万年初心者のための世界史ブックガイド

2009年11月28日

杉勇 『古代オリエント (世界の歴史1)』 (講談社)

Filed under: オリエント — 万年初心者 @ 06:00

次に何を読もうかと迷う。

手薄なカテゴリを補強しようと書名一覧を見渡して、やはりオリエントが弱いなと認識。

といって、特にいい本も見当たらず(見つけられず)、講談社旧版世界史全集の中のこれを適当に選んだ。

中公旧版の『古代文明の発見』、中公新版の『人類の起源と古代オリエント』および『オリエント世界の発展』、文春大世界史の『ここに歴史はじまる』、河出版の『古代オリエント』などは読了済み。

講談社旧版では他に『ペルシア帝国』の巻があるので、本書の叙述範囲はアケメネス朝の統一直前まで。

読み始めてみると、やはり先史時代の記述は砂を噛むようで辛い・・・・・・。

これは個人的趣味の問題なので、余程優れた特徴のあるもの以外、どの本読んでも同じだと思います。

だが、歴史時代に入っても大して変わらない。

歴史的人物の個性が発揮される物語が展開されるのではなく、考古学的研究に基づいた推測で都市名と王名がズラズラ羅列されるだけという印象。

全然面白くないが、これも時代の性質上仕方ないか。

しかし時代が進んだ、後半部に入っても同じ。

民族名と君主名の洪水が大量に押し寄せてくるような記述で相当苦しい。

はっきり言うと挫折しそうになったので、途中から精読するのを止めて、飛ばし読みに変更した。

折角なので、以下のような高校レベルの事項のみを確認(赤字は暗記した方が良いと思われる年代)。

まず、前3000年ごろという年代をチェック。

大雑把に言って、この頃エジプトのメネス王による統一国家とシュメールの都市国家が成立、これが一番最初の区切りになる。

古代エジプト人はハム語族、シュメール人は民族系統不明。

エジプトでは、前21世紀に古王国から中王国へ、前16世紀に中王国から新王国へ移行。

ヒクソスの侵入は、古・中王国間の第一中間期ではなく、中・新王国間の第二中間期。

シュメールの都市国家では、最初覇権を握った都市として本書の記述で頻繁に出てくるのはウルではなく、ラガシュ。

次いでウルクが少し出て来るだけで、ウルはアッカド王国滅亡後シュメール支配を復興させたウルナンム王のウル第三王朝時代まで目立たない。

私の誤読かもしれないが、上記河出版の『古代オリエント』でも似たような印象を持った記憶がうっすらとだがある。

前24世紀セム系アッカド王国(サルゴン1世)繁栄、一時ウル第三王朝でシュメールが復興した後、セム系アムル人の古バビロニア王国成立。

(ちなみにこれをバビロン第一王朝と呼ぶのは、個人的には馴染みが無くて嫌です。後述のカッシートのことをバビロン第三王朝と言うのも慣れない。)

古バビロニアでは有名なハンムラビ王の治世が前18世紀であるのを暗記。

前2000年ごろからインド・ヨーロッパ語族侵入、前18世紀にヒッタイト建国、前16世紀には古バビロニアを滅ぼし、他にミタンニ、カッシートも成立。

(この時期移動した印欧語族の一派がギリシア人で、前16世紀頃エーゲ文明のうちのクレタ文明を滅ぼし、代わってミケーネ文明を興す。)

この時期エジプトに侵入したヒクソスも印欧語族だと話は簡単なんですが、彼らは「アジア系遊牧民」とだけ教科書では書かれている。

ところで、本書の297ページにはこのヒクソスをミタンニ王国の多数派を構成していたフルリ人と見做す説があると書いてあって、「ええっ!?」と思った。

これは他の本で読んだ覚えがない(か忘れている)ので、本書の記述だけで鵜呑みにするのは危険な気がします。

前12世紀に民族系統不明の「海の民」が侵入、ヒッタイトが滅亡、エジプトも衰退。

(「海の民」とは妙な名前だが、固有名詞が無く他に通称も無いので、これ以外呼び様がない。)

この「海の民」はギリシアではミケーネ文明も滅亡させている(ギリシア史とオリエント史の対比のためこれは要記憶)。

高校時代ははっきり理解していなかったが、以後前9・8世紀にアッシリアが領土を拡大するまで指導的国家が無く、オリエントは小国分立時代と考えていい模様。

前13世紀末に地中海岸を震駭し情勢を大いに変化させた大民族移動は、政治や文化の状態を前後の時代とのあいだにはっきりと区別させることになった。内部的にはすでに衰えていたクレタ・ミケーネの文化も、ハッティ文化の向上した状態もこの大暴風雨のまえにまったく崩壊してしまった。ハッティの大帝国は滅亡し、ハッティ、バビロニアとの抗争を利用してその基礎をきずこうとするアッシリアの努力もたいした効果をあげるにいたらず、オリエント世界で四百年間政治上指導的地位を占めていたエジプトは、海上からの被害はデルタ地帯にとどまったけれども、文化的にはもえのこりの様相を呈し、しかも、このような激動のうちに新たに優位を占めようとする国もなく、前9世紀から前8世紀の半ばにかけてアッシリアがメソポタミア地方を統一するまでオリエントにはしっかりした体制は作られなかった。各地間の交易と戦争はないではなかったが、一般に各民族は約一世紀にわたり、いずれも孤立してしまい、諸国の歴史は疲弊しきった単調の中に経過した。それは小国家および地方にとっては平静なる生活の時期であって、こうした特質はアッシリア人が時々活動したにもかかわらず、根本的には変わらなかった。・・・・・・

しかしながら、大国の無力化によって小民族、小国家は自己の体制を固めながら、自由に発展しえたようで、フェニキアの商業と、民族の発展は航路の発見と開拓と植民地の建設をもたらし、またアラム人のシリア、メソポタミアへの伝播が可能となり、一方イスラエル人ならびにギリシア人は各々独立した精神文化を完成し各民族独得の宗教の勃興もこの時代の一つの特徴であった。

こうして前代とは異なった、個々民族の分立という点が前9世紀までの特徴となった。しかし、前8世紀の終わりにティグラートピレセル3世およびその子孫がアッシリア帝国を建設し、オリエントの世界の情勢はいちじるしく変わった。アッシリアは仮借するところなき峻厳な手段で、政治的に孤立した各民族をいたるところで滅ぼして一つの中央集権国家を完成した。

上記引用文の通り、この時期フェニキア・アラムの海・陸通商民族とヘブライ人という三つのセム系民族が間隙を縫って活発に活動。

前1000年頃という極めて切りのいい年代にヘブライ王国のダヴィデ王が即位したことを記憶しておくと便利(ちなみに中国では同じ頃殷周革命)。

なお本書の276ページには後に新バビロニアを建てたカルデア人は、メソポタミアに進出したアラム人であると書いてある。

確かに同じセム系民族だが、これも聞いたことが無かったので「本当かな」と思う。

セム系民族のアッシリアは前2000年頃北メソポタミアに建国してから細々と続いて、ハンムラビ王の服属国としても名が出てくるし、次いでミタンニにも服属。

前8世紀ティグラトピレセル3世時代から大膨張を開始。

新王朝を始めたサルゴン2世が前721年(教科書では722年)イスラエル王国を滅ぼす。

子のセンナヘリブを経て、孫のエサルハドンが前671年エジプトも征服。

その子が図書館(文書館)で有名なアッシュールバニパル(アッシュールバーンアプ)王で、この王の死後アッシリアは急速に衰退、前612年に都ニネヴェが新バビロニア・メディア連合軍によって陥落。

アッシリアによる史上初のオリエント統一が前7世紀前半、しかしその世紀の末にはもう滅亡と憶える。

その後の、印欧系のメディアおよびリディア、セム系の新バビロニア、ハム語族(ですよね?この時期も)のエジプトの四国分立の形成となるが、教科書で必ず載っている割には、この情勢は極めて短い期間存続しただけで100年も続いていない。

アケメネス朝のキュロス2世が、前550年メディアを、前546年リディアを、前539年(538としている本もあり)新バビロニアを滅ぼし、カンビュセス2世が前525年エジプト征服。

前500年とこれまた極めて憶えやすい年代にペルシア戦争が起こっているので、前612年のアッシリア滅亡から100年余りしか経っておらず、それを考えると歴史の展開が非常に速く感じる。

この四国対立時代のエジプトは昔、新王国だと思っていたが、前11世紀以降は普通「末期王朝」と分類するそうです。

なお、セム系新バビロニアの滅亡後はアケメネス朝ペルシア→ヘレニズム時代→パルティアおよびササン朝ペルシアとローマの対立という流れになるので、7世紀イスラムの誕生とアラブ民族の大膨張までの約一千年間、セム系民族は支配民族としては歴史の表舞台に出なくなると考えていいんだろうか。

(ユダヤ人はもちろん活動しているが。)

まとめ。

前3000年くらいに文明が成立して前2000年以後エジプト中王国と古バビロニア王国で(本書の表現では)オリエント古典文化の盛期を迎えるが、やがて印欧語族の侵入で分裂時代となり前1500年以降はヒッタイトとエジプト新王国が対立する形勢となるが、そこへ前12世紀「海の民」という民族大移動が重なってさらに混乱が数百年継続した後、7世紀にアッシリアのオリエント統一、短期間の四国分立を経て、6世紀にアケメネス朝ペルシアの再統一、前500年ペルシア戦争というのが、オリエント史の一番単純化された大きな流れ。

前3000年から、うまい具合に500年・1000年ごと区切って情勢を把握することが可能(特にエジプト史は)。

後は前24世紀アッカド、前18世紀ハンムラビ王などをイレギュラーで覚える。

前半はセム系、後半は印欧系の活躍が目立つ。

セム系民族は、アッシリアが大きな花火を打ち上げた後は舞台裏に退くようなイメージ。

以上、高校世界史の復習のためにいろいろメモしましたが、本書の出来自体は、はっきり言ってよくありません。

やる気の出ない時にダラダラ読んだからかもしれませんが、一週間かけて飛ばし読みしながら、ようやく通読できた。

所々、上記引用文のような役に立つ視点が記されているものの、煩瑣な事実が工夫無く書き連ねてあるだけという部分が多過ぎる。

もともと苦手分野であることを差し引いても、初心者向けの平易で明解な入門書とはお世辞にも言い難い。

他の世界史全集に比べて、これを優先して読む理由はほとんど無いです。

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2009年11月26日

引用文(高坂正堯2)

Filed under: 引用文 — 万年初心者 @ 06:00

高坂正堯『世界史の中から考える』(新潮選書)より。

・・・・・日本は近代国家への世界的な潮流にかろうじて間に合った。1860年代というのは異常な時代で、政治上の大変化が相ついだ。1865年に南北戦争が終わり、アメリカは真実に統一された。1866年にはイタリアが教皇領を残してほぼ統一された。通史ではイタリアの統一は1861年ということになっていて、それが間違いではないが、1866年までオーストリアはヴェネツィアなどをいぜんとして保有していた。それをオーストリアが失ったのは普墺戦争の結果なのである。同じ戦争の結果、プロシアはドイツの重要な部分を統一することに成功した。さらに、南部ドイツが統一されたのは、普仏戦争後の1871年である。一方、戦争に負けたオーストリアも1867年にオーストリア・ハンガリー二重帝国へと政治体制を変更し、近代化への歩みを開始した。しかし、それは結局挫折することになる。こうしてイギリスとフランスという早くから近代国家の制度を整えていた国を別として、その他すべての国が1860年代半ばに近代国家へと本格的に歩み出したことになる。

(高坂先生はここで触れていないが、1861年ロシアの農奴解放令もその一つの例か。)

日本の明治維新は1868年だから、同じ時代である。19世紀始めに日本人のだれがそのようなことを予測しえたであろうか。日本はぎりぎり――最近流行した言葉で言えば、“ジャスト・イン・タイム”just in time ――間に合ったのであった。私は、それが明治の成功の重要な理由であった、と思う。だれもそれを言わず、明治の人々の必死の努力を言う。たしかに、明治の人々はよく頑張ったが、最初に目立っておくれるならば、取り返しのつかないことが多いものなので、ぎりぎり間に合ったことが重要なのである。

前回記事で書いたように1867年を起点に西暦を明治○○年に換算すると、1894年日清戦争は明治27年、1904年日露戦争は明治37年である。

大政奉還から日清・日露の戦いまで、たった27年とプラス10年・・・・・・。

我ながら子供っぽい言い方だと思いますが、ちょんまげ結って刀挿して多数の藩に分かれて暮らしていた時代から四十年弱で、近代国家を完成させ、国の存亡を賭けた戦いに勝利。

現在から27年前が1982年、37年前が1972年。

そこから世の中、どれくらい良くなりましたかね。

上記引用文の高坂先生のような見解があるのは承知しつつ、とりあえず今まで警察のご厄介になったことがなくて一応働いて安い税金納めてる以外何の取り柄もなく、ただ、のんべんだらりと毎日暮らしている自分からすると、「やっぱり明治の人は偉かった」という感想を持つ。

2009年11月23日

石川晶康 『NEW石川日本史B講義の実況中継 3』 (語学春秋社)

Filed under: 教科書・年表・事典 — 万年初心者 @ 06:00

2巻から即座に続けて読む。

江戸中期から明治末まで。

教科書とは角度を変えた説明や、普通バラバラに出て来る事項を関連付けて解説したり、重点ポイントを記憶に残るように強調したりしているのは、この巻も同じ。

これと『詳説日本史』(山川出版社)の記述を行ったり来たりすると、かなり理解しやすい。

江戸時代では、「17世紀後半に入って3代将軍家光(武断政治)から4代家綱(文治政治)へ」とか、「1716年、家康が死んでちょうど百年目に吉宗が将軍就任」とか、「19世紀に入って大御所時代(11代家斉親政)」、「1837年に大塩平八郎の乱・生田万の乱・モリソン号事件が発生」など大まかな時代区分や、盲点となる年号などを無理なく記憶させようとするのが良い。

史料の解説も、どこに気をつけて読めばいいかはっきり指摘しており、わかりやすい。

この巻の後半から近代に入りますが、近代日本史を学ぶための基礎の基礎を、「阿呆か」と思われるのを恐れずブログタイトル通りの低レベルさで挙げると、まず中学程度の以下の年号を無条件で頭に叩き込む。

1868年  明治維新

1894年  日清戦争

1904年  日露戦争

1914年  第一次世界大戦

1931年  満州事変

1937年  日中戦争

1939年  第二次世界大戦

1941年  日米戦争(太平洋戦争・大東亜戦争)

1945年  敗戦

近代史の様々な本を読む上で、この九つの年号の間の、どの地点の話をしているのかを、常に意識しながら読む。

(あと、付け加えるなら、1853年ペリー来航、1932年五・一五事件、1936年二・二六事件も。)

本書にも書いてあるが、明治時代については、まず1868年が明治元年なので、1867年を起点に、そこから何年経っているかで、西暦を元号に換算(明治は45年=1912年まで)。

明治政治史に関しては、1867年大政奉還、1868年明治維新、1873年明治六年の政変(西郷・板垣下野、大久保中心政権へ)、1877年西南戦争、1881年明治十四年の政変(大隈下野、伊藤中心政権へ)辺りを初期の最重要の区切りとして憶える。

で、1871年廃藩置県(今気付いたが、ドイツ統一と同年だ)、1873年地租改正などの諸改革がどの時期に行われたかを確認。

そして1885年に内閣制度が発足した後は、やはり内閣の成立順と在任年度を暗記するのがいいんじゃないでしょうか。

結局初心者がある国の歴史を学ぶ際、何らかの時代区分を行い、その各時代に何があったのかを理解していくのが本筋と思われるし、その基準は前近代においては君主の在位期間、近現代においては首相・大統領の在任期間が一番自然だと思う。

そして世界的相互交渉が深まり、動きの激しい近現代においては、史実の流れの正確な把握のためには年代の暗記が避けられない。

(もちろんこんな細かいことが出来るのは、少数の主要国だけでしょうが。)

そんなわけで以下、明治時代の内閣を単純に並べてみる。

1885年  伊藤博文(第1次)

1888年  黒田清隆

1889年  山県有朋(第1次)

1891年  松方正義(第1次)

1892年  伊藤博文(第2次)

1896年  松方正義(第2次)

1898年  伊藤博文(第3次)

同年   大隈重信(第1次)

同年   山県有朋(第2次)

1900年  伊藤博文(第4次)

1901年  桂太郎(第1次)

1906年  西園寺公望(第1次)

1908年  桂太郎(第2次)

1911年  西園寺公望(第2次)

このうち、日清戦争を戦った第2次伊藤内閣と、日英同盟を締結し日露戦争を戦った第1次桂内閣が最重要で、この両者は例外的な長期政権になっている。

後は、1889年(フランス革命からちょうど100年後)帝国憲法発布の時は黒田内閣で、1899~1900年義和団事件に対応したのは第2次山県内閣で、といったふうに、どの内閣で何が起こったのかを地道に把握していく。

なお、1898年の第1次大隈内閣(いわゆる隈板内閣)というのは自由党と進歩党が合併してできた憲政党という巨大政党を背景に成立した日本最初の政党内閣(だから大正時代の原敬内閣は「最初の本格的な」政党内閣と呼ばれる)。

結局すぐに崩壊し、与党は旧自由党系の憲政党と旧進歩党(元の立憲改進党)の憲政本党に分裂、1900年には憲政党が伊藤博文と共に立憲政友会結成、昭和の敗戦まで続く保守的与党となる。

この1898年は日本では以上のように政界混乱の様相が強い年だが、世界史を見ると、この年は列強の中国分割(旅順・大連・威海衛・膠州湾・九竜半島・広州湾)、米西戦争、ファショダ事件などが起こっている。

直接の関連性は無いが、単純に同時代の比較として並べてみるだけで、個人的には結構面白い。

この巻もなかなか良いです。

江戸時代はもちろん、明治に入ってからも知識の乏しい内政面について勉強させられた。

高校日本史のレベルがあやふやな私のような方にはかなりお勧めです。

2009年11月20日

青木健 『アーリア人』 (講談社選書メチエ)

Filed under: オリエント — 万年初心者 @ 06:00

カテゴリをどこにしようか迷ったんですが、とりあえずオリエントで。

西アジア史を非常に巨視的に見ると、まずアッカド・バビロニアなどセム系民族が王朝を建て、前二千年紀にヒッタイトなどインド・ヨーロッパ語族が侵入、以後セム系アッシリアがオリエントを統一するが長続きせず、印欧系ペルシア人がアケメネス朝世界帝国建設、印欧系ギリシア人のヘレニズム時代とローマ人の進出、印欧系イラン人のパルティアとササン朝を経て、セム系アラブ人がイスラム信仰の下大膨張を遂げて地域を覆い尽くすが、ペルシア人は独自性を保ち、アルタイ語族のトルコ人・モンゴル人の侵攻を迎えるという流れになります。

本書は、古代オリエントとイスラムとの中間で活躍した印欧語族を概観したもの。

まずインド・ヨーロッパ語族を大きくヨーロッパ系とイラン・インド系に分けて、後者をアーリア人と呼び、そのうちイラン系の各民族を叙述対象にしている。

(ヒッタイト[および異説があるがミタンニとカッシート]という最初に登場した印欧語族は対象外。)

そしてイラン系アーリア人をさらに騎馬遊牧民と定住民に分類している。

遊牧民としてはキンメリア人、スキタイ人、サルマタイ人、アラン人、オセット人、パルティア人、サカ人、大月氏、エフタル、インド・サカ人、インド・パルティア人。

定住民としてはメディア人、ペルシア人、バクトリア人、マルギアナ人、ソグド人、ホラズム人、ホータン・サカ人。

以上のうち、前7世紀から前2世紀ごろまでウクライナ平原で活動し、高校世界史で史上最初の遊牧騎馬民族として教えられるスキタイ人は、中央アジアのサカ人と類縁民族で、スキタイとは単にギリシア語の他称であるとの説明あり。

アケメネス朝キュロス2世と戦った中央アジアのマッサゲタイ族と、パルティア人も同じくサカ人の一派らしい。

また、騎馬遊牧という生活様式を始めたのは、正確にはスキタイ人ではなくキンメリア人とのこと。

ウクライナ平原の覇権は前9世紀キンメリア→前7世紀スキタイ→前3世紀サルマタイ→前2世紀アランと移動し、以後モンゴル系あるいはトルコ系の匈奴が侵入してきて、イラン系アーリア人遊牧民の時代は完全に終わる。

大月氏の名前が出てくることに「ええっ!?」と驚いてしまうが、『新世界史』(山川出版社)では確かに「イラン系といわれる月氏は」と書いてある。

バクトリア人というのはもちろんセレウコス朝から自立したギリシア人のことではなく、その配下の土着民族を指す。

ギリシア人のバクトリア王国がトハラ(大夏)に滅ぼされ、トハラを大月氏が征服し、クシャーナ族が大月氏から自立しクシャーナ朝建国という流れになるそうだが、バクトリア人とトハラ人と大月氏の相互の関係は実際には不明であると本書には書かれてある。

クシャーナ族も月氏の一派なのか、バクトリア土着民族なのか、両説ある。

『詳説世界史』(山川出版社)本文では「月氏のクシャーナ族」、『新世界史』では「イラン系のクシャーナ族」。

エフタルについて教科書ではイラン系またはトルコ系としているが、本書ではササン朝の文献史料でエフタルをテュルク系蛮族とは別種の敵と記していることから、彼らもイラン系アーリア人に属するのではないかと推測している。

なお、この辺は民族・王朝名が錯綜して非常にわかりにくいが、「クシャーナ朝がササン朝に圧迫されて衰退」、「グプタ朝がエフタルの侵入で衰退」、「ササン朝と突厥が同盟してエフタルを滅ぼす」といった史実は大まかな流れを把握する手掛かりになるので暗記しておいた方が良い。

定住民のうち、メディア人・ペルシア人は教科書でも詳しく触れられているから特に理解しにくい所は無い。

中央アジアでアラル海に注ぐ二つの大河があり、北がシル川、南がアム川。

アム川上流域がバクトリア、アム川下流域がホラズム、アム川中流域とシル川に挟まれた両河地域をソグディアナと呼ぶ。

そこからパミール高原を東に越えると、北の天山山脈、南のクンルン(崑崙)山脈に挟まれたタリム盆地がある。

シルクロードのオアシス都市定住民を占めていたのはイラン系ソグド人だったが、840年トルコ系ウイグル族が同じトルコ系のキルギスに滅ぼされると、ウイグル人が大挙して移住してきて、パミール高原の東西にあるこの地域はトルキスタンと呼ばれるようになる。

875年ソグディアナにサーマーン朝が成立、イラン系アーリア人意識を高揚させ、イブン・シーナーなどの文化人を輩出するが、999年トルコ系のカラ・ハン朝に滅ぼされ、この地域のトルコ化がますます進行する。

イスラム化以後も独自性を保ったアーリア系民族としては、ペルシア人はもちろんとして、後は現在アフガニスタンの多数派民族であるパシュトゥン人にも注意を払っておく。

かなり良いです。

高校教科書で、オリエント史、中央アジア史、インド史、イスラム史に分かれてバラバラに出て来る諸民族を一望の下に俯瞰するような記述なので、頭の中がすっきり整理される気分になる。

同じ講談社選書メチエで『ゾロアスター教』を出している著者らしく、各民族の概観の後、その宗教についてかなりの紙数を割いているが、それもじっくり読めば初心者でもそれなりに有益。

アケメネス朝、キュロス2世、パルティアなど、慣用となっているギリシア語形をほぼ使わず、「ハカーマニシュ朝」、「クル大王」、「アルシャク朝」(アルサケス[安息]朝)などの呼称を採用しているのが、やや読みにくい印象を与えるが、大きな欠点ではないでしょう。

ユーモアと遊び心のある文体も親しみやすい。

着実に押さえておくべき良書と言えます。

2009年11月17日

石川晶康 『NEW石川日本史B講義の実況中継 2』 (語学春秋社)

Filed under: 教科書・年表・事典 — 万年初心者 @ 06:00

1巻の記事から少し間が空きましたが、一応続けてます。

この巻は平氏政権から江戸時代初期まで。

このシリーズはサブノートと年表講義CDが付属していますが、とりあえず無視。

重要ポイントを強調して取り上げるので、教科書を読む上でどこに重点を置いて読めばいいかがよくわかる。

「いい胸毛(1167)、平清盛太政大臣」とか「2のサンドイッチ(1221)は承久の乱」などのゴロ合わせを使った重要年代暗記も有益。

高校日本史において、誰が政権を握って、こういう戦いがあって、などという政治史分野は小学・中学でも一応学んだものが詳細になっただけで、時代によっては歴史小説などで高校教科書よりもはるかに詳しい知識を得ている場合もあるでしょう。

また文化史は、人名・作品名・建物名・宗派名などのリストをひたすら暗記するという感じなので(個人的にはそれが非常に嫌なんですが)、特に込み入った理解が必要なわけでもない。

となると、高校日本史でのメインテーマあるいは一つの山場は経済史の土地・税制史ではないかなあと思う。

古代氏姓制度下豪族の私地私民制が大化の改新後、公地公民制になるが班田収受法は徐々に崩れ、10世紀頃を境に課税原則が人身賦課から土地賦課に変化し荘園・公領制が成立、鎌倉幕府の下で地頭の荘園侵略が進み、室町時代には守護領国制が成立、戦国大名の分国一円支配を経て、太閤検地によって一地一作人の原則が貫徹されて荘園・公領制は最終的に解体する、という流れを理解できれば良い(私も依然あやふやな部分があるが)。

(以上を中国の均田制崩壊と両税法導入と比較してみると面白いのかもしれないが、私の知識では上手く整理できず不可能。)

その際、経済史の重要用語として、屯倉(みやけ)、名代・子代、田荘(たどころ)、部曲(かきべ)、条里制、公営(くえい)田・官田、名(みょう)、田堵(たと)、開発領主、在庁官人、知行国制、地頭請所、下地中分、半済令、守護請などを意味を押さえた上で暗記すると良いでしょう。

教科書でもこの流れは一応読み取れるようにはなっているが、本書のようなわかりやすい補助があると相当助けになる。

なお本書と並行して、適時『詳説日本史』(山川出版社)の該当部分を読んでいるのですが、その時つくづく思うのが、この教科書はやはり極めて詳細だなということ。

脚注欄でもゴチック体にされている重要用語が頻出するし、副読本にありそうな系図・年表・史料が大量に載せられている。

『詳説世界史』とは段違いのデータ量に驚かされる。

また同じこと書きますが、やはり世界史の方が楽だと思うんですけどねえ・・・・・・。

2009年11月15日

引用文(ヴォルコゴーノフ1)

Filed under: 引用文 — 万年初心者 @ 06:00

ドミートリー・ヴォルコゴーノフ『レーニンの秘密 上・下』(NHK出版)より。

1906年の第四回党大会でボリシェヴィキとメンシェヴィキは再び統合されることになっていたが、両派の間で革命のためならそのような「押収」は奨励されるべきか否かをめぐって激しい論戦が繰り広げられた。ボリシェヴィキは武装集団による銀行襲撃は認められるべきだと主張した。メンシェヴィキはこれに強く反対し、自分たちの決議を通過させることに成功した。それにもかかわらず、こうした強奪はつづき、レーニンもこれを承知していた。

実際にボリシェヴィキとメンシェヴィキとの間に明確な一線を画していたのは組織の問題ではなかった。唯一の本当の社会民主主義者はメンシェヴィキだったのである。彼らは民主主義、議会制、社会の進歩を実現する手段として暴力を避けることができる価値観として、政治的多元主義を認めていた。彼らにとって民主主義とは永遠の理想であって、政治用の飾りものではなかった。ボリシェヴィキはそれとは反対に、暴力の重要性をますます強く信じるようになっていった。

・・・・・レーニンが広範な暴力とテロルを支持したため、メンシェヴィキに党の再統合をいっそう考えにくくした。1908年9月、マルトフは友人のメンシェヴィキの同志パーヴェル・アクセリロードに、「打ち明けていえば、たとえ名目上だけでもこの掠奪強盗団とかかわり合いになるのは間違いであるという思いを深くしています」と書いている。

マルトフにとって、政治的「柔軟性」とは妥協が可能であることを意味するだけでなく、高度の道義心に支えられた連合体が必要であるという認識を暗に示していた。そして、彼をレーニンと永遠に訣別させたのはまさにこの点で、組織的な問題ではなかったのである。ふたりの間の争点は、政治的規範ではなく、主として道義的規範をめぐるものであった。

マルトフは、もしも民主主義者が、たとえば臨時政府が、何とか平和をもたらしていたら、レーニンはどうしただろうと考えた。「彼はきっと戦術を変え、大衆に向かって、戦後のあらゆる不幸はばかな民主主義者があまりにも早く戦争を終わらせ、ドイツ帝国主義を徹底的に粉砕するまで戦争を遂行する勇気がなかったせいであると説教したであろう」

赤軍テロと白衛軍テロとがぶつかり合って途方もない暴力行為が発生するようになった時、マルトフは「死刑を廃止せよ」という小冊子を書いた。その中で彼はこういっている。

ボリシェヴィキが権力の座についてすぐ、死刑の廃止を発表しておきながら、その第一日から彼らは、まるで野蛮人がするように、内戦中に戦場で捕らえた捕虜たちを殺しはじめた。生命は助けるという約束で戦場で降伏させた敵を殺すとは・・・・・死刑は廃止されているのに、どこの町や地方でも、いろいろな非常時委員会や軍事革命委員会が何百人という人たちに銃殺刑を宣告している・・・・・こういう血祭りが社会主義の名において、人類の最高の目標のために働く人たちの兄弟愛を称揚する教えの名において、行なわれているのである・・・・・死刑を行う党は、ポグロムを行う党と同様、労働者階級の敵である。

この本を読むと、帝政派と革命諸派の間ではなく、ボリシェヴィキとその他全ての党派の間にこそ、決して超えることのできない深い断絶があったという印象を持つ。

2009年11月12日

クリヴィツキー 『スターリン時代 元ソヴィエト諜報機関長の記録』 (みすず書房)

Filed under: ロシア — 万年初心者 @ 06:00

著者はオランダ・ハーグに駐在していた元ソ連秘密警察諜報員。

1937年10月に亡命、39年に本書を出版したが、41年2月にアメリカのワシントンでこめかみに銃弾を受けた死体が発見され、警察は自殺と発表したが、ソ連工作員による暗殺が強く疑われる。

こういう刊行経緯自体かなり恐いが、内容も凄まじい。

亡命した一工作員の手記という成り立ちが与える微視的で信頼性の低い暴露本というイメージとかなり異なる。

相当重要な情報に接する立場にあった著者が、凄惨な大粛清期のスターリン体制の暗部を迫真の筆致で抉り出している。

第1章、スターリンが、ヒトラー政権成立後、西欧民主主義国家との同盟を求めず、(ミュンヘン会談以後ではなく)ごく初期の段階から対独宥和を目指していた実態を暴露している。

第2章、コミンテルンにおけるソ連の独裁的支配と外国人共産主義者に対する弾圧。

第3章、結果としてフランコの勝利に貢献した、スペイン内戦中のトロツキスト・アナーキストに対する人民戦線内の赤色テロ。

第4章、五ヵ年計画中の外貨不足を補うため、ソ連が国家レベルで行なったドル紙幣偽造について。

ボリシェヴィキは政権掌握前にも、スターリンの指導で資金集めのため銀行強盗などの普通犯罪に手を染めている。

ヴォルコゴーノフ『レーニンの秘密』(これは必読書)では、メンシェヴィキや西欧社会主義者からの批判に対して、レーニンは表向き批判を受け入れたものの、陰では同様の活動を黙認し続けていたという叙述だったと思う。

第5章、秘密警察の内情。

名称はチェカ→合同国家保安部(OGPU)→内務人民委員部(NKVD)に変わる。

大粛清期にヤゴダ、エジョフ指揮下に全国民を恐怖に陥れたが、トップの両名も秘密警察構成員自身も次々に抹殺されていく。

冒頭、1926年に著者が秘密警察ではなく、赤軍諜報部に在籍していた時のエピソードが恐ろしい。

諜報部の許可証に押すための印章が紛失し、秘密警察が調査に乗り込み、アリバイのある、明らかに無実の通訳の青年が連行された。

数日後印章が見つかったが、著者はこれを赤軍内にもその権限を広げようとする秘密警察が仕掛けた陰謀だと確証している。

なお、連行された青年は「二度と帰ってこなかった」。

大粛清が始まる前ですら、ソ連社会がこのような状況だったことがわかる。

第6章、粛清された共産党幹部の心理状態について。

スターリンへの嫌悪にも関わらず、依然共産主義の教条に囚われており、客観的に反ソ勢力を利することと党支配体制を乱すのを避けるため、全く非現実的な自白を認めて銃殺されていった一部の幹部の心理を西側読者に解説している。

第7章、赤軍の粛清。

ソ連の内部攪乱の目的で、ゲシュタポが極秘に作成した偽情報であるのを知りながら、スパイ容疑でトゥハチェフスキーをはじめとする赤軍司令官を抹殺するためにそれを利用したスターリンの悪魔的策謀を記述している。

最後の第8章。

粛清の魔の手が著者自身にも迫り、一足先に亡命した親密な同僚の殺害に協力することを求められたのを期に、自らもスターリン体制と決別し、パリで亡命、暗殺者に怯えながらアメリカに渡る。

亡命直前、著者がソ連に一時帰国した際の出来事。

レニングラードの鉄道出札所で、わたしは旧友であり、同志である男にであった。

「ところで、どんなぐあいだね?」と、わたしは、かれに尋ねた。

かれは、あたりを見まわしてから、低い声で答えた。

「逮捕、ただ逮捕だ。レニングラード地区だけでも工場長の七割以上が逮捕された。軍需工場もふくめてた。これは、党委員会がおれたちに知らせた公式の情報だ。誰も安全じゃない。誰も、人を信用していないんだ。」

隣室に住んでいた親友は、徹底したスターリン主義者であり、著者に対して熱心に粛清を擁護したが、まもなく彼も逮捕・連行され姿を消した。

なかなか良い。

スターリン時代のソ連の実態を知るために適切な本。

コンクェスト『スターリンの恐怖政治』の前に読んでおいてもいいかもしれない。

以下、訳者解説より。

クリヴィツキー、ライスの同僚でロンドン駐在のハンガリー出身のテオドール・マリ(クリヴィツキー回想録中ではマンとなっている)が、モスクワへの帰途、パリにライスをたずねた。ベルジン、スタシェフスキーが、待ち受けている運命を知りながら、なぜ帰ったのだろうと、ライス夫人は信頼するマリに尋ねると「帰らねばならなかった」と繰り返して言った。「それで、あなたは帰るの」、という問いには「帰る」という答えが返ってきた。「なぜなの、何が待っているか、ご存じでしょう、銃殺されるわよ」、「わかっている。あちらであれ、こちらであれ、殺されるだろう、あちらで死んだほうが良い。他の者には違うだろうが、自分は連中に殺させるつもりだ」と言って、その理由を次のように説明した。

「第一次大戦中私は従軍牧師だった。カルパチア地方で捕虜になった。あらゆる種類の恐怖を体験した。塹壕で足が凍傷になって死んでいく若い兵士たちをみとった。収容所を転々として、飢えを経験した。皆虱にたかられ、多くはチフスで死んだ。神への信仰を失い、革命が勃発するとボルシェヴィキに加わった。過去とは完全に絶縁した。もうハンガリア人でもなく、牧師でもなく、キリスト教徒でもなく、誰の子でもなくなった。いわば作戦行動中行方不明の兵士となった。

共産主義者となっても、それ以来かわってはいない。白軍、人民の敵、僧侶から、革命を守るため作られたチェカに入り、国内戦を戦った。一日のうちに同じ村が敵と味方に入れ代わりたち代わり占領され、燃え落ちた。国内戦は恐ろしい。わが赤軍支隊は、白軍と全く同じやり方で、村を掃討した。白軍に協力したかどで村に残った老人、婦人、子供たちが機関銃で薙ぎ倒された。女たちの泣き声が我慢できなかった。味方が村を掃討する度に、猛烈な下痢に襲われた。掃討が終わるまで隠れていた。こうして自分は革命を守ったのだ。

集団農業化の時代には、どれだけの農民が収容所に送られ、また殺されたかを知っている。それでも、自分はチェカに残りつづけた。自分がしたことで、いつか罪を償う機会がくるものと希望していた。ある日、ジャガ芋を盗んだ罪で、一人の百姓に死刑を宣告した書類が回ってきた。よく読むと、その男は小さな袋にはいったジャガ芋を盗んだだけで、それも子供に食べさせるためだった。自分と一緒にチェカに入ったハンガリア人の上司の所に行って、男はもう十分罰を受けていると言い、男の妻に面会の許可を求めた。上司は書類を見て同意し、死刑の代わりに、禁固刑に減刑した。男の妻に夫が助かったことを告げ、これで自分は贖罪になったと思った。それから二週間、出張から帰ってきて、何よりも先に、この一件がどうなったかを調べた。書類は見付からなかった。上司と一緒になって書類の行方を追った。やっと見付けた書類には走りがきがしてあった。処刑ずみ、と。

秘密警察の外国部に行って、国外勤務を志望したのはその翌日だった。過去に何度も国外勤務を断ってきたが、もうとてもソ連で生活するのはたえられなかった。どこかへ逃げたかったし、牧師としての過去を蘇らせたいとさえ思った。銃殺されるために、帰る理由が分かるだろう。今となって、いったいどこにかくれるのか。」

2009年11月10日

引用文(坂井榮八郎2)

Filed under: 引用文 — 万年初心者 @ 06:00

同じく、坂井榮八郎『ドイツ近代史研究』(山川出版社)、「講演 啓蒙絶対主義と革命」の章、註より。

1794年ウィーン・ブダペストなどで「ジャコバン主義者」が「大逆的陰謀」の嫌疑で逮捕され、センセイショナルな「ジャコバン裁判」を経て、翌95年十人が処刑された。

ただし、オーストリアの啓蒙絶対主義の名誉のために、以下のことを付け加えておきたい。皇帝フランツは逮捕者を特別法廷で裁き、「大逆罪」で処刑しようとした。それに対して法学者たち、とりわけマルティーニ・・・・・が反対の論陣を張り、オーストリアの一般刑法では民間人に対する死刑はすでにヨーゼフの時代に(1787年の刑法改正)廃止されており、「大逆罪」は実行犯に対してのみ適用可能であり、特別法廷による裁判は法を曲げるものであることを主張、政府もこれを認めざるをえなかった。そのため、ウィーンでは軍籍にあった二名のみ(その後クライン州で逮捕された一名が追加される)処刑されるに止まった。他の七名は1793年に死刑が再導入されていたハンガリーでの処刑である。なお、ウィーンの「陰謀」首謀者リーデルは六十年(!)の重禁固刑、他も長期の禁固刑に処せられたが、リーデル以外はみな1802年に恩赦で釈放されている。・・・・・

この際、「ジャコバン独裁」下の「恐怖政治」期(93年9月~94年7月)のフランスでは、内戦もからんではいたが、「裁判」の判決によるものだけでも一年足らずの間に全国で一万六〇〇〇人の人間が死刑に処せられていること、裁判抜きの「処刑」も多数あり、「恐怖政治」の犠牲者は合わせれば四万にも上ること(柴田三千雄他編『世界歴史大系・フランス史2』山川出版社、1996年、386頁)を想起されたい。それに踵を接する時期の「ジャコバン裁判」である。啓蒙絶対主義の法意識は軽視されてはならないであろう。

クルトワ『共産主義黒書 ソ連篇』(恵雅堂出版)プティフィス『ルイ16世 下』(中央公論新社)記事の引用文など参照。

(上記の恐怖政治時代の犠牲者4万というのには、ヴァンデー地方の王党派反乱鎮圧の犠牲者はたぶん含まれていないと思われる。一説では30万人にも上ると言われているらしいその犠牲者については森山軍治郎『ヴァンデ戦争 フランス革命を問い直す』(筑摩書房)という著作があり、読もうとは思ってるんですが、未読のまま。)

全ての権力が人民の意志から発すると宣言した国民国家より、王権神授説に基づく世襲王朝国家の方が、実際は国家権力が制限されていたというのは現在の視点から見ると非常に奇妙に思えるが、一定の留保を付ければ事実だと思う。

20世紀になるとそれが一層悲惨な形で示されるが、これはテクノロジーの発達だけで説明されることではないと個人的には思う。

2009年11月9日

引用文(坂井榮八郎1)

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坂井榮八郎『ドイツ近代史研究』(山川出版社)、「帝国建設と自由主義の挫折」の章より(赤文字は引用者)。

・・・・・英独自由主義の比較においては、両者の発展傾向の基本的共通性とともに、ドイツの自由主義がイギリスのそれに比し、きわめて不利な条件下での発展を強いられたことが指摘されている。資本主義発展の後発性と工業化における国家のイニシアティヴ。貴族ホイッグの不在、あるいは力の弱さ。イギリスの自由主義が、議会政治の先進性と非民主的選挙権の組合せの下で、大衆の政治参加以前に「政権党」となりえたのに対し、ドイツでは条件の逆の組合せ(議会政治の後進性と最先端的な民主的選挙権)の下で、「自由主義時代」の最初から「下から」の、あまつさえ――実勢力はともかくイデオロギー的に――世界でもっとも革命的な社会主義政党の圧力にさらされていたこと。加えてドイツでは、自由主義がカトリック教会を最初から敵に回していたこと、等々。しかし自由主義が労働者層やカトリック教徒を統合しえなかったことについては、いわゆる「負の統合(Negative Integration)」への自由主義の加担からしても、自由主義自身がその責めを負わなければならないところが多い。

ここで「負の統合」というのは、大プロイセン的小ドイツ帝国に容易に同化しえない国民の一部に「帝国の敵(Reichsfeind)」の烙印を押し、この共通の敵に対する敵意をテコに他の相対的多数の国民を統合しようとする政治術策、ないし事実過程をさす。周知のように、その最初の大きな標的はカトリック教会であり、78年以降は社会主義者であった。「負の統合」をどの程度ビスマルクの意図的術策と見るべきかについては議論の余地があるが、文化闘争および社会主義者鎮圧法に、そう呼ばれうる事実過程が随伴していたことは確かである。他方、抑圧されたカトリック教徒はこの間――「負の統合」の反作用として――教会とカトリック諸団体の指導の下に、固有のサブカルチャーをもち、自由主義的=プロテスタント的市民文化世界とは隔絶した独自の生活世界をつくり出した。社会主義的労働者の生活世界もまた同じである。そしてこれが、自由主義的国民統合の課題と根底において相容れない事態であることはいうまでもない。

2009年11月6日

坂井榮八郎 『ドイツ近代史研究 啓蒙絶対主義から近代的官僚国家へ』 (山川出版社)

Filed under: ドイツ — 万年初心者 @ 06:00

『ドイツ史10講』(岩波新書)『ゲーテとその時代』(朝日選書)という二つの傑作啓蒙書の著者坂井榮八郎氏の論文集。

10本の論文と2つのコラムで構成されている。

そのうち、「クールヘッセンにおける農民と農民解放」という論文は専門的過ぎて初心者には非常に読みづらいので、極めて粗く飛ばし読みしただけ。

場合によってはこの章だけは完全に飛ばしてもいいかもしれない。

しかし、それ以外の章はどれも普通に読めて、有益な内容を含んでいる。

こういう論文集の形式にも関わらず、初心者が読了できて得るところがあるものを書けるというのは、余程明晰で優れた学者さんだけだと思います。

中身で印象に残っているのは以下に引用する部分などですが、他に一点だけ挙げると、「余滴 プロイセン皇太子とビスマルク」というコラムがある。

ヴィルヘルム1世治下にビスマルクがドイツ統一を成し遂げたが、ヴィルヘルム2世が即位すると対立し、1890年にビスマルクは退陣、以後ドイツは「世界政策」に乗り出し孤立の道へ、という流れは高校教科書にも出てきますが、ヴィルヘルム2世は同1世の子ではなくて孫である。

実はその間に1世の子のフリードリヒ3世の極めて短い治世が挟まっている。

ヴィルヘルム1世は、1797年(!)生まれで、1849年フランクフルト国民議会の差し出した帝冠を拒否したフリードリヒ・ヴィルヘルム4世の弟で、その後を継ぎ1861年即位。

異例の長寿を保った後、1888年死去、子のフリードリヒ3世が即位するが在位わずか99日で世を去る。

このフリードリヒ3世は英国のヴィクトリア女王の娘(母と同名のヴィクトリア)と結婚し、自由主義的・親英的で知られた人だったらしく、この人の治世が長く続いていたら、下から沸き起こってくるナショナリズムをある程度制御し得て、ドイツと世界の運命は全く変わっていたかもしれないとも言われている模様。

ヴィルヘルム2世はその子なので、ヴィクトリア女王からエドワード7世を経て王位を継ぎ、第一次世界大戦で敵国同士となった英国王ジョージ5世はヴィルヘルム2世のいとこになる。

水谷三公『王室・貴族・大衆』の系図など参照。)

ちなみにエドワード7世の妻とアレクサンドル3世の妻はデンマーク王家出身の姉妹なので、ジョージ5世とロシア皇帝ニコライ2世は母方のいとこになる。

こういう王家同士の婚姻関係も、民主化が進展しナショナリズムが野放しになった20世紀においては、全く緩衝材として働くことができなかったことに慨嘆せざるを得ない。

期待に違わぬ良質な本。

比較的硬い形式のものでこれだけ楽しませてくれるのだから文句無し。

買わなくてもいいかもしれませんが、図書館で在庫があれば是非借りてみて下さい。

以下、「講演 啓蒙絶対主義と革命」の章、註より。

プロイセンの改革者ハルデンベルク1807年9月のいわゆる「リガ意見書」でこう書いている。「フランス革命はフランス人に、流血と騒擾の下で全く新しい活力を与えた。あらゆる力が呼び起こされ、みじめさと脆弱さ、また時代遅れの偏見や疾患が――もちろん多くの良いものと一緒に――破壊された。[中略]だから、よい意味での革命、人間を高貴にするという偉大な目的に到達するような、そして内外からの暴力的衝動ではなく政府の英知によって導かれる[革命]――それがわれわれの目的、われわれの指導原理である」。同じことを同意見書の別の箇所ではこう言っている。「可能な限りの自由と平等――[しかし]フランス革命の血まみれの怪物どもがその犯罪の隠れ蓑にした無拘束の、当然非難されて然るべきそれではなく、[中略]国家市民の自然の自由と平等をその市民の文化の段階と彼らの福祉がそれを必要とする以上には制限することのない、君主国の賢明な法律によるそれである」・・・・・。

ここではフランスの事態に対する激しい批判だけでなく、この批判にもかかわらず、「よい意味での革命」という言葉遣いにもあらわれているように、「革命」という概念にまだ一定の積極的意味合いがこめられていること、またフランスでなされたのと同等のことが、フランスとは別の方途でなされなければならないことが強く意識されていること、この点が留意されなければならないであろう。これは、「プロイセン改革」を指導した文武の官僚たちのかなりの部分に(他国では、例えばバイエルンのモンジュラについても)言えることだと思われる。もちろん、すべてに妥当するわけではないが。

例えば、シュタインがすでに違う。「フランスの無政府状態と不道徳」をフランス人の国民性に帰し、これを倫理的に弾劾したシュタインにとって、フランスの事態は「軽率に企てられ、狂って犯罪的に押し進められて、最低の専制政治に成り果てた革命」以外の何物でもなかった・・・・・。もちろん改革はしなければならないが、革命から学ぶものなど何もない。われわれは「すべてを新しくつくり出そうとする1789年以降の立憲的原理は間違っていること、歴史的地点から出発し、[それを]修正もし、より完全なものにしてゆくべきであるが、それは転覆などではないこと」を知るべきである・・・・・。

(補三) なお先程、ドイツでは革命は二つの顔をもつものと観念されるようになったという話をしましたが、これもドイツだけのことではないでしょう。フランス自体においても実はそうだったということが、先年1989年――フランス革命200周年に当たって私たちにも明らかになった。フランスのいわば「正統史学」の立場を守ってきたジャコバン主義史学に対するフュレなどのいわゆる「修正派」の批判はすでに前からのことですが、私など門外漢がその重要性を知ったのは、やはり200周年の年にいろいろ紹介されたことであります。またあの大革命、特に1793年以降のジャコバン独裁ないし「恐怖政治」期の評価をめぐっては、学界のみならずフランスの国民世論あるいは国民感情の中に、いまだ埋め難いような亀裂が存在していることも、他ならぬこの200周年の機会に私たちに知られるようになりました。革命が明るい顔だけでなく、恐ろしい顔ももっているのは、ドイツだけのことではなかったのです。

・・・・・1989年のフランスにおける革命200周年の国家的祭典は、祝うのは1789年であって93年ではない、という諒解の下で、またその諒解の下でのみ行なわれえたと記憶する。

2009年11月4日

秋元英一 『世界大恐慌 1929年に何がおこったか』 (講談社学術文庫)

Filed under: アメリカ — 万年初心者 @ 06:00

アジア経済危機後の1999年に講談社選書メチエから出たものを、十年後、世界経済危機真っ最中の今年に文庫化したもの。

末尾の解説で、林敏彦(『大恐慌のアメリカ』(岩波新書)の著者)という人が、本書の特徴としてアメリカの大恐慌でも日本の昭和恐慌でもなく世界大恐慌を語っていることだと書いていて、確かにそう感じられるところもあるんですが、やはり叙述の中心的な視点は常にアメリカの置かれているようなので、カテゴリは近現代概説ではなくアメリカにします。

第一章がウォール街株価暴落の様相、それ以前の20年代アメリカ社会の繁栄、恐慌の原因論、フーヴァー政権の対応。

第二章で大恐慌下アメリカ社会の苦難の有様を描写。

第三章が銀行と信用システムの崩壊、経済再建策の系譜、金融システム再生のために採られた方法、金本位制からの離脱など。

第四章がニューディール政策の具体的対策・事業の記述。

第五章はケインズの大恐慌への見解、アメリカ財政政策の検討、日本の金融恐慌と高橋是清蔵相の手腕について。

それほど難解な内容ではなく、わかりやすく書かれているとは思うが、残念ながら私の能力では本書程度の叙述でも所々理解できない部分が出てくる。

文化史だけじゃなくて、経済史も本当に苦手なんですよね・・・・・。

細かなデータと因果関係の記述を読み解くのに苦労して、著者の評価や見解が明確に読み取れない。

幸い、エピローグで本書のまとめみたいな叙述がありますので、そこで復習しましょう。

ニューディール政策については、政治的にはとりあえず国民心理を安定させて左右の全体主義が台頭するのを防いだ功はあるが、純粋な経済対策としては失敗だったとの意見もあるようですが、本書では経済面でも比較的評価している方なのか?

すみません、私が理解した部分だけでは迂闊なことは言えませんので、実際にお読み下さい。

ただ、そんなに悪い本じゃないとは思います。

2009年11月1日

『福沢諭吉全集 第5巻』 (岩波書店)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 06:00

分厚い。

重い。

通勤電車内で手で持って読むのは相当辛い。

なぜこんなものを手に取ったかというと、普通啓蒙思想家と思われている福沢諭吉が近代文明批判を展開したという『民情一新』が収録されているため。

それに加えて『帝室論』を読んだだけです。

両方とも短いので、通読はさして困難ではありません。

ただ漢字が旧字体でルビが少ないのが苦しい。

一部難解な読みの漢字にはルビがあるが、それも基本的に初出の際だけであり、読み進めていくと「うっ」と詰まる部分がある。

内容については、『民情一新』の方はややすっきりしない読後感。

近代批判と読める箇所もあるが、行間を読まずに全体の論旨を表面的に捉えた感じからするとそういう主張は明確に浮かび上がってこない。

この点、やや予想に反しており、複雑な印象を持った。

『帝室論』はごく普通の読後感。

とは言え、『思想史の相貌』で近代日本の思想家のうち、福田恆存、夏目漱石と並んで稀に見る平衡感覚と成熟した思考の持ち主と評価されている諭吉の本領が良く表れている一品と言えるのではないでしょうか。

なお、末尾の解説で戦時中『帝室論』を再版・配布しようとして禁止されたみたいなことが書いてあって、「この内容の本で、何でそんな扱いを受けるの?」と驚いてしまった。

皇室を実質的権力の無い「虚器」に貶める意見とも読めるから、といった意味のことが書かれていたが、方向性に違いはあっても、いつの時代にも硬直して歯止めの効かない偏狭な世論というのはあるんだなあと思った。

『学問のすゝめ』や『文明論之概略』と同じく、かなづかいや字体の変更などで読みやすくした上で文庫化してもらいたいです。

近年出た、慶応大学出版会の著作集には両方とも収録されていないようですので。

(以下引用、字体等一部変更有り。)

蓋し英人の気象[ママ・引用者註]は古風を體にして進取の用を逞ふする者と云ふ可し。或は其度量寛大にしてよく物を容るゝ者と云ふも可なり。

彼の佛蘭西其他の人民が自由の改革と云へば、直に國王を目的として之を攻撃し、王室恢復と云へば直に人民の自由を妨げんとするが如きものに比すれば、同年の論に非ず。

・・・・・今英國の王室と人民との間は恰も此上等家族の如き者にして、嘗て相犯すの挙動なきのみならず、中心に之を犯すことをも忘れたる者なり。犯さゞる國王は益貴く、犯さゞる人民は益親しく、以て社会の秩序を維持するは人間最大の美事と云ふ可し。

文明は猶大海の如し。大海はよく細大清濁の河流を容れて其本色を損益するに足らず。文明は國君を容れ、貴族を容れ、貧人を容れ、富人を容れ、良民を容れ、頑民を容れ、清濁剛柔一切この中に包羅す可らざるはなし。唯よく之を包羅して其秩序を紊らず、以て彼岸に進むものを文明とするのみ。

區々たり世上小膽の人、一度び尊王の宗旨に偏すれば自由論を蛇蝎視して其文字をも忌み、一度び自由の主義に偏すれば國君貴族を見て己が肩に擔ふ重荷の如くに思ひ、一方より門閥一切廃す可しと云へば、一方は又民権一切遏(とど)む可しと云ひ、何ぞ夫れ狼狽の甚しきや。

事物の極度より極度に渡て毫も相容るゝこと能はざる其有様は、恰も潔癖の神経病人が汚穢を濯て止むを知らざる者の如し。其愚笑ふ可し、其心事憐む可し。啻(ただ)憐む可きに止まらず、世の乱階は大抵この輩に由て成るものなれば、此點に就て観れば亦恐る可きものなり。

王室の功徳は共和國民の得て知らざる所なれども、其風俗人心に関して有力なるは擧て言ふ可らず。人或は立君の政治を評して、人主が愚民を籠絡するの一詐術などとて笑ふ者なきに非ざれども、此説を作す者は畢竟政治の艱難に逢はずして民心軋轢の惨状を知らざるの罪なり。青年の書生輩が二、三の書を腹に納め、未だ其意味を消化せずして直に吐く所の語なり。

試に思へ、我日本にても政治の党派起りて相互に敵視し、積怨日に深くして解く可らざるの其最中に、外患の爰に生じて國の安危に関する事の到来したらば如何するや。自由民権甚だ大切なりと雖ども、其自由民権を伸ばしたる國を擧げて、不自由無権力の有様に陥りたらば如何せん。守舊保守亦大切なりと雖ども、舊物を保守し了りて其まゝに他の制御を受けたらば如何せん。

・・・・・斯る内政の艱難に際し、民心軋轢の惨状を呈するに當て、其党派論には毫も関係する所なき一種特別の大勢力を以て雙方を緩和し、無偏無党、之を綏撫して各自家保全の策に従事するを得せしむるは、天下無上の美事にして人民無上の幸福と云ふ可し。是れ我輩が偏に我帝室の独立を祈願する由縁なり。

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