万年初心者のための世界史ブックガイド

2009年5月11日

引用文(内田樹1)

Filed under: 引用文 — 万年初心者 @ 06:00

内田樹『知に働けば蔵が建つ』(文春文庫)より。

この方はあえてわかりやすい政治的色分けをすれば穏健リベラル派なんでしょうけど、確か松原隆一郎氏が某誌で「内田氏は良質の“保守主義者”だ」と書いていたのに強い同意の念を覚えたのを思い出します。

あるいは、そういうレッテルよりも単に本当に「成熟した大人」と呼ぶに値する人と言った方が適切かもしれません。

こういう「真に優れた少数者」に属する人に対しては、何の取り柄も無い私はひたすら黙り込んで頭を下げるしかない。

アルファブロガーと言われるような人のうちで、個人的に読む気がするのはこの方だけです。

著者をご存じない方は、「ブックマーク」にあるブログのバックナンバーを数時間かけてすべて読む価値があると思います。

個人と共同体を潜在的な敵対関係としてとらえる考え方は、中間的な共同体が解体されたあと、個人と社会が緩衝帯抜きでダイレクトに向き合う「リスク社会」に固有のものである。そして、そのような社会が登場したのは、ほんとうにごく最近のことなのである。

ほんらい私たちは個人である前に大小さまざまな規模の共生体の一員である。「個人である前に共同体の一員である」というようなことを書くと、鼻白んで、「家父長制的イデオロギーだ」というようなことを言い出す人がいるだろうけれど、こんなことは誰が考えても当然のことである。

例えば、家族の一員である前に個人であるような人間はこの世に存在しない。

子どもは自分の固有名を名乗るより先に母子癒着状態の中でちゅうちゅう母乳を吸う口唇の快感に焦点化した存在として出発する(固有名を名乗ろうにも、まだ名前がない)。そもそも「自我」という概念が獲得されるのは鏡像段階以降なのであるから、それ以前の私に「個人」という概念が存在するはずがない。

起源にまず個人がいて、それが家族を構築してゆくわけではない。

まずアモルファスな共生体があり、個人はその共生体内部で果たしている分化的機能(家族内部的地位、性別、年齢、能力、見識などなど)に応じて、共生体内部の特異的として記号的に析出されてゆくのである。

「親に依存し、扶養され保護される存在」というぼんやりした意識から始まり、やがて家庭内的なリソースを奪い合う「兄弟」のうちのより劣位にある「弟」という立場を発見し、「ウチダ家の次男」という社会的機能を引き受けることを通じて(犬を散歩に連れて行ったり、庭掃除をしたり、お風呂の水を汲んだり)、ゆっくりと家庭内的労働力として認知され、やがてそれを基盤にして個の人格的単一性が解離してゆく・・・・というふうにして私の自我は成立していった。

家庭内的存在としての承認を受けてはじめて個人のアイデンティティは基礎づけられるのであり、透明にして一望俯瞰的な「私のコギト」が家族のそれぞれとの利害関係を調整しながら契約的に関係を取り結んだわけではない。

個人は共同体の「結節点」として構築されるものである。

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