万年初心者のための世界史ブックガイド

2009年5月13日

剣持久木 『記憶の中のファシズム 「火の十字団」とフランス現代史』 (講談社選書メチエ)

Filed under: フランス — 万年初心者 @ 06:00

両大戦間期のフランスで活動したクロワ・ド・フー(火の十字団)については、野田宣雄『ヒトラーの時代 上・下』(講談社学術文庫)にちょこっと出てくるので、名前だけは知っていた。

要は、フランスのファシズム団体なんでしょ、という理解であった。

しかし、退役軍人ラロック中佐に率いられたこの組織は、実際は共和政体支持・合法路線の尊重・対独宥和政策への反対・反ユダヤ主義の拒絶などを特徴とする、保守中道志向の穏健な結社であり、他の右翼団体とはかなり多くの面で区別され得るものであった。

その実態を詳説し、ファシズム・イメージがなぜ塗り付けられたかを考察する本。

本書の主人公、フランソワ・ド・ラロックは熱心な王党派の人物を父にして生まれ、第一次大戦に従軍、戦後ソヴィエト・ポーランド戦争に派遣されたフランス軍事使節団の一員としてピウスツキ将軍と協力し、後にモロッコでアブデル・クリム率いるリーフ共和国の鎮圧に従事する。

余談ですが、このリーフ共和国というのは、私の頃の『新世界史』(山川出版社)ではゴチック体で載っていた記憶が確かにあるのですが、今の教科書では全然載ってないみたいですね。

どうして重視されなくなったのか、よくわかりませんけど。

1927年結成された退役軍人組織「火の十字団」に加わり(ラロック自身は創設者ではない)、31年頃には最高指導者となる。

1934年2月6日、スタヴィスキー事件という汚職スキャンダルをきっかけにパリで右翼団体が主導した大規模なデモと暴動が起き、多数の死傷者を出すが、ラロックと火の十字団はデモには加わったものの、秩序を保ち非暴力的行動に徹し、他の右翼団体とは一線を画す。

この2月6日事件を脅威に感じた左派陣営が人民戦線結成へと向うが、そこでのイメージ戦略の一環で、むしろ穏健だが大きな勢力を持つラロックが「ファシスト」として攻撃を受ける。

実際はラロック自身は合法・穏健な保守中道路線を支持し、彼が打ち出した進歩的な社会政策は人民戦線側とも多くの共通点があったと記されている。

「私は伝統にたいしては心から愛着を抱いているが、進歩は左派にあると考えている。」

1936年ブルム人民戦線内閣成立、準軍事組織の極右団体解散を命ずる政令を発布、火の十字団も解散するが、これはかなり不当・不公平な措置であったとされている。

同年ラロックは合法政党「フランス社会党(PSF)」を立ち上げる。

これが、1905年結成された、誰でも知ってる左派政党の(統一)社会党と紛らわしい。

左派の社会党の正式名称は「労働者インターナショナル・フランス支部」で略称はSFIO。

第三インター下の各国共産党は、ソ連による極度の中央集権的支配に服従して、組織面でも、あくまでコミンテルンの支部という扱いだったのは知っていたが、緩やかな国際組織である第二インター時代に結成されたフランスの社会党がこういう名称なのを渡辺啓貴『フランス現代史』(中公新書)で初めて知ってかなり意外な感じがしたのを覚えている。

なお、この時期のフランスに存在した他の右翼団体を挙げると、まず戦前からの王党派団体アクシオン・フランセーズがある。

シャルル・モーラスを指導者とし、反ドレフュス派としても名を馳せた組織だが、その余りに過激な言動が災いして、1926年には教皇庁から破門され、37年には当時の王位継承者から絶縁宣言が出されるという、組織のレゾンデートルにも関わる失態を演じている。

ちなみに当時ラロックの兄弟が王位継承者に仕えていたが、絶縁宣言後、アクシオン・フランセーズはこの兄弟を「君側の奸」として攻撃し、ラロック本人へも中傷を行なった。

(ラロックは父と兄弟の信条にも関わらず、共和政を一貫して支持していたらしい。)

また軍内部で、カグール団という右派的軍人の秘密結社があり、隣国スペインで勃発した内戦をみてフランコをモデルにクーデタを目論むが、37年11月計画は発覚、関係者が一斉に検挙される。

スペイン内戦についてラロックは、フランコ側への共感を公言しつつ、「慎重な中立」を主張した。

「モスクワが欲する流血革命の危険は存在する。(しかし)反共結集がすべてを解決するという奇跡の万能薬は警戒せよ。」

共産党が人民戦線戦術に転換する前、ファシズムに対抗して社共統一行動を唱えた共産党幹部ジャック・ドリオは党指導者モーリス・トレーズによって追放される。

この離党経緯は至極マトモなんですが、その後ドリオが結成したフランス人民党(PPF)は、徐々に右へ右へと傾いていき、最後には最も確信犯的な対独協力者となってしまったので、評判の良かろうはずがない。

37年6月人民戦線内閣崩壊後、右派の大同団結の動きが強まるが、ラロックとPSFはそれを拒否、中道勢力の結集を目指す。

それを受けて右翼団体によるラロックへの攻撃・誹謗中傷が激しさを増す。

しかしPSFは党勢を順調に拡大させ、戦争で行なわれなかった1940年総選挙では第一党となる可能性もあったとまで言われている。

実際の1940年はフランスにとって屈辱的な敗戦の年となり、ドイツに占領される。

ラロックは国内に留まり、ペタンとヴィシー政権に是々非々の立場を取り、対独協力を拒否、密かにイギリス情報機関と接触する。

著者は、こうしたラロックをはじめとする人々を、ド・ゴール派や共産党系とはまた違った、ヴィシー派レジスタンスとしてその存在を認めている。

「ドイツの教義は国民の性質を人種主義起源に従属させている。われわれの教義はキリスト教文明の承認と国民的性質を同一視している。」

ヴィシー政権内で、戦前の外相ラヴァルが積極的対独協力派として台頭し、ダルナン率いるミリス(対独協力民兵)を組織すると、ラロックはフランス軍隊侮辱への反論として、厳しい検閲の中、以下の文章を発表する。

「これら侮辱者たちは、半可通なだけではない。犯罪者である。なぜなら彼らは、20年来のフランスの破壊において、多かれ少なかれ役割を演じてきた。・・・・・今日の彼らのナショナリズムは、かつての彼らの反軍国主義のお粗末な改悛に過ぎない。・・・・・あるいはむしろ、彼らの今日の下劣さはかつての失敗の自然な延長線上にある。ニシン樽はいつまでもニシン樽の臭いがするものである。」

これは対独協力者の多くが、両大戦間期には平和主義者だったことを揶揄しており、ラヴァルにたいする明白な攻撃になっている。

(このラロックの言葉、ここ5、6年の日本でも思い当たる節がありますなあ・・・・・。自分も含めてですけど・・・・・。)

1943年、ラロックはとうとうドイツ軍に逮捕され、収容所送りとなる。

戦後解放されるが、レジスタンスとしての実績は認められず、45年5月の帰国後はむしろヴィシー関係者として保護拘束という名の行政収容が行なわれた。

しばらくして釈放されるが、不遇のうちに46年4月死去。

ド・ゴール政権時代に名誉回復がなされる。

最後の章では、ラロックを“ファシスト”“反ユダヤ主義者”とする報道や著書に対して、遺族が反論権を行使し、粘り強く訂正を求めていった経緯について触れられている。

面白い。

極めて特殊なテーマにのみ関わる本かと思っていたが、読み通すと1930年代のフランス政治史について広く知ることができた。

文章も上手いし、話の運び方も巧みで、スラスラ読める。

相当強くお勧めできます。

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