万年初心者のための世界史ブックガイド

2009年12月30日

引用文(内田樹2)

Filed under: 引用文 — 万年初心者 @ 06:00

内田樹『下流志向』(講談社文庫)より。

前にも書きましたが、脊髄反射的な左翼批判と対外強硬論を述べるしか能の無い人々(ほんの3、4年前までの私を含む)や、市場を伝統の上に置いて平然としている人に比べれば、リベラル派のこの方のほうが、よほど立派な「保守主義者」だと思います。

去年、ある国立大学で集中講義をしたときに、その大学の新聞部の学生からインタビューを受けたことがあります。その学生が発した最初の質問が「現代思想を学ぶことの意味は何ですか?」というものでした。

その問いを発した学生は、もし僕がこの問いに説得力のある回答をしたらそれを学んでもよいが、僕の答えに納得できなければ「学ばない」と宣言しているわけです。つまり、ある学術分野が学ぶに値するか否かの決定権は自分に属しているということを、問いを通じて表明しているのです。僕はこの傲慢さと無知にはほとんど感動しました。

二十歳の学生の手持ちの価値の度量衡をもってしては計量できないものが世の中には無限に存在します。彼は喩えて言えば、愛用の三十センチの「ものさし」で世の中のすべてのものを測ろうとしている子どもに似ています。その「ものさし」では測れないもの、例えば重さとか光量とか弾力とかいったことの意味を「ものさし」しか持たず、それだけで世界のすべてが計量できると信じている子どもにどうやって教えることができるでしょう?

「何のために勉強するのか?この知識は何の役に立つのか?」という問いを、教育者もメディアも、批評性のある問いだと思い込んでいます。現に、子どもからそういう問いをいきなりつきつけられると、多くの人は絶句してしまう。教師を絶句させるほどラディカルでクリティカルな問いなんだ、これはある種の知性のあかしなのだと子どもたちは思い込んでいます。そして、あらゆる機会に「それが何の役に立つんですか?」と問いかけ、満足のゆく答えが得られなければ、自信たっぷりに打ち棄ててしまう。しかし、この切れ味のよさそのものが子どもたちの成長を妨げているということは、当の子どもたち自身には決して自覚されません。

「何の役に立つのか?」という問いを立てる人は、ことの有用無用についてその人自身の価値観の正しさをすでに自明の前提にしています。有用であると「私」が決定したものは有用であり、無用であると「私」が決定したものは無用である。たしかに歯切れはいい。では「私」が採用している有用性の判定の正しさは誰が担保してくれるのでしょうか?

交換というのは、おっしゃる通り、それに付随してさまざまな価値を生み出す「きっかけ」にすぎないんです。

・・・・・私たちがやっているビジネスも本来はそういうものだと思うんです。なぜ貨幣と商品を交換することに私たちが熱中するのかというと、交換が安定的にスムーズに進行するためには、交換の場を下支えするさまざまな制度や人間的資質を開発する必要があるからです。交換そのものよりむしろ、交換の場に厚みを加えること、それ自体に目的があるわけです。

交換における真の賭け金は、等価のものを交換することでもないし、安値で高価なものを買いたたくことでもなく、交換をきっかけにして、交換を可能にするもろもろの人間的価値を創出することにある。そういうことだと思います。

経済関係の背後には、交換を起動させ、維持するためにさまざまな目に見えない人間的努力があるわけで、そちらの方が実は経済活動の本来の目的だということを忘れてはいけない。僕もそう思います。

経済的合理性というのはその経済活動に付随するもろもろの人間的価値を排除してしまう。だからすごくすっきりしている。でも、視野から排除されたせいで致命的なダメージを受けたものって、たくさんあると思うんです。教育もそうだし、労働もそうだし、育児もそうだと思います。

今年の更新は今日までです。

今年は基本2、3日に一度の更新ペースで、「もう駄目だ、絶対続かん」と思いながら、たまに気になる引用文を交えることで結局年末まで来ました。

ただこのペースは来年は多分続かないでしょう。

カネは無いが暇だけはある人間なのでブログ自体は続けますが、疲れたら特に予告無く、適当にペースを落とします。

それでは皆様、よいお年を。

2009年12月27日

ウィリアム・シェイクスピア 『リチャード二世』 (白水社uブックス)

Filed under: イギリス, 文学 — 万年初心者 @ 06:00

シェイクスピアの作品で読んだものと言えば、大分前に記事にした『ジュリアス・シーザー』『アントニーとクレオパトラ』の他には『ハムレット』だけです。

文学的素養ゼロの私としては、正直どれも面白さがわからなかったので、他の作品を読もうという気はこれまで全然起きなかったのですが、高坂正堯氏が『大国日本の世渡り学』『世界史の中から考える』で、イギリス議会政治の背景を知るためにシェイクスピアの史劇を読むことを薦めていたので、ひとまず本書を手に取ってみた。

訳者は小田島雄志氏。

巻末にある全集の広告を見ると、シェイクスピアのイギリス史劇では、『ジョン王』を除けば、これが一番古い国王を扱ったもののようだ。

歴代のイギリス国王は他の国の君主に比べれば、高校教科書でもかなり名前が出てくる。

プランタジネット朝以降ではヘンリ2世・リチャード1世・ジョン王・ヘンリ3世ときて、以後エドワードという名前の国王が三代続き、エドワード1世・エドワード2世・エドワード3世。

このうちエドワード2世のみが教科書範囲外だが、他の国王は全て重要で高校レベルでも暗記すべき事項と言えるでしょう(ついでだし、エドワード2世も覚えるに越したことはない)。

以上、リチャード1世→ジョン王が兄・弟間の継承だった以外は、すべて父子継承。

本作品の主人公リチャード2世は、高校世界史で出て来る国王ではない(ただし2002年版『詳説世界史』では本文中にはもちろん記されていないが、欄外の系図で後継のランカスター朝・ヨーク朝の王と共に名前が出ている)。

系図を確認すると、百年戦争を始めたのがエドワード3世、その子が勇武で知られたエドワード黒太子。

このエドワード黒太子は父親より先に死去し国王には即位せず(即位してたらそもそも黒太子ではなく、「エドワード4世」と呼ばれていたはずだから当たり前ですが)。

リチャード2世はこの黒太子の子で、祖父のエドワード3世を継いで1377年即位。

百年戦争ではシャルル5世(1364~1380年)時代にフランスがやや形勢を挽回し、シャルル6世の幼い娘イザベラとリチャード2世が婚約し、英仏間は休戦状態に入る。

黒太子の弟にランカスター公ジョン・オヴ・ゴーントという人物がおり、その息子でリチャード2世のいとこに当たるヘンリ・ボリングブルックが反旗を翻し1399年リチャードを廃位、自ら王位に就きヘンリ4世となる。

(リチャードは翌年死亡。本作品ではヘンリの意を読み取った部下による暗殺、福田恆存『私の英国史』では餓死。)

リチャード2世にてプランタジネット朝は終わり、ヘンリ4世からランカスター朝が始まる。

なお、ジョン・オヴ・ゴーントと同じく黒太子の弟で、ヨーク公エドマンド・オヴ・ラングリーという人物がおり、この人が後のヨーク王家の祖となる。

結局、リチャードは阿諛追従の徒に囲まれ賢臣を遠ざけ、重税を課して国民各層に見放され、王位を簒奪された愚かな暗君というのが本書での描写を含めた一般的イメージのようですが、私はこの人にあまり悪い印象がない。

それはおそらく、アンドレ・モロワ『英国史』で読んだ、以下のエピソードからあまりに強烈な印象を受けたからだろうと思う。

リチャードが即位して間もなく、1381年に史上有名なワット・タイラーの乱が起こっている。

王が塔から出ていた間に、叛徒はそこへ押入った。カンタベリー大司教の首と大蔵長官の首が、ロンドン橋の袂に晒された。血に狂い、我を忘れたこの群集を、なんとでもして遠ざけることが必要だった。

農民の多くは自分たちの憲章に満足して、既にその日のうちに市から去った。まだ数千人が残っていたが、これらは疑いもなく最も悪質の連中で、掠奪を続けようと思っていたのである。しかし各処から、騎士や都邑の公民が王に荷担すべく到着した。

翌日の新しい会見の場所としてスミスフィールドの馬市場が叛徒に通達された。少年の王はその広場へ騎馬で、ロンドン市長その他の護衛の一隊を引連れて乗込んだ。広場の向うの端には『百姓兵』どもが弓を武器に控えていた。彼等の首領ワット・タイラーは、乗馬のまま王の一行を出迎えた。

そこで何が起ったか?年代記作家たちは各々違ったことを書いている。確かにこのタイラーは傲慢な態度を示したに相違なく、ロンドン市長は突然怒りだし、隠し持った武器の一撃で、彼を打ち倒した。彼が倒れるや否や、王の供奉者は彼を取巻いて、広場の向う側にいる一味の者から見えないようにした。しかしこれを見てとった彼等は早くも戦闘隊形を作って、弓を引絞った。

その時、この若い王は、思いがけない英雄的な、行動に出た、それが事態を救ったのである。彼は供奉の人々に、『ここに居れ、誰もついて来るな』と言いおいて、たった一人で彼等を離れた。そして叛徒の方に向って行きながら言った、『お前たちの隊長は余以外にない。余はお前たちの王だ。静かにせよ』。落着き払った態度で何の不安も見せず自分たちの方へやって来る美少年を見て、首領も計画もない叛徒は武器を棄てた。リチャードは彼等の先頭に立って、彼等を市の外に導いた。ともかく、フロアサールの語るところは上述の如くである。

ちなみに、この文章の後、以下の記述が続く。

殺人者と掠奪犯人は、憐憫に値しない。しかし1381年の農民の中には、正義を擁護するのだと思っていた正直な人間が多かった。この連中が、感動し信頼し切って、やがては処刑の目に遭わされるとは露知らず、この美少年王の後からついて行ったのだと思うと、誰かよく感慨なきを得よう。けだし、その弾圧たるや、この暴動に劣らず残酷なものとなったからである。

想像していたよりもはるかに面白かった。

人物造形の巧みさと台詞まわしの深みは、私のような人間でも十分感じ取れた。

前半部、傲慢で無思慮な王であるリチャードが、廃位され悲劇的境遇に落ちてから尊厳の兆しを見せる後半部とのコントラストが見事。

短いので楽に読めるし、高坂先生のおっしゃる通り中世から近世のイギリス史の雰囲気を知るには、シェイクスピアの史劇は非常に適切だと思います。

2009年12月25日

猪木武徳 『戦後世界経済史 自由と平等の視点から』 (中公新書)

Filed under: 近現代概説 — 万年初心者 @ 06:00

中公新書の記念すべきちょうど2000点目。

今年5月刊。

経済史といっても、あまり難解な理論や複雑な数式は全く無く、細かな統計数字もほとんど出てこない。

地域・時代ごとの平易な概説で、私でも読める。

著者はたしか猪木正道氏の息子さん。

末尾の謝辞で「94歳の父」とあるので、年齢も合う。

第一章「あらまし」、全体の視点と問題意識の説明、戦後世界経済の変化の概観。

第二章「復興と冷戦」、マーシャル・プランと欧州復興、ソ連の農業不振とスプートニクなど科学技術上の成果、西ドイツ通貨改革と経済奇跡。

第三章「混合経済の成長過程」、日米経済紛争、米国のケインズ政策採用とその帰結、欧州統合と英仏伊スウェーデン各国経済の変遷。

第四章「発展と停滞」、中国の社会主義経済の挫折、東欧諸国の苦境、中南米・インド・アフリカ諸国の経済建設。

第五章「転換」、石油危機、スタグフレーション、東アジアの経済発展、80年代以降の新自由主義。

第六章「破綻」、80年代の中南米諸国累積債務問題、97年アジア通貨危機、社会主義計画経済の崩壊、地域経済統合とグローバリズム、07・08年以降の世界金融危機。

最後の「むすびにかえて」で、サブタイトルに関わる話をしてお仕舞い。

非常にわかりやすく、平易に書かれてある本だと思うが、正直に言うとこの程度でも私の頭では理解できない部分がある。

例えば87ページの西ドイツ通貨改革の叙述で、新・旧マルクの交換比率の内容説明が、悲しいかな、何度読んでもわからない。

全体的に便利ではあるが、ものすごく面白いといった感じでもない。

自分が不得意な分野で断定的なことは言わない方が良いのでしょうが、絶対必読本とまで言えない気がします。

ただ、同じ著者で、中公新版世界史全集29巻の、『冷戦と経済繁栄』よりは、本書の方が良いと思います。

2009年12月22日

佐藤賢一 『カペー朝 フランス王朝史1』 (講談社現代新書)

Filed under: フランス — 万年初心者 @ 06:00

著者は西洋歴史小説を数多く書いている人だが、『カエサルを撃て』(中公文庫)も、『剣闘士スパルタクス』(中公文庫)も、現在刊行中の『小説フランス革命』(集英社)もなぜか全然読む気がしない。

小説ではない平易な概説書の『英仏百年戦争』(集英社新書)はなかなか面白いと思ったので、本書を手に取る。

フランス最初の王朝の歴史。

メロヴィング朝とカロリング朝のフランク王国は「フランス」成立以前として外し、近代以降のナポレオン帝政とオルレアン朝も除くと、考えてみればカペー朝・ヴァロワ朝・ブルボン朝と、フランスには三つしか王朝がない。

高校教科書に出てくるカペー朝国王は初代ユーグ・カペー、フィリップ2世、ルイ9世、フィリップ4世の四人。

本書の長所は、これら有力国王に挟まれたマイナー君主を一人残らず紹介して、王朝全体の概観を与えてくれるところ。

ユーグ・カペーの即位と王朝創設は987年だが、ややこしいことに、それ以前にもこの家は始祖の「強者ロベール」の息子ウード(オドー)とロベール(1世)がカロリング朝の合間に王位に就いている。

ロベールの息子大ユーグはカロリング家国王を立てつつ実権は自らが握る(彼はオットー1世の皇女と結婚)。

西フランクのカロリング朝がシャルル1世(禿頭王)→ルイ2世(吃音王)→ルイ3世・カルロマン・シャルル3世(単純王)[以上三人は兄弟]→ルイ4世(渡海王)→ロテール→ルイ5世と続いた後に断絶、大ユーグの息子ユーグ・カペーが即位。

(ウードとロベールの即位はシャルル3世の前後、大ユーグがルイ4世を擁立。)

「カペー」の意外な語源なんて本書で始めて知りましたよ。

当初の王領はセーヌ川沿いのパリとその南、ロワール川沿いのオルレアンに挟まれたイル・ド・フランス(フランス島)のみ。

以後王権が着実に伸張していくが、それを可能にした要因として歴代国王の長寿と男子の跡継ぎに恵まれたことがある。

系図を見ると、初代ユーグ・カペー以来、10代以上にわたってきれいに直系男子の継承が続いている。

これは「カペーの奇跡」として、柴田三千雄『フランス史10講』(岩波新書)でも触れられており、一番単純すぎる理由ではあるが、前近代において極めて重要であったことも容易に想像がつく。

ユーグ・カペーの後は本書で「名ばかりの王たち」と書かれている弱体な王が三代続く。

ロベール2世(敬虔王) 996~1031年。

アンリ1世 1031~1060年。

フィリップ1世 1060~1108年。

特筆すべきこともない国王とは言え、上記の通り在位期間は長い。

フィリップ1世はおよそ半世紀在位、この人の長い治世の間にイングランドのノルマン征服・カノッサの屈辱と聖職叙任権闘争・クレルモン公会議と第一回十字軍という大事件が起こっている。

続いてルイ6世(肥満王) 1108~1137年。

著者はこの王の治世が王権拡張のターニングポイントだとして重視している。

家臣団の統制と領主貴族の討伐を進める。

なお本書全体を通じて、大諸侯の個人名などは覚えなくていいでしょうが、ブルゴーニュ・シャンパーニュ・ヴェルマンドワ・ノルマンディー・ブルターニュ・ブロワ・アンジュー・メーヌ・トゥーレーヌ・ポワトゥー・アキテーヌ・ギュイエンヌ・ガスコーニュ・ラングドック・プロヴァンスなどという地方名が大体どこら辺りにあるのか、曖昧にでも頭に浮かぶようにした方がいいです(以上パリを中心に大体反時計回りに名を挙げているつもりです[あくまで大体])。

次がルイ7世(若王) 1137~1180年。

この人については、石井美樹子『王妃エレアノール』(朝日選書)を読んで、かなり知っている。

第2回十字軍と「アンジュー帝国」との戦い。

その息子が有名なフィリップ2世(オーギュスト・尊厳王) 1180~1223年。

カペー朝屈指の名君で、第3回十字軍と大陸のプランタジネット家領の多くを奪った功績は、高校教科書の通り。

リチャード1世にはしばしば敗れ、一進一退を繰り返すが、ジョン王には決定的勝利を得る。

高校世界史には出てこないが、極めて有名な1214年ブーヴィーヌの戦いでジョン王と同盟した神聖ローマ皇帝オットー4世の軍を破る。

(ジョン王自身はこの戦場にはおらず、南フランスから攻め込んで敗退。)

これでヴェルフ家のオットー4世は没落、帝位はシュタウフェン家に戻り、1215年フリードリヒ2世即位。

同年ジョン王はマグナ・カルタ承認。

高校世界史を履修した多くの人が思うでしょうが、これだけ敗北と失政を続けたジョン王ってある意味すごいなあ・・・・・と思います。

結局フィリップ2世時代にヴェルマンドワ・ノルマンディー・アンジュー・メーヌ・トゥーレーヌ・オーヴェルニュ・ポワトゥーの一部を王領に併合。

ルイ8世(獅子王) 1223~26年。

例外的に短い在位。先代が始めたアルビジョワ十字軍を続行、南仏で従軍中に赤痢で死去。

ルイ9世(聖王) 1226~1270年。

12歳で即位、第六回(本書では第七回)十字軍(エジプト・ダミエッタ攻撃)、第七回十字軍(チュニス攻撃)、チュニスで客死。

ソルボンヌ大学創立、トマス・アクィナスと交流。

モンゴルにルブルック派遣。

弟シャルル・ダンジューがシュタウフェン家に替わってナポリ・シチリア王に。

兄は聖人だが、この弟はかなりのクセ者といった感じ。

フランス支配に対する反抗(1282年「シチリアの晩鐘」)が起こり、シチリア島はアラゴン王家が迎えられ、南イタリアのナポリはフランス系王家が続くが、中世末にナポリもスペイン系支配下に入り、それを不服とした仏国王シャルル8世が1494年攻め込んでイタリア戦争が始めるという経緯だったはずだが、うろ覚えではっきりしない。

フィリップ3世(勇敢王) 1270~1285年。

相続関係でトゥールーズ伯領の王領編入に成功。

シャンパーニュ伯(兼ブロワ伯)を継承した女子と息子フィリップ(次王の4世)との結婚にも成功。

アヴィニョンを教皇に寄進。

ここに「教皇のバビロン捕囚」で教皇庁が移されたわけだが、南フランスにあるとは言え、形式的にはアヴィニョンは(大革命まで)フランス領ではなく教皇領の飛び地だったそうです。

教科書を見ると確かに「南フランスのアヴィニョン」に移したと書いてあって、「フランス領のアヴィニョン」に移したとは書いてない。

つまり後者の書き方をした問題文で正誤問題を作れるわけだが、さすがにこんな凶悪な引っ掛け問題はどこの私大でも出さないでしょう。

上記シチリア反乱を受けてアラゴンに遠征中、陣没。

フィリップ4世(美男王) 1285~1314年。

この人も、三部会・アナーニ事件・アヴィニョン教皇庁・テンプル騎士団弾圧という盛り沢山の治績が高校教科書に載っている。

ルイ10世(喧嘩王) 1314~1316年。

ごく短い治世で貴族の反乱に苦しむ。

この王が急死した後、初めて王位継承で支障が起こる。

死去の時点で王妃が妊娠しており、男子を出産、ジャン1世と名付けられ、またもや奇跡が続くかと思われたが、不幸にして数日後に死亡してしまった。

結局、ルイ10世の弟フィリップ5世(長身王)[1316~1322年]が即位、貴族反乱鎮圧のための軍資金徴収の目的もあって三部会重視の国政運営を行うが、息子は早世しており、男子を残さず死去。

さらに弟のシャルル4世(悪王)[1322~1328年]即位。

イングランド王エドワード2世に対し、アキテーヌ公領の没収を宣言、叔父(フィリップ4世の弟)ヴァロワ伯シャルルがアキテーヌ制圧。

結局エドワード2世は王太子エドワードに公の称号を譲り、公領の役人はフランス王が派遣するという高圧的取り決めが結ばれる。

エドワード2世の妃はフィリップ4世の娘でシャルル4世の妹イザベル。

イザベルが王太子エドワードを擁し、夫エドワード2世を廃位、息子をエドワード3世として即位させる。

シャルル4世が死去した時点で、またもや息子は早世しており、上記ヴァロワ伯シャルルの息子でシャルル4世のいとこに当たるフィリップ6世が即位、ヴァロワ朝を創始。

それに対してエドワード3世がフランス王位継承権を主張、1339年百年戦争を始めるわけで、それはまあわかるんですが、このヴァロワ朝の成立については、「こんなことだけで、王朝交代になるんですかあ?」という気がする。

国王兄弟が三人続けて死去するのは確かに「断絶」という印象を与えるが、フィリップ3世→ヴァロワ伯シャルル→フィリップ6世と男系で繋がっていて、そんな以前に枝分かれしたわけでもなく、一世代前の国王の弟の息子が即位しただけなのになあ・・・・・と思わぬでもない。

何かの本で系図を見て頂ければわかるんですが、ヴァロワ朝内部のシャルル8世からルイ12世、ルイ12世からフランソワ1世への継承の方が、よっぽど「不連続」を感じさせるのですが・・・・・。

この辺、結局よくわかりません。

分量が少なく読みやすい。

かなり重厚な本じゃないと載っていないような無名の国王を一人一人取り上げて解説してくれているのは大変貴重。

確実に押さえておくべき良書と言えます。

2009年12月19日

塩野七生 『ローマ人の物語35・36・37 最後の努力』 (新潮文庫)

Filed under: ローマ — 万年初心者 @ 06:00

例年通り夏に文庫化された今年の分を、数ヶ月経ってようやく通読。

つくづく思うことが、やはり読みやすい。

どんなにやる気の出ない時でも、このシリーズ(特に文庫版)はスラスラ読める。

単行本の1、2巻を読んだ時のように、何の留保もなく絶賛する気持ちはかなり薄れているのだが、この読みやすさだけは認めざるを得ない。

本書はディオクレティアヌス帝とコンスタンティヌス大帝を扱った巻。

単行本では13巻目、残り2巻しかないが、それで4世紀前半(337年)コンスタンティヌスの死までか、毎回思うことだがやはりペースが遅いなあ、全巻の末尾は常識的に考えれば476年西ローマ帝国滅亡までだろう、これでちゃんと終わるのかね、と単行本を立ち読みしたときには思っていた。

(結局、最後は西ローマ滅亡ではなく別の時点になったわけですが、該当巻が文庫化されるまでネタバレはやめておきましょう。)

内容的に、まず何より挙げるべき特徴は、ディオクレティアヌス・コンスタンティヌス両者の事業が、ほぼ全て否定的に扱われていること。

共和政から帝政への移行を、歴史の必然であったとしつこいほど繰り返し説いてきた著者であるが、前期帝政から後期帝政への移行においては、やはりある種の「堕落」を認める立場の模様。

取り上げられている皇帝は、ディオクレティアヌス、マクシミアヌス、ガレリウス、コンスタンティウス・クロルス(1世)、セヴェルス、マクシミヌス・ダイア(ダヤ)、コンスタンティヌス(1世・のちの大帝)、マクセンティウス、リキニウス。

この時代にディオクレティアヌスが四分統治制(テトラルキア)を導入、東方正帝・副帝、西方正帝・副帝の四人が帝国を統治する体制となる。

その中で以上の皇帝たちが正帝になったり、副帝になったり、引退したり、病死したり、敗死したりする経緯はやや複雑だが、物語としてかなり面白い。

年代として、ディオクレティアヌスの登位284年は覚えた方がいいでしょうし、せめて3世紀末だということは頭に入れておく。

紆余曲折を経て、313年ミラノ勅令の時点では帝国西部はコンスタンティヌス1世単独統治、東部はリキニウスとマクシミヌス・ダヤが分立、ミラノ勅令は同盟関係を結んだコンスタンティヌスとリキニウスの共同声明の形で出されたもの。

リキニウスがマクシミヌス・ダヤを倒し帝国東部を完全に支配するが、315年コンスタンティヌスに敗れドナウ流域領を喪失、その後しばらく小康状態が続くが324年コンスタンティヌスはリキニウスを打倒、帝国全土を単独支配下に置いた後、325年ニケーア公会議、330年コンスタンティノープル遷都。

人名区別として初心者が注意すべき点は、コンスタンティウス・クロルス(1世)の息子がコンスタンティヌス(1世・大帝)。

父親がコンスタン「ティウス」、息子がコンスタン「ティヌス」。

少し先走りますが、次巻で出てくるであろう、コンスタンティヌス大帝の三人の息子たちが、コンスタンティヌス(2世)、コンスタンティウス(2世)、コンスタンスであり、もうややこしいことこの上ないが、仕方ないのでしっかり記憶する。

四分統治制導入当初、東方正帝ディオクレティアヌスと並んで西方正帝の位に就いたマクシミアヌスと、その両者の引退後東方正帝ガレリウスの下で、東方副帝に起用されたマクシミヌス・ダヤもご注意。

最初がマクシミ「アヌス」、後者がマクシミ「ヌス」。

マクシミヌス・ダヤについては、前巻『迷走する帝国』で出てきた、アレクサンデル・セヴェルス帝暗殺後に即位したマクシミヌス・トラクスがいるので、それぞれ添え名で区別して下さい。

なおそのマクシミヌス・トラクスに反対して立った諸皇帝のうち、ブピエヌス帝のことをギボン『ローマ帝国衰亡史』では、「マクシムス」帝と表記しており、それでさらにややこしい思いがしたのを覚えている。

マクシミアヌスの息子がマクセンティウス。

これも多分次巻で出てくると思うが、コンスタンスを殺して一時期帝国西部を支配した僭帝マグネンティウスと上記マクセンティウスを混同しないようにする。

最初西方副帝となり、コンスタンティウス・クロルス死後西方正帝に挙げられたが、すぐにマクセンティウスによって攻められ敗死したセヴェルスを『終わりの始まり』に出てくるセプティミウス・セヴェルス、上記『迷走する帝国』のアレクサンデル・セヴェルスと区別したいのだが、本書でもギボン『衰亡史』でも単にセヴェルスとしか載っていない。

仕方ないので、久しぶりに『古代ローマ人名事典』を引いてみると、フラヴィウス・ヴァレリアヌス・セヴェルスと書いてあった。

(直後のローマ字綴りではヴァレリアヌスではなく、ヴァレリウスに見えるんですが・・・・・。それとこれ、どれが個人名なんですかね?ヴァレリウス?通常は個人名・氏族名・家名の順だといっても、後期帝政期には命名法に混乱があったそうだし、フラヴィウスが個人名とは思えないんですが。)

とんでもない値段なのでなかなか思い切れなかったが、買って手元に置いておくとこの事典はたまに役立つ。

内容面に話を戻すと、帝国衰亡の原因として、軍制・税制など制度史の話は頻繁に出てくるが、コロヌス・コロナートゥスがどうとかいう狭い意味での経済史の話が出てこない。

(コンスタンティヌス大帝の職業世襲化令などは記されているが、コロヌスという言葉自体全然見た覚えが無い。)

また著者自身とも親交があった高坂正堯氏が『文明が衰亡するとき』の第一部古代ローマの章で展開した衰亡論のうち、大きな部分を占めるローマ帝国の「大衆社会化現象」という切り口のような叙述も、本巻含め、このシリーズにはほとんど見られない気がする。

結論。

やはり面白いことは間違いない。

この巻も十分読ませる。

最初の方の巻と違って、完璧な出来の入門書とは言えないかもしれないが、初心者が読んで損をしたと思うことはまず無い。

さて、残り2巻ですか。

次でいよいよ背教者ユリアヌス帝が登場しますね。

来年夏が、大変楽しみです。

2009年12月17日

石川晶康 『NEW石川日本史B講義の実況中継 5』 (語学春秋社)

Filed under: 教科書・年表・事典 — 万年初心者 @ 06:00

このシリーズ、全4巻じゃなくて、文化史のこの巻を含め、全5巻なんですよ。

それでもって、これも一応買ったんですけどね。

嫌だ・・・・・。

頭痛くなってくる・・・・・。

人物と作品名・建物名・宗派名などの羅列がひたすら続く。

中宮寺と広隆寺それぞれの半跏思惟像の判別法として、頭に宝珠が2個載っているのが中宮寺で、宝冠を被っているのが広隆寺だとか、室町時代禅宗の京都五山が天竜寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺で、それに加えて南禅寺が「五山の上」で、鎌倉五山が建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺・浄妙寺だとか、大和の猿楽四座が金春座・金剛座・宝生座・観世座で、そのうちもともと結崎座といった観世座から観阿弥・世阿弥親子が出たとか、もう本当に頼むから勘弁して下さいという感じ。

(以上、確認したら結崎座の名以外は全部『詳説日本史』に脚注や図版・写真で載っている。)

他の巻に比べて、読物としての面白みに極めて乏しい。

漢字やその読み方も鬱陶しいことこの上ない。

一般常識として知るべきことが多く含まれているのは認めますが、とにかくキツイ。

やる気が全く出ず、ごく粗く読み飛ばしたのみ。

だから何も書くことが無い。

毎度毎度同じことばかり書いてますが、これで世界史より日本史の方が楽だと考える人の気が知れない・・・・・。

それとも私の感覚がおかしいのか・・・・・。

もう、ただそれだけ。

2009年12月14日

石川晶康 『NEW石川日本史B講義の実況中継 4』 (語学春秋社)

Filed under: 教科書・年表・事典 — 万年初心者 @ 06:00

3巻の続き。

範囲は大正から平成までの近現代史。

この巻でも引き続き内閣在任順のチェックを行うが、昭和に入ってからの内閣は他の本でかなり読んでいるので、とりあえず大正期のみを以下にメモ。([  ]←は与党・出身など。)

まず1912年が明治45年で、この年明治天皇崩御、大正天皇即位で大正元年、よって1911年を起点に何年経ったかで西暦を大正○○年に換算(あるいは西暦から11を引く)。

大正は15年間で、1926年まで。

大正天皇崩御が12月末なので昭和元年は一週間ほど。

昭和最後の64年(西暦1989年)も一週間でしたね。

寝坊して居間に下りて行ったら、家族が特別番組を見ていて、「ああ、とうとう亡くなったのか」と思ったのを思い出します。

閑話休題。

1911年  西園寺公望(第2次)[政友会?]  陸軍2個師団増設問題

1912年  桂太郎(第3次)[立憲同志会]  第1次護憲運動・大正政変

1913年  山本権兵衛(第1次)[政友会]  軍部大臣現役武官制廃止 シーメンス事件

1914年  大隈重信(第2次)[立憲同志会]  第一次大戦参戦・21カ条要求

1916年  寺内正毅[陸軍・超然内閣]  シベリア出兵・米騒動

1918年  原敬[政友会]  平民宰相・パリ講和会議

1921年  高橋是清[政友会]  ワシントン会議

1922年  加藤友三郎[海軍・政友会]  山梨軍縮

1923年  山本権兵衛(第2次)[海軍]  関東大震災・虎の門事件

1924年  清浦奎吾[貴族院]  第2次護憲運動

同年   加藤高明(第1次)[憲政会・政友会・革新倶楽部]  普通選挙法・治安維持法 幣原外交・宇垣軍縮

1925年  加藤高明(第2次)[憲政会]  政友会総裁田中義一、革新倶楽部合併

1926年  若槻礼次郎(第1次)[憲政会]  昭和改元

以上、期間が短いので覚えやすい。

年代と任期中の大まかな出来事を頭に入れる。

存続期間一年ほどの短命の内閣が多いが、大隈内閣・原内閣・加藤(高明)内閣がやはり重要。

これを機に政党史を整理。

板垣退助の自由党と大隈重信の立憲改進党という二つの系譜が1955年保守合同と自由民主党結成まで、ずーっと繋がっている。

1881年自由党・82年立憲改進党結成。

細かな経緯は省いて、1896年立憲改進党が進歩党と改称。

1898年自由・進歩両党が合併して憲政党結成(同年隈板内閣)。

すぐに解党して自由党系の憲政党・進歩党系の憲政本党に分裂。

憲政党が伊藤博文に接近、伊藤を総裁に1900年立憲政友会結成、この政友会は敗戦まで続く(指導者は伊藤→西園寺公望→原敬→高橋是清→田中義一→犬養毅[五・一五事件時]→以後省略[覚えなくていいと思う。ただしこれ以前の六人は要記憶。])。

ここまでで一区切り。

1910年憲政本党は立憲国民党に改称、1913年桂太郎を支持して立憲同志会を結成するが、犬養毅らはこれに反対して立憲国民党に留まる。

桂死後、同志会は加藤高明が指導、1916年憲政会と改称。

1922年犬養が革新倶楽部結成、清浦を支持して分離した政友本党を除く、憲政会・政友会・革新倶楽部の護憲三派が24年加藤高明内閣を成立させる。

25年政友会総裁に田中義一、革新倶楽部併合。

第1次若槻憲政会内閣が倒れた後、田中政友会内閣時代の1927年憲政会と政友本党が合併して立憲民政党結成。

これでやっと政友会・民政党の二大政党が揃うが、1932年の五・一五事件までの5年(加藤内閣から数えて8年)しか政党内閣の時代は続かない。

昭和の内閣についてはまたの機会に。

この巻も、まあいいんじゃないでしょうか。

後半になるにつれ、他の本で読んだ部分が多くなり、内容が粗く退屈に感じるが、これは個人的感想に過ぎないでしょう。

受験生だけでなく、社会人が日本史を復習するために十分使える本だと思います。

2009年12月12日

引用文(タルド1)

Filed under: 引用文 — 万年初心者 @ 06:00

ガブリエル・タルド『世論と群集』(未来社)より。

・・・・・パリ・コミューンの際にも、おなじような例が見られた。最後の週に、囚人たちはヴェルサイユ宮につれてゆかれ、群集にとりかこまれた。リュドヴィク・アレヴィによると囚人のあいだには「かなり美しい娘がいて、後手にしばられ、赤いラシャを二重にした将校用の頭布つき合羽にくるまれていた。髪毛は乱れていた。群集は、『大佐夫人、大佐夫人!』と叫んだ。この騒ぎに、娘は頭をもたげ、嘲笑をもってこたえた。するとそこらじゅうから『死刑!死刑!』という大きな叫び声があがった。すると一人の老人が『むごいことはいけない。なんといっても相手は婦人じゃないか』と叫んだ。一瞬のうちに、群集の怒りはこの老人に集中した。みんなが彼をめがけて押しかけた。この群集こそ、火つけもいとわぬコミューン派の暴徒だ。老人は生きた心地もなかった。ところが、突然、甲高い声がひびいた。パリ野郎の陽気な、人を食った声である『お年寄りをいじめちゃなんねえぞ。あの娘っ子はこのおっさんのスケなのさ。』とたんに、老人のまわりは笑いの渦だった。彼は助かった。・・・・・群集はこのうえなくはげしい憤怒からさえ、あけっぴろげの陽気さへ、それもまさに一瞬のうちにとび移った」。

この事件の観察記録は、はじめから終りまで全部を引用する値うちがある。自分を殺害しようとする人びとをさえ物ともしないこの美しい女丈夫を、群集のなかの人びとがもしも一人きりで見たのだったら、その人がフランス人であるかぎり、彼女への讃美の念しか示さなかったろうことは確かだ。ところが集合していると、彼女への怒りしか感じなかった。彼らは、彼らの集団的なうぬぼれ――きわめて高い程度にまで高められ、過大になっていた彼らの異常なうぬぼれ――へ冷水をかけたこの勇敢な嘲りしか気にとめなかったようだ。ド・スタール夫人はその著『フランス大革命考』のなかで、「民衆のあいだにある傷ついたうぬぼれは、われわれのうぬぼれがもつ移ろいやすいニュアンスとは似ても似つかない。それは、人を死刑に処そうとする欲求である」と述べている。至言である。しかし実際には、うぬぼれへの強度の、あるいは軽度の打撃のために、殺人をのぞむまでに激化し、尖鋭になるのは、人びとが集団をつくっているばあいで、彼らが個人でいるときではない。しかも、単に集団一般のばあいというだけでなく、学識経験を積んだ上流人の集団でさえ、すべて例外ではない。集会は――たとえばすぐれた議会主義のたてまえをとる集会でさえ、弁士に侮辱されると、激しやすい性質のとりこになって、怒りゆえの殺人という光景をときとして演じてしまう。

どんな点からみても群集は、そしてもっと一般的にいうなら組織と訓練を欠いた集合体は、その構成員の大部分よりも移り気で、忘れっぽく、だまされやすく、残忍である。そういう状態にいる自分を想像するのはいつでもつらいものだが、証拠のほうはどんどんふえている。しかし、人びとはその事実を注視しようとさえも考えなかったようだ。

2009年12月9日

ガブリエル・タルド 『世論と群集』 (未来社)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 06:00

『正統の哲学異端の思想』の引用文で本書の存在を知る。

著者のタルドの名前は、それ以前にも聞いたことがあったような気がするが、よく覚えていない。

原書の初版は1901年で、時代的にはギュスターヴ・ル・ボン『群衆心理』の少し後に出た本。

全三部に分かれており、まず第一篇で、実際に同一の場所に寄り集まり肉体的接触を持つ集団である「群集」と、それぞれバラバラの場所に存在しながら新聞ジャーナリズムや通信・交通手段の発達によってあたかもひとかたまりの集団のように運動する「公衆」を区別している。

タルドは、公衆が群集と同じように、しばしば狂信的で暴力的行動に走ることを認めながらも、相対比較で言えば、公衆は群集よりも理性的で穏健な傾向があるとしている。

これについては、20世紀以降の歴史を見て、ちょっと楽観も度が過ぎるんじゃないですか、と言いたくなる。

第二編は、公衆が形成する世論とその土台となる個々人の会話についてあれこれ書いてある。

難しくはないが、内容は特にどうということもないので軽く流す。

第三編は犯罪群集と犯罪結社で、フランス革命やパリ・コミューンだけでなく、平時においても群集が犯した犯罪的行為を、無政府主義者の起こしたテロリズムと共に、いくつかの例を挙げて描写している。

比較的短くて、楽に読めるのは良い。

ただ内容については、期待したほどではなかった。

一読して損をした気は全然しないが、ル・ボン『群衆心理』とは違い、必読の書とまでは言えないと思います。

・・・・・群集は、起源においても、またそのほかの諸特性においても、きわめてさまざまだけれども、いくつかの点ではまったく似かよっている。すなわち、おどろくべき不寛容。グロテスクな高慢。病的な神経過敏。みずからの全能という錯覚から生れる狂的なほどの無責任ぶり。たがいに興奮させあった度はずれの動揺から生ずる、節度感の完全な喪失など。憎悪と賞讃とのあいだにも、嫌悪と熱中とのあいだにも、ばんざいという叫びとくたばれの叫びとのあいだにも、群集にとっては中間がない。ばんざいといえば、ばんざい千代に八千代にというわけだ。そこには神にも似た不死への願望と、なにかを神に祭りあげようとするきざしがある。しかもこの神格化を、永遠の呪いに変ずることも朝めしまえである。

さて、これらのたくさんの分類や考察は、指摘した諸特徴がいささか漠然としているにもせよ、さまざまな公衆にもまた適用できる。群集とおなじく公衆もまた、不寛容で、高慢で、のぼせがちで、生意気である。そして世論の威を借りれば、自分に反対するものは、真理でさえもすべて自分に屈服すると信じこんでいる。精神的交流が活発化したため、集団意識や公衆意識が、とりわけ群集意識が、現代社会にひろまるにつれて、節度感のなくなっていくありさまが目につく。人物なり作品なりを、賞めすぎるにせよ、くさすにせよ、まったくもって考えなしだ。文芸評論家さえ、読者らのこの傾向に追従するから、もはや評価をぼかしたり、やわらげたりはできない。彼らとしても、はやしたてて迎えるか、さもなくばみんなの面前ではずかしめる。サント・ブーヴのような、まばゆいほどの批評が聞かれた時代から、なんと遠ざかってしまったのだろう!この点では、群集も公衆も、いささかアルコール中毒患者に似ている。そして、じっさい、度のすぎた集団生活は、頭脳にとっておそるべきアルコールである。

・・・・・群集は最悪の指導者たちをむしろ選んで服従するというだけでなくて、最悪の指導者たちから発するいろいろの暗示のうちの、最悪の暗示をこそ選びかねない。なぜか?ちょうど、いちばん遠くまで音の響く鐘が、けっしていちばん甲高い鐘でもいちばん音色の澄んだ鐘でもなくて、要するにいちばん大きい鐘であるのに似て、いちばん伝染しやすい感情や思想は、いちばん強烈なやつだからである。さらに、いちばん強烈な思想とは、判断力よりは感覚に訴えるような、いちばん偏狭で、いちばん不正なやつだし、いちばん強烈な感情とはいちばん利己的なやつだからである。真実の抽象的概念よりも子供っぽい夢物語が、また推論よりは直喩が、先入主の放棄よりは一人物への盲信が、群集のあいだでずっとひろがりやすい理由はここにある。尊敬の念を捧げて楽しむよりは中傷する喜びに専念し、義務観念よりはおしゃべり好きの傾向が強く、歓呼よりは嘲笑のほうがずっとたやすくひろがり、勇気から飛びだすより恐慌におびえて暴発することが多いのも、みんな理由はここにある。

2009年12月6日

川田稔 『浜口雄幸と永田鉄山』 (講談社選書メチエ)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 06:00

今年の4月刊。

第一次世界大戦という大変動を受けて、国際協調主義に徹した代表的政党政治家と、総力戦体制確立にすべてを賭けた統制派軍人を対照的に描き出した本。

以下、年表風の内容メモ。

1924年第二次護憲運動の結果、加藤高明護憲三派内閣(憲政会・政友会・革新倶楽部)成立(外相幣原喜重郎・27年まで在任)。

(同年欧州ではドーズ案が成立し、以後五年間の「相対的安定期」に入る。偶然だが日本の政情と欧州情勢がリンクしているようにも見える。)

1925年加藤憲政会単独内閣、宇垣軍縮(陸軍四個師団削減)。

1926年加藤死去、若槻礼次郎憲政会内閣成立、12月大正天皇崩御、昭和改元、中国では蒋介石が北伐を開始。

1927年金融恐慌、若槻内閣総辞職、4月田中義一政友会内閣成立、上海四・一二クーデタ、第一次山東出兵、6月憲政会と政友本党が合併し立憲民政党結成、浜口雄幸が総裁。

同27年陸軍内の長州閥打破・総動員体制に向けての軍制改革を目指す陸軍中堅幕僚が二葉(ふたば)会結成。永田鉄山・岡村寧次(やすじ)・小畑敏四郎・板垣征四郎・河本大作・東条英機・山下奉文ら。

同年木曜会も結成。鈴木貞一・石原莞爾・根本博ら。永田・岡村・東条も会員。

1928年張作霖爆殺事件。第二次山東出兵・済南事件、パリ不戦条約調印、12月張学良が国民政府に合流(東三省易幟)、北伐完了。

1929年7月田中内閣総辞職、浜口雄幸民政党内閣成立(外相幣原・蔵相井上準之助・陸相宇垣一成)、世界恐慌。

同年木曜会と二葉会合流、一夕(いっせき)会結成。武藤章、田中新一なども加わる。宇垣を中心とする長州閥打破・人事刷新、満州問題武力解決、荒木貞夫・真崎甚三郎・林銑十郎の非長州系三将官擁立などを主張。

別に橋本欣五郎らの桜会結成。

1930年金解禁・昭和恐慌、ロンドン海軍軍縮条約、統帥権干犯問題、中国で反蒋派の反乱(中原大戦)→張学良の支援などで鎮圧、11月浜口が東京駅で右翼団体構成員に狙撃され重傷。

外交面では非常な見識を発揮した浜口内閣だが、内政面では世界恐慌直後の最悪の時期に緊縮財政とデフレ政策を取って社会不安を昂進させ、急進的勢力を勢いづけたのが強く惜しまれる。

この時期野党だった政友会(総裁は犬養毅)の与党民政党攻撃は酷い。ロンドン条約での統帥権干犯を言い募るのは政党政治の自殺に等しい。高坂正堯氏が「大正末年から昭和初期の政党内閣時代の政友会は国益に反することしかしていない感がある」という意味のことを『世界史の中から考える』(新潮選書)で書いていたのを思い出す(もっとも民政党の方も田中内閣の不戦条約調印時には「人民の名の下に」という文言を捉えて政府攻撃をしているが)。

1931年三月事件(桜会のクーデタ未遂)、4月第二次若槻民政党内閣、9月18日柳条湖事件・満州事変勃発。

当時の陸軍首脳は、陸軍省では陸軍大臣南次郎、陸軍次官杉山元、軍務局長小磯国昭、軍事課長永田鉄山、補任課長岡村寧次、参謀本部では参謀総長金谷範三、総務部長梅津美治郎、第一(作戦)部長建川美次、作戦課長今村均、関東軍では高級参謀板垣征四郎、作戦主任参謀石原莞爾、奉天特務機関長土肥原賢二、朝鮮軍司令官林銑十郎など。

宇垣系の南陸相、金谷参謀総長を下部の一夕会系中堅幕僚が引きずる展開となっていく。

今村均という人は一夕会会員ではなく、後にジャワ島で現地住民の独立意思を尊重した穏健な占領統治を実現し、戦後の戦犯裁判で南洋で収監されている部下と共に服役し、釈放後も自宅庭の掘っ立て小屋で過ごして自らの責任を課したと聞いており、読んだ本のいくつかで非常に褒められていたが、そういう人でも当時は(ある程度は)拡大派だったのかと、複雑な気分になる。

十月事件、桜会の再クーデタ計画、永田ら一夕会系が同意せず、メンバーが保護検束を受けて失敗。

12月犬養毅政友会内閣成立、陸相は宇垣が推す阿部信行ではなく一夕会が擁立しようとした三将官の一人荒木貞夫に。

32年1月参謀総長に皇族の閑院宮載仁親王、参謀次長に真崎甚三郎を据え、実権は真崎に。

宇垣に近い南・金谷系の杉山、建川が中央から追放。

ここまで書いて疲れました・・・・・・。

以後やや端折ります。

32年五・一五事件、斉藤実内閣成立、政党内閣時代終わる。

林銑十郎が教育総監就任、荒木陸相・真崎参謀次長と併せて一夕会が推す三人が事実上陸軍トップを占める事態に。

9月日満議定書、満州国承認。

33年3月熱河作戦、国際連盟脱退、5月塘沽(タンクー)停戦協定・満州事変終了。

この頃から一夕会系統内部での皇道派と統制派の対立が生まれてくる。

この陸軍内部の対立の経緯と人脈を述べている部分が、本書では一番役に立った(高橋正衛『昭和の軍閥』には、期待していたが、こういう記述が無かった)。

皇道派が近い時期での対ソ戦に積極的でそのため対中政策として現状の小康状態を維持しようとするのに対し、統制派は総力戦となることが必至の対ソ戦にはやや慎重で、その準備として華北・華中の資源獲得を目指したため対中強硬論に走り勝ちになる(対米戦については両派とも慎重)。

皇道派人脈は陸軍中央では荒木・真崎・小畑敏四郎・柳川平助・山岡重厚・山下奉文らでその下に隊付青年将校ら。

しかしこの両者はしばしば異なった理念と問題意識をもっており、例えば青年将校らが統制経済を主張したのに対し、真崎らはその種の国家社会主義には否定的。

当初、永田ら一夕会は、非宇垣系である真崎・荒木らを擁立して、陸軍の実権を掌握しようとした。だが、荒木が陸相となるや、逆に真崎・荒木は、一夕会における永田と小畑の個人的な対立に乗じて、一夕会の土佐系(小畑、山下、山岡など)、佐賀系(牟田口、土橋など)を一気に抱き込み、彼らを有力ポストにつけて皇道派を形成した。そのことによって一夕会に亀裂が入り、永田ら一夕会主流は、真崎・荒木らをコントロールすることが困難になり、皇道派がヘゲモニーを掌握することになったのである。・・・・・

一方、永田のもとには、東条英機、武藤章、・・・・・服部卓四郎、辻政信ら中堅少壮の中央幕僚が集まっていた。彼らがいわゆる統制派の中核となっていく。

その他、記されている人脈は、「永田に近い非皇道派一夕会メンバー」として板垣征四郎、土肥原賢二、宇垣・南系が建川美次、小磯国昭、阿部信行、「南系だが実務派」の梅津美治郎。

真崎らと疎遠になっていた林が統制派に担がれる形になる。

ちなみに、当時陸軍の有力な政治集団としては、永田らの統制派、真崎らの皇道派、南らの宇垣派の三派閥で、彼らが相互に陸軍の実権をめぐって、しのぎを削っていた。その他の実務型の軍事官僚は、横断的な集団を構成しておらず、個々のポスト固有の権限を行使しうるのみで、これら三派閥と一時的であれ連携しないかぎり、政治的な発言力をもちえなかった。実務型とはタイプが異なるが林もまた同様であったのである。

35年8月永田斬殺(相沢事件)、36年二・二六事件を経て、皇道派は中央から追放、宇垣派も力を失い、統制派とそれと相対的に近い非皇道派系一夕会員が主に残ることとなる。

長々と書きましたが、内容は穴だらけです。

我ながら、滅茶苦茶下手なまとめだなあと思います。

以上のメモはあまり信用せず、実際にお読み下さい。

浜口と永田を常に対比しながら叙述しているのかと思ったが、時代順に前半は浜口、後半は永田にページを割り当て、ごくごくオーソドックスに筆を進めている。

その分初心者でも取っ付きやすい形式。

教科書レベルのごく基礎的なことが曖昧にでも頭に入っていれば、十分読みこなせる。

文章は読みやすく、痒い所に手が届くといった感じの丁寧な叙述で、非常な好感を持てる。

戦前昭和期の前半十年間の政治史として、昭和軍閥の系譜を記した入門として、共に役に立つ。

かなりお勧めできる本です。

2009年12月4日

臼井勝美 『満州事変 戦争と外交と』 (中公新書)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 06:00

同じ著者の『日中戦争』(中公新書)がなかなか良かったので、これも手に取る。

北伐完了後も続く中国の混乱、満鉄(南満州鉄道)などの日本利権に対する圧迫、事変の先触れとして起きた1931年7月の万宝山事件と8月中村(震太郎)大尉事件、9月18日の柳条湖事件と満州事変勃発、奉天占領、11月チチハル占領、12月若槻礼次郎民政党内閣崩壊と幣原外交終焉、犬養毅政友会内閣成立、1932年1月第一次上海事変、錦州占領、2月ハルビン占領、リットン調査団来訪、3月満州国成立までが叙述範囲。

以下、気付いたことといい加減な感想の箇条書き。

本書は1974年刊なのだが、柳条湖事件が本文では「柳条溝」と書かれており、この時期にはまだそういう表記だったのかと意外に思った。

遼東半島先端の旅順・大連から瀋陽(奉天)を経て長春までが満鉄の路線。長春から北へ東清鉄道がハルビンまで延びハルビンを通ってさらに東西に敷かれている(この東清鉄道はロシアを継承したソ連が当時利権を持っていたはず)。チチハルはハルビンの北西。満州と中国本土・山海関の中間にある重要拠点が錦州。

事変を受けた列強の態度はしばしば揺れ動き、時には日本にかなり融和的。中国ナショナリズムが既存条約を無視した過激な利権回復運動を行なうことに欧米諸国も手を焼いており、それが上記のような態度に繋がったものと見られるが(マクマリー『平和はいかに失われたか』(原書房)など参照)、日本の軍事行動の拡大によって、そうした態度も変化してしまう。

関東軍などの、軍の不統制をありありと示す記述は読んでいて重苦しい気分になる。国際連盟での議論で日本側が中国は秩序ある近代国家ではなく、外国人の生命・財産を適切に保護することができず、それが今回の事態に繋がったと批判したのに対し、中国側が日本こそ自国の軍隊を統制できず、秩序ある国家の体を成していないと反論している(この話は他の本でも読んだ記憶がある)。後の日中戦争の泥沼化と無謀な日米開戦を考えると、もし仮に「大東亜戦争肯定論」のような立場に立つ場合でも、この点に関しては重々反省すべきではないかと思ってしまう。

しかもこういう軍の暴走は決して孤立した事象ではない。民衆世論の圧倒的支持を受けており、その意味では穏健な政党政治家や宮中側近グループよりも専横を極める軍の方が言ってみれば「民主的」である。以後も粗暴・矯激な多数派が穏健・中正な少数派を押し潰し続け遂に敗戦に至る。すると今度は世論の少なからぬ部分が、左寄りの、全く逆の教条に囚われ下から国家を揺さぶることになる。(数年ほど前にそれがやっと終わったかと思うと現在また方向だけを変えた、一昔前なら間違いなく左翼に行っていたような、頭のおかしな人達が暴れ回ることになっている。以前も書きましたが、全くバークは本当にうまいこと言ったもんです。)

半年以上前の朝日新聞の昭和報道特集紙面で、軍部・政治家・天皇・マスコミ・民衆のそれぞれに戦争責任がどれほどあると思うかというアンケートが載せられており、「民衆」に「大いに責任がある」という意見が確か3%くらいしかなかったのを見て、「ああ、また穢いもん見たな」と思いました。

日本だけでなくドイツもそうだと思いますが(村瀬興雄『ナチズム』ニッパーダイ『ドイツ史を考える』ドラッカー『傍観者の時代』等参照)、戦前の体制を危険なものとした要因と、それを抑制した要因が、一般的世論の中では全く逆に取り違えられているんではないかと感じられてならない。

(そんなこと偉そうに書くお前はどうなんだと言われれば、自分も似たような考えの偏りを経てきたし、これからもそうなんだろうなあと白状せざるを得ませんが。)

冒頭、1930年の中共紅軍による長沙占領と国民党の反撃、日本の国民党軍への好意的中立態度について記述されているが、これを読むと日中双方が民族感情を抑えて真の共通の敵たる共産勢力を撲滅するために協力するという展開になぜならなかったんだろうと慨嘆してしまう。

本書もかなり良い。

初級から中級レベルまでの史実を洩れなく取り上げ、極めてオーソドックスな形式で無難にまとめている。

同じ中公新書の、高橋正衛『二・二六事件』『昭和の軍閥』がやや程度が高く、取っ付きにくい本だったのとは違い、かなり読みやすい。

時代的に叙述範囲をもう少し前後に広げてくれれば、より良かったかとも思うが、このようにコンパクトな分量の方がいいのかもしれない。

初心者向けの良質な入門書です。

2009年12月1日

根本敬 『アウン・サン 封印された独立ビルマの夢 (現代アジアの肖像13)』 (岩波書店)

Filed under: 東南アジア — 万年初心者 @ 06:00

「ビルマ独立の父」の生涯を中心にしたビルマ現代史。

まず冒頭でビルマとミャンマーという国名の問題について触れており、『謎の仏教王国パガン』での記述と同じく、改名を行なった軍事政権への態度とは関係なく、ミャンマーよりビルマが適当としています。

本題に入ると、独立運動の起源として、まず仏教青年会(YMBA)という組織が出来て、これを母体に1920年漸進的な穏健派団体としてビルマ人団体総評議会(GCBA)が結成される。

これに対して1930年、より若い世代の急進的ナショナリストたちが結成したのが、「我らのビルマ協会」、通称タキン党。

タキンというのは「主人」の意味で、党員同士が名前の前に付けて呼び合ったことから通称となった。

共産党の「~同志」みたいなもんでしょうか?

前者のGCBA系統の指導者は、1937年ビルマ統治法によりビルマがインドから分離した時にイギリス当局の下でつくられた政府首相となったバ・モオや、後に同じく首相となったウー・ソオなど。

後者のタキン党系統が、本書の主人公アウン・サンと、ウ・ヌー、バ・セイン、ネ・ウィンなど。

ただし、アウン・サンは党創始者ではなく、入党したのは38年。

ウ・ヌーと共にラングーン大学の学生運動で活動し、入党時若くしていきなり党ナンバー2の地位に就く。

39年タキン党内の党中党の形で共産党と人民革命党(後の社会党)ができる。

日米開戦前夜、アウン・サンは日本陸軍大佐鈴木敬司と接触、41年「南機関」と名付けられた組織で軍事訓練を受け、真珠湾攻撃後ビルマに進攻する日本軍と共に帰国。

1943年日本はビルマに独立付与、王制を主張するバ・セインを無視して、権限が集中した国家元首の地位にバ・モオを就ける。

アウン・サンも国防相として加わるが、強圧的な占領政策への反発や、敗戦直前の日本と「心中」して独立が無効になることを恐れ、1944年インパール作戦失敗後、「反ファシスト人民自由連盟」(AFPFL・ビルマ語略名パサパラ)を結成、抗日に転ずる。

それにより戦後もイギリスに独立勢力内の主導権を認めさせることに成功したアウン・サンだが、独立を目前にした1947年、ウー・ソオが放ったと見られる刺客により暗殺される。

暗殺された時、若干32歳というのに驚く(娘のアウン・サン・スー・チーは当時2歳)。

以後の歴史については、48年独立、短期間を除くウ・ヌー政権、経済不振・共産党武装闘争・少数民族反乱による国政混乱、62年軍事クーデタとネ・ウィン政権成立、社会主義計画党一党支配下のビルマ式社会主義と閉鎖的孤立的中立路線、88年アウン・サン・スー・チーらを指導者にした民主化運動とその弾圧、ソオ・マウン軍事政権成立、90年総選挙とスー・チー派の国民民主連盟(NLD)勝利、軍政の居座り、92年ソオ・マウン引退、タン・シュエ政権成立などを押さえておけばいいでしょう。

本書の刊行は1996年ですが、当時の状況からほとんど変化せず、現在に至るまで軍政が継続してしまっている。

類書が少ないビルマ史という分野で、手頃な内容と量なのは助かる。

結局この「現代アジアの肖像」シリーズは中国関係を除いて、刊行されたもの全てを読んだことになりますね(『李承晩と朴正熙』および『マルコス』は未刊)。

こういう現代アジア史の本で岩波刊となると身構える人がいるかもしれませんし、実は本書が一番その種の「岩波臭」を感じさせるのですが、本書を含め読むに耐えないほどの偏りを感じる、というものは一つもありませんでした。

東南アジアを中心にマイナー分野にも一冊を割り当てながら、長さは200ページほどとコンパクトにまとめられているのが非常に良い。

気の向いたものはどんどん手に取って通読されることをお勧めします。

WordPress.com Blog.

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。