万年初心者のための世界史ブックガイド

2009年11月12日

クリヴィツキー 『スターリン時代 元ソヴィエト諜報機関長の記録』 (みすず書房)

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著者はオランダ・ハーグに駐在していた元ソ連秘密警察諜報員。

1937年10月に亡命、39年に本書を出版したが、41年2月にアメリカのワシントンでこめかみに銃弾を受けた死体が発見され、警察は自殺と発表したが、ソ連工作員による暗殺が強く疑われる。

こういう刊行経緯自体かなり恐いが、内容も凄まじい。

亡命した一工作員の手記という成り立ちが与える微視的で信頼性の低い暴露本というイメージとかなり異なる。

相当重要な情報に接する立場にあった著者が、凄惨な大粛清期のスターリン体制の暗部を迫真の筆致で抉り出している。

第1章、スターリンが、ヒトラー政権成立後、西欧民主主義国家との同盟を求めず、(ミュンヘン会談以後ではなく)ごく初期の段階から対独宥和を目指していた実態を暴露している。

第2章、コミンテルンにおけるソ連の独裁的支配と外国人共産主義者に対する弾圧。

第3章、結果としてフランコの勝利に貢献した、スペイン内戦中のトロツキスト・アナーキストに対する人民戦線内の赤色テロ。

第4章、五ヵ年計画中の外貨不足を補うため、ソ連が国家レベルで行なったドル紙幣偽造について。

ボリシェヴィキは政権掌握前にも、スターリンの指導で資金集めのため銀行強盗などの普通犯罪に手を染めている。

ヴォルコゴーノフ『レーニンの秘密』(これは必読書)では、メンシェヴィキや西欧社会主義者からの批判に対して、レーニンは表向き批判を受け入れたものの、陰では同様の活動を黙認し続けていたという叙述だったと思う。

第5章、秘密警察の内情。

名称はチェカ→合同国家保安部(OGPU)→内務人民委員部(NKVD)に変わる。

大粛清期にヤゴダ、エジョフ指揮下に全国民を恐怖に陥れたが、トップの両名も秘密警察構成員自身も次々に抹殺されていく。

冒頭、1926年に著者が秘密警察ではなく、赤軍諜報部に在籍していた時のエピソードが恐ろしい。

諜報部の許可証に押すための印章が紛失し、秘密警察が調査に乗り込み、アリバイのある、明らかに無実の通訳の青年が連行された。

数日後印章が見つかったが、著者はこれを赤軍内にもその権限を広げようとする秘密警察が仕掛けた陰謀だと確証している。

なお、連行された青年は「二度と帰ってこなかった」。

大粛清が始まる前ですら、ソ連社会がこのような状況だったことがわかる。

第6章、粛清された共産党幹部の心理状態について。

スターリンへの嫌悪にも関わらず、依然共産主義の教条に囚われており、客観的に反ソ勢力を利することと党支配体制を乱すのを避けるため、全く非現実的な自白を認めて銃殺されていった一部の幹部の心理を西側読者に解説している。

第7章、赤軍の粛清。

ソ連の内部攪乱の目的で、ゲシュタポが極秘に作成した偽情報であるのを知りながら、スパイ容疑でトゥハチェフスキーをはじめとする赤軍司令官を抹殺するためにそれを利用したスターリンの悪魔的策謀を記述している。

最後の第8章。

粛清の魔の手が著者自身にも迫り、一足先に亡命した親密な同僚の殺害に協力することを求められたのを期に、自らもスターリン体制と決別し、パリで亡命、暗殺者に怯えながらアメリカに渡る。

亡命直前、著者がソ連に一時帰国した際の出来事。

レニングラードの鉄道出札所で、わたしは旧友であり、同志である男にであった。

「ところで、どんなぐあいだね?」と、わたしは、かれに尋ねた。

かれは、あたりを見まわしてから、低い声で答えた。

「逮捕、ただ逮捕だ。レニングラード地区だけでも工場長の七割以上が逮捕された。軍需工場もふくめてた。これは、党委員会がおれたちに知らせた公式の情報だ。誰も安全じゃない。誰も、人を信用していないんだ。」

隣室に住んでいた親友は、徹底したスターリン主義者であり、著者に対して熱心に粛清を擁護したが、まもなく彼も逮捕・連行され姿を消した。

なかなか良い。

スターリン時代のソ連の実態を知るために適切な本。

コンクェスト『スターリンの恐怖政治』の前に読んでおいてもいいかもしれない。

以下、訳者解説より。

クリヴィツキー、ライスの同僚でロンドン駐在のハンガリー出身のテオドール・マリ(クリヴィツキー回想録中ではマンとなっている)が、モスクワへの帰途、パリにライスをたずねた。ベルジン、スタシェフスキーが、待ち受けている運命を知りながら、なぜ帰ったのだろうと、ライス夫人は信頼するマリに尋ねると「帰らねばならなかった」と繰り返して言った。「それで、あなたは帰るの」、という問いには「帰る」という答えが返ってきた。「なぜなの、何が待っているか、ご存じでしょう、銃殺されるわよ」、「わかっている。あちらであれ、こちらであれ、殺されるだろう、あちらで死んだほうが良い。他の者には違うだろうが、自分は連中に殺させるつもりだ」と言って、その理由を次のように説明した。

「第一次大戦中私は従軍牧師だった。カルパチア地方で捕虜になった。あらゆる種類の恐怖を体験した。塹壕で足が凍傷になって死んでいく若い兵士たちをみとった。収容所を転々として、飢えを経験した。皆虱にたかられ、多くはチフスで死んだ。神への信仰を失い、革命が勃発するとボルシェヴィキに加わった。過去とは完全に絶縁した。もうハンガリア人でもなく、牧師でもなく、キリスト教徒でもなく、誰の子でもなくなった。いわば作戦行動中行方不明の兵士となった。

共産主義者となっても、それ以来かわってはいない。白軍、人民の敵、僧侶から、革命を守るため作られたチェカに入り、国内戦を戦った。一日のうちに同じ村が敵と味方に入れ代わりたち代わり占領され、燃え落ちた。国内戦は恐ろしい。わが赤軍支隊は、白軍と全く同じやり方で、村を掃討した。白軍に協力したかどで村に残った老人、婦人、子供たちが機関銃で薙ぎ倒された。女たちの泣き声が我慢できなかった。味方が村を掃討する度に、猛烈な下痢に襲われた。掃討が終わるまで隠れていた。こうして自分は革命を守ったのだ。

集団農業化の時代には、どれだけの農民が収容所に送られ、また殺されたかを知っている。それでも、自分はチェカに残りつづけた。自分がしたことで、いつか罪を償う機会がくるものと希望していた。ある日、ジャガ芋を盗んだ罪で、一人の百姓に死刑を宣告した書類が回ってきた。よく読むと、その男は小さな袋にはいったジャガ芋を盗んだだけで、それも子供に食べさせるためだった。自分と一緒にチェカに入ったハンガリア人の上司の所に行って、男はもう十分罰を受けていると言い、男の妻に面会の許可を求めた。上司は書類を見て同意し、死刑の代わりに、禁固刑に減刑した。男の妻に夫が助かったことを告げ、これで自分は贖罪になったと思った。それから二週間、出張から帰ってきて、何よりも先に、この一件がどうなったかを調べた。書類は見付からなかった。上司と一緒になって書類の行方を追った。やっと見付けた書類には走りがきがしてあった。処刑ずみ、と。

秘密警察の外国部に行って、国外勤務を志望したのはその翌日だった。過去に何度も国外勤務を断ってきたが、もうとてもソ連で生活するのはたえられなかった。どこかへ逃げたかったし、牧師としての過去を蘇らせたいとさえ思った。銃殺されるために、帰る理由が分かるだろう。今となって、いったいどこにかくれるのか。」

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