万年初心者のための世界史ブックガイド

2009年8月29日

ジョン・エスポジト 編 『オックスフォード イスラームの歴史 1 新文明の淵源』 (共同通信社)

Filed under: イスラム・中東 — 万年初心者 @ 06:00

原著は1999年刊、この翻訳は2005年刊。

全3巻で、ムスリムと非ムスリムの著者が入り混じっている。

例によってイスラム史を補強するために適切な本を探していたのだが、ネームバリューがありそうで内容もしっかりしていそうな本書を見つけたので手に取った。

この第1巻の目次を見ると、普通の政治史は第1章のみで、あとは広い意味での文化史に当てられている。

以前の私だったら、「ああこりゃ駄目だ、向いてない」といって即投げ出しているところだが、最近は少しは忍耐力が付いてきたので、とりあえず読み始める。

最初の100ページ弱がムハンマド以前のアラビアから13世紀のモンゴル侵入とアッバース朝滅亡までの政治史の素描。

この部分は非常に良く出来ている。

紙数からしてそれほど細かな固有名詞や説明は出てこないが、それでもよく整理された見通しの良い記述。

ムハンマドの統治とカリフ制の成立、地域ごとの諸王朝の系譜という、通史の一番基礎的な部分をわかりやすく提供してくれるので、非常な好印象を受ける。

第2章はイスラムの基礎的な教義と戒律についてあれこれ書いてある。

よくわからない部分もあるが、まあこんなもんかと流す。

第3章はイスラム法。

よく知られたシャリーアという言葉の他に、フィクフという用語が出てくる。

これはシャリーアを元にした「上部構造」としての実定法というくらいの意味らしい。

(定義が不正確かもしれないが、うまく読み取れない。)

コーランとスンナ以外に何を法源として認めるかといったことによって、『ビジュアル版イスラーム歴史物語』の記事で触れたような、ハナフィー派・マーリク派・シャーフィイー派・ハンバル派といった四大法学派が分かれていて、それぞれの学派の立場が説明されており、読んでるときは「あー、はいはい」と比較的楽に理解はできるが、その特徴をいちいち覚えるのはやはりつらい。

要はハンバル派が一番厳格で、今の言葉で言えば「原理主義的」ではあるが、一方柔軟な一面も持っていたみたいなことが書いてある(と思う)。

第4章は科学・医学・技術史。

前章にも増してわからない。

天文学やら暦やらに関する説明は私の頭では全く理解できずチンプンカンプンなので、全部飛ばし読み。

適当で表面的な感想だけ書くと、高校世界史レベルでも思ったことだが、イスラム文化史で出てくる人たちというのは多分野に通じていて何が専門なのかわからない人が多いなということを再確認。

この章の最初の節でプトレマイオスの『アルマゲスト』を吸収・発展させたイスラム天文学の成果が扱われているが、ビールーニー(2002年版『世界史B用語集』で頻度1、『インド誌』の著者としてのみ触れられている)、フワーリズミー(代数学)、イブン・シーナー(アヴィケンナ・『医学典範』・哲学)、イブン・ルシュド(アヴェロエス・医学・哲学)が天文学者として出てくるし、そこでは出てこないがオマル・ハイヤームも詩集『ルバイヤート』の著者であると同時に暦の制定者(と数学者)でもある。

第5章は美術と建築。

さらにわからない。

全然興味もない。

徹底して読み飛ばして挫折するのだけは避ける。

イスラムで偶像崇拝は禁じられていたが、人物画像自体は当初タブー視されておらず、私的な生活領域では作成・鑑賞されていたが、徐々にヨーロッパ人がアラベスクと呼ぶ、植物に題材をとった幾何学的文様に変化していったとか何とか、そんなことが書いてあるのか?

すみませんが、わからないので飛ばします。

第1章はなかなか面白かったのですが、以後は予想通りかなりきつかった。

私のような趣味・性向でない方にとって良質な入門書と言えるかどうかとなると・・・・・・。

ちょっとよくわからない。

歯切れが悪くて申し訳ありませんが、本書についての評価は留保させて頂きます。

2巻・3巻を読むかどうかも現時点では決めてません。

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2009年8月27日

引用文(ケナン2)

Filed under: 引用文 — 万年初心者 @ 06:00

ジョージ・ケナン『レーニン・スターリンと西方世界』(未来社)より。

1941年6月22日、ドイツがソ連に進撃した時、筆者はベルリン大使館に勤務していた。・・・・・この新事態の重要性をあれこれ考えながら、筆者は机に向かい、国務省ロシア部長宛てに次の要領の短文の覚え書きをしたためた。われわれがすべて、想像をたくましくして推測してきた出来事がついに起こった。われわれの取るべき道は、ソ連に物資援助をさしのべ、ソ連がその領土を防衛し、東方におけるドイツの圧倒的勝利を阻止できるようにしてやる以外にはない。しかし、ロシア国境線以西の東欧諸地域にたいするソ連の野心をわれわれがけっして支持しないように希望する、と筆者は特に強調しておいた。

・・・・・筆者がむなしい短文の覚え書きにペンを走らせていた時、チャーチルはラジオ演説の準備に忙しかった。その中で彼は次のように述べた。

「ナチス勢力に抗して戦い続ける人々や国家はすべて、われわれの援助をうけるであろう。・・・したがって当然、われわれに可能なあらゆる援助をロシアおよびロシア国民に与えることになる・・・。自分たちの家庭を守るために戦っているロシア人の大義は、同時に世界いたるところの自由人と自由国民の大義であり、また同じくロシアの直面している危険は・・・、われわれにとっても、またアメリカにとっても同じく危険である」と。

このような諸声明には、ロシアの国境線を越えるソ連の野心については、いかなる留保もなされていなかったのである。

・・・・・チャーチルが表明した見解は、当時、西側諸国が取りえた唯一の見解ではなかったことを銘記する必要がある。なぜなら、スターリンに次のようにいってみてもよかったのである。

「ちょっと待った、スターリン君よ。われわれは、そんなに忘れっぽくないんだ。この戦争で君らが甘い汁を吸おうとしたことくらい、ちゃんとわかっているんだ。君たちがわれわれにたいしてどのような感情を抱いてヒトラーと協定を結んだかも、よく知っている。君はヒトラーと協力してやってゆこうとして、大失敗をしでかした。だがそれは、われわれの知ったことじゃない。もし君が、われわれから物質的・軍事的援助を受けることに心を動かされているのならば、その援助がわれわれ自身の目的にかない、適当と思われる分量だけきっかり差し上げよう。その間われわれは感傷にふけるようなナンセンスは止そう。ヨーロッパでの君の目標がどんなものか、君は示してくれた。われわれは君がドイツの侵略者たちを撃退できるよう支援するが、君が1938年までは領有を認められていた領土を越え、更に拡大する野望を抱いても、われわれの同意を期待できないだろう。」

2009年8月24日

三宅正樹 『スターリン、ヒトラーと日ソ独伊連合構想』 (朝日選書)

Filed under: 国際関係・外交 — 万年初心者 @ 06:00

世界の運命を決した、1939年から41年までの極めて緊迫した国際情勢における主要史実の骨組みだけを表にすると以下のようになる。

39年3月   独、チェコスロヴァキア解体

5月   ノモンハン事件

8月   独ソ不可侵条約

9月   独、ポーランド侵入 第二次世界大戦勃発

11月  ソヴィエト・フィンランド戦争

40年6月   フランス降伏

9月   日独伊三国同盟

41年4月  日ソ中立条約

6月   独ソ戦

12月   日米開戦  独、対米宣戦

日本の内閣は、39年1月に、日中戦争を勃発させ泥沼化させた第一次近衛文麿内閣退陣、平沼騏一郎内閣成立、同年8月独ソ不可侵条約締結を受けて「欧州情勢は複雑怪奇」との声明を発して総辞職、阿部信行内閣成立、40年1月米内光政内閣、7月第二次近衛内閣、この政権が三国同盟を締結してしまい、41年7月第三次近衛内閣を経て、10月東条英機内閣成立、12月に真珠湾攻撃という流れになる。

39年8月から41年6月まで、ソ連が枢軸国寄りの中立を維持していた時期の、極めて密度の濃い外交史。

日独の一部で支持されていた、日独伊プラスソ連のブロックで米英仏に対抗するという構想を取り上げて検討している。

39年3月ドイツがチェコスロヴァキアを解体(ボヘミア・モラヴィア併合、スロヴァキア保護国化)、前年英仏に強要したミュンヘン協定を自ら破り、その結果英仏は宥和政策を放棄、ヒトラーと対決する決意をとうとう固める。

同年夏ヒトラーの次なる標的のポーランド防衛のための、英仏とソ連との同盟協議が行われるが、根強い相互不信と被援助国となるはずのポーランド自身が反独感情に劣らぬ反ソ感情からソ連軍通過を拒否したため同盟は不成立。

なお、同年7月日本の外相有田八郎と駐日英国大使ロバート・クレーギーの間で、日本軍による天津英国租界封鎖をめぐる問題を融和的に解決した有田・クレーギー協定の成立が、ソ連に「極東のミュンヘン」を想起させ、対独接近をスターリンが決意する一要因になったと、本書では記されている。

(この有田・クレーギー協定は、直後に日米通商航海条約廃棄通告を行った米国の圧力で、結局廃棄される。)

英国主敵論・独ソ提携論を持つドイツ外相リッベントロップの判断にヒトラーがこの時点では同意し、8月独ソ不可侵条約締結。

秘密議定書ではポーランド分割とエストニア・ラトヴィア・フィンランドはソ連の、リトアニアはドイツの勢力圏に置くことを定める。

同時期ノモンハンでソ連が大攻勢に出て、日本軍は甚大な被害を蒙り、北進論が後退。

平沼内閣総辞職、対独接近論が一時下火となる。

9月ドイツ軍はポーランド侵入、英仏が対独宣戦、第二次世界大戦勃発、ソ連も東側からポーランドへ侵攻、ワルシャワおよびルブリンをドイツに譲る代わりに、ソ連はリトアニア支配の承認を得る。

11月ソ連はフィンランドに最後通牒を突きつけて開戦するが、苦戦を強いられ、翌40年3月に休戦。

ソ連はカレリア地峡を手に入れるが、この時の赤軍の苦戦で、ヒトラーはソ連の軍事力を過小評価することになる。

40年春、ドイツが西部戦線で大攻勢に出てデンマーク・ノルウェーを征服、6月にはフランスも降伏させる。

同6月ソ連はルーマニアに強要してベッサラビアと北ブコヴィナを奪取、8月にはバルト三国を併合。

5月に成立したチャーチル政権の英国は屈しなかったが、ドイツの優勢は揺るぎないものに見えた。

フランス降伏後、英国支援を本格化させる米国に対し、ヒトラーは日本との軍事同盟をもってアメリカの参戦を牽制しようと目論む。

ドイツの優勢を見た日本でも再び対独接近論が力を得るが、ここでポイントは、日本が三国同盟締結に傾いたのは、ドイツの軍事的優勢という情勢判断の他、独ソ関係の安定を前提にして、実質日ソ独伊の四国同盟に発展するとの見込みがあり、それなら米国参戦を抑止するのに十分だと考えられたため。

米内内閣が倒れた後、第二次近衛内閣の下で、9月日独伊三国同盟が結ばれた。

しかし、すでにナチス打倒の決意を完全に固めていたルーズヴェルト政権は、むしろ対日敵視を強めたため、期待された同盟の効用は全く無かった。

この辺りから独ソ関係が悪化しだす。

8月に、ベッサラビアなどを奪われたルーマニアに独伊が領土保証を与え、9月にはフィンランドをドイツ軍が通過することを認める協定が結ばれる。

スターリンはドイツとの交渉で、ソ連にインド・イラン方面への進出を認める四国同盟構想に基本的に同意を与えるが、すでに英国と交戦状態にあるドイツに比べて自国の交渉上の立場の優位性を過信した。

40年11月のソ連外相モロトフのベルリン訪問で、ソ連は自らの勢力圏下と定められたはずのフィンランドでのドイツ軍通過とルーマニアの領土保証およびドイツ軍進駐を激しく非難、ソ連とブルガリアとの相互援助条約調印、ボスポラス・ダーダネルス海峡での基地建設などの強硬な要求を行う。

このバルカンでの勢力争いから独ソ関係は急激に悪化、英国が降伏しないのは米国の援助だけでなく、ソ連の対独姿勢が変わることに期待をかけているからだと判断したヒトラーは年来の宿願である共産主義国家打倒と東方での「生存圏」確保のため、40年末に対ソ開戦を決意する。

ソ連は独ソ戦直前までドイツに資源提供を続けるなどの融和策を取るが、本書ではスターリン自身が41年秋頃の対独開戦を決意し、その準備をしていたとの説が紹介されている。

日本はこの情勢変化を覚らず、41年4月外相松岡洋右のベルリン・モスクワ訪問時に日ソ中立条約を結ぶ。

41年6月独ソ戦が始まり、四国連合構想は最終的に破綻する。

日本はどうすれば良かったんですかね。

何があっても軽挙盲動せず、孤立を恐れず、ひたすら忍従し、諸大国がすべて参戦するのを待って嵐が過ぎ去るのを耐えれば良かったのか。

そうすればスペインのフランコ政権のように中立を保ち生き延びることもできたか。

その場合、300万人の同胞の死も無く、極右的な国粋主義は退潮し、議会主義が復活し、満州・朝鮮・台湾は徐々に自治に向かい、帝国は今も存続していたかもしれない。

かなり面白い。

一番基礎的な史実を頭に入れた後、是非読むべき本。

当時の国際情勢の中で、各国がどのような意図と思惑を持ってある行動に出たのか、それが各国指導者にどのような心理的影響を与えて次の行動を生み出したのかという、史実の意味付けを学ぶために十分使える。

なお、初学者はまず野田宣雄『ヒトラーの時代 上・下』(講談社学術文庫)を読んでおいた方がいいと思います。

(何度か書いてますが、この本の外交史が初心者にとって持つ効用は、本当にただごとではないです。)

朝日選書というのは今までノーマークに近かったのですが、『王妃エレアノール』にせよ、『ゲーテとその時代』にせよ、本書を含めて当たりが多いですね。

馴染みの無いレーベルでも出来るだけ気を付けて見ないといけません。

2009年8月22日

横田勇人 『パレスチナ紛争史』 (集英社新書)

Filed under: イスラム・中東 — 万年初心者 @ 06:00

200ページほどの簡略な戦後パレスチナ通史。

著者は日本経済新聞の元カイロ支局長。

2004年5月初版なので、01年の9・11テロや03年のイラク戦争についての記述はあるが、それ以降のPLO議長アラファトとイスラエル首相シャロンの死などには触れられていない。

外務省HPで確認したら、アラファト死去は04年11月なので、寸での所で間に合わなかったようだ。)

ジャーナリストが書いた本らしく、今世紀(21世紀)に入ってからのごく最近の出来事に多くの紙数が割かれている。

ユダヤ人の歴史とイスラエル建国から1980年代末までの経緯は第1章で扱われている。

50ページほどの分量なので、あくまで概略に過ぎないが、最低限必要な史実には触れられており、まあよく整理されていて良い方だと思う。

それから、1987年第一次インティファーダ(民衆蜂起)開始、91年湾岸戦争とマドリード中東和平会議、93年オスロ合意(パレスチナ暫定自治協定)、95年ラビン首相暗殺、00年第二次インティファーダというように記述は進む。

本書の刊行からでも5年が経ち、時事的著作としてはやや時代遅れになってしまいましたが、村松剛『血と砂と祈り』(中公文庫)藤村信『中東現代史』(岩波新書)の記述の後に繋げて読む本としては十分使えると思います。

あと、本書の特徴として、イスラエル・パレスチナ双方の主張をよく聞き、一方に偏した立場を取っていないことが挙げられます。

この分野はとにかく政治的対立が余りに先鋭なので、当事者間はもちろん、学者やジャーナリストでも党派的立場に囚われがちですが、著者の筆致は双方に批判と同情を併せ持つといった感じで、かなり公平だと感じました。

オスロ合意から2000年以降の和平交渉挫折までの期間が省略気味だったりするのがやや欠点かと思いますが、現代史の空白を埋める本として有益です。

2009年8月20日

寺田隆信 『物語中国の歴史 文明史的序説』 (中公新書)

Filed under: 中国 — 万年初心者 @ 06:00

1997年刊。

『永楽帝』(中公文庫)と同じ著者。

伝説上の黄帝から清朝滅亡までの通史。

新書一冊で20世紀(と今世紀)を除く全中国史を叙述するなんて、前回記事の『物語ドイツの歴史』よりも無謀だろうと思っていたが、読んでみると意外なほど良い。

教科書よりもやや細かな人物を登場させて、物語性を保ち、興味深い読物として成立させている。

事実を工夫なく羅列しただけの、平板で無味乾燥な通史ではない。

挿話や著者の見解・評価を交えながら史実の意味付けをきちんと行い、最後まで飽きさせずに読ませる。

京大出身の著者は、時代区分としては、殷・周・春秋・戦国・秦・前漢・後漢を古代、三国・西晋・五胡十六国・南北朝・隋・唐・五代を中世、北宋、遼・金、南宋・元・明・清を近世とする京都学派と同じ見解を採る。

これとは別の時代区分を持つ人もあるでしょうし、そもそもこんな区分にこだわること自体あまり意味がないという方はさらに多いでしょう。

しかし、初心者の関心の取っ掛かりとしては、この手の話は非常に面白くて最適。

機械的に王朝名を順に憶えるより、はるかに良い。

本書にはいい意味で期待を裏切られた。

高校で世界史を履修せず、中国史を学びたいが、教科書などを読むのは面倒だし、詰まらないので嫌だという方には、まずこれを勧める。

以後、『中国史 上・下』(岩波書店)始め、宮崎市定氏の本を手当たり次第読みまくるのが宜しいかと。

2009年8月18日

阿部謹也 『物語ドイツの歴史 ドイツ的とは何か』 (中公新書)

Filed under: ドイツ — 万年初心者 @ 06:00

少々思うところあって、これまで何度か悪口めいたことを書いた本書を通読。

これだけ有名な碩学の著作を読むのが、『刑吏の社会史』(中公新書)に続いてやっと2冊目で、しかも次が本書というのはちょっとどうなのかと我ながら思うが、まあしょうがない。

10年余り前、本書が出た時、「これだけネームバリューのある人が一般的な通史を書いてくれたのか」と感激して立ち読みし、「うーん・・・・・」と首を傾げて、それきりでした。

今回読むに当たっては、できるだけ先入観を持たずに素直に読み進んでいこうと思ったのですが、結果は何とも感想に窮する微妙な出来。

著者の学識から滲み出す、特徴的な歴史の切り口の片鱗は感じられるものの、私程度の読者には十全に理解できない。

本文中の問題提起に対する答えがいつの間にかどこかにいってしまったというような場合が何度かあった(私がボーっと読んでるだけかもしれないが)。

事実関係の記述は断片的過ぎて、本書だけで細かな経緯を憶えるのはまず不可能。

特に現代史に入ると省略が甚だしく、適切とは到底言いがたい。

巻末で、無駄に白紙の多い年表が数十ページにわたって続くのも、有益とは思えない。

例によって偉そうな感想で恐縮ですが、これはちょっとお勧めしがたい。

阿部先生のような偉い方でも、最も初心者向けの通史という分野は苦手だったのかと思ってしまう。

どういう読者層をターゲットにした本なのか、よくわからない。

先生には他にいくらでも素晴らしい著作があるのだから、強いて本書を読む必要も無いでしょう。

2009年8月16日

金両基 『物語韓国史』 (中公新書)

Filed under: 朝鮮 — 万年初心者 @ 06:00

ソウル五輪の翌年、1989(平成元)年刊。

これは中公新書の『物語~の歴史』シリーズではない気がする。

後に出たシリーズと似たタイトルなので、結果的にその中に含まれるような扱いになっていると思われる。

存在自体には随分前から気付いていたが、これまで通読することはなかった。

立ち読みしたところ、皇国史観が韓国史を従属的に扱ったことを批判するのはいいにしても、逆に民族主義色が濃すぎるんじゃないですかとの感想を持ったので敬遠していた。

しかし、実際読んでみるとそうした点は意外に目立たない。

少なくとも読むに耐えないというほどではない。

(と言うか私の考え方が変わっただけか。)

内容は、古代史に非常な重点が置かれていて、300ページ弱の本文のうち、新羅の滅亡までで220ページ超を費やしている。

よって高麗、李氏朝鮮時代はかなり簡略だが、それでも最低限押さえるべき事項はきちんと記されていると思われる。

古代の諸国家については建国神話から筆を起こし、その起源にまつわる史話を述べた後、主要な国王の事績を拾っていくという形式。

かなり大胆に省略もされてますが、各国の全ての国王を紹介できるはずもないし、特筆すべき人だけ述べている方がいいでしょう。

本書に出てくる人名が、金素雲『三韓昔がたり』『朝鮮史譚』に載っているか調べて、該当するエピソードを読めば、相当的確に記憶できると思います。

さすがに近代史はスカスカですが、日韓間で一番歴史認識のぶつかりやすいところなので、あっさり済ませた方がいいのかもしれない。

なお、著者があとがきで書いている以下の文章には心から共感します。

学生やこどもたちに「歴史」の話をしようとすると、難しい話はご免だ、というような表情にかわる。学生時代のわたしにも、そのような体験がある。

歴史書の多くは、歴史的事実を学問的に整理しようとするためか、えてして表現が無味乾燥で遊びがほとんどない。歴史を、歴史教育の枠のなかに閉じこめると、そのようなことになる。本書は、歴史の専門家でないわたしが、その枠を打ち破り、歴史を生活の周辺に呼び戻しながら味わってみたい、という想いにかられて書いた。

日々の生活が、時を経て歴史になっていくのであるから、歴史そのものは、決して難しいものではない。難しくては困るのである。その想いをどのように読者に伝えるかを、わたしなりに苦心して書いた。父が子に語る韓国の歴史、そのような肩のこらない本になったと思う。物語を読むように、韓国の五千年の歴史を散遊してみた。

上で書いたような気になる点が無いでは無いが、それほど悪い本ではないです。

叙述範囲はかなりアンバランスなので、この一冊だけでは不十分ですが、最初に読む朝鮮史としてこれを選んでも、大きな問題は無いでしょう。

2009年8月15日

新刊情報

Filed under: おしらせ・雑記 — 万年初心者 @ 06:00

ブルクハルト『世界史的諸考察』(二玄社)が、ちくま学芸文庫から『世界史的考察』のタイトルで数日前に刊行されたようです。

訳者名が違うので、多分新訳だと思います。

二玄社の単行本や岩波文庫版は絶版になって久しいですし、ちくま学芸文庫は一旦品切れになると、まず復刊しないと聞いたことがありますので、未読の方はすぐ読む予定が無くても、とりあえず購入しておいてもいいんじゃないでしょうか。

それだけの価値のある本だと思います。

なお、そのせいかここ最近その手のキーワード検索でこちらに来られる方が多いのですが、グーグルで「世界史的諸考察」を検索すると、現時点でトップにこのブログの該当記事が表示されるのには、正直ある種の恐怖を感じる。

これだけ結構な名著の書名で検索して、こんなしょぼい個人ブログが最上位に来るとは・・・・・・。

ネットってよっぽど実のある情報が少ないんですね・・・・・・。

2009年8月14日

石澤良昭 『アンコール・ワット 大伽藍と文明の謎』 (講談社現代新書)

Filed under: 東南アジア — 万年初心者 @ 06:00

『アンコール・王たちの物語』(NHKブックス)と同じ著者。

タイトルからすると、こちらはアンコール・ワットの建築・美術関係のみを扱った本かとも思うが、きちんと歴史的経緯にもページを割き、一般的通史の形式を一応整えている。

まず一番基礎的なことを確認すると、1世紀に東南アジア最初の国家、扶南が成立するが、これはクメール人の国かマレー系の国かわからない。

6世紀にクメール人がカンボジアを建国し、その中国名が真臘であり、アンコール朝はそのカンボジアの中の一王朝ということになる。

アンコール期の叙述では王の系譜が細かく述べられているが、これを記憶するのはやはり至難の業でしょう。

・・・・・アンコール朝の歴史展開のなかにおいて、何度もの内部分裂と歴史の切断が実際あったことを考えなければならない。はっきり言って、一つのまとまりのある「アンコール帝国」なるものが連綿と存在したとは言いがたい。少なくとも史実に即していえば、前王の系譜と血縁関係のない新王が十八回も登位しているので「アンコール諸王の王朝」とでも言わなければならないし、判明しているだけでも四回の新都城の造営と新寺院の建設が確認できる。

ということを確認しながら読み進めるだけでいいでしょう。

その中で記憶するとなると、9世紀初頭にアンコール朝を創始したジャヤヴァルマン2世、12世紀前半にアンコール・ワットを建設したスールヤヴァルマン2世、13世紀初めにアンコール・トムを完成させたジャヤヴァルマン7世の三人の国王となる。

以上三人の王名だけを覚えて、後は軽く流して通読しましょう。

最初に挙げた『アンコール・王たちの物語』と形式は似通っており、内容もかなり重複しているので、2冊とも読む必要はないかもしれない。

どちらか1冊をしっかり読み込めばよいでしょう。

しかし、両書ともちょっと枝葉の部分が多いと感じる。

中公新書で『物語カンボジアの歴史』が早く出てくれないかなあというのが結論(?)です。

2009年8月12日

佐伯啓思 『ケインズの予言 幻想のグローバル資本主義(下)』 (PHP新書)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 06:00

上巻『アダム・スミスの誤算』の続き。

新自由主義からの批判に対して、伝統的保守主義の立場からケインズをかなりの程度擁護するのは、西部邁『経済倫理学序説』と同じ。

本書も驚くほど明解で一貫した内容。

上・下合わせて丸一日で読めましたが、速読が一切出来ない私が新書版を一日二冊読んだのは初めて。

極端な市場主義の問題点についていろいろ考えさせられる。

末尾の著者の予測は去年になって完全に実現したと言える。

これは読む価値大です。

・・・・・一方で、資本主義の発展つまり人間の物質生活の向上のためには貨幣が存在しなければならないし、金融市場は拡大し発展しなければならない。だがそうなればなるほど、人間の生は貨幣的なものに依存して不確かな基礎の上に配置されることになる。それだけならまだしも、貨幣的なものの展開は、貨幣にしか確かなものをみいだせない人間を、貨幣の世界(金融のゲーム)の中に巻き込んでゆく。こうして、人々は、貨幣に生の確かさをみいだすどころか、金融の奴隷のごとき存在に落ちてゆく。自由を求める人間の活動の帰結は、この新たな隷従への道を歩まざるをえないのである。

ここに現代の資本主義のパラドックスとでもいうべきものがある。スミスやケインズは、社会に、人々の「富と徳」あるいは「知識と徳」を評価する価値規範が存在するとした。そしてそれがかろうじて、資本主義のパラドックスがもたらす新たな隷従を回避するとみたわけである。そして、グローバル資本主義は、それぞれの社会がもつ価値規範をほとんど風化させることによってこのパラドックスを剥き出しの形でわれわれに突き付けかねない。

人がすべて「純粋の経済人」になったとき、もはや社会の価値規範や規律は不必要となる。それは、人間の、経済への一面化であり、経済への奴隷化にほかならない。人間のもつ多面性は、市場の場でのゲームにおいて一面化されてしまう。そして、それをいまわれわれは「自立した個人」と呼んでいるのである。・・・・・

ケインズが見越したように、経済が相当期間の成長を続け、ある程度大きくなれば、その経済は「豊かさの中の停滞」に陥らざるをえないであろう。その結果、いずれ低成長経済に移行せざるをえない。一方、この「豊かさ」の中で、人々は、ただ退屈しのぎにその日その日を暮らすようになる。規範や倫理ではなく、スキャンダルや投機(スペキュレーション)が人々の精神を支配するようになる。「自由」は拡大するが、そうなればなるほど、人々は精神の緊張を失ってゆくだろう。社会の規範や「公共性」への配慮はますます希薄となってゆくだろう。「公共性」を定義するはずの国家そのものが人々の意識の対象としては疎遠なものとなってゆくだろう。スミスが述べたように、社会の基礎となる同感や、同感を可能とする人々の社会的関係はますます弱体化する。人々をつなぐものは、規範(ルール)の基礎となる「公平な観察者」の責任ある同感ではなく、無責任な「匿名」の風評のようなものである。名前をもったものの「観察(スペクテーション)」ではなく、匿名のものたちの「見世物(スペクタクル)」が支配する。政治は匿名のものたちの作り上げる「スキャンダリズム」や「ポピュリズム」へと推移し、市場は、やはり匿名のものたちの「投機」の様相を示す。・・・・・・

2009年8月10日

佐伯啓思 『アダム・スミスの誤算 幻想のグローバル資本主義(上)』 (PHP新書)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 06:00

ちょうど十年前、1999年刊。

アダム・スミスというと反射的に以下のような言葉が思い浮かぶ。

「自由放任」、「レッセ・フェール」、「見えざる手」、「市場の自動調節メカニズム」、「重商主義批判」、「自由貿易論」、「自由主義的古典派経済学」、「個人的利己心の肯定」、「封建的特権の批判」等々・・・・・・。

本書は、名誉革命後のイギリスにおいてスミスが直面した状況と彼の問題意識を探り、『国富論』と『道徳感情論』を読み直すことによって、上記の単純化されたイメージを覆し、なおかつ現在のグローバリズムの問題点を指摘するという構成。

書名に「誤算」と付いてますけど、基本的にスミスを批判的に見る本ではなく、その隠された思考を再現して、現代の視点から再評価する内容。

面白い。

論旨は明快で文章も優れているので、相当のスピードで通読できて、非常にすっきりと理解できる。

スミスの著作を適切に引用しながら、極めて鮮やかな切り口で議論を進めるので、一瞬、『国富論』を通読してみようかなという気にさせられる(次の瞬間には正気に返って「そりゃ自分では無理だ」となりますが)。

同じ著者の『アメリカニズムの終焉』および、堂目卓生『アダム・スミス』(中公新書)と併読すれば効果大。

下巻は次回記事にします。

全社会の安全をあやうくするおそれのあるような少数の個人の自然的自由は、もっとも自由な政府であろうとも、もっとも専制的な政府であろうとも、すべての政府によって現に抑制されているし、また当然抑制されるべきものである。

・・・・・実際、こうした表現を聞いて驚くのは、ただ、スミスを市場の自由放任主義者だとみなしてきたステレオタイプ的な理解の上にまどろんできた者だけである。スミスのいう自然的自由はつねに社会の秩序と両立できる限りでのことであった。当然ながら、社会の安全や秩序は、それを攪乱する可能性のある自由よりも優先されるべきであろう。

重要なことは、市場の自由や銀行業の自由がそのまま社会の秩序をもたらすとはスミスは考えていなかったということだ。それらは、あくまで、「土地と労働に基づく生産」に基礎づけられていなければならない。「土地と労働に基づく生産」だけが、比較的確実な収益を保証し、この確実な収益の上に、人々の確かな財産と計画の立つ生計が可能となるからである。こうした確実な生計と、ある種の徳、誠実、正直、勤勉といったものは不可分であろう。そこで、この確かな生計を営むことによって、人は社会の「是認」をえることができる。つまり社会という共同体の確かな一員として認められる。

よく知られた一節の中で、スミスは、分業が、人々の精神をいかに怠惰なものとするかを論じている。分業は人民大衆の大部分を次のような状況に陥れるのではないかとスミスはいうのだ。

かれはこういう努力(自分の理解力を働かせたり、発明力を働かせたりする努力・・・・著者)を払う習慣を失い、およそ創造物としての人間がなりさがれる限りのばかになり、無知にもなる。かれは精神が遅鈍になるから、何か筋のとおった会話に興をわかせたり、それに加わることができなくなるばかりか、どのような寛大で高尚な、またはやさしい感情をもつこともできなくなり、したがってまた、私生活の義務についてさえ、その多くのものについてどのような正当な判断も下せなくなる。かれは、自分の国の重大で広範な利害について、全然判断を下すことができないのであって、かれは戦時に自分の国を防衛することも、同じようにできないのである。・・・・・・こういうふうにしてかれ自身の特定の職業におけるかれの技巧は、かれの知的、社会的、軍事的な徳を犠牲にして獲得されるように思われる。

そうとうに厳しい言い方ではないか。単調な仕事の中で特定の職業の「専門家」になることが人間の精神を鈍磨し、「なりさがれる限りのばか」にし、無気力にもする。こうした状態が由々しき事態であるのは、『道徳感情論』で述べられたような、「相手の立場に身をおく」共感の前提となる公正な想像力など、ここからは全く期待できないからである。市場と分業の進展によって人民大衆がこのような状態におかれれば、「公正で中立的な観察者」などというものはとても期待できないであろう。とすれば、もはや、道徳の基礎を、これらの一般大衆の判断力に期待することはできなくなってしまうであろう。

2009年8月8日

永田諒一 『宗教改革の真実 カトリックとプロテスタントの社会史』 (講談社現代新書)

Filed under: ドイツ — 万年初心者 @ 06:00

サブタイトルの方が内容をよく表わしています。

宗教改革時代の活版印刷、識字率、聖遺物・聖画崇拝とプロテスタント側の破壊運動、修道士還俗と聖職者結婚などのあれこれについて記述した本。

叙述範囲は、ほぼ16世紀から17世紀前半にかけてのドイツに限られますので、カテゴリはドイツで。

後半部では主に帝国自由都市アウグスブルクにおける新旧両教徒の併存体制について記されている。

1546~47年シュマルカルデン戦争の後、1555年アウグスブルクの宗教和議が結ばれ、諸侯がカトリックかルター派を選択し、領民はそれに従うという妥協が行われたというのは高校世界史でも出てきます。

しかし、アウグスブルクなどいくつかの都市では、例外的にカトリックとルター派の双方が認められている。

そこにおける教会施設の共同利用、異宗派間の男女の結婚、カトリック側がしばしば行う宗教行列などに関する軋轢と妥協が叙述される。

また1582年教皇グレゴリウス13世がユリウス暦に替わり導入を発布した新しい暦法(現行のグレゴリウス暦)が、最初プロテスタントの抵抗を受け、ついで徐々に受け入れられてゆく過程も興味深い。

各章が短くまとめられているので読みやすい。

表現は平易で、難解・複雑な事象や概念を持ち込むことなく、その章に関係する事実に密着した叙述を地道に積み重ねていくもの。

これなら社会史が苦手な私でも十分楽しめる。

大変結構な啓蒙書だと思われます。

2009年8月6日

村田数之亮 衣笠茂 『ギリシア (世界の歴史4)』 (河出文庫)

Filed under: ギリシア — 万年初心者 @ 06:00

ギリシアカテゴリも、今ひとつ手薄だなあと思ったので補強のためにこれを読む。

ごくごく普通の概説。

強いて特徴を挙げれば、ペロポネソス戦争末期の経緯が比較的詳しく記されていることと、アイスキュロス・ソフォクレス・エウリピデスの三大悲劇詩人の事績が適切なエピソードを交えながら語られていることくらいか。

しかし、中公世界史全集の旧版新版と違って、古典古代からギリシアだけが独立して巻立てされている割には密度が濃いという感じがしない。

ウォールバンク『ヘレニズム世界』の記事で記したような、ディアドコイ戦争の細かな経緯はバッサリ省略されている。

できれば、最初の方の、エーゲ文明や「暗黒時代」の考古学的記述を削って、上記のような分野にページを割り当ててもらいたかったのだが。

それなりに面白く、読んで無駄だったとは思わないが、是非にでも通読しなければならない本とは言いがたい。

中公旧版・新版など、他の概説を済ましていれば、特に取り組む必要もないかも。

2009年8月5日

『詳説 政治・経済』 (山川出版社)

Filed under: 教科書・年表・事典 — 万年初心者 @ 06:00

私が高3で政経を履修した時、使ったのはこれじゃなかったですねえ。

どこの出版社だったのか忘れましたが。

まず政治分野をパラパラと眺めていくと、こういう教科書で右とか左とか言ってもしょうがない面があるとはいえ、私の頃と全然変わってないなあという印象。

この記事で触れた講演集での高坂正堯氏の言葉を借りれば、「100パーセントの蒸留水みたいな民主主義は大体駄目になるんで・・・・・」といった視点をわずかなりとも交えてもらえないもんでしょうか。

巻末の索引を見ていて、バークトクヴィルの名が載っているのに驚き、急いで該当ページを確認すると、両方とも脚注で、前者は政党が国民の部分的利益ではなく全体的利益を増進することを説いたこと、後者は民主主義における地方自治の重要性を唱えたことに触れられているだけ。

せっかく名前を出したんなら、もうちょっと正面から取り上げて下さい。

「法の支配」と「法治主義」の違いを載せているのはなかなか渋いですけど。

経済分野では、経済学史でケネーやマルサスの名が見当たらないのが気になる。

高1の頃、「現代社会」を担当していた先生がこの辺について高校生にしては相当詳しいことまで教えてくれて非常に面白いと思った記憶があるので、やや違和感あり。

(「現代社会」って捉えどころの無い科目ですけど、実質政経ですよね・・・・・。少なくとも私が習ったのはそうでした。高3の政経の授業も割と面白かったんですけど、高1の現代社会の方が密度が濃かった。)

とは言え、経済に全く無知な私にとっては、こういう教科書レベルの記述でも結構有益。

これも読んでみると、懐かしいやら面白いやらで役には立つと思いますが、入手しにくいので、山川の『詳説政治・経済研究』とか『政治・経済用語集』だけでいいかもしれません。

2009年8月4日

『改訂版 現代の倫理』 (山川出版社)

Filed under: 教科書・年表・事典 — 万年初心者 @ 06:00

世界史の隣接分野をもう一度勉強し直そうと考え、いっそのこと高校教科書から始めるかと思い立つが、山川出版社から『詳説 倫理』というのは無く、これしか出ていないようなので、本書を手に取る。

(HPにある『東学版倫理』というのは何ですかね?)

私は高校の社会科では(まだ地理・歴史科と公民科に分かれる前だった)、高1で現代社会と倫理、高2で世界史、高3で日本史と政治・経済を履修しましたが、皆様はどうだったでしょうか。

ページを手繰ると、ああ懐かしいなあと感慨に耽ってしまう。

教科書ですから、思想家についての説明は多くても2、3ページ、下手すりゃ数行なんですが、それでも結構面白く読める。

一つだけ例を挙げると、アダム・スミスの項で、スミスを単純な自由放任主義者とはせずに自由競争において「公平な観察者」の仮想による自己規制が必要だと考えていたことなどを記しているのは渋い(堂目卓生『アダム・スミス』(中公新書)参照)。

まずギリシア哲学、儒教、仏教、キリスト教、イスラム教を扱った後、すぐには近代西洋思想に行かずに日本の思想を述べている点が私が昔使っていた教科書と異なる。

近代西洋の部に入っても、年代順に思想家・哲学者を並べるのではなく、テーマごとに分類。

「人間の尊厳」という章ではマキァヴェリ・ルター・カルヴァン・モンテーニュ・パスカル・カント、「自然と科学技術」ではニュートン・ベーコン・デカルト、「民主社会と人間」ではホッブズ・ロック・ルソー・ヘーゲル・スミス・マルクス、「幸福と自己実現」ではベンサム・ミル・プラグマティズムと実存主義の思想家といった具合。

最後にフランクフルト学派とかフーコー、レヴィ・ストロース、レヴィナス、ハンナ・アーレントなどが載ってますが、私の場合こういう人たちの名前は高校卒業するまで聞いたこと無かったです。

こういう思想家の古典に一冊でも多く噛り付くのが一番いいのはわかってますが、自分の根気と知力を考えると限界があるので、教科書やら入門書を読んでもいいんじゃないですかね。

今度は同じ山川の『倫理用語集』でも見てみます。

2009年8月1日

西部邁 『経済倫理学序説』 (中央公論社)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 06:00

ジョン・メイナード・ケインズとソースタイン・ヴェブレンに関する論考。

両者の思考の根源と可能性を探り、「個人性、合理性および物質性にたいする関心を究極のものとみなして、各人のそのような関心の市場的調整をつうじて、人間と社会の進歩が実現されるのだとする」単純な経済的思惟を批判し、主流派経済学への懐疑へと進む。

本書が出た1980年代半ばは、社会主義的左翼の残党が依然一定の勢力を保持する中、保守派の間では雪崩を打って単純で教条的な市場主義への支持が増えていた頃で、それがついこの前まで優勢だったわけですが、そういう時期に(非伝統的な)新自由主義への懐疑とケインズの部分的擁護を述べた著者に驚くほどの一貫性を感じる。

経済学についての予備知識はほとんど要りません。

「ヴェブレンて誰?」という方がお読みになっても問題なし。

私も名前を知っているというだけですが、それでも著者の文体が持つ圧倒的な力のせいか、非常に強い印象とある種の見通しが得られる。

わからない用語や表現があってもどんどん読み進めばよい。

準備としては、『アダム・スミス』(中公新書)の記事で書名を挙げた『経済学の考え方』(岩波新書)あたりを一冊読むだけでもいいです。

類書として本書と併せて読むべきなのは、やはり間宮陽介『ケインズとハイエク』でしょうか。

内容は素晴らしいんですが、後に出た文庫版含め、品切れ。

こういう本はそう簡単に絶版にしちゃいけないと思うんですが。

自由の観念は、それ自らについて不断に思考してみる、懐疑してみるという回路が欠けているとき、結局はレッセ・フェールに堕ちるほかないものであろう。当時そういう回路は確立されていなかったし、今も確立されていない。自由は放縦と同義であり、そこで生じる様々の混乱を、国家が企業が、あるいは家族が、強制や懐柔やの手段をつかって場当りに繕っているにすぎない。レッセ・フェールという大衆の唸りは、あれこれの変調をほどこされながらも、已むことなく響いている。

自由が法によって制約されなければならないということ、しかもその法の支配は、特定集団の利益によって左右される制定法によってではなく、歴史の試練をくぐり抜けてきた普通法(コモン・ロー)によってなされなければならないということ、これが「新しい」自由主義の特徴である。この発想の底にはバーク流の保守主義の姿勢がある。人間は知的にも道徳的にも不完全な代物であり、したがって歴史の堆積によって生み出された慣習的なそして一般的な規則に頼るのでなければ、社会の仕組と個人の行為は安定しないであろうという考えである。新自由主義のいう個人の自由とは、このように、文化および歴史に繋がれたものなのであるが、個人が自分の歴史的係留のなんたるかを知るのは容易なことではない。・・・・・

新自由主義の思想は、政治の標語として利用されることばかり多くて、人々の習俗のうちにまだ根づいていないわけである。現に進行中の計画から自由への復古にあっては、人間の不完全性のために伝統の保守が必要とされること、そして伝統を維持するのが困難であることが少しも自覚されていない。たとえば、個人の全知全能を仮設するにひとしいような経済模型によって大きな政府の無効なることが証明されたりしている。また、市場における選択の自由を称揚する様々の言論は、市場志向の活動が過度に及ぶとき社会の慣習体系がつきくずされるかもしれぬという危険について、ひたすら楽観している。

顕著なのは進歩主義のイデオロギーである。個人や集団による自由の発動が、必ずや、個人の人格的発展と社会の調和的前進をもたらすであろうという思込みである。人間の不完全性を自覚すれば、つまり「無知の知」を知れば、社会全体を合理的に設計することが不可能だと分り、したがって社会主義やケインズ主義の間違いもわかる。しかし同時に、その人間の不完全性にかんする自覚は自由にかんする自己懐疑をも促すはずではないのか。とりわけ市場的自由によってもたらされる生活の変化をつうじて、慣習的な規則がどんどん形骸化し、ますます動揺するかもしれぬという懐疑がわいて当然ではないのか。この懐疑を封じるものこそ進歩主義の思想である。実は、新自由主義もその思想から自由だというわけではない。新自由主義が実際の経済活動に指針を与える際にレッセ・フェールに与しがちであるのは、それが自由への懐疑を失って進歩を信仰している点にあると思われる。またそれの主張する法と秩序がエスタブリッシュメントのための法制定を弁護するのに終わりがちなのも同じ理由による。つまり、政治の場面におけるレッセ・フェールを支持する結果、強者の論理がまかり通るのである。自由主義は、その新旧を問わず、自由の内包する自己破壊的な性質について、つまり自由の依って立つ基盤である慣習的な普通法が自由によって掘り崩されるという可能性について、無頓着である。

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