万年初心者のための世界史ブックガイド

2009年12月22日

佐藤賢一 『カペー朝 フランス王朝史1』 (講談社現代新書)

Filed under: フランス — 万年初心者 @ 06:00

著者は西洋歴史小説を数多く書いている人だが、『カエサルを撃て』(中公文庫)も、『剣闘士スパルタクス』(中公文庫)も、現在刊行中の『小説フランス革命』(集英社)もなぜか全然読む気がしない。

小説ではない平易な概説書の『英仏百年戦争』(集英社新書)はなかなか面白いと思ったので、本書を手に取る。

フランス最初の王朝の歴史。

メロヴィング朝とカロリング朝のフランク王国は「フランス」成立以前として外し、近代以降のナポレオン帝政とオルレアン朝も除くと、考えてみればカペー朝・ヴァロワ朝・ブルボン朝と、フランスには三つしか王朝がない。

高校教科書に出てくるカペー朝国王は初代ユーグ・カペー、フィリップ2世、ルイ9世、フィリップ4世の四人。

本書の長所は、これら有力国王に挟まれたマイナー君主を一人残らず紹介して、王朝全体の概観を与えてくれるところ。

ユーグ・カペーの即位と王朝創設は987年だが、ややこしいことに、それ以前にもこの家は始祖の「強者ロベール」の息子ウード(オドー)とロベール(1世)がカロリング朝の合間に王位に就いている。

ロベールの息子大ユーグはカロリング家国王を立てつつ実権は自らが握る(彼はオットー1世の皇女と結婚)。

西フランクのカロリング朝がシャルル1世(禿頭王)→ルイ2世(吃音王)→ルイ3世・カルロマン・シャルル3世(単純王)[以上三人は兄弟]→ルイ4世(渡海王)→ロテール→ルイ5世と続いた後に断絶、大ユーグの息子ユーグ・カペーが即位。

(ウードとロベールの即位はシャルル3世の前後、大ユーグがルイ4世を擁立。)

「カペー」の意外な語源なんて本書で始めて知りましたよ。

当初の王領はセーヌ川沿いのパリとその南、ロワール川沿いのオルレアンに挟まれたイル・ド・フランス(フランス島)のみ。

以後王権が着実に伸張していくが、それを可能にした要因として歴代国王の長寿と男子の跡継ぎに恵まれたことがある。

系図を見ると、初代ユーグ・カペー以来、10代以上にわたってきれいに直系男子の継承が続いている。

これは「カペーの奇跡」として、柴田三千雄『フランス史10講』(岩波新書)でも触れられており、一番単純すぎる理由ではあるが、前近代において極めて重要であったことも容易に想像がつく。

ユーグ・カペーの後は本書で「名ばかりの王たち」と書かれている弱体な王が三代続く。

ロベール2世(敬虔王) 996~1031年。

アンリ1世 1031~1060年。

フィリップ1世 1060~1108年。

特筆すべきこともない国王とは言え、上記の通り在位期間は長い。

フィリップ1世はおよそ半世紀在位、この人の長い治世の間にイングランドのノルマン征服・カノッサの屈辱と聖職叙任権闘争・クレルモン公会議と第一回十字軍という大事件が起こっている。

続いてルイ6世(肥満王) 1108~1137年。

著者はこの王の治世が王権拡張のターニングポイントだとして重視している。

家臣団の統制と領主貴族の討伐を進める。

なお本書全体を通じて、大諸侯の個人名などは覚えなくていいでしょうが、ブルゴーニュ・シャンパーニュ・ヴェルマンドワ・ノルマンディー・ブルターニュ・ブロワ・アンジュー・メーヌ・トゥーレーヌ・ポワトゥー・アキテーヌ・ギュイエンヌ・ガスコーニュ・ラングドック・プロヴァンスなどという地方名が大体どこら辺りにあるのか、曖昧にでも頭に浮かぶようにした方がいいです(以上パリを中心に大体反時計回りに名を挙げているつもりです[あくまで大体])。

次がルイ7世(若王) 1137~1180年。

この人については、石井美樹子『王妃エレアノール』(朝日選書)を読んで、かなり知っている。

第2回十字軍と「アンジュー帝国」との戦い。

その息子が有名なフィリップ2世(オーギュスト・尊厳王) 1180~1223年。

カペー朝屈指の名君で、第3回十字軍と大陸のプランタジネット家領の多くを奪った功績は、高校教科書の通り。

リチャード1世にはしばしば敗れ、一進一退を繰り返すが、ジョン王には決定的勝利を得る。

高校世界史には出てこないが、極めて有名な1214年ブーヴィーヌの戦いでジョン王と同盟した神聖ローマ皇帝オットー4世の軍を破る。

(ジョン王自身はこの戦場にはおらず、南フランスから攻め込んで敗退。)

これでヴェルフ家のオットー4世は没落、帝位はシュタウフェン家に戻り、1215年フリードリヒ2世即位。

同年ジョン王はマグナ・カルタ承認。

高校世界史を履修した多くの人が思うでしょうが、これだけ敗北と失政を続けたジョン王ってある意味すごいなあ・・・・・と思います。

結局フィリップ2世時代にヴェルマンドワ・ノルマンディー・アンジュー・メーヌ・トゥーレーヌ・オーヴェルニュ・ポワトゥーの一部を王領に併合。

ルイ8世(獅子王) 1223~26年。

例外的に短い在位。先代が始めたアルビジョワ十字軍を続行、南仏で従軍中に赤痢で死去。

ルイ9世(聖王) 1226~1270年。

12歳で即位、第六回(本書では第七回)十字軍(エジプト・ダミエッタ攻撃)、第七回十字軍(チュニス攻撃)、チュニスで客死。

ソルボンヌ大学創立、トマス・アクィナスと交流。

モンゴルにルブルック派遣。

弟シャルル・ダンジューがシュタウフェン家に替わってナポリ・シチリア王に。

兄は聖人だが、この弟はかなりのクセ者といった感じ。

フランス支配に対する反抗(1282年「シチリアの晩鐘」)が起こり、シチリア島はアラゴン王家が迎えられ、南イタリアのナポリはフランス系王家が続くが、中世末にナポリもスペイン系支配下に入り、それを不服とした仏国王シャルル8世が1494年攻め込んでイタリア戦争が始めるという経緯だったはずだが、うろ覚えではっきりしない。

フィリップ3世(勇敢王) 1270~1285年。

相続関係でトゥールーズ伯領の王領編入に成功。

シャンパーニュ伯(兼ブロワ伯)を継承した女子と息子フィリップ(次王の4世)との結婚にも成功。

アヴィニョンを教皇に寄進。

ここに「教皇のバビロン捕囚」で教皇庁が移されたわけだが、南フランスにあるとは言え、形式的にはアヴィニョンは(大革命まで)フランス領ではなく教皇領の飛び地だったそうです。

教科書を見ると確かに「南フランスのアヴィニョン」に移したと書いてあって、「フランス領のアヴィニョン」に移したとは書いてない。

つまり後者の書き方をした問題文で正誤問題を作れるわけだが、さすがにこんな凶悪な引っ掛け問題はどこの私大でも出さないでしょう。

上記シチリア反乱を受けてアラゴンに遠征中、陣没。

フィリップ4世(美男王) 1285~1314年。

この人も、三部会・アナーニ事件・アヴィニョン教皇庁・テンプル騎士団弾圧という盛り沢山の治績が高校教科書に載っている。

ルイ10世(喧嘩王) 1314~1316年。

ごく短い治世で貴族の反乱に苦しむ。

この王が急死した後、初めて王位継承で支障が起こる。

死去の時点で王妃が妊娠しており、男子を出産、ジャン1世と名付けられ、またもや奇跡が続くかと思われたが、不幸にして数日後に死亡してしまった。

結局、ルイ10世の弟フィリップ5世(長身王)[1316~1322年]が即位、貴族反乱鎮圧のための軍資金徴収の目的もあって三部会重視の国政運営を行うが、息子は早世しており、男子を残さず死去。

さらに弟のシャルル4世(悪王)[1322~1328年]即位。

イングランド王エドワード2世に対し、アキテーヌ公領の没収を宣言、叔父(フィリップ4世の弟)ヴァロワ伯シャルルがアキテーヌ制圧。

結局エドワード2世は王太子エドワードに公の称号を譲り、公領の役人はフランス王が派遣するという高圧的取り決めが結ばれる。

エドワード2世の妃はフィリップ4世の娘でシャルル4世の妹イザベル。

イザベルが王太子エドワードを擁し、夫エドワード2世を廃位、息子をエドワード3世として即位させる。

シャルル4世が死去した時点で、またもや息子は早世しており、上記ヴァロワ伯シャルルの息子でシャルル4世のいとこに当たるフィリップ6世が即位、ヴァロワ朝を創始。

それに対してエドワード3世がフランス王位継承権を主張、1339年百年戦争を始めるわけで、それはまあわかるんですが、このヴァロワ朝の成立については、「こんなことだけで、王朝交代になるんですかあ?」という気がする。

国王兄弟が三人続けて死去するのは確かに「断絶」という印象を与えるが、フィリップ3世→ヴァロワ伯シャルル→フィリップ6世と男系で繋がっていて、そんな以前に枝分かれしたわけでもなく、一世代前の国王の弟の息子が即位しただけなのになあ・・・・・と思わぬでもない。

何かの本で系図を見て頂ければわかるんですが、ヴァロワ朝内部のシャルル8世からルイ12世、ルイ12世からフランソワ1世への継承の方が、よっぽど「不連続」を感じさせるのですが・・・・・。

この辺、結局よくわかりません。

分量が少なく読みやすい。

かなり重厚な本じゃないと載っていないような無名の国王を一人一人取り上げて解説してくれているのは大変貴重。

確実に押さえておくべき良書と言えます。

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