万年初心者のための世界史ブックガイド

2009年3月7日

坂井栄八郎 『ゲーテとその時代』 (朝日選書)

Filed under: ドイツ — 万年初心者 @ 06:00

ゲーテの作品で読んだことのあるものと言えば、大学時代眠気を堪えながら通読した『若きウェルテルの悩み』(新潮文庫)くらい。

しかも、あらすじも登場人物も全然思い出せない。

その他の著作では、『ファウスト』も『イタリア紀行』も『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』も『親和力』も名前を知っているだけで一行も読んだことがない。

それはそれで恥ずかしいことではあるが、だからと言って別にこういう本を読んじゃいけないということもないだろうと思ったので、これを手に取る。

この手のタイトルで半分文学史みたいな書物は普段なら絶対読もうとは思わないのだが、あの傑作『ドイツ史10講』(岩波新書)と同じく坂井栄八郎氏の著書なので、大きなハズレはないだろうとの目算で買ってみた。

ヨーハン・ヴォルフガング・ゲーテは1749年に生まれて1832年に死去。

七年戦争からアメリカ独立、フランス革命とナポレオン戦争、ウィーン体制と七月革命まで、稀に見る激動の時代がその生涯にすっぽり収まる。

当時帝国都市(神聖ローマ帝国内の領邦の一つとして独立していた都市国家)であったフランクフルト・アム・マインの上流市民(ただし貴族ではない)の家に生まれたゲーテはライプチヒ大学に学び、シュトラスブルク(ストラスブール・当時すでにフランス領)滞在中にフランス文化崇拝の風潮に反逆し、(偏狭な政治的ナショナリズムとは区別される)文化的ドイツ意識に目覚める。

1774年発表された『ヴェルテル』で大いに文名を高める。

その後ザクセン・ワイマル公国の青年君主カール・アウグストに招かれ、枢密参議官・財務庁長官として同国の全権委任者の地位に就く。

そこで「啓蒙絶対主義」と「改革保守主義」の立場から、「われわれが低い階級とよび、しかし神にとっては最も高い階級である」民衆の利益を増進するために様々な施策に力を尽くし、時には高慢な貴族層と衝突する。

しかし、そのような立場にも関わらず、というよりだからこそと言うべきか、フランス革命が勃発するとゲーテは当初から革命への強い拒否の姿勢を貫く。

革命の初期、ドイツの知識層は「自由と平等の陶酔」に囚われ、それを熱狂的に歓迎した。

のちにバークの『フランス革命の省察』をドイツ語訳し、メッテルニヒの片腕として活躍したフリードリヒ・ゲンツですらそうであった(この人は『世界の名著ランケ』での林健太郎氏の解説で触れられているので、以前から名前だけは知っていた)。

だが、フランスで恐怖政治と大量虐殺が荒れ狂うようになると、ゲオルグ・フォルスターなどほんの一握りの「ドイツ・ジャコバン派」を除いて、ほとんどの人々が徹底した反革命派に転ずる。

ロイ・ポーターの本に載っているギボンのフランス革命への態度と併せて考えると、ゲーテやギボンのように見える人には最初から見えてたんだなあという感想を持つ。

1792年9月プロイセン軍連隊長として出陣したカール・アウグストに従い、ヴァルミーの戦いを目撃。

(小国とは言え仮にも一国の君主が他国の軍隊に勤務するというのは現代では想像し難いが、当時は珍しくなかったらしい。)

私が高校生の頃の世界史教科書では脚注でこのヴァルミーの戦いについてゲーテが『対仏陣中記』で述べた「ここから、そして今日から、世界史の新しい時代が始まる」という言葉が載せられていたが(今の教科書では載ってないでしょう)、これは革命を肯定する意味で吐かれたのでは全くない。

ナポレオン時代になると、革命の無秩序を克服する指導者としてゲーテは彼を好意的に迎え、1813年ライプチヒの戦いで頂点に達する解放戦争とドイツ・ナショナリズムの興奮に背を向ける。

晩年、「反動的」ウィーン体制も、冷静な勢力均衡を旨として平和を維持するのに効果的なものとして肯定し、ドイツ統一と自由を求める急進派ナショナリストには決して加わらなかった。

「民族自決」の美名が絶えざる国際紛争を招き、そこから生じたナショナリズムの暴走がどれほど悲惨な結果をもたらしたか知っている後世の視点から見て、メッテルニヒの構想にも汲み取るべき正しさがあったことを著者はかなりの程度認めている。

セバスティアン・ハフナー『ドイツ帝国の興亡』でも、ウィーン会議で作られた「ドイツ連邦」について、中小国の自由と独立を保障し、近隣諸国に脅威を与えず、しかし外部からの侵略に対しては抵抗力を持つ組織であり、ドイツ統一を阻むまやかしとしてのみ捉えるのは誤りだと評価されていたのを思い出した。

専門的な文学史には踏み込まず、あくまでゲーテと同時代の政治・社会の関わりに焦点を絞った本なので、私でも読みやすい。

地図と年譜が載っていないのが残念だが、大きな欠点ではないでしょう。

史実の描写と整理の仕方、時代背景の説明と価値評価の基準、さりげなく挟まれる著者自身の見解、一貫して流暢で明解な文体、どれをとっても素晴らしいの一言。

傑作です。

坂井氏は林健太郎氏のお弟子さんだそうですが、師弟揃って初心者向け啓蒙書の最高の書き手といっていいんじゃないでしょうか。

強くお勧め致します。

 

 

 

 

いっぱし我とわが身を治めることができるような顔をして

自由なんぞを口にすべきではないのです!

いったん柵がとり払われると、法におさえられてほんの片隅に

ひっこんでいたあらゆる悪が、たちまちのさばりだしてくるのですから

(『ヘルマンとドーロテーア』)

 

 

 

 

フランスの悲しい運命を 偉い人たちはとくと考えてほしい

だが それをもっとよく考えねばならないのは下々の者たちだ

偉い人たちは滅んだ―しかし民衆を民衆の手から

守るのは誰だ? フランスでは民衆が民衆の上に専制を布いた

(『ヴェネツィアのエピグラム(格言詩)』)

 

 

 

 

かつてのルター主義と同じことを、今日びはフランス人がやっている

それは静かな教養を押しのける

 

 

 

貴族ならまだいい、彼らの誇りは優雅だから

しかしお偉い民衆よ、君たちはあまりに高慢で粗野なのだ

 

 

 

どこでも憲法を! それは何と望ましいことか

しかし君たちのおしゃべりは憲法制定の役になど立ちはしない

 

 

 

ドイツ人よ、君たちは国民になろうと望んでいるけれど、無駄なことだ

そんなことではなく、自分をより自由に、人間に形成しなさい

(シラーとの共作諷刺詩集『クセーニエン』)

 

 

 

 

各人自分の戸口を掃け

そうすればどの街角もきれいになるだろう

各人自分の課業を果たせ

そうすれば市政もうまくいくだろう   (格言詩『市民の義務』)

 

 

 

 

いちばん合理的なのは、つねに各人が、自分のもって生まれた仕事、習いおぼえた仕事にいそしみ、他人が自分のつとめを果たすのを妨害しないということだ。靴屋は靴型の前にいつもいればよいし、農夫は、鋤を押していればよいし、君主は国を治める術を知ればよいのだ。というのは、政治というものもまた、学ばなければならない職業の一つであり、それを理解しないような者が、さしでがましいことをしてはいけないのだ。    (エッカーマンとの『対話』)

 

 

 

 

多勢、多数は、必然的にいつもばかでまちがっている。なぜなら多数は快適であり、誤りは常に真実よりもはるかに快適なのだ。    (『対話録』)

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