万年初心者のための世界史ブックガイド

2009年9月28日

森護 『スコットランド王国史話』 (中公文庫)

Filed under: イギリス — 万年初心者 @ 06:00

『とびきり哀しいスコットランド史』の記事で名前を出したこれを通読。

大修館書店から単行本で刊行されたものの文庫化。

中身は非常に細かい王統史。

一人の国王も省略することなく、ひたすら王家の系図を辿っていく叙述。

こういう形式の歴史書を時代遅れとして馬鹿にする人がいるが、私はそうは思わない。

『ヴィクトリア女王』の記事でも書きましたが、初心者の第一歩としてはそれが一番適切である。

スコットランド史の人物と言われて、誰一人思い浮かばないような状態ならば、物語風の国王たちの歴史を読むことくらいから始めるしかない。

とは言え、すべての国王名を憶えるのはまず不可能。

よって、顕著な功績のあった君主か、イングランドとの関係上転機となったときの国王のみを憶えることになるでしょう。

以下、私的メモ。

ローマ帝国外にケルト系ピクト族が活動。

私はこのピクト族がスコットランド人に直接繋がると思っていたが、ローマ崩壊後隣接するアイルランドから渡って来た同じケルト系のスコット族が民族名の由来。

839年ケニス1世がピクト・スコット連合の王位に就きアルピン王家創設。

直系男子による継承が確立しておらず、王位は非常に不安定。

11世紀、マルカム2世が領土拡張と継承方式の確立を目指す。

1034年当時のイングランド王クヌートに通ずる勢力によりマルカム2世が殺害された後、孫のダンカン1世が即位、アサル王家樹立。

ダンカン1世が、シェークスピアの作品で有名な、従兄弟のマクベスに殺害され王位を奪われる。

ダンカンの息子マルカム・カンモーがマクベスを敗死させ、マルカム3世として即位。

この人は非常な名君だったようで、多くの紙数が割かれている。

ちなみにマルカム3世の治世中、1066年ノルマン・コンクェストでイングランドはノルマン朝統治下へ。

以後マルカムの息子たちが順に王位を継ぐが、末弟のデイヴィッド1世が特筆されている。

父と同じくイングランドの文化・制度を移入し、行政・司法制度の整備、貨幣鋳造、自由都市(バラ)の建設など数々の業績を挙げる。

13世紀末、アレグザンダー3世の落馬・事故死をきっかけにアサル王家断絶。

ウェールズを併合して意気上がるイングランド王エドワード1世が王位継承に介入、傍系のジョン・ベイリャルが即位。

傀儡扱いに耐えかねたベイリャルがフランスと結んで反抗すると、エドワードはスコットランドに侵攻し、ベイリャルを廃位。

イングランド支配の中、ウィリアム・ウォリス(ウォーレス)が蜂起するが鎮圧される。

元親イングランド派のロバート・ドゥ・ブルースが反旗を翻し、イングランドに大勝、独立を回復し、ロバート1世として即位、ブルース王家樹立。

ロバート死後、ベイリャル家・ブルース家の非力な王が続いて在位するが、実質的にはイングランドのエドワード3世の支配下に置かれる。

ペスト大流行、百年戦争の膠着状態のおかげで何とか独立維持。

1371年ロバート1世の娘とステュワート家の男子との間に生まれたロバート2世が即位し、ステュワート(ステュアート)王家が始まる。

ここまで来ると、ああやれやれという気分になる。

以後は面倒なので端折りますが、ロバート3世、ジェームズ1世~5世、メアリ・ステュアート、ジェームズ6世(エリザベス1世死後、イングランド王ジェームズ1世に)という順の国王の個性と治世のあらましがよくわかる記述になってます。

宗教改革の浸透が反イングランド色の濃かったこの国に親イングランド派の楔を打ち込んだとか、ジェームズ1世以後の国王で成人後即位した人物がおらず摂政設置時期と王権拡張期が繰り返され、その中で貴族層の内乱が絶えなかったことなどを押さえておけばよいでしょう。

通読するのに少々骨が折れるが、内容はなかなか良いです。

ちょっと細かな家系図に深入り過ぎかと思われる部分もありますが、叙述形式自体は悪くない。

最初に触れた『とびきり哀しいスコットランド史』を事前に読む必要はなく、いきなり本書から入るべき。

もし読むのなら、『とびきり~』の方は本書の記述を踏まえて各国王がどのように評価されているかを確認したり、ごく大まかな復習のために事後に読むといいでしょう。

基本的に初心者は、本書以上に詳しいスコットランド史は不要でしょう。

これ一冊あれば用は足ります。

2009年9月26日

岩崎育夫 『リー・クアンユー (現代アジアの肖像15)』 (岩波書店)

Filed under: 東南アジア — 万年初心者 @ 06:00

1996年刊。

シンガポールという国家の基礎をほぼ一人で作り上げた指導者であるリー・クアンユーの伝記。

シンガポールはマレー半島南端にある島国で、北はマレーシアのジョホールに、南はインドネシアのスマトラ島に隣接する。

東西42キロ、南北23キロ、淡路島とほぼ同じ面積の島に約300万の人口が暮らす都市国家。

華人(中国系)住民が多数を占めるが、その他マレー系、インド系住民も存在する他民族国家。

その起源は1819年イギリス東インド会社職員ラッフルズがジョホール王国から当地を租借したことに始まる。

(参考文献として『マレーシアの歴史』(山川出版社)『ラーマンとマハティール』(岩波書店)も参照。)

1826年シンガポール・ペナン・マラッカで海峡植民地成立。

第二次大戦で日本軍に占領された後、イギリス統治再編の中で1946年マレー半島・ペナン・マラッカでマラヤ連合が成立し、シンガポールは直轄植民地として行政的にマラヤから分離される。

57年マラヤは独立、シンガポールでも自治権付与は避けられないとみたイギリスは58年シンガポールを英連邦内自治州として外交・国防を除く完全内政自治権を付与。

1954年人民行動党を結成していたリー・クアンユーは59年総選挙で勝利し首相に就任。

同党はリー等、英語教育を受けた英国留学生のエリート集団と、華語教育を受けた共産系労組・学生組織が同床異夢で結合していたが、リーは首相就任後、共産系勢力の弾圧を開始。

共産勢力を覆滅するため、一足先に独立して、共産党鎮圧にも成功していたマラヤと合併する形での完全独立を目指す。

1963年マラヤ・シンガポール・ボルネオ北部のサバ・サラワクでマレーシア連邦結成。

しかし華人系とマレー系の民族対立や経済政策をめぐる確執で、わずか2年後の65年にはシンガポールが分離独立。

インドネシアのスカルノ政権はマレーシア結成を親西側穏健諸国の再編として対決政策を採っており、南北の大国と関係が悪化していた新国家の前途は危ぶまれたが、独立直後に起こった9・30事件でスカルノ政権が崩壊し、インドネシアが穏健路線に舵を切ったことにも助けられる。

また、同65年の北爆開始とアメリカのヴェトナム戦争本格介入に伴う特需も有益だったと思われる。

なお、念のため確認すると「北爆(北ヴェトナム爆撃)」の名の通り、米軍は北を海・空軍で攻撃しているが、陸軍・海兵隊を派遣したのは南ヴェトナム領域のみで、地上軍は北には侵攻していない。

(後に北の補給路[ホー・チミン・ルート]を絶つためにカンボジアとラオスには侵攻しているが。)

高校レベルの初心者だと案外勘違いすることがあるので、ご注意。

この1965年はヴェトナム戦争激化、9・30事件、シンガポール独立の他に、日韓基本条約調印、第2次印パ戦争、翌66年の文化大革命発動に繋がる中国の文芸批判など、アジア情勢が大きく動いた年として要記憶。

話を戻すと、独立後のシンガポールは人民行動党一党支配の下、独特の権威主義政治と管理社会を運営して、外資導入と工業化を推進して驚異的な経済成長を遂げる。

労働集約的産業から技術・資本集約的産業へと進化を進め、70年代末に韓国・台湾・香港と並んでアジアNIES(新興工業地帯)と呼ばれるようになり、80年代以降はハイテク・金融・サービス部門でも飛躍的成果を挙げる。

(このNIESという言葉、昔は頻繁に耳にしたのですが、他の東南アジア諸国や中国が経済的離陸を果たした今となっては全然聞かなくなりましたね。)

建国の父リー・クアンユーの手腕が高く評価される所以で、キッシンジャーの回顧録などでも、国の規模と指導者の鋭敏さが不均衡な例として挙げられていた。

しかし、戦時中の経験を考えればやむを得ないとは思うが、日本に対しては相当偏った見方をこの人は示しているようである。

このシリーズすべてに言える事だが、コンパクトにまとめられていてなかなか良い。

過不足の無い説明で読みやすいし、二日もあれば十分読めるので手間が掛からず一定の効用が期待できる。

シンガポール史を3冊も4冊も読めないので、初心者はとりあえずこれをしっかり読むだけでいいでしょう。

2009年9月24日

増田弘 『マッカーサー フィリピン統治から日本占領へ』 (中公新書)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 06:00

前回記事の『諸子百家』と同じく今年3月刊。

この人はザビエル、ペリーと同様、「日本史上の人物」になってしまっているので(前二者よりもはるかに不快な形でですが)、カテゴリはアメリカではなく近代日本にします。

それにしても長い・・・・・。

長過ぎる・・・・・。

私の知る限り、中公新書で一番分厚い本(本文460ページ超!)。

薄い新書版2冊分のボリュームがある。

生涯の全時期を万遍なく叙述するというのではなく、生い立ちや軍歴初期の描写はごくあっさりしたものであり、末尾は朝鮮戦争中の解任で唐突に終わりとなっている。

本書の特徴はサブタイトルによく表れている。

フィリピン方面軍司令官から陸軍参謀総長を経て、35年独立準備のために発足したフィリピン連邦政府軍事顧問、日米開戦時には在フィリピン米極東陸軍司令官という経歴が示すように、マッカーサーとフィリピンとの深い関わりに着目するもの。

始めに、日本占領に先立つフィリピン統治を重視して考察するという著者の方針が書いてあるのですが、ところが読み進むとそうした記述は意外なほど少ない。

歴史解釈の提示に極めて乏しく、事実関係の叙述がひたすら続くのみ。

まず配下にいた側近たちのやたら詳しい肖像が述べられるのに参ってしまう。

以後、日本軍侵攻を受けたバターン半島・コレヒドール島への撤退、高速魚雷艇を用いたオーストラリアへの脱出、「飛び石戦略」による反攻とフィリピン奪還、日本の降伏に至る太平洋戦争の細かい戦史が続く。

肝心の日本占領についての記述もごく普通の通史的記述があるだけ(そこからごく薄く感じられる史的評価は比較的穏当でそれほど悪くないとは思うが)。

最初に著者自身が述べたコンセプトと、本文の記述形式が全然合ってないんじゃないでしょうか?

何とも不思議な読後感を持ってしまった。

文章は巧いと思うし、それゆえ量の割には短期間で読める。

また、事実関係については他の本で載っていないことを教えられる部分も多かったので、それなりに有益ではあるが、初心者が優先して読むような本ではない。

枝葉の部分を削ってコンパクトにまとめるべきところをそのまま推敲無しに未完成のまま出してしまった作品という失礼な印象を抱いてしまう。

強いてはお勧めしません。

2009年9月22日

湯浅邦弘 『諸子百家』 (中公新書)

Filed under: 中国 — 万年初心者 @ 06:00

今年3月に出た入門書。

扱われている思想家は、儒家・墨家・道家・法家・兵家の5種類で、陰陽家・縦横家・名家・農家は記述されない。

20世紀後半以後に出土した竹簡の研究から得られた新しい見解を豊富に取り入れているのが大きな特徴。

序章はそうした発掘・発見の経緯と、ごく簡単な春秋戦国時代史の概説。

第1章は諸子百家前史と題されているが、概括的な記述ではなく、新規に出土した文献で初めて知られるようになった諸子百家の作品に先行する説話類に関する紹介。

以後主題に入り、2章の孔子と3章の孟子にわけて儒家、4章が墨家、5章が老子・荘子で道家、6章が韓非子で法家、7章が孫武・孫臏で兵家に当てられる。

終章が主要な諸子百家の活動の舞台となった斉・魯・宋などの諸国があった地域に該当する現在の山東省紀行。

(孔子の曲阜の他、孟子・墨子・孫武などの生地はすべて山東省。)

豆知識として、

「韓非子」と称するのは、のちに唐の韓愈が「韓子」と呼ばれたことにより区別したものである。

という記述が記憶に残った。

驚くほどの面白さとか、斬新な見解は無いが平均以上の出来ではないでしょうか。

(その中では墨家の解説がかなり面白かった。)

序章と1章、終章を削って、他の章にページを割いて記述をより丁寧かつ重厚にして欲しかったところではあるが、それは望み過ぎか。

適時、平易な訳文を添えた古典引用を交えながらの説明はまあまあで、取っ付きやすく読みやすい。

高校世界史からのレベルアップには適切な本でしょう。

本書でウォーミングアップを済ませたら、中公バックス版「世界の名著」の『3 孔子・孟子』と『4 老子・荘子』と『10 諸子百家』の三冊に取り組むべきなんでしょうが・・・・・・。

私の場合、いつになったら読めるのか見当がつきません。

2009年9月20日

引用文(遅塚忠躬1)

Filed under: 引用文 — 万年初心者 @ 06:00

遅塚忠躬『フランス革命 歴史における劇薬』(岩波ジュニア新書)より。

まず、中江兆民の場合です。兆民は、フランスで第三共和政が成立した直後の1872(明治5)年から1874(明治7)年までフランスに留学し、帰国後には、ルソーの『社会契約論』の翻訳などを通じて自由民権運動に大きな影響を与えた人です。ルソーは、主権が人民にあることを説いて、フランス革命の思想的源泉になった人ですから、「東洋のルソー」ともよばれた兆民は、デモクラシーを樹立するうえでのフランス革命の意義をよく理解していました。

・・・・・・・

しかし、その兆民も、フランス革命の悲惨な側面にたいしては、強い不満と怒りをもっていました。たとえば、ロベスピエールについては、「鄙賎無頼(ひせんぶらい)の民(いやしいならずもの)」を煽動して権力を手に入れ、「酷暴ヲ恣(ほしいまま)ニシ、威刑ヲ以テ政ノ主旨ト為シ(残酷な暴力をふりまわして恐怖政治をおこない)・・・・・殆ンド専制ノ君主ト異ナルコト無キニ至ル」と述べているほどです・・・・・。

兆民の革命観をよく伝えている史料として、幸徳秋水の書いた『兆民先生』という文章があります。幸徳秋水は、のちに明治天皇の暗殺を計画したという罪を着せられて死刑に処せられる人ですが、若いころ、兆民の家に書生として住みこんで、親しく兆民から教えを受けたことがあるのです。その秋水が、兆民の死んだ翌年(明治35年)に彼をしのんで書いたこの文章のなかに、次の一節があります。

予(秋水のこと)曾(かつ)て曰く、仏国革命は千古の偉業也。然れども予は其(その)惨に堪へざる也と。先生(兆民のこと)曰く、然り予は革命党也。然れども当時予をして路易(ルイ)十六世王の絞頸(こうけい)台上に登るを見せしめば、予は必ず走って劊手(かいしゅ)(処刑役人のこと)を撞倒し、王を抱擁して遁れしならんと・・・・・。

2009年9月18日

引用文(中江兆民1)

Filed under: 引用文 — 万年初心者 @ 06:00

『中江兆民評論集』(岩波文庫)、「君民共治の説」より。

政体の名称数種あり。曰く立憲、曰く専制、曰く立君、曰く共和なり。その事実についてこれを校するときは、立憲にして専制なるあり、共和にして立君なるあり。共和いまだ必ずしも民政ならずして立君もまたいまだ必ずしも民政ならずんばあらず。

今や海内の士皆政治の学に熱心し政体の是非得失を講ぜざる者なし。しかるに東洋の風習常に耳を憑(たの)みてかつて脳を役せず、形態を模擬してかつて精神を問はず。

是(ここ)において耳食の徒往々名に眩して実を究めず、共和の字面に恍惚意を鋭して必ず昔年仏国のなせし所をなして、以て本邦の政体を改正するあらんと欲する者またその人なしとなさず。

その迷謬固(もと)より不学寡聞の致す所にしていまだ深く咎むるに足らずといへども、今にしてその惑を弁ぜずんばただに莠苗淆乱(ゆうびょうこうらん)大に我儕自由の暢路を妨碍するのみならず、また恐くは蠹毒(とどく)侵蝕暗に国家元気の幾分を戕賊(しょうぞく)するあらん。しからば則ちこの惑を弁ずることまた方今のまさに務むべきの急たり。故に一日の紙上を費しいささかこれを弁説せんとす。

共和政治の字面たるや羅甸(ラテン)語の「レスピユブリカー」を訳せるなり。「レス」は物なり、「ピユブリカ」は公衆なり。故に「レスピユブリカー」は即ち公衆の物なり、公有物の義なり。

この公有の義を推してこれを政体の上に及ぼし共和共治の名となせるなり。その本義かくの如し。故にいやしくも政権を以って全国人民の公有物となし一二有司に私せざるときは皆「レスピユブリカー」なり。皆な共和政治なり。君主の有無はその問はざる所なり。

しかれば則ち今において共和政治を立てんと欲せばその名についてこれを求めんか、将(は)たその実を取らんか、その名についてこれを求むるときは古昔ウエニース国の如きもまた称して共和といへり。しかれどもその実は決して人民をしてその政治に干預せしめたる者にあらずして、衆貴族相合議してこれを行ふに過ぎず、これ豈に真の共和政治ならんや。

独りこれのみならず即ち見今仏国の共和政治の如きもこれを英国立君政体に比するときは、共和の実果していづれにありとなさんか。これに由りてこれを観れば共和政治固よりいまだその名に眩惑すべからざるなり。固よりいまだ外面の形態に拘泥すべからざるなり。

・・・・・・・

けだし見今共和政治の名称に惑ふ者その党分ちて二となす。曰く共和政治を忌悪する者なり、曰く共和政治を景慕する者なり。

これを慕う者の説に曰く、共和を以て政治をなすときは復た君と民を別つべからずと。その意けだし必ず米国もしくは仏国の政体の如くにして後已まんと欲す。

これを忌む者の説に曰く、もし共和を以て政治をなすときはまさに我君をいづれの地に置かんとするやと。その意けだし我邦の必ず米国もしくは仏国の如く絶えて君を置くことなきに至ることを懼るるなり。

これ皆皮相の見のみ、形態に拘るの説のみ。たとひ前説の人をして眩惑して回らず終にそのなす所をなさしめばその禍固より測るべからず。後説の人をしてその志を得さしめば、則ち圧制束縛の政益々力を逞(たくまし)くしてその害もまた必ず言ふに勝(た)ゆべからざるに至らん。

ああ毫釐(ごうり)の差にして千里の謬を致す、寒心せざるべけんや。仲尼曰く、必ず名を正さんかと。名の正しからざる一日数千万の善男子をして長く五里霧中に彷徨して出る処を知らざらしむるに至らん。これ乃ち吾儕の「レスピユブリカ」の実を主としてその名を問はず共和政治を改めて君民共治と称する所以なり。

君民共治の方今に行はるる者は嚮(さ)きのいはゆる英国もこれなり。ああ人民たる者能く政権を共有すること一に英国の如くなることを得ば、これもまた以て憾なきにあらずや。誠にかくの如くなる日は前説の人恨を留むる所なくして後説の人もまた憂を懐く所なきを得ん。

2009年9月17日

梅田修 『世界人名ものがたり 名前でみるヨーロッパ文化』 (講談社現代新書)

Filed under: ヨーロッパ — 万年初心者 @ 06:00

かなり前にこれを読んでいたのを、突然思い出した。

10年ほど前なので内容はよく憶えていないが、まあまあ面白かった記憶がある。

『世界人名~』というタイトルだが、実質ヨーロッパ人の名前だけについてあれこれ書いた本でしょう。

高校世界史で同じ人名でも国によって、チャールズ(英)、シャルル(仏)、カール(独)、カルロス(西)とか、ヘンリ(英)、アンリ(仏)、ハインリヒ(独)、エンリケ(西・ポ)とか呼び名が違いますが、そういうことも含むのか。

そういや、高校2年の時、世界史を担当してもらった先生はカール大帝やカール5世のことをチャールズ大帝、チャールズ5世とか言う人だったなと思い出した。

気さくでいい先生だったので今も感謝しているんですが、この呼び方は反ってややこしい。

さすがにヴィルヘルム1世や2世をウィリアムとは言ってませんでしたが。

すみません、書くことが無いので、今日はこれまでです。

2009年9月14日

塩野七生 『ローマ亡き後の地中海世界 下』 (新潮社)

Filed under: イタリア — 万年初心者 @ 06:00

上巻に続き、即この下巻に取り組む。

しかし、だるい・・・・・。

気乗りしないまま、380ページ超の分量をこなすのは辛い。

ついだらだらサボりがちになり、読み終えるのに一週間かかった。

本書の叙述対象範囲もかなり狭く、実質16世紀初頭から1571年レパントの海戦までの西欧とオスマン・トルコ関係史。

海洋民族ではなかったトルコがその海軍力の多くを依存したのはやはり北アフリカの海賊たち。

「赤ひげ」というあだ名の方が有名になったハイルディーンなどの海賊がイタリア半島・シチリア島・サルディニア島・コルシカ島・南仏・スペインを荒らしまわる。

近世初頭、大航海時代真っ只中のこの時期でも、ヨーロッパ側が一方的守勢に立ち、甚大な被害を蒙っていたことに驚く。

中学までの歴史教育でのイメージだと、1500年を境に世界が一変して、西欧が圧倒的優位を保ちながらアジア・アフリカを次々と植民地化していくという印象があるが(私はそうでした)、実際には、南北アメリカの先住民は確かに為す術なく衰退・屈服してしまった一方、オスマン朝、サファヴィー朝、ムガル朝、明および清朝という近世初頭におけるユーラシアの四大帝国の繁栄の前にはヨーロッパは全く手が出せなかったわけである。

オスマン帝国の公認を得た海賊たちに立ち向かったのは、ジェノヴァ出身で後にスペイン海軍総司令官に就任した名将アンドレア・ドーリアと、国家として最も組織的に海賊退治に取り組んできたヴェネツィア共和国海軍。

上記と同じようなステレオタイプのイメージだと、大航海時代に入るとイタリアの都市国家はスペイン・フランス・イギリスなど諸大国の圧迫を受け、即座に没落した印象があるが、これも必ずしも正しくない。

中谷臣『世界史A・Bの基本演習』から引用すると

このルネサンスを担ったイタリア都市が「地理上発見」「商業革命」によって、またたくまに衰退するのではない。15世紀までの資本の蓄積があり、危機に対しては毛織物・絹織物・ガラス工芸・出版業・・・・・の振興で対処した。16世紀後半には香料貿易も再燃し、建築ブーム・宝くじブームが起こった。レパント海戦の勝利者にヴェネツィア艦隊もあったことを想起されたい。

とある。

この時代の背景として、イタリア五大国(ミラノ公国・ヴェネツィア共和国・フィレンツェ共和国・ローマ教皇領・ナポリ王国)の名と位置関係は押さえておくべき。

(これは高校世界史の範囲内なので確実に。なお五大国にジェノヴァが入っていないことにご注意。)

16世紀中にミラノとナポリはスペイン勢力下に入り、トスカナ大公国と変わったフィレンツェは統治者のメディチ家がスペインの支援を受け、反宗教改革を遂行するローマ教皇も同様といった次第で、独立を維持したのはヴェネツィアだけで、イタリアは実質スペインの支配を受け、18世紀初頭スペイン継承戦争後はオーストリアに統治され、それが19世紀イタリア統一運動の時代まで続くことになる。

こういう経緯を知るには、やや煩瑣な部分もあるが、モンタネッリの『ルネサンスの歴史』が適切と思われます。

当時のスペインおよびオーストリア統治者で神聖ローマ皇帝だったのはカール5世(カルロス1世)であり、それに対峙したのはフランス国王フランソワ1世だが、本書ではこの両者に対する評価ははなはだ低い。

カール5世については、例えば、イタリアの完全支配の妨げとなっているヴェネツィアを利することを避けるため、1538年プレヴェザ沖の海戦でスペイン海軍司令のドーリアに不可解な消極策を取らせたことなどが批判されている。

このプレヴェザ海戦はオスマン帝国全盛期にスレイマン1世の治世を飾る勝利として高校教科書にも載っているが、どうも奇妙な海戦で、キリスト教徒側とトルコ側が真正面からぶつかってキリスト教徒側が惨敗したという感じではない。

西欧側海軍の構成は、スペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇と、後のレパント海戦と同じ顔ぶれだが、少しの小競り合いがあった後、ドーリア率いるスペイン艦隊が撤退し、やむを得ず他の海軍も戦線を離脱したという状態で、キリスト教徒側の損害は大きくはなかったが、その心理的敗北感とトルコへの恐怖は大きく、以後海賊がますます跋扈することになる。

フランソワ1世に至っては、スペイン・オーストリアのハプスブルク帝国に対抗するためトルコと軍事同盟を結び、海賊行為を黙認することさえした。

1565年トルコ軍がマルタ島の攻略に失敗したことなどから、西欧とトルコとの力関係に変化が生じ、1571年有名なレパントの海戦が闘われる。

西欧側でこの海戦に参加した、当時の戦艦(この「戦艦」は軍艦の中の一艦種の意味)であるガレー船の数を並べると、ヴェネツィア110隻・スペイン72隻・教皇12隻だそうです。

これだけ見ても、ヴェネツィアがイタリア都市国家の中であらゆる意味で別格の存在なのがわかります。

レパントでの勝利によってヨーロッパの心理的余裕が回復され、海賊への抵抗が活発化し、その被害が軽減されていくことになるところで、本書の幕は閉じます。

あれこれメモはしたが、やはりあまりいいとは思えない。

著者は同じ時代を扱った自著のうち、『コンスタンティノープルの陥落』『ロードス島攻防記』『レパントの海戦』を微視的な、『海の都の物語』をヴェネツィアを中心にした巨視的著作として、本書を地中海全般に目配りした作品と説明しているが、良さが感じ取れない。

以上挙げた著作と他の材料を適当に混ぜて薄めた本といった感が拭えない。

発売から8ヶ月ほど経って、図書館での予約も減り始めた頃だろうから、買わずに借りるだけでいいでしょうし、そもそも無理して読むこともないかもしれません。

2009年9月11日

塩野七生 『ローマ亡き後の地中海世界 上』 (新潮社)

Filed under: イタリア — 万年初心者 @ 06:00

去年の年末にこの上巻が出て、今年初めに下巻が出ました。

一昨年まで続いた『ローマ人の物語』の続編を思わせるようなタイトルで装丁もそっくり。

私は途中から『ローマ人~』の単行本は買わなくなって、今は文庫版で揃えており、現在読んでいるのは単行本の12巻に当たる『迷走する帝国』までです。

(次の『最後の努力』が最近文庫化されましたが、私は未読。)

そのシリーズを読み終えてないのに、続編を先に読むというのも変な感じがしますが、あまり気にせず手に取る。

内容は、タイトルが与える印象ほどの網羅性は無いです。

古代末期以後の地中海世界全域の通史では全くなく、実質8世紀以降のイタリアとイスラム化された北アフリカとの関係史。

よってカテゴリは、ヨーロッパではなくイタリアで。

イスラムの海賊による被害に苦しめられるキリスト教世界の様相が主要テーマ。

読み進めていくと気付くのが、イスラム側の記述で王朝名がほとんど出てこないこと。

9世紀のイスラム教徒によるシチリア島征服について、この本の中盤で多くの紙数が割かれているが、これを遂行したチュニジアの都市カイラワーンのイスラム勢力は後藤明『ビジュアル版イスラーム歴史物語』によるとアグラブ朝という実質独立王朝のはずだが、本書ではただカイラワーン総督として名が出るだけ。

と言うか、そもそもウマイヤ朝やアッバース朝の名前すら出てこない。

9世紀、10世紀の西ヨーロッパはシャルルマーニュ死後の分裂期だが、本書で時々言及される国王が西フランク、東フランク、イタリアのどの王なのか不分明な場合があるし、ヴェルダン条約・メルセン条約についての説明もなし。

高校世界史では普通「神聖ローマ帝国」は962年オットー1世に始まるドイツ帝国を指すが、本書では800年シャルルマーニュの西ローマ帝国復興に使用していることに何とも言えない違和感。

以後、アマルフィ・ピサ・ジェノヴァ・ヴェネツィアというイタリアの四大海洋都市国家の台頭、イングランドのノルマン・コンクェストと同じ11世紀に行われたノルマン人によるシチリア奪還、仏国王ルイ9世による第7回十字軍のチュニジア攻撃などの記述に進む。

最後にイスラムの海賊に北アフリカに拉致され、奴隷として酷使されたキリスト教徒を身代金を支払って解放することを任務とした修道会と騎士団のことが多くの興味深いエピソードと共に叙述されている。

このうち前者の熱心な後援者としてインノケンティウス3世の名が挙げられているが、これはこの教皇の意外な一面を堀米庸三『正統と異端』とともに示してくれている。

通して読むと中世にヨーロッパがイスラムから受けた被害の大きさに驚かされる。

著者がヨーロッパ側の視点に立っているからでもあろうが、一般的イメージとして定着しておらずあまり知られていない史実の一面を教えてくれるのは貴重ではある。

あと、全般的に言えることとして地図が多い。

似たような地図が何度も載せられており、好意的に見ればいちいち前のページに戻らなくても済むように関連文のある部分にはその都度掲げてくれているということでしょうが、巻末にある30ページにおよぶ海賊見張り塔のカラー写真集と並んで、ひょっとしてページ数稼ぎと価格上乗せ策じゃなかろうなという意地の悪い憶測が心に浮かんでしまう(本書は3150円もします)。

11世紀に十字軍・レコンキスタ・「商業の復活(商業ルネサンス)」・ドイツ東方植民など西ヨーロッパの反撃が始まる前、イスラムに対して一方的守勢に立っており、中世が真に暗黒時代であった頃のイタリアの状況概略を知るという限定された目的のためとすれば、比較的よく出来ていると思う。

相変わらず著者のストーリー・テラーとしての能力は大部を飽きさせずに読ませる(私は二日で読めた)。

しかし著者の専門であるイタリア以外の史実の扱われ方は非常に断片的でわかりやすくないし、得たものはほとんど無い。

周辺的テーマに紙数を割けないと言われればその通りかもしれないが、それを考慮しても物足りない。

『ローマ人~』というドル箱シリーズを手放してなるものかという出版社の嫌らしさを感じる。

そういう版元に推されて無理して書き下ろした結果、十分な内容を伴わなくなった本という印象が否めない。

(ちょっと言い過ぎかもしれませんが。)

すぐ続けて下巻も読むと思いますけど、是非読むべき本だとは思えませんでした。

2009年9月8日

福永文夫 『大平正芳 「戦後保守」とは何か』 (中公新書)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 06:00

去年の12月刊。

1972年佐藤栄作長期政権退陣から80年代半ばまでの内閣を順に並べると以下のようになる。

72年 田中角栄

74年 三木武夫

76年 福田赳夫

78年 大平正芳

80年 鈴木善幸

82年 中曽根康弘

87年 竹下登

30代前半以下の方は最初の方の首相は全く記憶に無いでしょうが、私は福田さんからはおぼろげながら覚えている年代。

小学生だったが、大平正芳首相については、「国会でアーウーという言葉を頻繁に挟みながら答弁する鈍重な感じのおじいさん」という世間のイメージが記憶にある。

70年代は2年ごとに政権交代が繰り返され、80年代中曽根政権が例外的な長期政権となる。

この中で、一般的にいって評価が高いのはやはり中曽根政権だと思うが(福田和也『総理の値打ち』のように違った観点の本も有り)、意外と大平政権の評価が高かったりする。

例えば、高坂正堯氏が大平氏について、「諸外国の指導者に不思議と信頼感がある」「この時期の首相で安全保障問題に真剣な関心を持っていたのは中曽根氏と大平氏だけだ」という意味のことをどこかで書いてらしたのを覚えている。

本書の159ページにある「自民党派閥の系譜」という図を見ながら書くと、大平の属した宏池会は、池田勇人→前尾繁三郎→大平正芳→鈴木善幸→宮沢喜一→加藤紘一・河野洋平→麻生太郎・古賀誠・谷垣禎一という流れになる。

この派はいわゆる「保守本流」で、「軽武装・経済立国」という「吉田ドクトリン」に忠実なグループ。

(麻生氏はちょっと違う気がするが。)

その点、同じ吉田派から出た、佐藤栄作→田中角栄→竹下登→橋本龍太郎→小渕恵三→津島雄二の流れも同じ。

それに対し、岸信介→福田赳夫→安倍晋太郎→三塚博→森喜朗→町村信孝は改憲志向で復古ナショナリズム色が濃い。

他の派閥では、三木武夫→河本敏夫→高村正彦のラインが前者、河野一郎→中曽根康弘→渡辺美智雄→山崎拓・伊吹文明は後者に親和的という理解でいいのか。

以上のような自民党内の諸勢力の抗争の描写を交えながら記された伝記。

著者は戦後民主主義に融和的な柔軟な保守政治家としての大平を好意的に捉えているようだ。

割と良い。

戦後政治史としても使えるので悪くない。

ものすごく面白いとか、目から鱗が落ちたとか、そういう感じでもないですが。

一読すればそれなりに得るものはあるでしょう。

2009年9月5日

大野徹 『謎の仏教王国パガン 碑文の秘めるビルマ千年史』 (NHKブックス)

Filed under: 東南アジア — 万年初心者 @ 06:00

書名からして、最初の統一国家パガン朝だけの通史かと思うが、タウングー(トゥングー)朝、コンバウン(アラウンパヤー)朝、植民地時代、独立後の歴史も、簡略ながら付け加えて、一応ビルマ(ミャンマー)通史の体裁を整えている本。

序章と第1章がビルマ・パガン紀行、2章から4章が民族前史からパガン時代、5章が王朝滅亡と非ビルマ系民族支配時代、6章がタウングー朝とコンバウン朝および植民地化、終章が独立運動と戦後史と軍事政権の時代という構成。

本のコンセプトからしてしょうがないですが、パガン朝時代に極めて大きな重点が置かれていて、通史としてはバランスが悪く、近現代史には穴が目立ちます。

読み始めると、序章はともかく、1章のパガン紀行がきつい。

寺院と仏塔の紹介が延々と続いて、思わず挫折しそうになる。

2章に到達するまでは読み飛ばしましょう。

ちなみに著者はミャンマーという国名はあまり用いません。

軍事政権が名付けたからというだけでなく、改名の際の理由付けとして「ビルマ族以外の少数民族も包含する名称だから」とされているが、古くはミャンマーという言葉は明らかにビルマ族の単なる別称であり、その意味で不合理だからとしている。

なお、事前に東南アジアの語族について以下の通り確認しておく。

シナ・チベット語族=中国語・タイ語・チベット語・ビルマ語

南アジア(オーストロアジア)語族=ヴェトナム語・クメール(カンボジア)語・モン語

マレー・ポリネシア(オーストロネシア)語族=マレー語・インドネシア語・タガログ(フィリピン)語

ビルマ史で頻繁に出てくる少数民族のモン族は南アジア語族、シャン族はタイ系なのでシナ・チベット語族。

まず8世紀ごろチベット・ビルマ系のピュー(驃)が繁栄。

この時期、まだタイ族の存在しない現タイ王国のチャオプラヤ川下流域ではモン族のドヴァーラヴァティが7・8世紀に存在。

9世紀南詔がピューを攻撃、南詔支配下にいた原初ビルマ族がイラワジ川流域に進出。

本書ではピューが南詔に滅ぼされたと書いてあるが、パガン朝に吸収されたと書いてある本もあり、ちょっとよくわからない。

1044年アノーヤター王がパガン朝建国。

南部のモン族、東部のシャン族などを征服。

上座部仏教を導入し、支配層の寺院への寄進が盛んに行われ、大いに発展するが、ヒンドゥー教も存在したというふうに書いてある。

大理国(本書では大理国も南詔王国と表記している)を滅ぼしたフビライ(1271年以後元朝の世祖)軍の侵入を受け、1287年滅亡。

ビルマでは最初の統一王朝が元の侵入で滅ぼされているのに対し、東隣のタイではその後に最初の王朝スコータイ朝が成立している。

ちょっと詳しい高校世界史では、以後のビルマ史は上ビルマ(北部)はシャン人のアヴァ朝、下ビルマ(南部)はモン人のペグー朝と教えられるが、本書ではアヴァ(アワ)朝の前に短期間存続したピンヤ朝、ザガイン朝はシャン人王朝だが、アヴァ朝はビルマ族によって支えられており、実質シャン・ビルマ連合王朝だったとしている。

アヴァとペグーに挟まれたタウングー(トゥングー)でビルマ人勢力が興起、1531年ダビンシュエーティー王(「タ」ビンシュエティと書いてある本もあるがどちらが正しいのか)がタウングー朝建国。

ポルトガル傭兵も用いて、モン族・シャン族・西部のアラカン族を討伐。

王の死後、反乱が起こるが中興の祖バインナウン王が鎮圧、タイのアユタヤ朝も服属させる。

バインナウン王死後はまたもや混乱が起こり、タイは独立(この時のタイ国王がナレスアン大王)、1599年後継のナンダバイン王が殺害され、兄弟のニャウンヤン侯が王朝を再建するが、著者はこの再興タウングー朝をニャウンヤン朝と呼んで区別している。

ロン・サヤマナン『タイの歴史』(近藤出版社)や、柿崎一郎『物語タイの歴史』(中公新書)を読んだ時にも思ったことですが、この辺り数百年のビルマとタイの闘争は凄い。

戦いの記述で埋め尽くされる感がある。

アンコール・ワットや国境地帯の遺跡をめぐるタイとカンボジアの紛争と違ってあまり報道もされないが、こりゃ今も相当の軋轢が残ってるんだろうなあと想像してしまう。

1752年モン族の反乱によってタウングー朝滅亡。

同年アウンゼーヤがアラウンパヤー(菩薩)を名乗りコンバウン朝建国、モン族を征服。

1767年スィンビューシン王がアユタヤ朝を完全に滅ぼす。

1824~26年第一次ビルマ戦争、アラカンなど喪失。

1852~53年第二次ビルマ戦争、下ビルマ喪失。

1885~86年第三次ビルマ戦争、コンバウン朝滅亡。

植民地時代と独立期の記述はかなり端折っててあまり有益ではない。

高校世界史ではビルマ史の君主は一人も名前が出てきませんが、以上のうちアノーヤター、タビンシュエティ、バインナウン、アラウンパヤーくらいは覚えましょうか。

煩瑣で面倒と思える部分がかなりあって、少々疲れる。

ビルマ通史としては、古くても鈴木孝『ビルマという国』(PHP研究所)の方がいいんじゃないかと思ってしまう。

ビルマ単独の通史で決定版と言える良書は今のところ無いですね。

未刊の中公新書『物語ビルマ(ミャンマー)の歴史』に期待しましょう。

2009年9月1日

カール・ヤスパース 『現代の精神的状況 (ヤスパース選集28)』 (理想社)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 06:00

本書の存在を初めて知ったのは林健太郎『二つの大戦の谷間』の文章でだと思う。

この林氏の本は、時代的にはヒトラーが首相に就任するところで終わっているが、その後文化史を扱った章が続き、その末尾で注目すべきファシズム批判の書として、オルテガ『大衆の反逆』と本書が挙げられていた。

また西部邁『思想の英雄たち』におけるヤスパースの章で中心的に扱われているのも本書である。

そういうこともあって、ヤスパースの他の著作は全く歯が立たないにしても、この本だけは何とか読もうと手に取りました。

しかし、やはりつらいものがあります。

翻訳は「~するところの」といった表現が頻出する、いかにも昔の哲学書風の、やや古めかしく生硬な文体。

そのせいもあってか、一度読んですぐに意味を理解できる文章は少なく、数度読み返すことがしばしば。

一文一文慎重に意味を取りながら、これは大体どういうことを言いたいのかと推測し、現在の具体的状況に当てはめてみるとどんなことに該当するのか考え、著者がそれを肯定的に捉えているのかそれとも否定的価値を込めているのかを判断し、それでわからなければ仕方ないので飛ばして読むという作業を黙々と進める。

そういう調子だったのでなかなかはかどらず、主に通勤電車内で睡魔と戦いながら一日50ページ弱読み進むのがやっと。

それほど分厚い本ではないのに、通読するのに丸一週間かかった。

全体の半分くらいに到達するまでに何度か挫折しかけました。

そこら辺りから、じっくり読むと極めて示唆的で重要と思える文章に出会うことができましたが、やはり全体としては晦渋としか言いようがない。

上記、『思想の英雄たち』で、同じ大衆批判の書としてオルテガ『大衆の反逆』に比べると、よく言えば精緻、悪く言えば衒学的といった意味の評がなされていたが、本当にそうだと実感した。

同時期に現れた全体主義批判のホイジンガ『朝の影のなかに』と比較しても、本書の方がはるかに難しい。

私みたいに普段哲学など一切読みませんよという人間にはやや厳しいところがある。

とは言え通読してみると、やはり得たものは少なくなかった(と思う)。

これはどう考えても自分みたいな人間のことを言っているなと感じて、半分非常に嫌な気分になり、半分は深刻に反省させられるという文章が、特に後半部分に頻出する。

少々無理しても挑戦してみる価値はあると思います。

 

多数者は現存在の満足を栄養と性愛と自己主張に求めているのであって、それらのうちのひとつだけでも削られるなら、人生は彼らになんの喜びもあたえないのである。さらにまた、彼らは自分自身を知るひとつの知り方を欲している。彼らは導かれることを欲しているが、しかもそれは彼らの方が導いていると考えるような仕方でのことである。彼らは自由であることを欲しないが、自由であるとは見なしたがる。彼らの意を迎えるためには、事実は平均的なもの、平凡なものでなければならないのだが、率直に、またそのものずばりに名づけられてはならず、普遍人間的なものとして美化されるか、少なくとも是認されなければならない。彼らにとって近づきがたいものは、彼らにいわせれば生活に無縁のものなのである。

 

支配は、大衆組織においては、幽霊のように眼に見えないものになる。ひとは支配と名のつくものをおしなべて廃止したがる。ひとは、支配がなければ人間大衆の現存在もまた存在しないという事実に対して、盲目なのである。それがために、世間に見られるものは、分裂、表面の取りつくろい、取り締りであり、また取り引き、掛け引き、妥協、投機、ペテンである。いたるところに、私利ゆえの腐敗の、そのつど特有なあり方が存在する。関係者はみなそれを知っていても沈黙を守っているものだから、そうした腐敗は起こるがままである。ひとつの事例が公になると騒ぎが起こされるが、その騒ぎもすぐにまた、たまたまひとつの徴候にぶつかったのにすぎないのだという暗澹たる意識のなかで立ち消えになってしまう。

 

全体の精神にもとづいて教育が実体的であるところでは、青年はそれ自体として未熟なものである。青年は尊敬し、聴従し、信頼し、そして青年としては何の効能も持たない。というのは、青年は未来のために準備中のものであり、未来のための可能的な職能存在だからである。しかし、解体の事態にあるときには、青年はそれ自身の身にそくして価値を獲得する。青年から、この世のなかにおいてはすでに失われてしまったものが、端的に期待されるのである。青年は、当然、みずからを起源と感じる。児童たちでさえも、校則に嘴を入れることを当然とする。あたかも、青年に、教師たちがもはや所有していないものを自分たちから創り出せという要求が出されているがごとくなのである。国家の負債がきたるべき世代に荷を負わせるように、精神的な財の蕩尽の結果もおなじことで、その財を、次にくる世代はあらためてみずから獲得しなければならないのである。青年は不当に重んぜられて台なしになるにちがいない。というのは、人間は、何十年も連続して成長して厳格に一歩一歩の歩みの連続を通じて形成されるときにのみ、人間になることができるのだからである。

 

集団秩序の現存在においては、すべての人の教養が、平均的人間の要求に接近する。単なる悟性にとって無造作に、たちどころに判明するところまで持っていく合理化の働きが、知識のあらゆるあり方を零落させる過程を持ちだすとき、精神性は大衆のなかに広まることによって頽廃する。水平化する集団秩序と共に、教養のある人の層が消滅してしまう――その訓練にもとづいて彼らが精神的創造物の反響でありうることにもなろうという、考えることや感じることの訓練を、継続的な稽古の基礎の上で発達させてきたところの教養のある人の層が。大衆的人間は、ほとんど時間を持たず、全体にもとづく生活を生きるわけではなく、それを利益にしてくれる具体的な目的がなければもはや準備も努力もしようとはしない。彼は待って熟させることを欲しない。すべてが、即座に、現在的な満足でなければならない。そして、精神的なものは、そのときどきの瞬間的な楽しみになってしまっているのである。エッセイがすべてのことをあらわすのに好適な文学形式であり、書物の位置には新聞がとってかわり、生涯の伴侶になる作品にかわって不断に別のものになる際物的な読みものが登場するのは、このことに由来する。ひとは迅速に読む。ひとは短いものを欲し、しかもそれは、心に刻みこむ瞑想の対象になりうるものではなくて、ひとが知りたがってすぐにまた忘れても差し支えないようなものを迅速に取り次いでくれるものである。ひとは、内容と精神的に一致して本来の意味で読むことはもはやできないのである。

 

あの場合この場合と、しばしば場合が生まれてくるために、人々がもはや互いに理解し合うことができなくなるほどの、ひとが取る立場の無際限さは、もっぱら、誰もがせめて何かを意味したいと粒粒辛苦してつくった自分の意見を無責任にも語ろうとあえてすることの結果なのである。ひとは、いま思いついたばかりのものを「単に討議にかける」あつかましさを持っている。無数の印刷された合理性が、多くの領域で、遂には、かつて一度は生命ある思索であったものの今ではもはや本来の意味では理解されなくなっている残骸の、混沌たる乱雑な流れを、大衆的人間の頭脳のなかで陳列することになる。

 

真にこの世界のうちにとどまることのできる者といえば、いかなる場合にも拘束をとおしてしかもつことのない肯定的なものにもとづいて生きている者だけである。外的な拘束に対する反逆は、それゆえ、単なる<否>として真実ならぬものであり、内的な混沌におちいるのが落ちで、その反逆の対象がもはやまったく存在しないときになっても、まだきっと反逆しつづけるであろう。反逆が真実のものであるのは、自分自身を拘束する力であるからこそ正当とせられる自由が、みずからの空間を得ようとして戦うその自由の闘争としてだけである。

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