万年初心者のための世界史ブックガイド

2009年1月22日

服部龍二 『広田弘毅 「悲劇の宰相」の実像』 (中公新書)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 06:00

去年の6月に出た本。

1930年代に外相・首相を務め、戦後の東京裁判で文官として唯一死刑になった外交官の伝記。

本書では、東京裁判が正当だったのかどうか、死刑が適当だったのかという論争から一先ず距離を置いて、その政治的責任を冷静に論ずるという視点を取っている。

この人については、城山三郎『落日燃ゆ』(新潮文庫)という有名な歴史小説があり、平和を望みつつも軍部の圧力によって果たせず、戦犯裁判で不当にも絞首刑となりながら、一言も弁明せず従容として死に臨んだという、同情的なイメージが広く持たれていたそうです(私は未読なので何とも言えませんが)。

それに対して本書での評価はかなり厳しい。

年代順に見ていきましょう。

まず、1933年9月斉藤実内閣の内田康哉外相の後任として外相に就任。

この時期塘沽(タンクー)停戦協定で満州事変は一応終結し、日中関係は小康状態に入っていた。

蒋介石は対日融和策を取りつつ、共産党討伐に全力を挙げており、日本側でも協調外交の気運が一時優勢となる。

(この時期の日中関係については、松本重治『上海時代 』(中公文庫)、大杉一雄『日中十五年戦争史』(中公新書)が非常に優れたテキストになります。)

34年4月、いわゆる天羽声明が「アジア・モンロー主義」の表明だとして列強の猜疑を招き、広田外交の最初の躓きとなる。

(これについては重光葵が排他的革新派として背後にいたと批判的に記されている。)

同年7月成立の岡田啓介内閣でも外相に留任。

国民政府内の汪兆銘・黄郛(こうふ)・唐有壬などの親日派と協力し、「日中提携」路線を推進し、1935年には相互の公使を大使に格上げするなどの成果を上げる。

しかし35年には後に致命的結果を招く、日本陸軍の華北分離工作が始まり、6月梅津・何応欽協定と土肥原・秦徳純協定により中国軍が河北省・チャハル省から撤退。

広田はそれを強く抑えようとはせず、逆にこれを利用して「広田3原則」と呼ばれる外交方針を中国に提示。

1.排日言動取締りおよび欧米依存策からの脱却と対日親善策の採用

2.満州国の黙認と反満政策の停止、北支における経済的文化的融通提携

3.外蒙等よりの赤化脅威に対処するため外蒙接壌方面での諸般施設への協力

がその内容で中国側への一方的要求のみであり、この時期イギリスの支援で進められていた中国の幣制改革にも協力しなかった。

これで中国政府内の親日派はその基盤を失い、黄郛は引退、汪兆銘は狙撃され負傷、唐有壬は暗殺される。

11月の冀東防共自治政府成立など陸軍の分離工作の更なる進行にも、広田はさしたる抵抗をみせなかった。

1936年二・二六事件で岡田内閣が倒壊した後、広田に大命降下。

この広田内閣でまず重要視されるのが、組閣への陸軍の露骨な介入と軍部大臣現役武官制の復活。

軍部大臣現役武官制については、これを陸軍の政治介入の決定的要因と見做すべきではないという意見が筒井清忠『昭和十年代の陸軍と政治』(岩波書店)という本で展開されているらしく(例によって私は未読)、本書でもその意義を過大に評価すべきでないと書かれているが、教科書的な理解ではやはりこれが軍が政治を引きずり回す上で有効な手段となり大きな弊害を残したということになっています。

広田内閣時のもう一つの重大史実は36年11月の日独防共協定締結。

ナチス・ドイツへの接近という不吉な第一歩を踏み出したわけだが、広田は防共協定に中国の参加も想定し、それを通じて日中関係の改善を目論んでいたらしい。

しかし蒋介石は日本側の譲歩のない共同防共を拒否、12月には西安事件で自らが監禁され、これまでのような反共政策を続け得なくなってしまう。

ちなみに、何度も何度も同じことを書いて恐縮ですが、こういう現代史は年代を記憶することが絶対に必要です。

1935年=冀東防共自治政府、幣制改革、ドイツ再軍備宣言、英独海軍協定、エチオピア戦争、仏ソ相互援助条約、米国中立法、1936年=二・二六事件、西安事件、日独防共協定、ベルリン・ローマ枢軸、ラインラント進駐、ブルム人民戦線内閣、スペイン内戦、大粛清開始(ジノヴィエフ・カーメネフ裁判)と頭に浮かぶようにすべき。

なお1939~41年の三年間についてはかなりの程度、月も覚える必要がある。

初心者でも、というか初心者だからこそ、この手の作業を疎かにすべきではないと考えます。

閑話休題。

1937年1月広田内閣総辞職、陸軍穏健派の実力者宇垣一成に一旦大命は下るが、かつての「宇垣軍縮」の推進者に対する陸軍中堅層の反発で、上記の軍部大臣現役武官制が早速悪用され、組閣は流産。

いくつかの本を読んだ限りではこの宇垣という人を褒める記述が多く、もし半年後の盧溝橋事件の際、首相が宇垣だったら日本の運命は変わっていたかもしれないとも言われていた。

結局2月に陸軍出身の林銑十郎内閣が成立するが、5月末には総辞職。

37年6月第一次近衛文麿内閣成立、広田は外相復帰。

7月7日盧溝橋事件勃発。

当初近衛内閣は現地解決・不拡大方針を取ったものの、杉山元陸相が動員を主張すると、近衛・広田ともそれをあっさり認めてしまう。

それどころか近衛はメディアに華北への派兵を大々的に発表し、世論を煽ることすら行なった。

近衛には、陸軍の独走に先手を打って、政治が主導権を保持できるようにとの意図があったが、これは結果的に事変の収拾を不可能にし、破滅的な事態を招くことになった。

7月20日の閣議で内地三個師団の派兵が決定。

これがいくつかある「昭和史の決定的瞬間」の一つだったと思われるが、この時外相の広田の下にあった石射猪太郎は広田への深い失望の言葉を残している。

8月に第二次上海事変が起こり、戦争は華中に飛び火。

10月ごろからドイツを仲介としたいわゆるトラウトマン工作が始まったが、首都南京攻撃前の交渉進展を求める進言を広田は無視、矯激で無思慮な反中世論に迎合し陸軍にも先立って和平条件を吊り上げる愚を犯す。

1938年1月に多田駿参謀次長らの反対を押し切り、トラウトマン工作打ち切りを決定、「爾後国民政府を対手とせず」との第一次近衛声明を発表。

日中全面戦争は泥沼化し、5月には広田は外相を辞任。

こういう記述を読んでいくと、近衛共々、「悪意でやったんじゃないでしょうけど、やっぱり困った人だなあ」という印象を拭えない。

戦後の東京裁判の章は、通説を一部修正するところはあるものの、基本的に広田に対して非常に同情的な記述。

面白い。

よく整理された叙述で、初心者でも十分読みこなせるレベルでありながら、熟読すれば基本的知識がしっかり身に付く。

史的解釈に関しても、明解で一部厳しい評価を下しながらも、後世の安全地帯から完全な後知恵で一方的に断罪するという色彩が薄いのが良い。

相当使える本です。

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