万年初心者のための世界史ブックガイド

2009年12月6日

川田稔 『浜口雄幸と永田鉄山』 (講談社選書メチエ)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 06:00

今年の4月刊。

第一次世界大戦という大変動を受けて、国際協調主義に徹した代表的政党政治家と、総力戦体制確立にすべてを賭けた統制派軍人を対照的に描き出した本。

以下、年表風の内容メモ。

1924年第二次護憲運動の結果、加藤高明護憲三派内閣(憲政会・政友会・革新倶楽部)成立(外相幣原喜重郎・27年まで在任)。

(同年欧州ではドーズ案が成立し、以後五年間の「相対的安定期」に入る。偶然だが日本の政情と欧州情勢がリンクしているようにも見える。)

1925年加藤憲政会単独内閣、宇垣軍縮(陸軍四個師団削減)。

1926年加藤死去、若槻礼次郎憲政会内閣成立、12月大正天皇崩御、昭和改元、中国では蒋介石が北伐を開始。

1927年金融恐慌、若槻内閣総辞職、4月田中義一政友会内閣成立、上海四・一二クーデタ、第一次山東出兵、6月憲政会と政友本党が合併し立憲民政党結成、浜口雄幸が総裁。

同27年陸軍内の長州閥打破・総動員体制に向けての軍制改革を目指す陸軍中堅幕僚が二葉(ふたば)会結成。永田鉄山・岡村寧次(やすじ)・小畑敏四郎・板垣征四郎・河本大作・東条英機・山下奉文ら。

同年木曜会も結成。鈴木貞一・石原莞爾・根本博ら。永田・岡村・東条も会員。

1928年張作霖爆殺事件。第二次山東出兵・済南事件、パリ不戦条約調印、12月張学良が国民政府に合流(東三省易幟)、北伐完了。

1929年7月田中内閣総辞職、浜口雄幸民政党内閣成立(外相幣原・蔵相井上準之助・陸相宇垣一成)、世界恐慌。

同年木曜会と二葉会合流、一夕(いっせき)会結成。武藤章、田中新一なども加わる。宇垣を中心とする長州閥打破・人事刷新、満州問題武力解決、荒木貞夫・真崎甚三郎・林銑十郎の非長州系三将官擁立などを主張。

別に橋本欣五郎らの桜会結成。

1930年金解禁・昭和恐慌、ロンドン海軍軍縮条約、統帥権干犯問題、中国で反蒋派の反乱(中原大戦)→張学良の支援などで鎮圧、11月浜口が東京駅で右翼団体構成員に狙撃され重傷。

外交面では非常な見識を発揮した浜口内閣だが、内政面では世界恐慌直後の最悪の時期に緊縮財政とデフレ政策を取って社会不安を昂進させ、急進的勢力を勢いづけたのが強く惜しまれる。

この時期野党だった政友会(総裁は犬養毅)の与党民政党攻撃は酷い。ロンドン条約での統帥権干犯を言い募るのは政党政治の自殺に等しい。高坂正堯氏が「大正末年から昭和初期の政党内閣時代の政友会は国益に反することしかしていない感がある」という意味のことを『世界史の中から考える』(新潮選書)で書いていたのを思い出す(もっとも民政党の方も田中内閣の不戦条約調印時には「人民の名の下に」という文言を捉えて政府攻撃をしているが)。

1931年三月事件(桜会のクーデタ未遂)、4月第二次若槻民政党内閣、9月18日柳条湖事件・満州事変勃発。

当時の陸軍首脳は、陸軍省では陸軍大臣南次郎、陸軍次官杉山元、軍務局長小磯国昭、軍事課長永田鉄山、補任課長岡村寧次、参謀本部では参謀総長金谷範三、総務部長梅津美治郎、第一(作戦)部長建川美次、作戦課長今村均、関東軍では高級参謀板垣征四郎、作戦主任参謀石原莞爾、奉天特務機関長土肥原賢二、朝鮮軍司令官林銑十郎など。

宇垣系の南陸相、金谷参謀総長を下部の一夕会系中堅幕僚が引きずる展開となっていく。

今村均という人は一夕会会員ではなく、後にジャワ島で現地住民の独立意思を尊重した穏健な占領統治を実現し、戦後の戦犯裁判で南洋で収監されている部下と共に服役し、釈放後も自宅庭の掘っ立て小屋で過ごして自らの責任を課したと聞いており、読んだ本のいくつかで非常に褒められていたが、そういう人でも当時は(ある程度は)拡大派だったのかと、複雑な気分になる。

十月事件、桜会の再クーデタ計画、永田ら一夕会系が同意せず、メンバーが保護検束を受けて失敗。

12月犬養毅政友会内閣成立、陸相は宇垣が推す阿部信行ではなく一夕会が擁立しようとした三将官の一人荒木貞夫に。

32年1月参謀総長に皇族の閑院宮載仁親王、参謀次長に真崎甚三郎を据え、実権は真崎に。

宇垣に近い南・金谷系の杉山、建川が中央から追放。

ここまで書いて疲れました・・・・・・。

以後やや端折ります。

32年五・一五事件、斉藤実内閣成立、政党内閣時代終わる。

林銑十郎が教育総監就任、荒木陸相・真崎参謀次長と併せて一夕会が推す三人が事実上陸軍トップを占める事態に。

9月日満議定書、満州国承認。

33年3月熱河作戦、国際連盟脱退、5月塘沽(タンクー)停戦協定・満州事変終了。

この頃から一夕会系統内部での皇道派と統制派の対立が生まれてくる。

この陸軍内部の対立の経緯と人脈を述べている部分が、本書では一番役に立った(高橋正衛『昭和の軍閥』には、期待していたが、こういう記述が無かった)。

皇道派が近い時期での対ソ戦に積極的でそのため対中政策として現状の小康状態を維持しようとするのに対し、統制派は総力戦となることが必至の対ソ戦にはやや慎重で、その準備として華北・華中の資源獲得を目指したため対中強硬論に走り勝ちになる(対米戦については両派とも慎重)。

皇道派人脈は陸軍中央では荒木・真崎・小畑敏四郎・柳川平助・山岡重厚・山下奉文らでその下に隊付青年将校ら。

しかしこの両者はしばしば異なった理念と問題意識をもっており、例えば青年将校らが統制経済を主張したのに対し、真崎らはその種の国家社会主義には否定的。

当初、永田ら一夕会は、非宇垣系である真崎・荒木らを擁立して、陸軍の実権を掌握しようとした。だが、荒木が陸相となるや、逆に真崎・荒木は、一夕会における永田と小畑の個人的な対立に乗じて、一夕会の土佐系(小畑、山下、山岡など)、佐賀系(牟田口、土橋など)を一気に抱き込み、彼らを有力ポストにつけて皇道派を形成した。そのことによって一夕会に亀裂が入り、永田ら一夕会主流は、真崎・荒木らをコントロールすることが困難になり、皇道派がヘゲモニーを掌握することになったのである。・・・・・

一方、永田のもとには、東条英機、武藤章、・・・・・服部卓四郎、辻政信ら中堅少壮の中央幕僚が集まっていた。彼らがいわゆる統制派の中核となっていく。

その他、記されている人脈は、「永田に近い非皇道派一夕会メンバー」として板垣征四郎、土肥原賢二、宇垣・南系が建川美次、小磯国昭、阿部信行、「南系だが実務派」の梅津美治郎。

真崎らと疎遠になっていた林が統制派に担がれる形になる。

ちなみに、当時陸軍の有力な政治集団としては、永田らの統制派、真崎らの皇道派、南らの宇垣派の三派閥で、彼らが相互に陸軍の実権をめぐって、しのぎを削っていた。その他の実務型の軍事官僚は、横断的な集団を構成しておらず、個々のポスト固有の権限を行使しうるのみで、これら三派閥と一時的であれ連携しないかぎり、政治的な発言力をもちえなかった。実務型とはタイプが異なるが林もまた同様であったのである。

35年8月永田斬殺(相沢事件)、36年二・二六事件を経て、皇道派は中央から追放、宇垣派も力を失い、統制派とそれと相対的に近い非皇道派系一夕会員が主に残ることとなる。

長々と書きましたが、内容は穴だらけです。

我ながら、滅茶苦茶下手なまとめだなあと思います。

以上のメモはあまり信用せず、実際にお読み下さい。

浜口と永田を常に対比しながら叙述しているのかと思ったが、時代順に前半は浜口、後半は永田にページを割り当て、ごくごくオーソドックスに筆を進めている。

その分初心者でも取っ付きやすい形式。

教科書レベルのごく基礎的なことが曖昧にでも頭に入っていれば、十分読みこなせる。

文章は読みやすく、痒い所に手が届くといった感じの丁寧な叙述で、非常な好感を持てる。

戦前昭和期の前半十年間の政治史として、昭和軍閥の系譜を記した入門として、共に役に立つ。

かなりお勧めできる本です。

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