

長くなり過ぎたので、独立後の続きは後日。

(追記:続きはこちら→スカルノについてのメモ

2010年1月27日

引用文(ホイジンガ1)

Filed under: 引用文 — 万年初心者 @ 06:00

別の記事に付属していた引用文を独立して記事立てするために再録。

ヨハン・ホイジンガ『朝の影のなかに』(中公文庫)より。

 

教養があるなしにかかわらず、じつに多くの人のばあい、生に対する構えは、いぜんとして、あそびと人生とに対する少年の心そのままである。さきにわたしはたまたま、永遠の青年期と呼んでしかるべき、あのひろくみとめられる精神状況について語った。それを特徴づけるのは、適切なことと適切でないことをみわける感情の欠落、他人および他人の意見を尊重する配慮の欠如、個人の尊厳の無視、自分じしんのことに対する過大の関心である。判断力と批判意欲の衰弱がその基礎にある。このなかばみずからえらびとった昏迷の状態に、大衆はひじょうな居心地のよさを感じている。ひとたび倫理的確信のブレーキがゆるむや、いついかなる瞬間にも危険きわまりないものとなりうる状況がここにある。

 

このような精神状態は、ただたんに、自分じしんの判断を下す意欲に欠けるところがあり、集団組織の画一化作用が、できあいのワンセットの考えかたを押しつけ、つねに思考が皮相に流れてしまうところからもたらされたというにとどまるものではなく、じつに憂慮すべくも注目すべきことに、おどろくべき技術の発展それじたいが、じつはこのような精神状態をひきおこし、これにたっぷり餌を与えているところのものなのである。人間は、この驚異の世界にあって、文字どおり子供のようだ。お伽噺の世界のなかの子供のようだ。飛ぶ機械で旅することができる、いながらにして地球の反対側と話をすることができる、自動機械を使ってちょっとつまむことができる、ラジオを通じてひとつの大陸全部を自分のものにすることができる。ボタンを押せばそれでよい。生がかれのほうにやってくるのだ。このような生は、かれを成熟させるだろうか。まさに逆だ。世界はかれのおもちゃになってしまったのだ。おもちゃを手にしたかれが子供のようにふるまうからといって、それになんのふしぎがあろう。

 

技術の完成、経済および政治の機能の有効なはたらきという塁壁は、これは、なんら、わたしたちの文化を野蛮の侵入から守るものではないのである。野蛮は、これをしてみずからに奉仕せしめる。野蛮は、完成された手段と結び、ますます力を増し、ますます圧制的にふるまう。

 

野蛮は、高度な技術の完成と手に手をとって歩くばかりか、ひろく普及した学校教育とも連れ立って進む。文盲率の減少でもって文化の程度を測るというのは、これは、すでに過ぎ去った時代の素朴な知恵である。学校で教える知識がどれほどの量であろうと、それはいささかも文化の財産を意味するものではない。視線をあげて現代の精神状況全般をみるに、このようなみかたは、これをほとんどおおげさなペシミズムと呼ぶことはできないのである、以下のように証言しなければならぬと考えるのである以上は。

 

いたるところに妄想と妄語がはびこる。かつてないまでに、人びとは、ことばの、合言葉の奴隷となって、たがいに殺しあう、相手を議論で屈服させるのである。世界は、憎しみと誤解を負わされている。愚かなものがどのくらいおおぜいいるか、過去にくらべて、どのくらい多いか、その比率を測ろうにも尺度はない。だが、愚かさは、以前にもまして旺盛に害毒を流し、高く君臨している。生半可な教養を身につけた、にぶい精神に対しては、伝統、形式、礼拝といったことへの敬意も、しだいに歯止めとしてはたらかなくなってきた。最悪の事態は、いたるところにみとめられる「真理ということについての無関心」であって、これは、政治的欺瞞の推賞ということのうちに、その極みにまで達している。

2010年1月24日

貝塚茂樹 責任編集 『世界の名著3 孔子 孟子』 (中央公論社)

Filed under: 中国 — 万年初心者 @ 06:00

いつかは読まなきゃならんなあと思っていた古典。

収録は『論語』全訳と『孟子』抄訳。

孔子は前552(または551)年~前479年が生没年。

春秋時代が前770~前403年、戦国時代が前403~前221年なので、春秋時代末期の人。

中国東部、山東省内の周公旦を祖とする小国、魯国に生れる。

当時の魯は三桓氏と言われる孟孫氏、叔孫氏、季孫氏の豪族が専横を極める時代。

君主昭公の三氏に対するクーデタが失敗し、昭公が斉に亡命すると、孔子もこれに従う。

昭公の死に前後して帰国、弟の定公に仕える。

季孫氏の執事陽虎(陽貨)が一時実権を握り、三桓氏の支配が動揺。

これを機に、大司冦という大臣になっていた孔子は三桓氏の軍事的拠点である居城の廃棄を進め、君主権を強化しようとするが、反対を受け失敗、再度亡命。

衛・宋・楚の諸国を14年にわたり流浪した後、哀公時代の魯に帰国、晩年は弟子の教育に専念する。

『論語』は孔子とその弟子の言行録であり、「孔子著」とするのは問題あり。

最も期待されていたが若死にした顔淵(顔回)、秀才肌の子貢、直情的な子路など弟子たちの肖像が垣間見れるのは結構興味深い。

本書の形式は、まず読み下し文と原文を置いた後、貝塚氏の注釈と解説を載せるというもの。

私は本来、古典の翻訳で本文以外にあれこれ注釈などが付いたものは決して好きではありません。

しかし、この辺の中国古典では、原文があまりにあっさりし過ぎていて、意味が取れないものが多数ありますので、本書に限って言えば気になりません。

貝塚氏の解説は、『世界の名著 司馬遷』で経験済みで、その本と同じく、嫌いではありません。

そうではあるんですが、本文を素直に読んでいくと・・・・・・。

まあ正直、そんな面白いもんではないですね。

司馬遼太郎『アメリカ素描』(新潮文庫)に以下のような文章があります。

私は、孔子の語録である『論語』がすきである。・・・・・

ここにはアリストテレス以来の論理学もなければ、欧米人の言語表現を鍛えぬいてきたかの修辞学もない。

わざとわるくいえば老人の人生訓のようなものであり、不明晰な部分や、論理の飛躍や空白がたっぷりある。

それらを読み手が自分の思い入れでうずめて、

(ああ、正しい道とはそういうものか)

と、ひとりがってんするようにできている。

だから、『論語』の語句は、いちいち読み手が察せねば完成しないのである。

さらにいうと、『論語』は論理の展開ではなく、片言隻句のあつまりなのである。

どの句も50パーセントしか語っておらず、読み手は自分の中の50パーセントを持ち出さねば補完できない。

つまり、察せねば、読むことが完了しない。

この文章の通り、ごく表面的に読むならば「片言隻句のあつまり」にしか思えない。

もちろんそのために詳しい解説もあるし、私程度の読者でも、所々はっとする文章や、深く自省させられる部分が間違いなくあります。

ただ、初心者が読んで、全編通じて面白さを感じられるという種類の本ではないです。

ページを手繰るのもつい億劫になり、『論語』の部分だけで一週間弱かかりました。

『孟子』も読むつもりが、結局挫折。

まあ、誰でも知ってる古典中の古典ですから、『論語』だけでも「とりあえず通読した」という事実だけ作れてよかったのかなと。

同じ「世界の名著」で『聖書』と『コーラン』も読むべきでしょうか。

しかし、めんどくさいなあ・・・・・・。

子貢、人を方(ただ)す。子曰わく、賜は賢なるかな。それ我は則ち暇あらず。

子貢が他人をよく批評した。先生はいわれた。「子貢よ、おまえは偉いね。わたしにはそんな暇がないのに」

子曰わく、群居して終日、言、義に及ばず、好んで小慧を行う。難いかな。

先生がいわれた。「寄り集まって一日中おしゃべりをしながら、ついぞ一度も話が正義に触れることがなく、こざかしい悪知恵を働かしている。これではどうにもならない。」

子曰わく、君子は矜(きょう)にして争わず、群するも党せず。

先生がいわれた。「君子は、厳然として犯すべからざる態度をとってはいるが、他人と争いを起こそうとしない。おおぜいの人と交わるが、党派にはいらない」

子曰わく、君子は言を以て人を挙げず、人を以て言を廃(す)てず。

先生がいわれた。「君子は人のいったことばによってその人を推薦しない。それをいった人によってそのことばを捨てることはしない」

*前半の、ことばだけを信用しないで、よく人柄を見てから推薦するというのは、これを実行することはそんなに困難ではない。後半の、人によってことばを捨てないほうが、実行が難しい。あいつのいう言だから信用しない、あの学派のいうことだからなんでも反対するという態度から、完全に免れうる人が、現在この日本にいるであろうか。

子貢問いて曰わく、一言にして以て身を終うるまでこれを行なうべき者ありや。子曰わく、それ恕(じょ)か、己れの欲せざる所を人に施す勿(な)かれ。

子貢がおたずねした。「ほんの一言で死ぬまで行なえるものがありますか」

先生がいわれた。「それは『恕』だろうね。自分にしてほしくないことは、他人にしてはならないということだ」

子曰わく、衆これを悪(にく)むも必ず察し、衆これを好むも必ず察す。

先生がいわれた。「おおぜいが皆きらう人でも、ほんとうにそうなのかどうかを詳しく調べる。おおぜいが皆好む人でも、ほんとうにそうなのかどうかを詳しく調べる」

子曰わく、道を聴きて塗(みち)に説くは、徳をこれ棄つるなり。

先生がいわれた。「道ばたで聞きかじってきたことを、道ばたで自説のようにすぐ演説する。これは道徳の放棄だ」

子貢問いて曰わく、君子もまた悪(にく)むこと有るか。子曰わく、悪むこと有り。人の悪を称する者を悪む。下に居て上を訕(そし)る者を悪む。勇にして礼なき者を悪む。果敢にして窒(ふさ)がる者を悪む。曰わく、賜や亦(また)悪むことあるか。徼(かす)めて以て知と為す者を悪む。不遜にして以て勇と為す者を悪む。訐(あば)きて以て直と為す者を悪む。

子貢がおたずねした。「君子でも憎悪がありますか」

先生がいわれた。「君子にも憎悪はある。君子は他人の悪をいいはやす人を憎む。下位におりながら、上位の人を非難する人を憎む。勇気はあるが礼儀をわきまえない人を憎む。自己を押しとおして頑固で譲らない人を憎む」

先生はまたたずねた。「子貢よ、おまえにも憎悪があるかね」

(子貢はおこたえした)「他人の意見を剽窃して、知識ありげな顔をする人を憎みます。傲慢をもって勇気と思っている人を憎みます。他人の隠し事をあばきたてて、正直と思っている人を憎みます」

2010年1月21日

ウィリアム・シェイクスピア 『リチャード三世』 (白水社uブックス)

Filed under: イギリス, 文学 — 万年初心者 @ 06:00

『ヘンリー五世』に続けてこれを読む。

ランカスター朝と同じく、ヨーク朝の国王も3人。

まずエドワード4世、エドワード5世父子。

次がエドワード6世ならランカスター朝国王の名が皆ヘンリなのと同じく記憶しやすかったのだが(しかも○世の部分まで対になってる)、最後はエドワード4世の弟で5世の叔父に当たるリチャード3世。

(「実際のエドワード6世」はヘンリ8世の病弱な息子で、続けてメアリ1世、エリザベス1世が即位することになる。)

このリチャード3世は、最後にヘンリ7世ことリッチモンド伯ヘンリ・テューダーに敗れたということからくる過度の脚色もあるんでしょうが、とにかく極悪非道・残忍・狡猾な怪物的暴君としてその名を知られている。

イギリス史上、失政のオンパレードだったジョン王の後、「ジョン2世」は結局現れませんでしたが、リチャードという名の王も、このリチャード3世以後出てこない。

チャールズ皇太子とダイアナ妃との間のお子さんは、確かウィリアム王子とヘンリ王子でしたから、近い将来「リチャード4世」が登位する可能性も無い。

それはひょっとして、このリチャード3世のイメージが悪過ぎるからかなと想像してしまう。

本作品の記述に従えば、とにかくやることなすこと、恐ろしい醜行の連続である。

まずグロスター公として、兄エドワード4世に従い、ヘンリ6世の息子エドワードを敗死させ、ヘンリ6世を捕らえ幽閉した後殺害。

エドワード4世の病が重くなると、王に讒言し、もう一人の兄クラレンス公ジョージを投獄させ、密かに暗殺者を派遣してこれを殺害。

1483年エドワード4世が死去し息子のエドワード5世が登位するが、リチャードは即、甥から王位を奪い、ロンドン塔に幽閉、4世王妃で5世の母エリザベスの弟と連れ子(王妃は再婚だったので)を殺害。

エドワード5世と弟のヨーク公リチャードも結局殺害。

かつて自らが敗死させたヘンリ6世の皇太子エドワードの妻アン・ネヴィル(「キング・メーカー」国王製造人と呼ばれ、最初ヨーク家陣営の有力者だが、その後内部対立から一時ヘンリ6世を復位させ、次いで敗れたウォリック伯リチャード・ネヴィルの娘)を、リチャード3世は言葉巧みに籠絡し彼女と再婚していたが、この妃も本書の描写によればリチャードに殺されたことになっている。

おぞましい悪行がこれでもかと述べられていくと、読者は誰でもヘンリ7世を救い主と感じるでしょう。

(しかし福田恆存『私の英国史』によれば、以上のリチャードの行為とされるものには証拠が無く疑わしいものも含まれているので慎重な検討が必要だとのことです。)

ヘンリ7世ことリッチモンド伯ヘンリはランカスター家に連なる人物。

仏国王シャルル6世の娘カトリーヌ(キャサリン)とヘンリ5世が婚約したことは『ヘンリー五世』の記事でも触れましたが、両者の間にヘンリ6世が生れて、ヘンリ5世は短い治世で死去。

カトリーヌ王妃がオーウェン・テューダーという人物と再婚し、そこから生れたリッチモンド伯エドマンド・テューダーがヘンリ7世の父。

母方の家系を辿ると、ランカスター家の祖であるジョン・オヴ・ゴーントの息子で、ヘンリ4世の腹違いの兄弟に当たるサマセット伯ジョン・ボーフォートという人物がおり、その孫のマーガレット・ボーフォートがヘンリ7世の母。

フランスに亡命していたリッチモンド伯ヘンリがイギリスに上陸、1485年ボズワースの野でヘンリとリチャード3世との決戦が行われ、ヘンリが勝利、リチャードは敗死。

ヘンリ7世が、殺害されたエドワード5世とヨーク公リチャードの妹エリザベスと結婚、ここにランカスター家の赤バラとヨーク家の白バラが一つに結ばれ、テューダー朝が成立、両者からはヘンリ8世が生れる。

非常に面白い。

どこまでが史実でどこからがフィクションか慎重に構える必要もあるが、リチャードのあまりに凄まじい人物造形に、強烈な印象を受ける。

文学的な価値を十分鑑賞できたかはともかく、強く心に残る作品だったのは間違いない。

シェイクスピアの史劇を比較的短期間に三つ読みましたが、どれも興味深く読めました。

バラ戦争の複雑な過程を頭に入れるのに非常に適切な本です。

台詞の中でさりげなく登場人物の家系や相関図を述べており、それらが無理なく頭に入る。

本書の末尾の系図も大変見やすく整理されているので、頻繁に参照すべき。

上記『私の英国史』も詳細でしっかりとした記述が役に立つ本ではあるが、説明が凝縮されているので、一読しただけだと人物とストーリーを頭に入れることが難しい。

本書のような文学作品で地ならしをしてから取り組むと、より記憶しやすいでしょう。

2010年1月20日

2010年世界史Bセンター試験について

Filed under: おしらせ・雑記 — 万年初心者 @ 06:00

昨年一昨年に続けて、新聞に載った今年のセンター試験世界史Bを解いてみました。

結果、今年も一問間違えました。

悔しい・・・・・。

第3問・問7、バルト海沿岸諸国の歴史に関して正しい文を選ばせる問題で、「ロシアでは、ピョートル1世の治世下でプガチョフの乱が起こった。」および「プロイセンでは、ヨーゼフ2世が啓蒙思想に基づいた改革を行った。」は余裕でバツ、残り2つのうち、「エストニアは、第二次世界大戦中にソ連に併合された。」というのがまずあり、1939年独ソ不可侵条約の秘密議定書でソ連勢力圏に入ることが定められ、40年バルト三国併合なのだから、「第二次世界大戦中」に間違いなく、これが正解。

ところが、ボーっとしていてこれをなぜか間違いと思い込み、次の「クヌート(カヌート)は、9世紀にイングランドを征服した。」を見て、「9世紀だったかなあ・・・・?あやふやだけどこれにしとくか」と選んで、失敗。

デーン王クヌートのイングランド支配は1016年からで11世紀前半。

ウィリアム1世のノルマン征服と同じ世紀。

9世紀にあったのは、エグバートのアングロサクソン七王国統一とアルフレッド大王のデーン人撃退。

初期中世は苦手なんですが、消去法ではなく、この文は間違いだとすぐ認識できないと駄目ですね。

なお、今年は初っ端からやや骨がある。

中国の都市の位置だけを示し、設問で関連事項を問う問題。

まず華北では、黄河と大運河の交差点近くにあるのが開封、そこから西に少し行って洛陽、さらに西進し黄河の大湾曲部に行かず、支流の渭水を遡ったところにあるのが長安。

華中では大運河と長江交差点近くにあるのが揚州。

長江河口南岸沿いの近くにあるのが上海、長江を遡ってやや内陸部にあるのが南京(建業・建康)、上海と南京の中間くらいにあるのが蘇州。

長江河口の南に、三角形に相当大きく入り組んだ湾がありますが(杭州湾?)、その一番奥まった部分にあるのが杭州(臨安・南宋の都)、湾の北側に上海、南側に寧波(明州)。

出題されたのは開封・洛陽・長安・南京・杭州だけのようだが、華北はともかく、この華中の都市を区別させるのはやや難易度が高いと思った。

面倒なので、今年はこれだけにしますが、やってみると結構盲点を突かれて、いろいろ確認できた歴史事項がありました。

また来年もやってみます。

2010年1月19日

引用文(高坂正堯4)

Filed under: 引用文 — 万年初心者 @ 06:00

高坂正堯『世界史の中から考える』(新潮選書)より。

今日では王権神授説というと、ひどく古めかしく、非合理に聞こえるだろうが、当時のヨーロッパでは支配的であった。また世襲という原理は単純明快で、それが王位をめぐる権力闘争を無くし、ヨーロッパ諸国の政治を安定させたことは多くの学者が認めている。イギリスにしても、名誉革命からしばらくしてハノーヴァー家に相続権が与えられてから今日まで、世襲がおこなわれてきているのである。

・・・・・・

近代的国家になる少し前のイギリスは他のヨーロッパ諸国よりも激しい権力闘争によって特徴づけられる。ファーテスキューが上述の書物を著したのはヘンリー六世の時代であったが、それはその前のヘンリー五世の時代とちがって、ひどい時代だった。王は精神薄弱であり、それもあって中央政府の権威は低下し、やがて内紛が激化して、1455年から三十年続いたバラ戦争のときは完全な無政府状態になった。

その状況はシェークスピアの史劇に如実に描かれており、闘争のすさまじさを教えてくれている。議会主義を生み出したイギリスがこのように野蛮な過去を持っているのかとわれわれを驚かせる意味で、イギリスの政治史を理解するためにはシェークスピアが不可欠だと言われるのは故なしとしない。

私自身の受けた感銘から言えば、たとえば「リチャード三世」がその典型である。彼は王位を狙う。しかも異常に狙う。それは、かれの右半身が奇妙に大きく、したがって不具と言わなくてはならない姿、形に象徴されている。彼の身体は決して強くなかった。しかし、喰うか喰われるかという闘争に生き残る。

勝利をおさめるためには、剣を使うことができなくてはならなかった。それがリチャード三世の姿、形となった、と言うことができるだろう。その教訓からイギリスは妥協を重んずるようになったという次第で、投票による政治は“頭をぶち割るかわりに頭数を数えるものだ”という皮肉にはかなりの真実がある。

日本では、「ハムレット」や「マクベス」など、悲劇がシェークスピアについてはよく知られている。しかし、彼は実に多くの史劇を書いたのだった。そして、時折、「お気の召すままに」や「ヴェニスの商人」といった喜劇をものにした。チューダー朝という、イギリス国内の血なまぐさい権力闘争がまだ記憶に新しい時期において、彼はその歴史を描かずにはおれなかったのだろう。そこに彼は人間の原罪を認識し、いかにあがこうが必ず訪れてくる悲劇を書いた。そして、それだけではやり切れないから、時折喜劇を作って楽しんだ。勝手な推測だが、私はそう思っている。

2010年1月17日

引用文(高坂正堯3)

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高坂正堯『大国日本の世渡り学』(PHP文庫)より。

イギリスは議会主義の国であり、もっとも早くから立憲君主政をとってきた国として知られている。しかし、そこでおこなわれてきた政治は、教科書に書かれてきたようなものではなかった。たしかにこの二百数十年間の政治は討論による政治だが、その前はかなりの混乱と流血を伴うものであった。

まず、中世から近世の初めにかけて激しい王位争いがあった。その顛末を述べることは、手間がかかって退屈だからやめるとして、その雰囲気を知りたいと思えばシェークスピアの史劇を二、三読むことをすすめたい。たとえば、「リチャード三世」は、サー・ローレンス・オリビエが主演して映画化されたけれども、陰惨な権力争いの史実に基づいている。あるいは、ロンドン塔を訪れて、かつては監獄であった部屋をみ、展示されている数々の品物をみてもよい。それができなければ、夏目漱石の初期の作品に「倫敦塔」があり、その雰囲気を伝えている。イギリス人は、こうした激しい抗争の経験を学んで、話し合い、妥協するようになったのではないかと、あるフランスの政治学者が書いているが、その通りだと思う。「議会主義は頭をたたき割るのにかえて、頭数を勘定する制度である」という有名な言葉は、ジョークにとどまらず、彼らの体験に基づいているのである。

立憲君主政にしても、すんなりそうなったわけではなかった。イギリス人は十七世紀の半ば、国王が専制的になってきたので、清教徒革命をおこし、共和政をとった。ところが、今度はクロムウェルが独裁者になり、その弊害が大きかったので、彼の死後、王政に復帰した。しかし、その王がまた威張りだし、専制君主になる兆候を示したから、つまりは王政も共和政もうまくいかないことが判ったということである。そこで、国王はおくが、あまり国王らしくない国王にしたという批判をアンドレ・マルローがおこなっているのが面白い。

つまり、イギリス人の政治観の基礎には、かなり強い懐疑主義が存在するということであろう。実際、人間がそれぞれ異なった欲求や主張をもち、しかもそれを押し通そうとする以上、対立は避けられないし、その解決は難しい。みごとな意見の一致ということはまずないし、抗争の結果一方の側が勝ち、自らの見方を押しつけても、恨みが残り、したがって反動がおこる。だから、なんとか妥協しつつ、その場を切り抜けていくしかないのである。イギリス人が、政治の問題についてsolve(解決する)という言葉をあまり使わず、settle(おさめる)という言葉を用いることはまことに示唆的であるといわなくてはならない。

2010年1月14日

ウィリアム・シェイクスピア 『ヘンリー五世』 (白水社uブックス)

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『リチャード二世』に続いてこれを読む。

リチャード2世廃位でプランタジネット朝が終焉した後を継いだランカスター朝の国王は3人。

ヘンリ4世、ヘンリ5世、ヘンリ6世。

全員名前が「ヘンリ」で、しかも王位継承が二回とも、ストレートな父子継承なので覚えやすい。

(これよりも「一つ前のヘンリ」はジョン王の息子で、シモン・ド・モンフォールに反乱を起こされたヘンリ3世、「次のヘンリ」はバラ戦争を終結させテューダー朝をひらいたヘンリ7世。)

シェイクスピアの作品には、『ヘンリー四世』と『ヘンリー六世』もあるが、前者は2部構成、後者は3部構成で読むのが面倒臭いというひどい理由で本書を選んだ。

リチャード2世からヘンリ4世への王位の移動は確かに「簒奪」としか言い様の無いものだが、エドワード3世→ジョン・オヴ・ゴーント→ヘンリ4世と男子直系で繋がっており、この前の佐藤賢一『カペー朝』(講談社現代新書)の記事で、カペー・ヴァロワ両王朝について書いたのと同じく、これで王朝が変ったことになるのかなあと思った。

福田恆存『私の英国史』でも、ランカスター朝とヨーク朝を単にプランタジネット朝の継続と見なす見解が紹介されていた。

そもそも中国の「易姓革命」のように、基本的に前王朝と何の血縁関係もない一族が新たに王朝を建てるという感じではない。

男系・女系に拘らなければ、ノルマン朝から現王朝までのイギリス王室も(カペー朝から大革命までのフランス王室も)、ある意味「万世一系」である。

本書の主人公、ヘンリ5世はヘンリ4世の息子で、1413~22年の間在位。

(当時、ドイツではジギスムントがコンスタンツ公会議を開いていて、中央アジアではティムール没後間もなく、中国では明の永楽帝が在位していた頃。)

在位期間は短いものの、この王の治世は、百年戦争でイギリスが最も優位に立った時代である。

英仏間の休戦が破棄され、1415年アザンクールの戦いで、戦争初期のクレシーおよびポワティエの戦いに並ぶ、決定的勝利を得る。

1420年トロワ条約で、ヘンリ5世はシャルル6世の娘カトリーヌと結婚、フランス王位継承権を獲得、とうとうヘンリの下、英仏両国が合併するのかと思われたが、わずか二年後ヘンリ5世は死去、イギリスの勝利は水泡に帰す。

ヘンリ6世(1422~61年)が跡を継ぐが、同1422年仏国王シャルル6世も死去、ジャンヌ・ダルクが登場し、王太子だったシャルル7世が戴冠する。

結局フランス優位のうちに1453年百年戦争終結、その同じ年にヘンリ6世は精神に異常をきたす。

(ヘンリ6世は上記仏王女カトリーヌの子なので、同じく精神を病んだ祖父シャルル6世の遺伝とも言われる。時期がかなりずれるが英仏とも[ヘンリとシャルル]「6世」が精神を病み国政が乱れて、「7世」が混乱収拾と覚える。)

百年戦争終結から間もない1455年バラ戦争が始まり、61年ヨーク家のエドワード4世が即位、その後も紆余曲折があったが(ヘンリ6世が捕虜になったり、救出されて復位したり、また敗れて捕らえられたり、この経緯は上記『私の英国史』を読み返すと頭が痛くなります)、最終的にヘンリ6世は幽閉・殺害される。

リチャード2世の廃位から始まったランカスター朝がこういう終わり方を迎えたのは因果応酬というべきか。

ヨーク家の系図は、エドワード3世→ヨーク公エドマンド・オヴ・ラングリー→ケンブリッジ伯リチャード→ヨーク公リチャード・プランタジネット→エドワード4世。

ランカスター家は、エドワード3世→ジョン・オヴ・ゴーント→ヘンリ4世→ヘンリ5世→ヘンリ6世。

よってエドワード4世は、ヘンリ6世と概ね同世代か。

直接本書と関係無いことをあれこれ書きましたが、これもなかなか面白いです。

『リチャード二世』ほどには感銘を受けませんでしたが。

フランスとの戦争再開決断から始まり、後半部クライマックスのアザンクールの戦いを経て、仏王女との婚約が成就するところでおしまい。

基本、人生の浮き沈みの無い、王の成功を描写しているので強い印象は受けない。

よってイギリスの王位継承争いを知るには『ヘンリー六世』を読んだ方がいいのかもしれないが、上記の複雑さを思うとつい面倒だなと感じてしまう。

気が向いたら、いつかは読もうと思います。

2010年1月12日

シーア派についてのメモ その2

Filed under: おしらせ・雑記, イスラム・中東 — 万年初心者 @ 06:00

前回に続き、菊地達也『イスラーム教 「異端」と「正統」の思想史』より。

第7章。

アッバース朝時代、政権による弾圧で、イマームの召喚と幽閉が続く。

11代イマーム没後、息子の12代イマームが幽隠ののち、マフディー(メシア)として再臨すると信じるのが12イマーム派。

実在が確認できるのは11代イマームまでで、12代目の息子の年齢や名前をめぐって対立があり、小分派が乱立、現在の12イマーム派も当初はそうした一分派の一つだった。

10世紀はブワイフ朝とファーティマ朝の支配によって、「シーア派の世紀」とも言われる。

そのうち、ファーティマ朝の創始者は、イランでイスマーイール派に属していたアブドゥッラー(通称ウバイドゥッラー)。

当初はイスマーイールの息子の代理人を名乗り、各地で教宣組織をつくり、地下活動を続けるが、のちにイマームは自分自身であると宣言。

この主張切り替えが、元のイマームからの委任に基づくものなのか、それとも実は自身がイスマーイールの血統に属することを根拠にしたのか本書では明確に記されていないようなので、わからない。

この方針転換を受け入れず、激しく反発した一派がカルマト派と呼ばれる。

ウバイドゥッラーは北アフリカに逃亡後、909年チュニジアにファーティマ朝を建国。

12イマーム派のブワイフ朝が、946年バグダードに入城してからも現実主義を採り、アッバース朝カリフの権威を認め、自らは大アミール位についただけなのに対し、ファーティマ朝は自らカリフを称し、アッバース朝の完全な打倒を目指す。

第4代カリフ、ムイッズの治世である969年エジプトを征服、のちにメッカ・メディナの二大聖地やシリアも版図に入れるが、ブワイフ朝はカルマト派と同盟、イラクのアッバース朝までは到達できず。

このころには過激なメシア主義は後退し、既存のイスラム法尊重が主流になるが、第6代カリフ、ハーキムを神格化したドゥルーズ派などの揺り戻しも見られた。

11世紀に入ると、ガズナ朝君主マフムードやセルジューク朝によるスンナ派の反撃が始まる。

第8章。

以上のシーア派各派に対抗して、多数派が自己認識を形成した結果生れたのがスンナ派。

スンナ派とシーア派は、結局、指導者論以外では教義上大きな違いは無い。

スンナ派が、個人の無謬性を預言者ムハンマドのみに認め、以後は宗教共同体全体の一致、ウラマー全体の合意を無謬としたのに対し、シーア派はムハンマドに加え、その子孫のイマームを無謬とした。

第9章。

シーア派内分派について。

イスマーイール派から分離したニザール派がイランに移り、いわゆる「暗殺者教団」に。

ドゥルーズ派とアラウィー(ヌサイリー)派は現在シリアとレバノンに居住。

両者ともイマームだけでなく一般信徒の輪廻を信じ、コーラン以外の聖典を保持する特異性がある。

ドゥルーズ派はレバノンにおいてマロン派キリスト教徒、スンナ派イスラム教徒と並んで宗派別権力分配に預かるグループとして、他の本でよく名前が出てくる。

アラウィー派は、1970年以来シリアで政権を握ったハフェズ・アサド、および2000年その跡を継いだバッシャール・アサド父子が属する宗派として有名。

現在ではイエメンのザイド派にのみ政治権力を掌握するイマームがいる、と書かれているが、外務省の各国情勢で確認すると、イエメンが南北に分かれていた頃、北イエメンは元王国だったが共和政に変わり、南イエメンはソ連に接近し人民共和国を名乗っていて、それが冷戦終結後の1990年に統一されて現在も共和国とのことなのだが、それじゃあこのイマームというのは何なのだろう・・・・・?

制度上、君主ではないが、そうした宗教的存在がいるということか。

よくわかりません。

(追記:最近の北部での内戦について、以下の文章を見つけた。)

ル・モンド・ディプロマティーク  「イエメンの危機的状況」

やっとこさ、とりあえず終わりました。

最後、「おわりに」であった、原理主義についての文章が面白かったので、以下に引用。

長期にわたって学者たちが積みあげてきた学問的成果を軽視し、聖なるテクストを直解しようとする姿勢は、結果的には学問的に精密な分析よりは素人的で主観的な聖典解釈を生みだしがちである。その結果、本人たちの意志に反して、彼らの解釈は近現代の状況に縛られる。クルアーンやスンナを理解しようとする際、古典期までの学者たちは伝承資料に対して大いに批判的な精神を見せていたが、そのような批判精神は原理主義者には希薄である。時代状況への依存度が高く、主観性の強い原理主義の思想は、原点回帰を訴えてはいても、実際には近現代の状況の中で選び取られた、イスラーム教理解の一つのヴァリエーションでしかない。

2010年1月10日

シーア派についてのメモ その1

Filed under: おしらせ・雑記, イスラム・中東 — 万年初心者 @ 06:00

先日の菊地達也『イスラーム教 「異端」と「正統」の思想史』の内容メモ続き。

第4章。

ムハンマド・バーキル→ジャアファル・サーディク父子を支持するのがイマーム派で、12イマーム派とイスマーイール派に分かれる。

ジャアファル死去時、息子たちのうち、父より先に死去していたイスマーイールを支持したのがイスマーイール派、ムーサーを支持したのが12イマーム派。

ウマイヤ朝末期からアッバース朝初期にかけて、ムハンマド・バーキルとジャアファル父子はメディナで学究生活を送り、イマーム派の「信仰隠し(タキーヤ)」論の根拠となる。

これは少数派であるシーア派が現在まで存続する上で有益だったが、一方同時期に多数派に反抗し蜂起を繰り返していたザイド派などからは非難されることもあった。

イスラム教が厳格な一神教で、キリスト教徒がイエスを「神の子」と呼ぶのを非難し、預言者ムハンマドもあくまで人間であるとしていることは高校教科書にも出てきますが、この時期のイマーム派の中からは、精神的指導者尊崇の一線を越えてイマームを文字通り神格化したり、イマーム間の神霊の輪廻を信じたり、真理を会得したものによる既存のイスラム律法の軽視・廃棄を認めるような極端派が生れる(だが、これらはシーア派主流からは排除されていく)。

第5章。

イスラム教内のメシア思想。

省略。

第6章。

750年アッバース朝成立。(この年代は当然絶対暗記事項。結局ウマイヤ朝は100年続いてない。)

中央アジア・ホラーサーン地方でアブー・ムスリムがシーア派勢力の支持を得て蜂起したのがアッバース革命の始まり。

イブン・ハナフィーヤの息子がアッバース家の人間をイマーム後継に任命したとの伝承がつくられ、シーア派のうちカイサーン派をアッバース家が乗っ取る形になる。

第2代カリフ、マンスールの時代にアッバース朝とシーア派は決裂を迎える。

ハサン家の武装蜂起は鎮圧され、首謀者は処刑。

ファーティマを通じた預言者の血筋を何より尊ぶシーア派勢力に対し、マンスールは女系相続はありえず、アリーの父アブー・ターリブは結局改宗しなかったのに対し、同じくムハンマドのおじのアッバースはムスリムとなり預言者に親しく協力したゆえに、ムハンマドの継承権はアリー家ではなく、アッバース家にあると反論。

アッバース朝初期のこの時点で、王朝正統性の根拠が当初のシーア派的イマーム継承から、アッバース家の血統に変更されている。

その後、第3代マフディー、第5代ハールーン・アッラシード時代に、統治の根拠はイスラム法を護持・執行することに再度変更され、血統主張は後退。

多数派ウラマーの支持を得るため、正統カリフとして(アッバース家でないのはもちろんハーシム家出身でもない)アブー・バクルとウマルの権威を認める。

アリー家からはアリーを認めハサンを外し、ウマイヤ家からはウスマンを認めムアーウィヤを外す。

これで我々の知る四人の正統カリフとなる。

こういう認識は、できる限り支持基盤を広げるための妥協の産物だったのだろうと推測される。

まだ終わらない・・・・・。

次回に続きます。

2010年1月7日

菊地達也 『イスラーム教 「異端」と「正統」の思想史』 (講談社選書メチエ)

Filed under: イスラム・中東 — 万年初心者 @ 06:00

09年8月刊。

ムハンマドの死から11世紀ごろまで、シーア派の成立過程を丹念に追ったイスラム思想史。

タイトルが与える印象と異なり、難解な教義関係を微細に見るのではなく、一般的イスラム通史に触れながら一歩一歩話を進めていくので、非常にわかりやすい。

高校レベルからでも十分ついて行ける記述なので大変助かる。

初心者が是非消化しておくべき本と言えます。

と、全般的評価を済ませた後、以下、各章ごとの内容メモ箇条書きです。

第1章。

まず、基本事項として、預言者ムハンマドの家系と親族関係をチェック。

ムハンマドは、セム系アラブ民族クライシュ族の中のハーシム家に属する。

初期のカリフのうち、アリーはムハンマドの叔父アブ・ターリブの子で、ムハンマドのいとこ、アブー・バクルとウマルはクライシュ族の別の家、ウスマンはクライシュ族のウマイヤ家。

第3代正統カリフのウスマンがウマイヤ家出身なのは、高校世界史レベルだと盲点なので要記憶。

23ページの系図によると、ウスマンの父とアブー・スフヤーン(ウマイヤ朝初代カリフ、ムアーウィヤの父。初期布教期にムハンマドを圧迫した中心人物。)がいとこ同士なので、ウスマンとムアーウィヤは「はとこ」に当たるのか。

ムハンマドの子供のうち、男子はすべて夭折、ファーティマという娘が一人いるだけで、彼女がアリーと結婚。

ムハンマドのおじアッバースから始まるアッバース家はハーシム家に収まる。

これだけは押さえておかないと、話が繋がらない。

なお、正統カリフとはスンナ派にとっての「正統」で、シーア派はアリー以前の3人は簒奪者と見なす(ただし後述ザイド派などの例外あり)。

スンナ派のカリフとシーア派のイマームの区別。

カリフは血筋はあまり重視されず、前任者の指名または選挙で選出、政治と軍事の権限のみを持ち、宗教的権限はウラマー(学者)が持つ。

イマームはアリー家の血統と父子指名を最重視、共同体の統治者であるだけでなく、精神的にも絶対的指導者。

しかしアッバース朝期までは、宗教解釈権を行使したカリフも多かったとのこと。

このカリフ権限の説明ですが、大昔の高校世界史だと「カリフ=政教両面の指導者」、「スルタン=政治面のみの指導者」と習った記憶があり、整合しませんが私の習ったのは古い説なんでしょうねえ。

656年ウスマンが軍の反乱で殺される。

これがイスラム教徒による初のカリフ殺害(644年ウマルはキリスト教徒に暗殺された)。

アリーがカリフに登位するがシリア総督ムアーウィヤはこれを認めず、ムハンマドの寡婦アーイシャ(アブー・バクルの娘だったか)と教友ズバイルおよびタルハは反乱を起こし、第一次内乱始まる。

アーイシャらは鎮圧され、ズバイルとタルハは敗死。

アリーはイラクのクーファに移動しムアーウィヤと戦うが、657年スィッフィーンの戦い後、一時和議成立。

これを非難する一派がアリー派から分離、初の分派ハワーリジュ派成立。

ムアーウィヤだけでなく、それまでの指導者アリーをも悪と見なす極端な善悪二元論と攻撃性を持つ宗派で、アリー軍と戦って惨敗した後も、活動を続け暗殺者を派遣、ムアーウィヤ殺害は失敗するがアリー暗殺に成功、この661年をもってウマイヤ朝成立となる。

ハワーリジュ派はウマイヤ朝治下でも武装蜂起を繰り返し、弾圧を受け、現在では他派に比較的寛容なイバード派がオマーンに居住するのみ。

イスラム教を大きく分ける場合、スンナ派・シーア派にこのハワーリジュ派を加えるのが正確な言い方らしい。

第2章。

正統カリフのうち、ハワーリジュ派はアブー・バクルとウマルの権威のみ認め、他派にも同じ立場を採るものあり。

シーア派はアリーのみ。

シーア派以外ではアブー・バクルとウマルを否定するものはいないが、初期の伝承ではウスマンの失政をあけすけに語っているものもあり、「四代の正統カリフ」はアッバース朝以降の理解。

第3章。

アリー死後、ファーティマとの子ハサンがカリフ即位を宣言するが、ムアーウィヤとの交渉を経て、ハサンはメディナに隠遁。

ウマイヤ朝は、正統カリフ時代を終わらせ、有力アラブ部族のみを特権化した不平等な政治を行ったので、シーア派のみならずスンナ派からも後世の評価は芳しくない。

ムアーウィヤが死去し、ヤズィードが即位すると、ハサンの弟フサインがこれに反抗、メディナからクーファに移ろうとして、680年カルバラの戦いでウマイヤ朝軍に敗れ戦死。

兄のハサンがシーア派の静観主義、弟のフサインが行動主義・殉教主義を象徴。

683年アブドゥッラー・イブン・ズバイル(上記アーイシャ反乱の同志ズバイルの息子)がメッカでカリフ位を宣言。

685年クーファのシーア派勢力によるムフタールの乱。

ムフタールは、アリーがファーティマ以外の妻ともうけた子ムハンマド・イブン・ハナフィーヤを担ぎ、政治党派ではなく宗教宗派と言える初のシーア派集団、カイサーン派を創始。

初期のシーア派では、現在消滅してしまったこのカイサーン派が最大勢力となる。

アラブ社会は基本的に男系社会なので、ファーティマを通じてムハンマドの血統が流れていることが当時は後世のようには重視されず、アリーの息子であることが主に強調されたため、ファーティマの子ではないイブン・ハナフィーヤが旗印に成り得た。

イブン・ズバイルはムフタールとは対ウマイヤ朝で共闘せず(父のズバイルがアリーに敗死しているので当然だが)、反シーア派の立場。

シリアのウマイヤ朝、イラクのムフタール、アラビア半島のイブン・ズバイルと、この第二次内乱は三つ巴の様相を呈するが、イブン・ズバイルがムフタールを覆滅した後、692年ウマイヤ朝第5代カリフ、アブド・アルマリクがイブン・ズバイルを倒し、内乱を終結させる。

(アブド・アルマリクの息子がウマイヤ朝最盛期カリフのワリード1世。ヤズィードの子で直系が途絶えて、ウスマンのいとこの系統にカリフ位が4代目から移っている。)

この内乱の期間、フサインの息子ザイヌルアビディーンはメディナで隠棲。

その二人の息子のうち、ザイド・イブン・アリーはウマイヤ朝末期に反乱を企て処刑され、もう一人の息子ムハンマド・バーキルは父と同じく静謐のうちに過ごす。

ザイドを支持したのがシーア派内のザイド派で、フサイン家だけでなくハサン家子孫にもイマーム継承権を認めるのが特徴。

アッバース朝時代になり、ハサン家出身イマームを擁したザイド派の反乱が、第2代カリフ、マンスールに弾圧される。

ザイド派は非シーアの多数派に支持を広げるため、「劣位のイマーム」の概念を導入、シーア派内では例外的に、正統カリフのうちアブー・バクルとウマルの権威を認める。

ザイド派はのちに北アフリカにイドリース朝(東京書籍『世界史B』に少しだけ記述有り)を建設、現在はイエメンに存在。

(上記ハワーリジュ派の現在居住地オマーンとイエメンは同じアラビア半島の端にありますが、位置関係は大丈夫でしょうか?「馬鹿にするのもいい加減にしろ」「低水準のお前の感覚でものを言うな」と言われそうですが。)

非常に内容の濃い本で、この際メモしとこうと思う部分が多いので、3章まででこの有様です。

続きは後日。

(追記:続きは以下

シーア派についてのメモ その1

シーア派についてのメモ その2

2010年1月4日

森久男 『日本陸軍と内蒙工作 関東軍はなぜ独走したか』 (講談社選書メチエ)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 06:00

去年の6月刊。

満州国に隣接する内モンゴル地域での日本陸軍による自治・独立促進工作活動について、あれこれ書いた本。

かなり詳細な本だが、この辺は高校世界史では(高校日本史でも)完全に範囲外なので、ごく大まかなことだけ読み取ればよいと割り切る。

時期的には1933年ごろから36年ごろまでが中心に扱われる。

この時期は32年五・一五事件から36年二・二六事件までの一応の小康状態だが、国内では皇道派・統制派の陸軍派閥抗争、国外では華北分離工作によって日中両国が徐々に正面衝突路線に歩みつつある不安な時代でもある。

内閣は32年斉藤実、34年岡田啓介と、二代海軍穏健派内閣が続き、二・二六事件後には広田弘毅内閣が成立している。

まず基礎事項確認。

当時、外モンゴルは辛亥革命・清朝崩壊後の混乱期にロシア革命での白衛軍が侵入してきて、それを赤軍が追い払ったドサクサ紛れに共産化してモンゴル人民共和国成立、ソ連の衛星国になっている。

(経緯が不正確かもしれないが、すみません、覚えてません。)

内モンゴルというのはモンゴル人民共和国東南部、満州国西部に隣接するチャハル・綏遠両省を中心とする地方のようだ。

なお、満州というのは奉天・吉林・黒竜江の3省をいい、満州国領土に加えられた西部の興安・熱河両省も内モンゴルの一部らしい。

(「ようだ」とか「らしい」ばかりで恐縮ですが、地理的な詳しい説明があまり無いのでこういう書き方しかできない。地図は一応載ってるんですが、一番基礎的な地理をもうちょっと叙述しておいて欲しかったです。)

チャハル・綏遠を越えてさらに西に向かうと寧夏、甘粛、新疆に達する。

冒頭の凡例の後、主要登場人物として相当の数の人名がズラズラ並べられていてビビってしまうが、あまり気にせずに飛ばす。

以下、各章ごとの内容メモ。

序章「帝国国防方針と中国一撃論」で、本書の問題意識と全体の構成を説明。

第一章「日本陸軍の革新運動と対中国政策」。

先日の『浜口雄幸と永田鉄山』の記事で書いたような、陸軍の派閥抗争の歴史を簡潔にまとめてある。

1921年バーデンバーデンの密約、1929年双葉会・木曜会が合流して一夕会結成。

1931年満州事変、33年熱河作戦・塘沽(タンクー)停戦協定。

この頃から皇道派と統制派の対立。

皇道派は荒木貞夫・真崎甚三郎を担ぎ、対ソ戦重視と中国和平論、統制派は林銑十郎を担ぎ中心は永田鉄山、対ソ戦の前提としての中国一撃論。

当初は皇道派が優勢で、31年12月犬養内閣で荒木が陸相就任、32年1月真崎が参謀次長に。

統制派が反発、33年6月真崎転出、34年1月陸相が荒木から林に交替、3月永田が陸軍省軍務局長就任、人事権を武器に徐々に皇道派排除。

永田自身はかつての中国一撃論から距離を置いて、日中関係改善を模索するが、34年末関東軍首脳に板垣征四郎参謀副長、土肥原賢二奉天特務機関長などが復帰すると、関東軍内部で華北分離工作・内蒙工作を遂行しようとする対中強硬論が台頭。

35年6月梅津・何応欽協定(国民党河北省撤退)、土肥原・秦徳純協定(チャハル撤退)、8月永田斬殺(相沢事件)。

永田死後、陸軍中央部に統一的中国政策を遂行する求心力は無く、関東軍の独走を抑止することが不可能になる。

第二章「内蒙高度自治運動」。

清朝時代、蒙古の土地に複数の「盟」とその下に「旗」を置き、王公が世襲の旗長となり絶対権力を行使する体制。

辛亥革命後も変化無く、綏遠・チャハル・熱河には省を置かず、盟旗制度存続。

南京国民政府の北伐完了後、1928年9月綏遠・チャハル・熱河の特別区廃止、省制施行。

盟旗制度廃止を求める急進派(白雲梯ら)、部分的改定を目指す漸進派(呉鶴齢ら)、保守的王公派(徳王=チャハルのシリンゴル盟副盟長ら)の分立。

徳王が内蒙高度自治運動を始めると、蒙古知識青年の支持を集めて、白雲梯・呉鶴齢も参加。

国民政府との交渉を経て、1934年4月蒙古地方自治政務委員会(百霊廟蒙政会・百霊廟は地名)成立。

経済支援の不足や徳王側近の暗殺などが重なり国民政府との関係が悪化、徳王は対日接近に踏み切り、36年には徳王派と中央帰順派に蒙政会は分裂する。

長すぎるので、以後端折ります。

第三章「満州国と初期内蒙工作」。

細かすぎる・・・・・。

満州事変や熱河作戦を経て、33・34年ごろのチャハル東部への浸透工作などが述べられているが、適当に飛ばし読み。

第四章「関東軍の内蒙工作の展開」。

これも細かい。

要は36年徳王が蒙古軍総司令部・蒙古軍政府というものを作り、関東軍の支援で綏遠に侵攻するが、傅作義がこれを撃退し、西安事件直前に中国ナショナリズムを沸き立たせたこと(綏遠事件)だけメモ。

第五章「欧亜連絡航空路」。

内蒙・新疆・アフガン・イラクなどを経て、ベルリンに至る航空路線を開発し、日独防共政策の一環にしようとした構想について。

これも「ああそんなことがあったんですか」というだけなので、飛ばし読み。

第六章「外務省池田書記生の『中国一撃論』批判」。

当時の外交官による関東軍の対中政策批判。

終章「辺境が照射する日本陸軍の対中国政策の特質」。

短いページながら、これまでの記述を概括的にまとめており、有益。

一章、二章までは快調だったのだが、以後は末梢的な、やたら細かい史実を並べ立てた章が続くのがかなわない。

類書が少ないので貴重だと思う記述もある(特に第二章)が、途中からは到底初心者向けとは言えない内容となる。

もう少しレベルを落として、登場人物の数を減らして、日中戦争勃発から終戦までの内モンゴルの状況なども併せて記してくれればより良かったんですが。

読もうと思う方には、一章・二章・終章に力を入れて読み、後は適当に斜め読みで済ませる気持ちで取り組むことをお勧めします。

2010年1月1日

ローレンツ・シュタイン 『平等原理と社会主義 今日のフランスにおける社会主義と共産主義』 (法政大学出版局 叢書ウニベルシタス)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 06:00

明けましておめでとうございます。

高校世界史でシュタインと言えば、ナポレオン時代にハルデンベルクと共にプロイセン改革を推進したカール・シュタインであって、本書の著者であるローレンツ・フォン・シュタインは教科書には出てこない。

むしろ高校教科書では日本史で出てくる。

「えっ!どこで?」と思われるかもしれませんが、1882(明治15)年伊藤博文が明治憲法制定前、調査・研究のため渡欧した際に、ベルリン大学のグナイストと並んで教えを受けたのが、当時ウィーン大学にいたこのローレンツ・シュタインです。

本書はそれよりもかなり早い著作で、原著は1842年刊。

フランスは七月王政下にあり、ウィーン体制が未だ存続していた、二月革命前夜の時代。

原著の書名は、サブタイトルの方だそうです。

これは確か、『猪木正道著作集』でその存在を知ったはず。

しかし、邦訳はどうせ無いだろうなあと思ってそのまま忘れていたのだが、たまたま検索してみたら2、3の翻訳がヒットしたので、驚いてとりあえず県立図書館でこれを取り寄せてみた。

しかし、分厚い・・・・・。

この硬い内容で、500ページ強の分量は自分にはきつ過ぎる・・・・・。

結局160ページ余りの第一部だけ読むことにしました。

第一部は平等原理の発展を大革命以後のフランス史に沿って叙述したもの。

第二部はいわゆる「空想的社会主義者」としてサン・シモンとフーリエの思想を解説。

第三部は「並列する著述家」として、プルードンやルイ・ブランなどを扱う。

第四部が共産主義で、バブーフに始まるその歴史を概観。

マルクスの名前はパラパラと見た限り、全く出て来ません。

1848年『共産党宣言』の前だからか?

(この『宣言』自体、当初はあまり広範囲に流布したわけでなく、同年二月革命への影響はほとんど無いと読んだことがあるが。)

詳しい年表が無いのでわからないのですが、吉川弘文館の『世界史年表・地図』には、それ以前のマルクス・エンゲルスの活動として、1845年『ドイツ・イデオロギー』刊とだけ書いてある。

まだ両者の名がそれほど知られていない時期だったということでしょうか。

E・H・カー『カール・マルクス』(未来社)を読み返せばわかるのだろうが、とりあえずパス。

本書の内容に戻って、第一部のみを読んだ限りで、著者の立場を極めて大雑把に要約すると、以下のようになるか。

革命によって解き放たれた人格的平等原理がナポレオン帝政・復古王政・七月王政を通じて猛威を振るい、社会の平準化を進めたが、産業分野における自由の発達は占有(資本)と非占有(労働)の決定的対立を招いた。

人格的平等原理のみを指導理念とすると、経済の自由競争が金科玉条視されるが、市場機構による利益の予定調和など実際にはありえず、虐げられた非占有者は所有権自体を攻撃し、社会は私利私欲が何の妥協も無しにぶつかり合う分裂と闘争の場に堕していく。

それを和らげる有機体的国家の役割や、現世を超えるものへの信仰を、革命以後のフランスは否定したので、どうにもならない袋小路に陥っている。

ドイツはそれを反面教師に国家が社会問題の解決に積極的に乗り出すべきである。

以上全くのデタラメは書いてないつもりなんですが、また例によって誤読やニュアンスの違いや語の不正確な使用があるかもしれませんので、鵜呑みにはしないで下さい。

何か間違っていたらご容赦願います。

なお、本書の主張については、トーマス・マン、ホイジンガ(ここここ)なども要参照。

第一部しか読みませんでしたが、それなりに面白い。

しかし全編読むのは、初心者には相当苦しい。

余裕のある方のみ、挑戦して下さい。

なお、本書と同じく読めない可能性の方が高いでしょうが、アダム・ミュラーやユリウス・シュタールなど、ドイツ系の保守主義者・国家学者の翻訳がどこかから出ないかなあと思います。

 

だが、国家秩序ならびに社会秩序の地盤が万人の足下で揺らぎ、精神がそこで生きるよう決められている有機体を、全体と個人に結びつけている絆がゆるんでいると人間精神が感じられるならば、人間精神に残っているものは、一つの内的な確信だけである。精神はこの確信にしがみつこうとするし、また、この確信は、失われたものについて精神を慰め、新たな始まりに向けてその勇気を強めるのに十分の力強さをもっている。それはより高い力の支配への信仰である。つまり、神の手が出来事をひき起こしたのであり、また出来事を喜ばしい結末に導くだろうという確信である。この確信が国民の中で生きているところでは、国民生活のどんな内的矛盾も力を増すことはないだろう。というのは、国民にはたしかに疑いがあるが、絶望はないからであり、また、人びとは最後に国民の中に、自らがなしかつ耐えるものに対する確信を見つけ、そして、他国民との戦いの中に、最後の、しかし同時に最高の結合点をみいだすからである。

 

歴史には、国家と社会の実際の解体が現在のフランスの解体よりもはるかに決定的で、かつ一見希望のないもののように叙述された事態があった。ここで、イギリス革命だけでも想起してみよう。この革命の共和主義者や平等主義者の中に、フランスの共和主義と共産主義の面影を再発見できるとしても、しかしこのイギリス革命には回復力が含まれていた。というのは、どの党派も、宗教を依然として最高の法規として認めていたからである。党派の闘いを導き、救ってくれるより高い権力についての意識が万人に共通に存していた。それで、このような意識がフランスに生きていたならば、フランスの内部抗争に一つのはっきりとした出発点が与えられ、それを通じてすべての問題を解決する可能性が与えられたであろう。というのは、或る確信を真にもっているひとは、その確信の中に、すべてのものの萌芽的な生命を発見するだろうからである。

 

しかし、フランスの国家は教会をもたないばかりか、国民も神をもっていない。この点では、われわれドイツとは無縁の世界に言及していることになる。フランスの神意識には、それ独自の歴史が求められる。それゆえ、個々の理解を得るのに全体的な探究が望まれるような領域にあえて踏み込もうとは思わない。しかし、宗教が国家や社会とどんなに密接に連関しているかを認識するためには、革命に一瞥を与える必要がある。歴史的な国家形態や所有の不可侵性を葬るのと同じ力が、古来の信仰を否定する。政治的組織を破壊するのと同じ打撃が、教会に命中する。すべての法的諸理念を、あらゆる側面から、種々の不統一な試みへと駆り立てたのと同じ時代が、国民の心情にある神意識を粉砕する。そして、その時代は新しい国家を自らの中から創りだそうと欲したように、また新しい神を獲得することを試みた。この現象にもっとも深く注目することが必要だ。本書では、ここに生じる問題をただ遠まわしに示唆することしかできない。しかし、現代の真の神をフランス国民の精神生活の中に探しても無駄であることは確かなことである。統一の意識がもっとも力強くあるべきところで、各人は自らに溺れている。

 

だがしかし、あの信仰の中には、国家と所有を攻撃することから生ずる諸矛盾を最終的に和解させるものがある。というのは、悟性が、ほかの国家形態やほかの所有配分の方がすぐれているだろうと理解し、しかしその一方で、平穏な発展過程の中にそれらを実現する方法を洞察せず、また暴力による前進を認めようとしなければ、人間は、依然として自分の神に希望と行為を伴って信心深く身を献げ、また神によって立てられた謎の解決をその神に求めることがありうるからだ。しかし、こういう事情はフランスには存しない。国家の組織および社会の組織を内的に持続させる最終的な基礎が、神とともに葬られた。そして、すべての肯定的な理念に代わって解決しがたい否定が、また、愛に変わって物質的利己主義が現れた。

 

しかし、このようにして滅び去った諸原理は――各人が自分の意識の審判の前で行動のために求める内的な実証との関係で、何を含んでいるのか。これらの諸原理は国民の道徳を形成している。これらから国家生活全体の人倫的理念の実践的側面が個人に明らかとなり、そしてすべての行為において個人を導くのである。だが、まさにこの道徳が葬られた。より高次の信仰が個人の歩みと希望を導く代わりに利己心が至るところで制約力のある契機となった。「たしかに」とルイ・レボーは言う。「この10年来、あらゆる感情、道徳的な基礎が、許しがたい仕方で足蹴にされたり、否定されたり、ゆがめられてきた。利益の尊重が説教され、また、今世紀には真の偉大さの感情が失われたように思える。国家においては、攻撃者が戦術と役割を変えても、つねに変らぬ攻撃対象となったのは、職と位である。産業と文学においては、行き過ぎがあらゆる制限を乗り越えた。そしてあらゆる誠実さと規則性の軽視がじかにわれわれを破壊と混沌に導くのである。古い道徳性は消え去り、しかも新しい道徳性をどこに求めたらよいか言うのは難しい」。

 

そんなことはないと、誰が信じたがらなかったか。またそれにもかかわらず、このような叙述が虚偽を含んでいるなどと誰が主張しうるだろうか。ここに誇張がなかったことは確かである。人倫は、そのもっとも深い根底においてさえ攻撃された。そして、利己主義すなわち平等原理のもっとも破壊的な、もっとも終局的な頽廃が、いまや、国家と社会における唯一の法則となるおそれがある。享楽とその満足がすべての階級の最高目的であること、また占有が無節操と、非占有が国家と所有への目先のきかない憎悪と手に手をとって進むということは、ドイツ人にはなんと理解し難いことだろう!それでいて結局、それ以外にないということも、あまりにも真実なのだ。――

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