万年初心者のための世界史ブックガイド

2009年12月30日

引用文(内田樹2)

Filed under: 引用文 — 万年初心者 @ 06:00

内田樹『下流志向』(講談社文庫)より。

前にも書きましたが、脊髄反射的な左翼批判と対外強硬論を述べるしか能の無い人々(ほんの3、4年前までの私を含む)や、市場を伝統の上に置いて平然としている人に比べれば、リベラル派のこの方のほうが、よほど立派な「保守主義者」だと思います。

去年、ある国立大学で集中講義をしたときに、その大学の新聞部の学生からインタビューを受けたことがあります。その学生が発した最初の質問が「現代思想を学ぶことの意味は何ですか?」というものでした。

その問いを発した学生は、もし僕がこの問いに説得力のある回答をしたらそれを学んでもよいが、僕の答えに納得できなければ「学ばない」と宣言しているわけです。つまり、ある学術分野が学ぶに値するか否かの決定権は自分に属しているということを、問いを通じて表明しているのです。僕はこの傲慢さと無知にはほとんど感動しました。

二十歳の学生の手持ちの価値の度量衡をもってしては計量できないものが世の中には無限に存在します。彼は喩えて言えば、愛用の三十センチの「ものさし」で世の中のすべてのものを測ろうとしている子どもに似ています。その「ものさし」では測れないもの、例えば重さとか光量とか弾力とかいったことの意味を「ものさし」しか持たず、それだけで世界のすべてが計量できると信じている子どもにどうやって教えることができるでしょう?

「何のために勉強するのか?この知識は何の役に立つのか?」という問いを、教育者もメディアも、批評性のある問いだと思い込んでいます。現に、子どもからそういう問いをいきなりつきつけられると、多くの人は絶句してしまう。教師を絶句させるほどラディカルでクリティカルな問いなんだ、これはある種の知性のあかしなのだと子どもたちは思い込んでいます。そして、あらゆる機会に「それが何の役に立つんですか?」と問いかけ、満足のゆく答えが得られなければ、自信たっぷりに打ち棄ててしまう。しかし、この切れ味のよさそのものが子どもたちの成長を妨げているということは、当の子どもたち自身には決して自覚されません。

「何の役に立つのか?」という問いを立てる人は、ことの有用無用についてその人自身の価値観の正しさをすでに自明の前提にしています。有用であると「私」が決定したものは有用であり、無用であると「私」が決定したものは無用である。たしかに歯切れはいい。では「私」が採用している有用性の判定の正しさは誰が担保してくれるのでしょうか?

交換というのは、おっしゃる通り、それに付随してさまざまな価値を生み出す「きっかけ」にすぎないんです。

・・・・・私たちがやっているビジネスも本来はそういうものだと思うんです。なぜ貨幣と商品を交換することに私たちが熱中するのかというと、交換が安定的にスムーズに進行するためには、交換の場を下支えするさまざまな制度や人間的資質を開発する必要があるからです。交換そのものよりむしろ、交換の場に厚みを加えること、それ自体に目的があるわけです。

交換における真の賭け金は、等価のものを交換することでもないし、安値で高価なものを買いたたくことでもなく、交換をきっかけにして、交換を可能にするもろもろの人間的価値を創出することにある。そういうことだと思います。

経済関係の背後には、交換を起動させ、維持するためにさまざまな目に見えない人間的努力があるわけで、そちらの方が実は経済活動の本来の目的だということを忘れてはいけない。僕もそう思います。

経済的合理性というのはその経済活動に付随するもろもろの人間的価値を排除してしまう。だからすごくすっきりしている。でも、視野から排除されたせいで致命的なダメージを受けたものって、たくさんあると思うんです。教育もそうだし、労働もそうだし、育児もそうだと思います。

今年の更新は今日までです。

今年は基本2、3日に一度の更新ペースで、「もう駄目だ、絶対続かん」と思いながら、たまに気になる引用文を交えることで結局年末まで来ました。

ただこのペースは来年は多分続かないでしょう。

カネは無いが暇だけはある人間なのでブログ自体は続けますが、疲れたら特に予告無く、適当にペースを落とします。

それでは皆様、よいお年を。

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