万年初心者のための世界史ブックガイド

2009年3月30日

ジョゼフ・ギース フランシス・ギース 『中世ヨーロッパの農村の生活』 (講談社学術文庫)

Filed under: ヨーロッパ — 万年初心者 @ 06:00

ちょっと前に記事にした『中世ヨーロッパの都市の生活』の姉妹編。

同じ講談社学術文庫に『中世ヨーロッパの城の生活』も収録されている模様。

本書では13世紀イングランドのエルトンという村を定点観測することで、中世農村の暮らしを再現している。

村の概観と領主の支配、村人の身分・階層別と日々の生活、共同で行なう農作業と牧畜、冠婚葬祭と教会、司法の実態などが史料に忠実に描写されている。

厳しい秩序と支配の下にありながら、慣習という強固な拠り所を武器にして、自らの利益を守る農奴と自由農民の姿が印象的。

現在よりもはるかに過酷で貧しい生活を送ってはいるが、本質的には我々とあまり変わらない心性を持った人々が織り成す悲喜劇が垣間見れる。

終章の黒死病とワット・タイラーの乱を経た中世末期の記述もなかなか面白い。

本書も、細かなところに引っ掛からずざっと一読してイメージをつかむための本なので、下手に何かを憶えようとしない方が良い。

最初はやや取っ付きにくいが、途中からは読むスピードも上がるでしょう。

結構面白いのでお勧めします。

2009年3月26日

塩野七生 『ローマ人の物語 32・33・34 迷走する帝国』 (新潮文庫)

Filed under: ローマ — 万年初心者 @ 06:00

去年の夏、文庫化された分を今ごろ通読。

前半の巻が単行本として刊行されていた頃は、毎年出るのを待ちかねて必ず発売日に購入したものだったが、後半に入るとかなりテンションが下がって一刻も早く読みたいという気持ちが薄れ気味です。

とは言え、この巻を読み始めると、やはり巧いなあという感想を持ちます。

読者を飽きさせず物語に引き込む話術はさすが。

本書の対象範囲は、セプティミウス・セヴェルス帝の死からディオクレティアヌスの登位まで。

「3世紀の危機」と「軍人皇帝」の時代であり、多数の皇帝が即位する端から次々に暗殺され、帝国が大混乱に陥った状況を描写している。

登場する皇帝は、カラカラ、ゲタ、マクリヌス、エラガバルス、アレクサンデル・セヴェルス、マクシミヌス・トラクス、ゴルディアヌス1世、同2世、バルビヌス、プピエヌス、ゴルディアヌス3世、フィリップス・アラブス、デキウス、トレボニアヌス・ガルス、アエミリアヌス、ヴァレリアヌス、ガリエヌス、クラウディウス・ゴティクス、アウレリアヌス、タキトゥス、フロリアヌス、プロブス、カルス、カリヌス、ヌメリアヌス、ディオクレティアヌス(一部本書の表記を変更)。

以上、何も見ずに書けましたが、たぶん2週間もすればまた忘れるでしょう。

そういう私が言うのも何ですが、西ローマ滅亡までのローマ皇帝は可能な限り全部憶えた方がいいと思います。

この『ローマ人の物語』シリーズやギボン『ローマ帝国衰亡史』という最良のテキストがありますので、初心者でも不可能なことではないです。

以上メモした皇帝のうち、高校教科書にも出てくるのは大浴場建設と全自由民に市民権を付与したアントニヌス勅令で有名なカラカラと、ササン朝ペルシアのシャープール1世に敗れ捕虜になるという不名誉によって記憶されてしまったヴァレリアヌスだけですね。

以前、後者のヴァレリアヌスについては、その敗北がローマ帝国衰退の顕われとして象徴的なんだろうけど、高校レベルでわざわざ名前を出さなきゃいけない人物なのかなと疑問に思っていたんですが、260年に起こったこれは当時やはり驚天動地の大事件だったようで、以後西のガリア帝国と東のパルミラ王国が独立することによってローマ帝国は事実上三分裂し、ゴート族・アレマンニ族・フランク族などの蛮族が帝国の中枢部にまで侵攻する大混乱が巻き起こってます。

とにかくほとんどの皇帝がわずか数年の在位ののち、軍によって暗殺されるということが常態となっていた時代であり、自然死を迎えた皇帝の方が珍しい。

しかし、それでいて絵に描いたような暴君・愚帝はエラガバルスくらいしかいないのが面白い。

ギボン『衰亡史』では、カラカラはカリグラ・ネロ・コンモドゥスと同列の暴帝、マクシミヌス・トラクスは有能な軍人ではあるが残忍で圧制的という評価だったはずだが、本書では両者のマイナス面はあまり触れられていない。

クラウディウス・ゴティクスやプロブスなど相当の名君に思えるし、本書での評価はやや低いが、アレクサンデル・セヴェルスも従兄弟のエラガバルスとは大違いに良心的な青年皇帝ではある。

(アレクサンデル・セヴェルスについて『衰亡史』ではかなり高評価で、「背教者」ユリアヌス帝を賞賛する部分で、アレクサンデル・セヴェルス帝以来久しぶりにその任に相応しい徳性を持った人物といったような文があったはず。)

そしてこの時代で何より特筆すべき皇帝はアウレリアヌス。

短い在位期間中に東奔西走し、上記のガリア帝国・パルミラ王国を打倒、蛮族を撃退し、ローマ帝国を再統一する活躍を見せる。

このアウレリアヌスの事績はギボン『衰亡史』で読んだ時、極めて痛快に感じて強い印象を受けたのをはっきり憶えている。

この人は高校教科書に名前を載せてもいいくらい重要だと思う。

(初心者はこうやって皇帝の月旦評をあれこれ考えながら読み進むのが楽しいんですよねえ。)

何だかんだ言って、やはり面白い。

専門家から見ていろいろ問題があるというのは素人にも想像がつくが、しかし初心者向けの歴史読物としての効用は否定できない。

著者の論評を100%鵜呑みにしないのを前提にして純粋に愉しみのために読むのなら何も問題ないはず。

初心者がこれを読まないという選択肢は事実上無いでしょう。

2009年3月23日

マイケル・オークショット 『政治における合理主義』 (勁草書房)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 06:00

『思想の英雄たち』で採り上げられていたので、以前から名前だけは知っていたイギリスの保守的思想家・政治学者の本。

全部で10個の論文のうち、表題作の「政治における合理主義」、「自由の政治経済学」、「合理的行動」、「保守的であるということ」の4章だけ読みました。

他には「政治教育」、「歴史家の営為」は何とか読めそうな気もしますが、つい面倒になってパスしてしまいました。

すべての知を、比較的単純な原理から成り言語化が容易な「技術知」と、実際の行動の中でのみ知りうる「実践知」に分け、前者のみを絶対視し後者を無視することの危険性とか、過去の信念・知識・偏見から切り離された「精神」が「合理性」を生み出すのではなく、幾世代もの行動への反省と分析の蓄積に照らして適切なものが「合理的」と呼ばれているに過ぎないといったことが書いてある(と思う)。

こんな一、二行の紹介ですら、ものの判った人から見れば失笑モノのことを書いてるのかもしれないが、私にはそれ以外のことは読み取れない。

幸い、訳者解説が短いながら簡潔に本文の思考を説明してくれてますので、一章読み終えるごとに当たってみると良いでしょう。

一部難解ですが、良質な本だと思いますので、是非お手に取って下さい。

私には無理でしたが、もちろん全部読むのが望ましいでしょう。

 

 

それぞれ自由全体を豊富化し安定的なものにしつつ我々の享受する自由を構成している多くの種類の自由の中で、我々は二つの自由が重要だと久しく認めてきた。そのひとつは結社の自由であり、もうひとつは私有財産を所有する権利において享受されている自由である。

第三の種類の自由がこれら二つと並べられることがよくある。言論の自由がそれである。これが自由の重要で基本的な形態であることは疑問の余地がない。それは我々の自由のアーチのかなめ石とさえみなしてもよい。

しかしかなめ石そのものはアーチではない。近年この形態の自由の重要性を誇張するむきがあるけれども、それは他の同じくらい重要な自由が失われることを我々からおおい隠すおそれがある。

人々の大部分は別に言いたいことを持っているわけではない。多くの人の生活は発言する必要感を中心に営まれているのではない。言論の自由をかくも異常に強調するのは我々の社会の声の小さな部分の仕業であり、部分的には正当な自己利益を表現している、というふうに想定してもかまわないだろう。

この利益は濫用しえないでもない。これが、写真を撮影し公刊する無差別の権利、あるいは私邸を監視したりはいりこんだりし防御のすべのない人々をだましたりゆすったりしてばかげたおしゃべりで空虚なことを言いたてる無差別の権利、発言をしようとしない人についてあてこすった文書を公刊する無差別の権利にまでひろげられるとすれば、自由への脅威であることが明らかとなってくる。

大部分の人にとっては、自由に発言する自由を奪われるよりも、自発的な結社の権利や私有財産を奪われるほうがはるかに大きな、かつ深刻に感じられる自由の喪失であろう。このことを現在のイギリスで言っておくことは重要である。なぜなら心得違いをしたジャーナリストや狡猾な圧制者の影響の下で、我々は言論の自由さえ安泰であれば重要なものをなに一つ失ってはいないのだなどと軽々しく信じすぎるようになっているが、これはとんでもないことだ。

2009年3月21日

D・A・シャノン 編 『大恐慌 1929年の記録』 (中公新書)

Filed under: アメリカ — 万年初心者 @ 06:00

またまた随分な骨董品を持ち出してきて恐縮です。

初版が1963年刊、中公新書の通し番号が23という若さ。

巻末の既刊案内を見ると、三田村泰助『宦官』宮崎市定『科挙』増田義郎『古代アステカ王国』など、これまで紹介してきたロングセラーが並んでいる。

最初、世界恐慌に関する標準的な概説書を読むつもりで手に取ったのだが、目次を見て全く性質の違う本だと気付いた。

全編ほとんど、当時の新聞・雑誌・書籍からの引用で構成されている本で、恐慌の嵐に巻き込まれて困窮する労働者・農民・中産階級・学生・子供の生活実態を克明に描写している。

この手の本は、とにかく細部に引っ掛からず、ざっと読み通して大体の雰囲気と概況を知ることのみに目標を絞ることが必要です。

使用目的と読解方法さえ間違わなければ、初心者でも十分有益。

アメリカ史の参考史料として本書を読んでおくのも悪くない。

なお世界恐慌の標準的テキストとしては、ジョン・K・ガルブレイス『大暴落 1929』(日経BP社)や、チャールズ・キンドルバーガー『大不況下の世界』(東京大学出版会)でも読めばいいんでしょうが、私には今のところちょっと手が出ません。

2009年3月18日

高橋裕史 『イエズス会の世界戦略』 (講談社選書メチエ)

Filed under: スペイン — 万年初心者 @ 06:00

最初、カテゴリはイタリアにしようと思っていたのですが、読んでみるとスペインの方が適当かなと感じましたので、そうします。

イエズス会の海外布教のうち、特にインドと日本での活動に焦点を当て、その組織と情報網、世俗国家との関係、経済的基盤、異教文化への対応、布教のための軍事力への態度などの側面を叙述したもの。

イエズス会の起源と展開全般について、広く浅く、わかりやすく平易に説明してくれる本なら良かったのだが、残念ながらそういう著作ではない。

書き下ろしに混じって、学会誌への論文や大学での集中講義ノートなどを元にした章があり、煩瑣で退屈な部分もある。

1494年のトルデシリャス条約でアフリカからインド・東南アジア・中国・日本はポルトガルの進出地域と定められたので、この地域へのイエズス会の布教はポルトガル王国との緊密な協力の下に進められることになる(1580年フェリペ2世によるポルトガル併合後はスペインと)。

財源として、ポルトガル王室からの給付金の他、不動産保有や貿易斡旋など会自身が行なう経済活動からの利潤があり、こうした世俗的活動はしばしば内外の批判にさらされる。

この経済関係の章は、やたら細かな事例が長々と出てくるので参る。

その一つ前の、異文化と布教活動との衝突・妥協を扱った章は読む前は面白そうだなあと思っていたが、実際読むと比較文化論みたいな文章はほんのわずかで、日本イエズス会の組織関係の話が多く、はっきり言って期待ハズレ。

ちなみにイエズス会の日本教区は、京都を中心にした都地区・長崎などの下地区・豊後地区の三つに分かれていたそうで、何か妙な分け方のように思えるが、日本の中心としてのミヤコとキリシタン大名の大村純忠が長崎を寄進した下地区、同じく有力キリシタン大名大友宗麟の領地の豊後と考えれば得心が行く。

最後の軍事に関する章はまあ一番面白い。

異教徒の攻撃・迫害に対する正当防衛としての武力を認める立場から、キリシタン大名への軍事援助に始まり、後には会自身の武装化や重要拠点長崎の要塞化が行なわれる。

一方、「キリスト教勢力による日本征服」への日本人の怖れが布教の妨げになっていることも理解されており、日本国内での戦乱への介入を戒める指令が日本イエズス会やローマ本部から出されている。

しかし豊臣秀吉の迫害を期に、「教会過激派」の宣教師たちの間には対日武力征服と武力総改宗論が燻ぶり続けることになる。

叙述対象としてやや特殊な事項が取り上げられていて、イエズス会全般の歴史を知るには少し不適当な印象を受ける。

初心者にとっては使いにくい本。

読むのならば、細かなことは拘らず、布教活動の大体の雰囲気や概略がわかればよいと構えた方がいいでしょう。

そうじゃないと、さほど長い本ではないとは言え、挫折しかねない。

必読、とまではやはり言えませんねえ。

余裕があればお読み下さいといった感じです。

2009年3月16日

山下博司 『ヒンドゥー教 インドという<謎>』 (講談社選書メチエ)

Filed under: インド — 万年初心者 @ 06:00

またまたインド宗教関係。

2部構成で、第1部がインドの風土、食生活、時間・宇宙概念、神々と祭祀、叙事詩などの背景説明で、第2部が通常のヒンドゥー教史。

まず「はじめに」と題する文章で全体の構成を明記し、各部の特徴と利用方法を説明しているのが、非常に親切であり、好感が持てる。

第1部は身近で取っ付きやすい記述で非常に読みやすい。

高校レベルの読者でもすんなり入っていける文章。

第2部も良好な出来。

ヒンドゥー教と古代のバラモン教との微妙な相違、ウパニシャッド哲学の成立と仏教・ジャイナ教などの自由思想家の登場など、大変わかりやすい叙述。

その後、インドの正統派思想であるヒンドゥー教の中の、六派哲学というものの説明が出てきて、急に難しくなるが、全然理解できず途方にくれるということはない。

しっかり頭に入れて記憶するのは至難の業だが、読んでる途中はまあ大体こんなものかと文脈を追うことはできた。

初心者は細かいことは憶えず、そのくらいでいいんじゃないですかね。

基本的に良書だと思われます。

インド史のサブテキストとしてどうぞ。

2009年3月13日

徐大粛 『金日成と金正日 (現代アジアの肖像6)』 (岩波書店)

Filed under: 朝鮮 — 万年初心者 @ 06:00

金日成が死んで二年後、1996年に出たもの。

2002年の日朝首脳会談前で、岩波刊でこの人物とくれば、同じシリーズの『ホー・チ・ミン』以上に、何かとんでもなく偏った内容なのではと危惧したくなりますが、そのような心配は本書についても杞憂です。

著者は戦後米国に移住した韓国人学者でハワイ大学教授。

金日成の満州での抗日運動が戦後「革命神話」の域に達するまで誇張されたとしながらも、いわゆる「金日成偽者説」は採らず、独立闘争において確たる実績があったことを認めている。

また建国後の行動では、朝鮮戦争開戦という誤った判断をした責任を問いながら、中ソ対立の狭間で自主路線を確立したことは評価し、しかし硬直的な個人独裁体制と権力世襲は非難するといったスタンス。

批判的姿勢は保ちながらも、極端な罵倒や攻撃を避け、南北朝鮮を出来る限り公平な立場でみようとしている。

本来、こういう冷静なアプローチは、他の国や指導者に対してなら大いに共感するところなのだが、本書については頂けない。

この親子に対しては嫌悪と軽蔑以外の感情を持つことが極めて難しい。

彼らが作った体制もその異常性と残虐さにおいて、他の共産主義国からずば抜けている。

日本人拉致があったからというだけではなく、それ以外でも正気の沙汰とは思えない事実が洩れ聞えてくる。

90年代初頭、大学に入った辺りで、金元祚『凍土の共和国』(亜紀書房)とか全富億『金日成・正日の北朝鮮』(日新報道)、李佑泓『どん底の共和国』(亜紀書房)、月刊朝鮮編『北朝鮮その衝撃の実像』(講談社)、黄民基『金日成調書』(光文社)などを読んで、「一体何なんだ、この国は・・・・・」と唖然としたのを覚えている。

とにかく、同じ共産圏の指導者でも、周恩来、胡耀邦、ホー・チ・ミン、チトー、カストロなどと比べると人品に差があり過ぎる。

おまけに無駄に長生きし過ぎ。

1945年ソ連軍によって指導者に選ばれた時に若干33歳ですからねえ・・・・・。

スターリン批判と非毛沢東化を見た上で、死後も自己絶対化を永続させるために息子を後継者に準備するだけの時間的余裕を得てしまった。

中ソ対立も利用して自主路線を打ち立てたことは本書でも評価されているが、逆に言えばソ連の非スターリン化や中国の改革開放の流れに乗り遅れたとも言える。

朝鮮人の不幸と周辺国民の迷惑を考えると、こんなたわいもないことでも言いたくなる。

悪書だとか、読んでも無駄などとは決して言いませんが、特に勧めたくなる本でもありませんでした。

ちなみに、この岩波の「現代アジアの肖像」シリーズも結構読んでますが、全15巻のうち、李鍾元『7 李承晩と朴正熙』と藤原帰一『12 マルコス』は結局出なかったようですね。

特に後者は是非読んでみたかった気がする。

藤原先生もよくメディアでお見かけしますし、お忙しい方なんでしょうが、できれば刊行して頂きたかったなあと思いました。

2009年3月11日

中村元 『釈尊の生涯』 (平凡社ライブラリー)

Filed under: インド — 万年初心者 @ 06:00

ただでさえインド史のカテゴリがスカスカなのに、仏教関係の入門書ばかり読んでるじゃねーかと思われるでしょうが、最近この手の本が何となく好きなのでこれを手に取った。

1963年に出たブッダの伝記を収録したもの。

最初は平易な記述で非常に良いが、途中で「無所有処」とか「非想非非想処」とかの教義の話がやや説明不足のままいきなり出てくるので戸惑う。

初心者にとって無益という訳でもないが、全く白紙の読者がこれだけ読んで十分に基礎を固められるという感じもしない。

こんな偉い先生の本にケチを付けて何ですが、読後感は微妙です。

まあこっちの責任なんでしょうが。

2009年3月7日

坂井栄八郎 『ゲーテとその時代』 (朝日選書)

Filed under: ドイツ — 万年初心者 @ 06:00

ゲーテの作品で読んだことのあるものと言えば、大学時代眠気を堪えながら通読した『若きウェルテルの悩み』(新潮文庫)くらい。

しかも、あらすじも登場人物も全然思い出せない。

その他の著作では、『ファウスト』も『イタリア紀行』も『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』も『親和力』も名前を知っているだけで一行も読んだことがない。

それはそれで恥ずかしいことではあるが、だからと言って別にこういう本を読んじゃいけないということもないだろうと思ったので、これを手に取る。

この手のタイトルで半分文学史みたいな書物は普段なら絶対読もうとは思わないのだが、あの傑作『ドイツ史10講』(岩波新書)と同じく坂井栄八郎氏の著書なので、大きなハズレはないだろうとの目算で買ってみた。

ヨーハン・ヴォルフガング・ゲーテは1749年に生まれて1832年に死去。

七年戦争からアメリカ独立、フランス革命とナポレオン戦争、ウィーン体制と七月革命まで、稀に見る激動の時代がその生涯にすっぽり収まる。

当時帝国都市(神聖ローマ帝国内の領邦の一つとして独立していた都市国家)であったフランクフルト・アム・マインの上流市民(ただし貴族ではない)の家に生まれたゲーテはライプチヒ大学に学び、シュトラスブルク(ストラスブール・当時すでにフランス領)滞在中にフランス文化崇拝の風潮に反逆し、(偏狭な政治的ナショナリズムとは区別される)文化的ドイツ意識に目覚める。

1774年発表された『ヴェルテル』で大いに文名を高める。

その後ザクセン・ワイマル公国の青年君主カール・アウグストに招かれ、枢密参議官・財務庁長官として同国の全権委任者の地位に就く。

そこで「啓蒙絶対主義」と「改革保守主義」の立場から、「われわれが低い階級とよび、しかし神にとっては最も高い階級である」民衆の利益を増進するために様々な施策に力を尽くし、時には高慢な貴族層と衝突する。

しかし、そのような立場にも関わらず、というよりだからこそと言うべきか、フランス革命が勃発するとゲーテは当初から革命への強い拒否の姿勢を貫く。

革命の初期、ドイツの知識層は「自由と平等の陶酔」に囚われ、それを熱狂的に歓迎した。

のちにバークの『フランス革命の省察』をドイツ語訳し、メッテルニヒの片腕として活躍したフリードリヒ・ゲンツですらそうであった(この人は『世界の名著ランケ』での林健太郎氏の解説で触れられているので、以前から名前だけは知っていた)。

だが、フランスで恐怖政治と大量虐殺が荒れ狂うようになると、ゲオルグ・フォルスターなどほんの一握りの「ドイツ・ジャコバン派」を除いて、ほとんどの人々が徹底した反革命派に転ずる。

ロイ・ポーターの本に載っているギボンのフランス革命への態度と併せて考えると、ゲーテやギボンのように見える人には最初から見えてたんだなあという感想を持つ。

1792年9月プロイセン軍連隊長として出陣したカール・アウグストに従い、ヴァルミーの戦いを目撃。

(小国とは言え仮にも一国の君主が他国の軍隊に勤務するというのは現代では想像し難いが、当時は珍しくなかったらしい。)

私が高校生の頃の世界史教科書では脚注でこのヴァルミーの戦いについてゲーテが『対仏陣中記』で述べた「ここから、そして今日から、世界史の新しい時代が始まる」という言葉が載せられていたが(今の教科書では載ってないでしょう)、これは革命を肯定する意味で吐かれたのでは全くない。

ナポレオン時代になると、革命の無秩序を克服する指導者としてゲーテは彼を好意的に迎え、1813年ライプチヒの戦いで頂点に達する解放戦争とドイツ・ナショナリズムの興奮に背を向ける。

晩年、「反動的」ウィーン体制も、冷静な勢力均衡を旨として平和を維持するのに効果的なものとして肯定し、ドイツ統一と自由を求める急進派ナショナリストには決して加わらなかった。

「民族自決」の美名が絶えざる国際紛争を招き、そこから生じたナショナリズムの暴走がどれほど悲惨な結果をもたらしたか知っている後世の視点から見て、メッテルニヒの構想にも汲み取るべき正しさがあったことを著者はかなりの程度認めている。

セバスティアン・ハフナー『ドイツ帝国の興亡』でも、ウィーン会議で作られた「ドイツ連邦」について、中小国の自由と独立を保障し、近隣諸国に脅威を与えず、しかし外部からの侵略に対しては抵抗力を持つ組織であり、ドイツ統一を阻むまやかしとしてのみ捉えるのは誤りだと評価されていたのを思い出した。

専門的な文学史には踏み込まず、あくまでゲーテと同時代の政治・社会の関わりに焦点を絞った本なので、私でも読みやすい。

地図と年譜が載っていないのが残念だが、大きな欠点ではないでしょう。

史実の描写と整理の仕方、時代背景の説明と価値評価の基準、さりげなく挟まれる著者自身の見解、一貫して流暢で明解な文体、どれをとっても素晴らしいの一言。

傑作です。

坂井氏は林健太郎氏のお弟子さんだそうですが、師弟揃って初心者向け啓蒙書の最高の書き手といっていいんじゃないでしょうか。

強くお勧め致します。

 

 

 

 

いっぱし我とわが身を治めることができるような顔をして

自由なんぞを口にすべきではないのです!

いったん柵がとり払われると、法におさえられてほんの片隅に

ひっこんでいたあらゆる悪が、たちまちのさばりだしてくるのですから

(『ヘルマンとドーロテーア』)

 

 

 

 

フランスの悲しい運命を 偉い人たちはとくと考えてほしい

だが それをもっとよく考えねばならないのは下々の者たちだ

偉い人たちは滅んだ―しかし民衆を民衆の手から

守るのは誰だ? フランスでは民衆が民衆の上に専制を布いた

(『ヴェネツィアのエピグラム(格言詩)』)

 

 

 

 

かつてのルター主義と同じことを、今日びはフランス人がやっている

それは静かな教養を押しのける

 

 

 

貴族ならまだいい、彼らの誇りは優雅だから

しかしお偉い民衆よ、君たちはあまりに高慢で粗野なのだ

 

 

 

どこでも憲法を! それは何と望ましいことか

しかし君たちのおしゃべりは憲法制定の役になど立ちはしない

 

 

 

ドイツ人よ、君たちは国民になろうと望んでいるけれど、無駄なことだ

そんなことではなく、自分をより自由に、人間に形成しなさい

(シラーとの共作諷刺詩集『クセーニエン』)

 

 

 

 

各人自分の戸口を掃け

そうすればどの街角もきれいになるだろう

各人自分の課業を果たせ

そうすれば市政もうまくいくだろう   (格言詩『市民の義務』)

 

 

 

 

いちばん合理的なのは、つねに各人が、自分のもって生まれた仕事、習いおぼえた仕事にいそしみ、他人が自分のつとめを果たすのを妨害しないということだ。靴屋は靴型の前にいつもいればよいし、農夫は、鋤を押していればよいし、君主は国を治める術を知ればよいのだ。というのは、政治というものもまた、学ばなければならない職業の一つであり、それを理解しないような者が、さしでがましいことをしてはいけないのだ。    (エッカーマンとの『対話』)

 

 

 

 

多勢、多数は、必然的にいつもばかでまちがっている。なぜなら多数は快適であり、誤りは常に真実よりもはるかに快適なのだ。    (『対話録』)

2009年3月5日

引用文(苅部直1)

Filed under: 引用文 — 万年初心者 @ 06:00

前々回の記事と同じく、飛ばし読みした苅部直『丸山眞男 リベラリストの肖像』(岩波新書)より。

前に見たように、丸山が大学に入学した前後は、共産党員の大量転向によって、かつての活動家たちが、放蕩息子の帰宅とばかりに、「國體」への帰依を、たとえ偽装にでもせよ公言するようになった。その他方で、たとえば河合栄治郎のような、かつては左翼の敵と見なされた自由主義の知識人が、政府や国粋主義者からの抑圧に対して、きびしく節を守って抵抗するようすを目にするのである。

なだれを打った左翼の転向時代で、しかもきのうまで勇ましい、ラディカルなことを言ってたやつが、たちまちわたしなんかをとび越して右がかったことを言い出し、やがて御稜威(みいつ)とか聖戦とかを口ばしるようになる。むしろ、いままでなまぬるいリベラルだと思っていた人のなかに、反動期になればなるほどシャンとしてくるという人がいる。むろんリベラルにもダラシのないのが多かったけれど。とにかく平素口で言っている思想だけではわからないものだという感じを痛切に味わった。

滔々たる「政治化」の波の中で、「人格的内面性」を徹底して守りうるのは、宗教の立場、とりわけ「ラジカルなプロテスタント、例えば無教会主義者であろう」と、丸山の「人間と政治」は説いている。明らかに、無教会のキリスト者であった南原繁を念頭に置いた文言である。・・・・・・

もし経験的現実として目に映る世界がすべてになってしまって、それをこえた目に見えない権威―神であっても理性であっても「主義」であってもいい、とにかく見えざる権威によって自分がしばられているという感覚がなくなったら、結局は見える権威に―これまた政治権力であろうと、世論であろうと、評判であろうと―ひきずられるというのが、私の非合理的確信なんです。

神仏への信仰にせよ、ある理想への確信にせよ、「見えざる権威」に縛られているという感覚が、みずからの「人格」の一貫した統合をしっかり守る。・・・・・しかし先にも見たように、宗教信仰までもが、国家や政治党派、あるいは営利団体による操作の対象となっている時代が、丸山の言う「現代」にほかならない。また、南原であれば、個人の内面での信仰とともに、ネイションの理想を表現する皇室への敬意を通じて、人と人が感情の次元で「国民」の共同体に結ばれる回路を、安定した秩序の支えとして説くことができた。だがすでに「天皇制」への批判者である丸山には、そうした選択肢はのこされていない。「現代」において人間は、不断に流動する力関係の渦にまきこまれ、何が本当の自分の思考なのかもわからなくなり、足元には価値の相対性とニヒリズムがつきまとってゆく。この難問が、丸山の思想の営みには、終生の課題として残ることになる。

2009年3月3日

福田和也 『山下奉文 昭和の悲劇』 (文春文庫)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 06:00

マレー・シンガポール攻略で有名な軍人の伝記。

その存在は知っていましたが、恥ずかしながら下の名前の読み方がずっとわかりませんでした(「ともゆき」と読みます)。

かなり短いので、生涯の全時期を詳細に語るというものではなく、焦点を絞った記述。

まあまあ面白いが、同じ著者の『地ひらく』(石原莞爾の伝記)や『乃木希典』に比べると、強い印象に乏しい。

前者の重厚な叙述は日中両国の現代史を知る上で有益だし、後者の人物造形には大いに感銘を受けるが、本書についてはあまりすっきりとした読後感が浮かばなかった。

皇道派人脈との関わりや戦前の軍歴についてもっと詳細に論じてくれればよかったと思った。

先の大戦のに関する著者の多面的見解は興味を持って読んだが、本書だけでしか読めないというものでもない。

福田氏の熱心な読者でなければ、強いて読む必要は無いかもしれません。

2009年3月1日

引用文(水谷三公1)

Filed under: 引用文 — 万年初心者 @ 06:00

最近飛ばし読みした、水谷三公『丸山真男 ある時代の肖像』(ちくま新書)より。

経験に即して考えるなら、ロシア革命からポル・ポトまで、二〇世紀の多くの全体主義が、国民主権の否定ではなく、フランス革命同様、国民意思ないしその変奏である人民意思の絶対的優越を根拠に登場し、伝統的体制では想像できないほど悲惨で徹底した抑圧を実行した事実は残る。それらが直接・短期的にもたらした諸結果は、「長期的に見た」革命と普遍理念の負債項目に計上される。そして、それらの犠牲が普遍的理念の「定着」によってもたらされたとされる果実・成果と釣り合うかどうかには、深い懐疑がつきまとう。

そもそも日本に、ドイツやイタリアと一括して論じられるようなファシズムが存在したかどうかが疑問である。強い精神のナチ指導者と、天皇や権限に逃避するひ弱な精神の日本の指導者を(やや誇張と歪曲を交えながら)対照させて描くなど、丸山は日本型ファシズムの特異性を強調する。これには日本ファシズムの特殊性を強調しすぎるという批判があるが、逆の理解も可能である。つまり、戦時日本の体制をナチスと基本的には同一のファシズムという類型に一括したのが問題で、異なった類型としてなら処理できたはずの差異を説明するため、日本ファシズムの特殊性をことさら強調せざるをえなくなったという見方もできる。

一九三〇年代から敗戦までの日本政治がきわめて異常な状態に陥ったのは事実だし、その下でまず「敵性外国人」やコミュニスト、ついで自由主義者が迫害された。これ以外にも、ナチス・ドイツとの類似点をいくつも指摘するのは容易だろう。しかしそれらは、ドイツや日本以外の国の戦時動員体制にも無縁ではなかった。他方で、ドイツと日本では、違いもまた際立っている。たとえば、ドイツではコミュニストを含めた「危険人物」は、数万人規模で殺され、処刑されたが、日本ではおおむね「泣き落としの転向」と「不愉快な拘禁・監視」でけりをつけた。日本の弾圧はたいした問題ではないと言うのではなく、「体制敵」の「処理」方法の違いに、体制自体の違いが深く刻印されているという意味である。

あるいは、戦時体制下、ほとんどお飾りにすぎなかったとは言え、帝国議会が最後まで開かれていた事実をあげてもよい。この結果、憲法をはじめとして、法的正統性の面で、戦後体制がそれ以前の体制の「改正」として出発したことは、戦後日本とドイツを比較して考える上でも重要である(このかぎりで、憲法学者がポツダム宣言受諾による「八・一五革命」論を借用し、もてはやしたのは疑問である)。国民主権を含めて、原理的断絶があったにもかかわらず、戦前までの体制の「改正」という「虚構」から出発したから、民主化も改革も中途半端で、結局は反動・復古・逆コースを許したとする評価も可能だろう。他方で、なぜヨーロッパのように、組織だったレジスタンスが組まれなかったのか、「戦争責任者」の処罰を日本人自らの手で行なわなかったのかなどについて、日本人民後進論(ずるずるべったりで、泣き寝入りの国民性)や「天皇制無責任体制」とは別の見方も開けるだろう。

ファシズムの問題を正面から取り上げ、詳細に議論する準備も能力もないが、ドイツのナチズムと日本の体制を、基本的には同じファシズムに属するヴァリエーションと考えるより、ソ連のコミュニズム体制、ドイツのナチズム体制などと同列に並ぶ、しかしそれらより組織性・動員力などが劣る、全体主義体制の、しかしファシズムとは別の下位類型の一つと考えるほうが、政治的、党派的な利害得失はともかく、認識的には実りが多いように思われる。

WordPress.com Blog.

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。