万年初心者のための世界史ブックガイド

2009年6月28日

桜井啓子 『シーア派 台頭するイスラーム少数派』 (中公新書)

Filed under: イスラム・中東 — 万年初心者 @ 06:00

イラク戦争後の混乱が泥沼化していた2006年刊。

著者は岩波新書から『現代イラン』などの本も出している方ですが、同じ女性のイスラム研究者の酒井啓子氏と名前が妙に似てますね。

本書の構成として、冒頭から半分弱ほどがシーア派の歴史的来歴を語る部分で、残りで20世紀以降の展開が述べられている。

最初にまず現在のシーア派人口分布が載せられている。

中学以来、シーア派と言えば、「=イラン」で済んでいた。

イラクは支配層はスンナ派だが、住民の過半はシーア派だなんてことは、高坂正堯『外交感覚』を読んで初めて知った豆知識といった程度の認識だったのが、ブッシュ・ジュニアが滅茶苦茶やったお陰で広く知られる事実となってしまった。

他には、ペルシア湾岸の島国バーレーンがシーア派人口50パーセント超で、レバノン・クウェート・パキスタンも比率が高い。

さらにアゼルバイジャンが6割超と書かれているのを見て、「ええーっ」と思ってしまうが、イランと地続きで、イランからロシア支配下に編入されたことを考えると別に不思議でもないかと思い直した。

シーア派信仰におけるイランの地位は必ずしも絶対的なものではなく、アリー以下のイマームの墓廟も、サウジがメディナの一ヶ所、イランが東北辺境にあるマシュハド一ヶ所なのに対して、イラクにはバグダード南にあるカルバラ(第3代フサイン)、さらに南のナジャフ(初代アリー)、北部のカーズィマインおよびサマラと四ヶ所存在する。

また、サファヴィー朝成立時点では、イラン人の多くは依然スンナ派だったと書かれているのは新鮮。

なお、イラク南部のシーア派住民について、18世紀半ば以降のアラビア半島でのワッハーブ派運動から逃れてきた部族が集団でスンナ派から改宗したが、そうした人々も多く含まれていると書いてあったのが記憶に残った。

サファヴィー朝とオスマン朝、両国の衰退の間を縫って、バザール商人や商工集団などの支持を得て国家から相対的に独立した地位をシーア派聖職者が占めるようになり、その中から19世紀半ばマルジャア・アッ・タクリード(模擬の源泉)と呼ばれる最高権威が生まれる。

20世紀に入ると、これまでシーア派信仰の中心だったナジャフが非アラブ系の神学者や学生が増加したことにより、反って求心力を失い、スンナ派ハーシム王家の下でイラクが独立し、シーア派が国家建設から排除されたこともあって、ナジャフの地位はイランのコムに奪われる。

このコムからイラン・イスラム革命の指導者ホメイニが出ることになりますが、その「イスラム法学者の統治」という理論については、ホメイニ以外に並立する他のマルジャア・アッ・タクリードの中には否定的に捉える者も多かったと書かれてある。

後半部は、イラン革命という一大事件を軸に、各国の情勢を総覧していく記述。

ホメイニ治下のイランが試みた「革命の輸出」は失敗し、各国のシーア派の中でもイランから距離を置く勢力が主流となる。

インド・パキスタンやサウジ東部のシーア派など、あまり知られていない少数派運動を紹介してくれているところは貴重。

『ムガル帝国から英領インドへ』で少し触れた、アウラングゼーブ死後独立したアワド王国がシーア派だったとか、パキスタン指導者のズルフィカル・ブット(任1971~77年。この前暗殺された女性政治家の父親)がシーア派出身だったとかは本書で初めて知った。

イラクでは、サドルとかハキムとかスィースターニー(シスタニ)とか、新聞の国際面を眺めてると時々お目にかかる名前が載っているので、読めば非常に参考になります。

面白い。

難解な教義について深入りしてゴチャゴチャ述べた本ではなく、高校レベルからでもすんなり入っていける叙述。

巻末の人名・事項索引が親切で便利。

前半の前近代史と後半の現代史の部分のバランスが良好。

前半の記述は必要にして十分な知識を無理せず与えてくれるし、後半は複雑で微妙な地域情勢理解のために有益な情報を豊富に提供してくれる。

相当優れた入門書であろうかと思います。

2009年6月25日

佐伯啓思 『増補版 「アメリカニズム」の終焉 シヴィック・リベラリズム精神の再発見へ』 (TBSブリタニカ)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 06:00

初版は1993年刊、この増補版は98年に出たもの。

以前飛ばし読みはしていたが、この度じっくり精読してみました。

「もっと早くそうすべきだった」というのが、読み終えた後の感想です。

著者は西部邁氏の一番弟子といった感じの方で、いわゆる反米保守の立場に立った文明論ですが、そういう見解を同じくしない人にとっても、非常に大きな示唆を与えてくれる本だと思います。

刊行から10年経った今でも、その論旨はいささかも古びておらず、重要性は反って増しているのではないでしょうか。

冷戦後の世界を展望する上で、まず19世紀のパックス・ブリタニカと20世紀のパックス・アメリカーナを、リベラリズム・デモクラシー・キャピタリズム・ナショナリズムの絡み合いとして、思想的に分析し、次にアダム・スミスとアメリカ建国の父たちが持っていた(君主制や世襲貴族制に反対するというのとは別の意味での)「共和主義」的精神を考察し、再び現代の問題に戻るという構成。

最後の増補された章では、教条的な市場主義とグローバリズムがもたらす破壊的作用が語られている。

非常に良い。

難解な部分はほとんど無く、スラスラ読めるが、中身は異様なほど濃い。

間宮陽介『ケインズとハイエク』と読み比べるのも良い。

ここで触れられている意味での「共和主義」(著者はシヴィック・リベラリズムと呼ぶ)に関しては、本書の参考文献欄にも載せられているジョン・ポーコック『マキァヴェリアン・モーメント』(名古屋大学出版会)という本があって、大変な名著と言われているそうですが、残念ながらこれは私の頭では絶対に読めないレベルの本でしょうから、端から諦めてます。

知的体力のある方は挑戦して下さい。

デモクラシーはナショナリズムのうちから国家利益という観念をとり、ナショナリズムはデモクラシーのうちから主権という観念をとる。・・・・・こうしたナショナル・デモクラシーとでもいうものの出現によって、デモクラシーとリベラリズムの対立という事態も一層明確になってくる。リベラリズムは、本来、強制力からの解放という意味では、民主的であれなんであれ、無条件の「主権」という考えとは両立しないのであり、また他者の自由の尊重という意味では「人民」という抽象的な包括概念とは両立できないのである。だからリベラリズムの検閲を失ったデモクラシーは人民主権の名のもとに暴走する可能性を常に秘めていると見なければならないだろう。

アメリカン・デモクラシーの行き先に不安をもっていたトクヴィルは、それでもまだこの時代のアメリカ人の精神の中に、強い公共心を見て心を動かされていた。しかし、150年後にそのトクヴィルのみたアメリカ的精神を再び検証しようとした社会学者ベラーがみいだしたものは、バラバラに分断された個々人と競争社会の中での心理的葛藤をサイコ・セラピーによって癒す人達の群れであった。ここにあるのは、「公共的生活」と「私的生活」の緊張の中で自分の使命を見いだしてゆく個人ではなく、物質的生活のあくなき追及にはしる「功利的個人」と、リアリティーの希薄な世界で自閉的に自己充足してしまおうとする「セラピー的個人」であった。セラピー的個人主義者は、公共的生活に対して無関心なだけではなく、その結果として私的生活を支えることもできなくなってしまうのだ。

「自由」は、何物にも制約されない自主的な意思決定とか個人の利益の追求とかいうような子供だましの観念で理解できるものではない。自由をありうるものとするのは、嫉妬や恨みをいかに制御し、名誉や称賛にいかにしてそれにふさわしい内実を与えることができるかということなのである。「自由主義」の根本にあるのは、利害の自然的調和などではなく、権力の背後にある人間の情念の問題なのだ。スミスやヒュームのような「情念」の哲学者は、全体主義に反対し、政府の規模を縮小することが自由主義であると思い込んでいる今日の気楽で合理的な政治学者、経済学者などよりはるかに深い洞察をもっていたというべきであろう。

・・・・・ふつう「市民的(シヴィル)」というのは、公的権力に対して擁護された私的なものを権利としてもつ自由で平等な個人をさす。それは公的なものに対して私的なものを擁護し、国家の権力に対して個人の自由を対峙する。これに対し「公民的(シヴィック)」とは、あえて「国家市民的」と呼んだように、あくまでそれが国家的共同社会における公的事項に参与する市民というニュアンスをもっていることを注意しておこう。ところで共同社会の公的事項とは、なによりまず外敵からの防衛であり、正義と思慮に基づく統治であろう。だからそれは勇気、思慮、正義といった徳を要求する。これを、プラトンの「共和国」にならって「共和主義の精神」といってもよかろう。

「共和主義」というと、専制君主制に対する反対ということから、人民主権のデモクラシーとすぐに結びつくのだが、これは必ずしも正しくない。・・・・・すくなくともスミスにおける共和主義的傾向はそうで(スミスは共和主義という言葉を使っているわけではないが)、むしろ、スミスにとっては、プラトンと同様、デモクラシーは、ある意味で危険なものに思われた。

「イタリーの住民の大部分にローマ市民の諸特権を与えたために、ローマ共和国は完全に滅亡した。つまり、そうなると、ローマ市民とそうでない者とを見分けることがもはや不可能になった。・・・・・あらゆる種類の賤民が人民の集会にはいりこめたし、真の市民をそこから追い出せたし、まるで自分たちが真の市民ででもあるかのようにしてこの共和国の問題を決定することもできたのである。」(『諸国民の富』第四編)

スミスはこれをむしろ、アメリカの代議制を擁護するために書いている。しかし、今日のアメリカ的大衆デモクラシーを見たらスミスはどのように述べたであろうか。共和国の政治をおこなえるのは「真の市民」だけだ、という。むろん「真の市民」とは何か、ということが問題となる。現代では、ローマとは比較にならず、「真の市民」とそうでないものを見分けるのは難しい、というより、もはやそのような問題をたてることさえできない。

・・・・・抽象的な自由と同様、抽象的な個人もあまり実用的な概念ではない。すくなくともアメリカ革命を導いたのは、抽象的な個人という裸の人間に戻ることではなく、様々な社会的関係の中で生きていく人々という座標水準のうちに実用的な法と制度を構成することであった。具体的な個人は根源的な自由よりも日常の幸福を追求するものであろう。それは剥き出しの個人ではなく、法や制度によって他人とつながった諸個人なのである。だから、自由も幸福も剥き出しの個人の「権利」というよりも、共通の法や制度のもとで共同作業として作り出してゆくものなのである。人間は個人というより、法的存在であり、ある職業や役割と不可分なのである。個人が法を守り役割を果たすのではなく、法や役割が個人を作り出すのである。その意味では、一人の人(パーソン)であることは常に仮面(ペルソナ)をつけることなのだ。

「幸福」とはベンサムのような功利主義者が述べた快楽の総和というようなものではなく、ひとつの役割を果たすこと、その結果として他人からの称賛をえること、要するに「名誉」と深く結びついたものなのである。ここに「幸福の追求」が社会的(公的)活動への参加と結びつく理由がある。

規範や価値の意識は、個々人の好き嫌いによって形成されるものではない。それは、一つの社会の歴史の中で作られるほかない。そしてそれを、人はとりあえず受け継ぐ以外にない。・・・・・倫理や規範は、社会集団の中にしかない。とりわけ、習俗(モーレス)の中に根を下ろした規範は、特定の社会の文脈の中にしかない。そして実は、「自立した個人」も、もしそうしたものがありうるとすれば、それは実際には、倫理や規範の意識を強くもった存在であろう。この倫理や規範は決して外部から教義や倫理法や訓示の形で与えられ強制されるものではない。むしろそれは、まさにウェーバーが描き出したプロテスタンティズムの精神をもった近代人のように、規範を内面化した存在でなければならないであろう。とすれば、「自立した個人」を育てるためにも、国家や共同社会という、グローバリズムの流れに抗する集団の自覚が必要となるほかないのである。

2009年6月22日

井上寿一 『昭和史の逆説』 (新潮新書)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 06:00

このレーベルはあまり読みたい本が無いんですが、これは例外的に気になっていたので読んでみました。

全7章で昭和改元から敗戦までの政治外交史を概観する本。

「山東出兵は国際協調が目的だった」、「松岡洋右は国際連盟脱退に反対していた」、「戦争を支持したのは労働者、農民、女性だった」というような意外性に満ちた章名。

といって、殊更奇を衒ったいい加減なものではなく、内容は非常にしっかりしている。

当時の政策担当者の視点に立って、情勢の把握と選択の幅を体感させてくれる記述。

連盟脱退や1930~37年の国内政治状況の説明は特にわかりやすく、目の冴えるような思いがした。

個人的な感想を述べると、戦前の歴史を反省する際、軍の暴走や国内のテロリズム、極端な国粋主義の蔓延などの事象の根底には常に、過激で偏狭で得体の知れない世論や大衆心理があったのだから、「民主主義と言論の自由が無かったから、ああなったんだ」という形でまとめるのは、やはり根本的に間違ってるんじゃないかと思いました。

大正デモクラシーが無ければ、昭和の軍国主義も無かったはずだというのは言い過ぎでしょうか。

世論の主流が唱えるお題目が、戦前は右寄りで、戦後はずっと左寄りで、ここ最近はまた右寄りになってきても、その底にある群集心理こそが一番危険なものだということに変わりはないのでは・・・・・(私など間違いなくその種の群集の一員ですが)。

だから「左の大衆運動は間違いだったが、右の大衆運動は正しい」とは全く思わない(もちろんその逆も同じ)。

100%そう信じ込んでる威勢のいい人たちを見ると、バークこの引用文を思い出す。

閑話休題。

各章が時代順に整然と配列されており、章の始めに該当範囲内数年ごとの簡易年表が挿入されているのも親切。

張作霖爆殺事件など、抜け落ちている史実もあるが、200ページほどのボリュームに過ぎない新書版としては、驚くほど網羅性が高い。

これは素晴らしい。

対象となる読者層は幅広く、文章は平易で読みやすいが、得られる効用は極めて大きい。

新潮新書は安直な作りの本が多いなという印象を持っていましたが、本書に関してだけは当てはまりません。

買いましょう。

2009年6月20日

岡本隆司 『世界のなかの日清韓関係史 交隣と属国、自主と独立』 (講談社選書メチエ)

Filed under: 朝鮮 — 万年初心者 @ 06:00

16世紀から日露戦争までの日清韓三国の関係について考察する本。

叙述の中心は李氏朝鮮におかれているようなので、カテゴリはアジアではなく朝鮮にします。

清・韓間の宗属関係、日・韓間の交隣関係という、それなりに安定した国際秩序が、19世紀以降の西力東漸により変化を余儀なくされ、崩壊していく中で、日清韓がそれぞれどのような思惑を持って行動していったのかを巧みに描写している。

特に1880年代の状況に詳しい。

別にわかりにくいところも無く、論旨は明快だとは思うが、内容は豊富で多岐にわたるので、本書もメモを取りにくい。

それを考えるとレベルは少し高めなのかもしれない。

朝鮮開国後、清・韓間で伝統的な朝貢・冊封関係から生じた「属国自主」体制が形作られ、これは日本と欧米列強の脅威に対するものであるが、朝鮮側は清の保護を受けるための名目上の服属関係という意識を持っていたのに対し、清朝は「属国」を実質化する意図を示し、両国の思惑は必ずしも一致せず、1882年壬午軍乱後、清の干渉が露骨化する中で、清との一切の関係断絶を主張する急進開化派(独立党)と、一定限度の関係継続を是認する穏健開化派(事大党)との対立が生じ、1884年甲申事変で両者が激突し、1894年日清戦争に至って、朝鮮半島における微妙な勢力均衡が崩壊し、「属国と自主のあいだ」という李朝の国際法上曖昧な地位にも終止符が打たれる、といったことが書いてあると思うが、私にはうまくまとめられません。

誤読もあるかもしれませんので、以上は鵜呑みにはなさらないで下さい。

事実関係を学んで基礎を固めるためというより、俯瞰的視野からの歴史解釈を得るための本というべきか。

個人的には、本書を読んでいて、李朝末期の史実が、意外なほど頭に入っていないことを自覚して反省しました。

『韓国併合への道』か、他の本でも読んで復習すべきだなと思った。

良書だと思いますし、難解極まるというわけでは決してないが、全くの初心者向けではない。

基礎が身に付いた人が読めば、得るところ大でしょう。

2009年6月19日

新刊情報

Filed under: おしらせ・雑記 — 万年初心者 @ 06:00

ホセ・オルテガ『大衆の反逆』の廉価版が白水社uブックスより出ているようですので、未読の方はこれを機にお買い求めになっては如何でしょうか。

「こんな極右のエリート主義者の本を何で読まなきゃいけないんだよ!!」という方は、内田樹先生のブログのニーチェとオルテガ 「貴族」と「市民」というエントリーをご覧下さい。

2009年6月17日

臼井隆一郎 『コーヒーが廻り世界史が廻る 近代市民社会の黒い血液』 (中公新書)

Filed under: 近現代概説 — 万年初心者 @ 06:00

『茶の世界史』『砂糖の世界史』と来て、今度はコーヒーです。

東アフリカ原産のコーヒーが15世紀末イエメンのモカに伝わり、そこから食欲抑制と睡眠節制の効果を見込んだスーフィー(神秘主義)教団を通じてイスラム圏に広まっていく。

17世紀半ば辺りからヨーロッパにも普及し、コーヒー・ハウスが新しい公共圏を形作り、海運・保険・証券取引などの経済活動や新聞・パンフレットを媒介にした世論形成の場を提供したことが記される。

消費国としてのイギリス・フランス・ドイツ、生産地としてのジャワ、ハイチ、マルティニク(仏領西インド)、ブラジル(サントス)、東アフリカ(キリマンジャロ)の様相が描写されている。

面白い。

コーヒーという嗜好品・商品作物から近現代の世界史を診るという大風呂敷をかなりの程度成功させている。

最初はややたるいと思っていたが、後半部は非常に興味深い。

私のような社会史嫌いでも大いに愉しめる本。

これはかなりの名著ではないでしょうか。

一度試しに借りてみることをお勧めします。

2009年6月14日

中西寛 『国際政治とは何か 地球社会における人間と秩序』 (中公新書)

Filed under: 国際関係・外交 — 万年初心者 @ 06:00

高坂正堯氏の弟子である著者が、高坂氏の『国際政治 恐怖と希望』(中公新書)を導き手にして書き下ろしたもの。

第一章で近代の国際政治史の展開を概説した後、国際政治を力の体系・利益の体系・価値の体系の三つの面から考察した高坂氏著に倣って、安全保障・国際経済・価値意識について、それぞれ一章を割いて論じている。

高坂氏の『国際政治』のように、モノの考え方を引っくり返されるような衝撃と感動こそ無いものの、多彩な論点と興味深い視野を与えてくれる本。

各章末の参考文献と、巻末の文献案内は、数は少ないが、精選された定番の良書が紹介されていて非常に良い。

なかなかの内容を持っていると思いますので、機会があれば一読しておくのも悪くないでしょう。

・・・・民主制は自らを善玉と捉える道徳的自己義認の傾向をもっている。民主制が善玉-悪玉観のような単純化の危険をもつことを認識していたことが、カントがわざわざ共和制と民主制を区別し、前者を望ましい体制としたことの一つの理由であると考えられる。

カントは、世論が外交に反映されることで主権者が気まぐれな戦争を行いにくくなることを指摘したが、他方で、国民自身が主権者となる民主制は、制約要因をもたず、いったん世論が過熱すると見境がなくなる点を指摘し、国家の意志決定者と実行者とが分離されている共和制が最善であるとしたのである。

代表制をとり、また多元的な社会の基盤をもつ今日の自由民主主義体制はカントの共和制に近いものと見なすことはできるが、それでも自己の正当性を強く信じる時、民主制は好戦的なものになりうることは認識されるべきである。

2009年6月11日

牧野雅彦 『ヴェルサイユ条約 マックス・ウェーバーとドイツの講和』 (中公新書)

Filed under: ドイツ — 万年初心者 @ 06:00

今年1月の新刊。

著者は歴史研究者ではなく、ウェーバー研究者とのこと。

第一次世界大戦後のパリ講和会議の経緯と、そこで提起されたドイツの「戦争責任」問題に対して、「心情倫理」と「責任倫理(結果倫理)」の区別で有名なウェーバーがどのような態度を取ったのかが、主なテーマ。

本書を読む上で、1917年1月無制限潜水艦作戦、ロシア3月革命、4月アメリカ参戦、ロシア11月革命、1918年1月14か条の平和原則発表、3月ブレスト・リトフスク条約、3~7月ドイツ軍西部戦線での最後の大攻勢、11月ドイツ革命・休戦協定調印、1919年1月スパルタクス団の蜂起鎮圧・パリ講和会議、6月ヴェルサイユ条約調印、という時系列は事前に頭に入れておいて読み進めるのが良い。

非常に多くの論点を持った本なので、内容はメモしにくいが、硬直した理想主義一辺倒の政治家というイメージのあるウィルソンが、必ずしもそうとは言い切れない微妙な面を持っていたことなどが述べられている。

ドイツ側政治家の主役は、過酷な講和条約の調印拒否を主張した外相ブロックドルフ・ランツァウと、受諾やむなしとした中央党所属の蔵相エルツベルガー。

結局ドイツは戦勝国の圧力に屈し調印するが、もし拒否の姿勢を貫いていたらどのような状況が考えられたかが、ブロックドルフ・エルツベルガー両者の対立を記述する中で、検討されており、それがなかなか面白い。

最後の第7章「ウェーバーとヴェルサイユ条約」では、全体の論旨がわかりやすく述べられており、非常に助かる。

かなり良い本だと思います。

熟読すれば、様々な事実関係の知識と、柔軟な視野を身に付けることができる。

なお、新書にしては珍しく、詳細な註が多数付いていますが、そこにも結構重要な情報が含まれていたので、飛ばし読みせずに精読した方がいいです。

巻末にまとめてあるのではなく、見開きページの最後に付けてある形式ですので、読みにくくはありません(活字はかなり小さめですが)。

是非お勧め致します。

2009年6月7日

キルケゴール 『現代の批判 他一篇』 (岩波文庫)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 06:00

久しぶりに来ました、知的身分不相応の本。

キルケゴールというと、19世紀前半を生きた実存主義の先駆的哲学者で、主著が『死に至る病』で、相手にわざと憎まれるような形で婚約破棄しちゃった人で、確かデンマーク人だったかな、と高校の倫理の授業で習ったこと以外何一つ知らないし、もちろんその著作も一行も読んだことがない。

『死に至る病』の方は読んでも絶対わからないだろうと端から諦めて、『思想の英雄たち』でその存在を知ったこれを読んでみた。

(タイトルに「他一篇」とあるのは、「天才と使徒との相違について」という文章ですが、こちらは読んでおりません。)

100ページ余りの短い作品で、さほど難解な用語が使われているわけでもなく、読みやすい。

ちょっと変った成り立ちの本で、ある小説の書評の一部が独立して扱われるようになったものらしい。

内容は近代社会批判で、現代を「反省と水平化の時代」としてそれを否定的に捉えるもの。

この「反省」というのは、価値相対主義あるいは平板な合理主義・功利主義とか、そういうことでしょうか?

本文を読んでいくと、とりあえず文脈はきちんと追えるし、どういうことを言いたいのか以上のように大体の推測もできるのですが、私の能力では完全に読みこなせたとはやはり到底言えない。

しかし、ところどころ「これは・・・・・・」と絶句するほどもの凄い文章に出会う。

わが身にに引き寄せて考えて恥ずかしく感じたり、自分の阿呆さ加減と情けなさを否応無く自覚させられたり、今の社会の酷い有様をこれ以上ないほど的確に眼前に突き付けられたりする思いがする。

私がここであれこれ言うより、とりあえず読んで下さいとしか言えない。

とにかく凄いです・・・・・。

 

 

専制政治の腐敗や革命時代の退廃はしばしば描写されてきたが、情熱のない時代の堕落もそれに劣らず危険である。ただそれが曖昧であるために、あまり目立たないだけのことである。

・・・・・自分自身ではなにひとつ理解せず、また自分自身ではなにひとつする気もない、この無精な群集、この立見席の観衆は、そこで、気晴らしを求めて、世間の人のすることはみなおしゃべりの種になるためにおこなわれるのだ、という空想にふける。

この無精者は、いかにもえらそうに足を組んで御輿を据えていて、働きたがる人間は、王さまだろうと役人だろうと、国民の教師だろうと有能な新聞記者だろうと、詩人であろうと芸術家であろうと、だれもかれもがみんな、他人はすべて自分の馬だと思ってえらがっているこの無精者を引っ張ってゆくために、いわば馬車の前につながれるということになる。

仮にわたしがこういう公衆をひとりの人物として考えてみるとしたら(思うに、少しすぐれた個人であれば、たとえ一時的には公衆に属することがあっても、自分自身の内に組織統合する凝集力をもっているはずで、彼らが最も高い宗教性を獲得するにはいたっていなくても、それが彼らをささえてくれるだろう)、わたしはまずローマ皇帝のだれかを思い浮かべるだろう。

でっぷりと太った大男で、退屈に苦しんでいて、そこで思いきり笑いを発散できるような官能の刺激ばっかり欲しがっているといった人物である。機知という神の賜物はどうも俗世間のものではないからだ。

そこでこういう人物は、悪人というよりはむしろ無精者なのだが、しかし消極的な支配欲があるので、目さきの変化を求めてあちらこちらとうろつきまわることになる。ひとりの皇帝が暇をつぶすためにどんなにいろんなことを考えだしえたかは、古代の作家たちの著作を読んだことのある人ならだれでも知っているだろう。

そんなわけで、公衆は退屈しのぎに一匹の犬を飼っておく。この犬は文学界の卑劣漢である。いまだれかちょっとした人物が現れたとする、傑出した人間ならおそらくもっとお誂え向きだろう。

するとその犬がけしかけられて、退屈しのぎがはじまる。この犬は人にかみつく癖があるので、その人の上衣のすそをひっ裂き、無礼ないたずらのかぎりをつくす―ついには公衆のほうが飽きてしまって“もうたくさんだ”と叫び出す。これで公衆は水平化をなしおえたことになる。

ちょっとすぐれた男、少し強い男はひどい目にあったものだ、―そして犬のほうはというと、むろん犬のほうはどこまでも、公衆自身でさえ軽蔑している犬のままである。してみると水平化は第三者によっておこなわれたわけである。

つまり、無である公衆が、その卑劣さゆえにすでに水平化以上の、そして無以下のものであった第三者を介して、水平化をおこなったわけである。しかも公衆は悔いることもない。だって公衆の仕業ではないからである―犬のやったことだからで、よく子供に向かって、猫がやったんだね、と言われるのと同じことである。

しかも公衆は悔いることもない。だって本当に侮辱を加えたわけではなかったのだから。―ちょっとばかり退屈しのぎをやっただけなのだから。つまり、水平化の手先に使われるものの方がずぬけて腕利きであったとしたら、そのときにはその手先自体が水平化の邪魔になるだろうから、無精者の公衆の方が自分の使った手先に愚弄される羽目に陥ったことであろうが、すぐれたものを卑劣なものによってこきおろし、卑劣なものを同類によってこきおろすというのであれば、勘定はゼロでなんの儲けにもなりはしない。

しかも公衆は悔いようともしないだろう。公衆はもともとその犬を自分で飼っているわけではなく、ただ予約購読しているだけのことだからである。それにまた、彼らは直接に犬をけしかけてかみつかせるわけでもない。また口笛を吹いて犬に合図をするというわけでもない。

裁判沙汰にでもなったら、公衆は言うことだろう、それは私の犬ではありません、のら犬なんです、と。そしてその犬がつかまって、獣医学校に連れて行かれて撲殺されることにでもなったら、公衆はおまけにこうも言えるだろう。あの困りものの犬が殺されたのは、ほんとうにたいへん結構なことです、そうわたしたちはみんな望んでいたんです―予約者のみなさんでさえそうなんです。

 

 

ひとりひとりの個人が、全世界を敵にまわしてもびくともしない倫理的な態度を自分自身のなかに獲得したとき、そのときはじめて真に結合するということが言えるのであって、そうでなくて、ひとりひとりでは弱い人間がいくら結合したところで、子供同士が結婚するのと同じように醜く、かつ有害なものとなるだけのことだろう。

 

 

昔は、君主や傑出者や卓越者は、それぞれ意見をもっていたが、その他の人々は、自分たちは意見などもとうとも思わないし、もつ力がないのだという、断固とした覚悟をもっていた。ところが今日では、だれでもが意見をもつことができるのだが、しかし意見をもつためには、彼らは数をそろえなければならない。どんなばかげたことにでも署名が二十五も集まれば、結構それでひとつの意見なのだ。ところが、このうえなくすぐれた頭脳が徹底的に考え抜いたうえで考え出した意見は、通念に反する奇論なのである。

 

 

無名性は現代では、普通に考えられているより以上に独特のいちじるしい意義をもっている。・・・・・同じ人間がまるきり正反対のことを言うことができ、その人間の口から出たのではその人間自身の生き方に加えられるこのうえない辛辣な諷刺となるようなことを、平気で口にすることができるのである。

その発言そのものははなはだ分別のあるもので、議会に出してもりっぱに傾聴されて、議論の種にもなり、ちょうど工場でボロから紙が製造されるように、その議論の種から相当なものが製造できるほどである。しかし、たくさんあるそんな発言を全部寄せ集めてみたところで、とうてい一個人の人間的な談話ほどのものにもなりはしない。

 

 

・・・・・なににでも手引きがある。遠からぬうちに、そういういろいろな手引きの教えてくれることを大なり小なりまとめてそれを覚えこんでしまえば、それで一般教養が身についたということになるだろう。こうして人々は、植字工が活字を拾い出すのと同じように、それぞれ自分の能力相応に、きれぎれの知識を拾い出すことに巧みになっていくことだろう。

2009年6月5日

間野英二 中見立夫 堀直 小松久男 『内陸アジア (地域からの世界史6)』 (朝日新聞社)

Filed under: 中央アジア — 万年初心者 @ 06:00

苦手分野の補強に勤しむため、これを読む。

このシリーズが1990年代初頭に刊行されたときには、全く無視していた。

タイトル通り、時代ではなく地域で各巻を区切る全21巻のシリーズだが、かなり薄い本だし、特筆すべき部分もないような気がしてこれまで読まなかった。

他の巻は何とも言えませんが、今回この巻を読んでみた限りでは、意外なほど良い。

まず、遊牧国家と定住オアシス都市の成立、9・10世紀の遊牧民の定住化開始(東の契丹による遼建国、西のウイグル族西進とトルキスタン成立、イスラム化)、15・16世紀の遊牧社会の軍事的優越退潮、18・19世紀のロシアと清による支配と世界史の中での独立性喪失という時代区分を提示し、それから本文の記述に入る。

個々の記述は高校教科書にやや肉付けした程度の質量だが、初学者が無理なく消化できるという点では反って良い。

ごく大まかな見取り図を得るという目的に絞ると、相当使える本。

巨視的な流れを常に意識して叙述されているので、200ページ程の本文にしては極めて効用が大きい。

個別の細かな史実に関しては別の本を探せばよい。

巻末にかなり詳しい文献案内が載っているのも非常な好印象。

コメントこそ付されていないが、難易度によってA・B・Cのランク付けがなされている。

これだけでも、ただ書名がズラッと並べられているリストより、はるかに有益である。

こういうところは、中公新版「世界の歴史」にも見習って欲しかった。

かなりの完成度の入門書と言える。

中央アジア史最初の一冊として十分勧められる。

2009年6月2日

ブログ始めて約3年

Filed under: おしらせ・雑記 — 万年初心者 @ 06:00

このブログを始めたのが2006年の5月末なので、3年余りが過ぎました。

前回までの記事数がちょうど700です。

「はじめに」「おしらせ・雑記」の記事を除くと655ほど、読んでないのに無理やり記事にした本もかなりありますので、実際通読したものはさらに少ないですが、これだけ見ればそこそこの数には達している。

しかし、各カテゴリを見渡すとあまり納得できる状態ではない。

「中国」だけは100近くいっているのでとりあえずいいとしても、他のカテゴリはどれを取ってもスカスカで手薄という印象が拭えない。

さらに各記事の内容については・・・・・・。

まあ、はっきり言ってレベルは低いです。

相当低い。

だが、このレベルの低さがかえって当ブログの長所だと思っている。

『バカのための読書術』曰く、

・・・・何度も言うように、インテリが書く読書術の大方の欠陥は、「自分がバカだと思われたくない」病のために、最先端の研究成果などを読者に勧めたりしてしまうところにある。

普通の学者は、・・・・あまりに初歩的なものを挙げることに恥じらいを感じるので、難しめのものを挙げてしまう。

・・・・入門書は、新しいもののほうがいいとは限らない。「最新の知見を盛り込んだ」などという宣伝文句があるが、初心者には最新の知見はかえって邪魔なことがあるのだ。

とのことですが、私も全く同感です。

自分自身、ネットで世界史関係の初心者向け書評サイトをあれこれ探しても、なかなかぴったりくるところが無いなあと感じていました。

じゃあいっそのこと私的な読書ノートを兼用して自分で作るかと思ってできたのが、これなわけです。

レベルはあくまで「それなり」ですが、小難しいことは一切断念して、徹頭徹尾自分の頭に合わせて初心者向けの記事を書いてますので、難解で訳がわからないということはないはずです。

高校時代世界史の授業が好きで今でもたまに関連本を読むよという、私と同じ趣味・性向をお持ちの方に少しでも役立てて頂ければ、これ以上嬉しいことはございません。

なお、たまに政治的なことが記事に書かれていて、「なんか妙なこと言ってんなあ、コイツ」と思われる方もいらっしゃるかと思いますが、少しでも違和感を感じる部分は一切無視して下さい。

「○○は面白い」、「使える」、「わかりやすい」、「こういう史実がある」、「○○の評価が高い」、「類書としてこれがある」というような部分だけ参考にして下さい。

あと、この記事で読む本は大体買うと書いてますが、実はここ1年ほど記事を書いた本についてはほとんど図書館で借りてます。

さすがにカネが続かないのに加えて、置き場所に困るということもありますし、選択の失敗を恐れず読み始めることができるので相当読書量が増える利点もあります。

以前は「本気で読む本は絶対身銭を切って買った本でないと駄目だ」と信じ込んでいたのですが、思い切って発想を転換してみると、非常に快適です。

借りた本だと傍線を引いたり、ページの隅を折ったりできませんが、その分このブログでメモを取ればよいと割り切りました。

しかし、「本の所有」ということへの関心を一度棄ててみると、これほどカネの掛からない、ありがたい趣味も無いですね。

幸い、自宅近くに県立図書館の分館があるので、最大限利用させてもらってます。

周りが田んぼだらけの田舎なので、蔵書はあまり多くありませんが、同じ県の中央図書館の本なら3、4日で届けてくれます。

安い税金しか納めてないので、図書館利用料と思えばお上への納税も全然惜しくない(呉智英氏も似たようなことをどこかで書いてましたが)。

お蔭で、ここ1、2年くらい、今までの人生で間違いなく一番本を読んでます。

まあ、いつ更新が止まっても不思議じゃない状況ですし、そのうち月1回のみ更新といったペースになるんでしょうけど、できるだけ続けようとは思ってます。

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