万年初心者のための世界史ブックガイド

2009年12月9日

ガブリエル・タルド 『世論と群集』 (未来社)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 06:00

『正統の哲学異端の思想』の引用文で本書の存在を知る。

著者のタルドの名前は、それ以前にも聞いたことがあったような気がするが、よく覚えていない。

原書の初版は1901年で、時代的にはギュスターヴ・ル・ボン『群衆心理』の少し後に出た本。

全三部に分かれており、まず第一篇で、実際に同一の場所に寄り集まり肉体的接触を持つ集団である「群集」と、それぞれバラバラの場所に存在しながら新聞ジャーナリズムや通信・交通手段の発達によってあたかもひとかたまりの集団のように運動する「公衆」を区別している。

タルドは、公衆が群集と同じように、しばしば狂信的で暴力的行動に走ることを認めながらも、相対比較で言えば、公衆は群集よりも理性的で穏健な傾向があるとしている。

これについては、20世紀以降の歴史を見て、ちょっと楽観も度が過ぎるんじゃないですか、と言いたくなる。

第二編は、公衆が形成する世論とその土台となる個々人の会話についてあれこれ書いてある。

難しくはないが、内容は特にどうということもないので軽く流す。

第三編は犯罪群集と犯罪結社で、フランス革命やパリ・コミューンだけでなく、平時においても群集が犯した犯罪的行為を、無政府主義者の起こしたテロリズムと共に、いくつかの例を挙げて描写している。

比較的短くて、楽に読めるのは良い。

ただ内容については、期待したほどではなかった。

一読して損をした気は全然しないが、ル・ボン『群衆心理』とは違い、必読の書とまでは言えないと思います。

・・・・・群集は、起源においても、またそのほかの諸特性においても、きわめてさまざまだけれども、いくつかの点ではまったく似かよっている。すなわち、おどろくべき不寛容。グロテスクな高慢。病的な神経過敏。みずからの全能という錯覚から生れる狂的なほどの無責任ぶり。たがいに興奮させあった度はずれの動揺から生ずる、節度感の完全な喪失など。憎悪と賞讃とのあいだにも、嫌悪と熱中とのあいだにも、ばんざいという叫びとくたばれの叫びとのあいだにも、群集にとっては中間がない。ばんざいといえば、ばんざい千代に八千代にというわけだ。そこには神にも似た不死への願望と、なにかを神に祭りあげようとするきざしがある。しかもこの神格化を、永遠の呪いに変ずることも朝めしまえである。

さて、これらのたくさんの分類や考察は、指摘した諸特徴がいささか漠然としているにもせよ、さまざまな公衆にもまた適用できる。群集とおなじく公衆もまた、不寛容で、高慢で、のぼせがちで、生意気である。そして世論の威を借りれば、自分に反対するものは、真理でさえもすべて自分に屈服すると信じこんでいる。精神的交流が活発化したため、集団意識や公衆意識が、とりわけ群集意識が、現代社会にひろまるにつれて、節度感のなくなっていくありさまが目につく。人物なり作品なりを、賞めすぎるにせよ、くさすにせよ、まったくもって考えなしだ。文芸評論家さえ、読者らのこの傾向に追従するから、もはや評価をぼかしたり、やわらげたりはできない。彼らとしても、はやしたてて迎えるか、さもなくばみんなの面前ではずかしめる。サント・ブーヴのような、まばゆいほどの批評が聞かれた時代から、なんと遠ざかってしまったのだろう!この点では、群集も公衆も、いささかアルコール中毒患者に似ている。そして、じっさい、度のすぎた集団生活は、頭脳にとっておそるべきアルコールである。

・・・・・群集は最悪の指導者たちをむしろ選んで服従するというだけでなくて、最悪の指導者たちから発するいろいろの暗示のうちの、最悪の暗示をこそ選びかねない。なぜか?ちょうど、いちばん遠くまで音の響く鐘が、けっしていちばん甲高い鐘でもいちばん音色の澄んだ鐘でもなくて、要するにいちばん大きい鐘であるのに似て、いちばん伝染しやすい感情や思想は、いちばん強烈なやつだからである。さらに、いちばん強烈な思想とは、判断力よりは感覚に訴えるような、いちばん偏狭で、いちばん不正なやつだし、いちばん強烈な感情とはいちばん利己的なやつだからである。真実の抽象的概念よりも子供っぽい夢物語が、また推論よりは直喩が、先入主の放棄よりは一人物への盲信が、群集のあいだでずっとひろがりやすい理由はここにある。尊敬の念を捧げて楽しむよりは中傷する喜びに専念し、義務観念よりはおしゃべり好きの傾向が強く、歓呼よりは嘲笑のほうがずっとたやすくひろがり、勇気から飛びだすより恐慌におびえて暴発することが多いのも、みんな理由はここにある。

広告

WordPress.com で無料サイトやブログを作成.

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。