万年初心者のための世界史ブックガイド

2008年12月2日

ジャン・クリスチャン・プティフィス 『ルイ16世 下』 (中央公論新社)

Filed under: フランス — 万年初心者 @ 06:00

上巻の記事の続き。

以下の文章も、私の読み違いや変なまとめ方があるかもしれませんが、ご容赦下さい。

大革命の数年前から、ルイ16世と財務総監カロンヌが税負担の平等化を目指した改革を進める。

著者が、このカロンヌをテュルゴーやネッケルよりも高く評価していると読める記述があったと思う(断言できないのが情けないですが)。

1787年召集された「名士会議」での特権階層の反対で、改革は否定され、上からの穏健な近代化政策は挫折し、大革命への道が開かれる。

ここで注目すべきは、当時の民衆の世論が、訳もわからず特権層の王権への反抗を支援したこと。

一般的にはほとんど無視されてきたこの奇妙な時期について、それを「前革命」と呼ぶ向きもあるが、現実には、社会の激動と暴力を見れば、すでに「革命」そのものであるのは間違いなかろう。そしてこの時期を特徴づけるのは、ある種の逆説である。国家の構造を合理化し、税をより公平に割り当て、近代的な改革を推し進めようとする権力が、国民の利害を十分に考慮しつつ振る舞いながら、貴族的であると同時に民衆的でもある、非常に異質で広範な反・絶対王政の連合に対して強権的な手段を行使せざるをえないという逆説!

第三身分の者たちは、権力に抵抗する人々に集団的な支持を与える傾向にあり、「反革命」の旗印のもとに、よく状況を考えず、みずから進んで加わってしまった。この拒否の戦線は、おそらく、本性に反する同盟であった(この同盟は、公平な税制を最も強く望んでいた恵まれない階級の人々を犠牲にして行動した)。

1789年三部会招集によって革命の幕が開きますが、有名な議決方法をめぐる対立によって、上記の特権階層と第三身分との不自然な同盟に亀裂が入る。

この時、王権が第三身分と同盟して貴族・聖職者の特権層を抑える策を取れていれば、革命の暴走も無かったとされるが、残念にも王権に世論を掌握し指導できるだけの力量は無かった。

ここまでで全体の三分の一くらいですが、以後革命の経緯を細かく述べていく部分になります。

これが非常に良い。

当時の政治情勢の概略と、焦点となっていた課題、革命諸党派の勢力分布、パリ・ヴェルサイユの中央情勢と地方および外国の形勢との関係などが実にわかりやすく詳細に叙述されている。

それらの舞台で活動する国王をはじめとする諸個人の描写も見事。

高校教科書に載っているような、事件の大体のあらましは事前に頭に入れておいた方がよいが、もしあやふやなら時々立ち止まりながら、一つ一つ確認すればよい。

本書の革命史はルイ16世処刑のところでとどまるが、一般的な通史としても非常に優れている。

革命勃発後の記述を読んでまず印象に残るのが、社会の無秩序化の急激な進行。

教科書レベルの記述を読んだだけだと、バスティーユ襲撃後も確固たる勢力を維持していた王権が、ひと固まりの議会勢力に対して幾度か反革命の攻勢をかけ、その都度撃退されて遂には打倒されるというイメージを持つが、本書では全く違うように思える。

まずバスティーユ襲撃のきっかけとなった軍隊の配置は、すでに起こっていた食糧暴動への対処のためであり、国民議会弾圧のためではなかったとする解釈が記されている。

悪意に解釈しても、議員に無言の圧力をかけるためであり、実際の武力行使は全く考慮に入れられていなかった。

民衆への発砲は可能な限り避けるように、との命令書が載せられている。

バスティーユ陥落後は、軍隊の規律と士気の崩壊によって、王権は急激に弱体化し、情勢を把握する術がほとんど無くなる。

7月14日以後初めてのパリ訪問の時点ですでに、国王は生きて帰れないかもしれないとの覚悟をきめるまでになっている。

かと言って、当時の国民議会(憲法制定議会)指導者で、少し後でフイヤン派と呼ばれるようになる、ラファイエット、バイイ、ミラボー、バルナーヴ、デュポール、ラメットが確固として主導権を取っているのではない。

浅薄で支離滅裂な世論によって情勢は急変し、間歇的にパリの下層民から湧いて出る暴民としか言いようの無い匿名の集団(言葉の真の意味での賤民と言うべきか)によって、革命の歯車が回されていく。

(指導者として何人かの名が挙げられているが、聞き覚えのあるのはサンテールくらい。)

不作による食糧不足など如何ともし難い災厄を「王室と貴族の陰謀」と思い込み、その種の妄想をもって自らを正当化し陰惨な暴力行為に走る民衆の心理的欠陥に著者は言及している(ル・ボン『群衆心理』等参照)。

よく知られた心理的メカニズムが、また始まった。つまり、食料不足から飢餓への不安が高まり、庶民は、「買占め人」、製粉業者、パン屋、農業経営者、町や村の職員、聖職者、貴族、こうした人々がグルになって悪意ある操作をしていると信じ込んでしまう。そして、パンのかわりとなるものがあると、それが土地を思わせるので、人々は悪意に対して激しく抗議し始める。そして、自然に、宮廷が民衆に対して陰謀を企てていると思い込んでしまうのだ。ルイ15世の時代にも同じような現象があった。しかし、政治的状況がまったく異なっていた。

またはっきりと明言されてはいないが、そういう民衆の暴力による無秩序自体が、経済情勢悪化の一因なのだから、この悪循環は全く醜悪極まりない。

その種の低劣な下層民の圧力を受けて議会でも、常により過激で暴力的な一派が勝利を占める傾向が止まらなくなっていく。

ここで著者の革命観に触れると、ジャコバン派の独裁や恐怖政治のように、フランス革命には20世紀の全体主義を思わせるような不吉で醜悪な一面が確かにあったが、それで人権宣言をはじめとする革命の意義を全否定するのは不当だ、というもののようで(恐怖政治が人権宣言の必然的帰結であったとの説は認め難いと書いている)、まあこれが今のフランス人の平均的意見というところなんでしょうか。

著名な革命史家のフランソワ・フュレが、ジャコバン独裁を「プロレタリア独裁」の先駆けとして評価するようなマルクス主義的革命史学に批判的な一方、その反動として共産主義の悲惨な失敗から「逆算」してフランス革命を全体主義の起源としてのみ捉え、革命の意義を一片たりとも認めようとしない立場にも反対していると何かの文章で読んだ記憶がありますが、著者の立場もそれに近いように感じました。

したがって極端な反革命派ではないはずなんですが、それでも教科書で名前だけ出てくる事件の実際を淡々と詳細に述べ、それがいかに凄惨で残酷なものだったかを記している。

例えば、89年10月の「ヴェルサイユ行進」や92年6月の王宮乱入事件、同年8月10日事件の描写を読むと、他の本であらましは知っていたが、改めて気分が沈みます。

ヴェルサイユ行進の記述を読むと、ヴァレンヌ逃亡事件の前に、もうすでにこういうことが起こっていたのだから、高校教科書のレベルですら、「この事件で国王は国民の信頼を失った」と書くのは少し公平さに欠くんではないかと思えてくる。

89年10月以降パリに移った国王一家だが、この時点で事実上虜囚に等しかった。

内戦を避けようとする気持ちから90年連盟祭での反攻の機会を逃し、パリからの退避も、オルレアン公フィリップ・エガリテ(平等公・七月王政の国王ルイ・フィリップの父)の策動を懸念し、決断には至らず。

実行は周知の通り、91年のヴァレンヌ事件となるのだが、不幸にして失敗。

本書では、残された演説草稿や行動経緯の分析から、この時の国王の目的は「国外逃亡と外国軍隊の武力を借りた反革命」ではなく、自身と家族の安全を確保した上で、パリの過激な政治クラブとサンキュロットの圧力を受けず、議会と憲法の制定について交渉することだったとしている。

これは以後の章でも何度か強調されることだが、89年以後死に至るまで、ルイが目指したのは、文字通りの「反革命」、すなわち絶対王政とアンシャン・レジームそのものへの復帰ではなく(王妃と王弟はまだその希望を棄ててはいなかったが)、諸身分の平等と憲法の制定を前提にした自由な立憲君主制だったと述べられている。

その治世を特徴付ける開明的姿勢は自身が革命に脅かされている最中でも全く変わっていなかった。

国王一家がパリに連れ戻され、1791年憲法が制定されると、民衆運動の過激化を懸念するフイヤン派が王党派に接近し、やや事態が改善したように思われた。

しかしここで対外戦争によって国内の緊張を高め、それを利用して共和政を樹立しようとするジロンド派が台頭し、強い圧力をかける。

主なメンバーはブリソ、ヴェルニヨ、ペティヨン、コンドルセ、ロラン夫人ら。

彼らは確かに1792年に宣戦と王政打倒に成功するが、あっという間にジャコバン派に主導権を奪われ、わずか1、2年で自分たち自身がギロチン送りになるか自殺に追い込まれることになる。

国王は長い間宣戦への圧力に抵抗するが抗し切れず、外国軍による解放か戦時における自身の求心力回復に望みをかけるが、この期待は空しかった。

前線での連戦連敗で恐怖に駆られた群集は集団ヒステリーを起こし、スケープゴートを求め、92年8月10日、国王一家のいるテュイルリー宮殿を襲撃、衛兵を虐殺する。

国王らは襲撃直前に議会に避難したが、この時暴徒と衛兵の戦力は拮抗しており、もし断固として防衛戦を戦っていれば、何か別の展開があったかもしれないと記されているのを読むと、切歯扼腕せずにいられない。

著者はこの8月10日事件をもって、フランス革命の肯定し評価すべき局面は完全に終わったとしている。

8月10日は、第二のフランス革命、立憲議会によって整備された政治制度を打ち壊すという目標をもった、騒々しく、熱狂的で、荒々しい革命が誕生した日なのである。実際に勝利したのは、人民の主権などではない。過激派、いやむしろ暴力的で不寛容な諸分派の連合体、それに、権限もないのに人民の名において意思表示をする権利を奪取した数千の連盟兵と地区の民衆が勝利したのである。自由と人権にもとづき、諸特権が廃止された社会を作ろうとした1789年の革命は息絶えた。合法性や法治主義の尊重といったことには頓着しないもっと急進的な運動がそれに取って代わったのだ。・・・・・フランス革命の歴史において、決定的な断絶は、89年と93年、すなわち立憲議会と公安委員会の独裁のあいだにあるのではなく、89年と92年のあいだにある。というのは、この八月の動きというのは、ある特異な形態の権力、ジャコブ・レブ・タルモンの言葉を借りれば「全体主義的民主主義」の到来を告げるからである。

君主や貴族の権力が制限されなければならないのと全く同じように(と言うかそれ以上に)、民衆の権力も制限されなければならないし、様々な非民主的要素と均衡させられなければならないという、ごく当たり前のことを認めるのを拒否した人々によって、革命は止めど無く堕落し、破壊的になっていった。

以後、国王はタンプル塔への幽閉、裁判を経て93年1月に処刑される。

この生涯最後の時期の叙述は深い感動を起こさせる。

著者は一般的な現代フランス人なのだから、王党派でもなんでもない(はず)。

実際のところ、王の悲劇的な最期が、古の君主制を懐かしむ気持ちをこの現代社会において呼び覚ますかといえば、もはやそういうことはありえない。

本書での国王処刑までの記述もありきたりの美辞麗句や大げさな悲嘆表現を用いているわけでなく、非常に冷静な筆致で事実を細かく描写しているだけである。

しかし、それが反ってルイ16世が持っていた威厳と勇気と寛大さを強く感じさせる。

著者も、能動的に支配すべき君主としては欠けるところが多かったルイが生涯の最後に示した偉大さを完全に承認し、賞賛している。

そしてこれが王政復古期に美化され誇張された作り話でないことを論拠を挙げて説明している。

上記の文章の後、著者はこう続ける。

ただし、われわれは、この国民的悲劇を思い出しただけで、記憶の影の部分が攪拌され、苦しい思いをすることは確かだ。誠実に、そして何の底意もなく王の死というものを評価し、それが本来もっている意味を考えることをわれわれは拒絶している。・・・・・ポワンカレはエリゼ宮[大統領府]を去ったあと、次のようなことを口にしている。「今こそ、われわれの病弊の原因が、ルイ16世の処刑にまで遡るものであるかどうか、熟考すべき時である」

(このポワンカレの言葉はピエール・ガクソット『フランス人の歴史』(みすず書房)にも引用されていた。)

下巻はややペースを落として読んで、途中丸一日サボったりしたので、読了まで一週間弱かかりましたが、上巻よりもスラスラ読めます。

特に後半三分の二以降は本当に息もつかせない面白さ。

上・下巻通じて、文章は読みやすく訳文は巧いと思う。

下巻巻末で索引が充実しているのは良いが、年譜は簡略過ぎてほとんど役に立たない。

ここはもうちょっと行き届いた詳細なものが欲しかった。

だが、総合的な評価はやはり「素晴らしい」と言えます。

上・下巻とも最初の100ページ辺りまではかなりツラいと思います。

そこをくぐり抜けるとかなり楽になりますので、何とか持ちこたえて下さい。

教科書レベルの次にいきなり読むべき本でないことは言うまでも無いが、手に入りやすくて平易な本でいうと例えばツヴァイクの『マリー・アントワネット』を通読した人なら、十分取り組んでいけると思う。

各巻600ページ超、定価3990円と、根気も費用も要る厄介な本ですが(私は買わずに借りました)、通読する価値は十二分にあることは保証致します。

(本書を読むのも記事にするのも少々疲れましたので、次の更新まで普段より少しだけ間隔を空けさせて頂きます。)

本来、国民に起源を有する唯一の主権と、それを体現する全能の議会という考えは、ひとつの恐るべき障害物となった。そして、この思想が、一連の革命の悲劇と、さまざまな暴発的出来事の上に重くのしかかってゆくことになるのだ。よく知られているように、一つのフィクションにすぎない絶対王政は、旧体制下のフランスにおいて存在していたいくつかの対抗勢力をたえず意識しつつ統治を行っていた。いま、この絶対王政に、もっとずっと強く恐ろしい新たな力が置き換わろうとしているのだ。それは、制度上ブレーキとして働いたり、あるいは束縛として機能したりする可能性のあるすべてを、ただちに厄介払いしようとしているのだ。その新しい力とは国民的絶対主義である。主権は、いままさに、王という一人の人物、実際に権力を行使するには、強い制限が働いている、一人の人物から、唯一の議会によって代表される国民へと移ろうとしている。だが、この国民なるものは、すぐにデマに踊らされ、過激な行動へ走る傾向になるのだ。一つの脆弱な権力―たしかにそれは恣意的な乱用の危険はある―が、強力な権力に場所を明け渡そうとしているのである。この権力は、原理的には、行政、立法、司法のすべての権限を保持しており、しかもそれは、その起源からして、またその本性からしても全体主義に傾きがちだ。1789年7月28日から、国家反逆罪という観念が王権反逆罪という観念に取って代わった。それがすべてを語っていよう。

主権について、それを法的正当性の占有といった「形而上学的」表現によってのみ問題提起することで、革命運動は、近代的民主主義の方向へ平和的に進んで行く可能性をみずからに断ってしまった。たとえば、一世紀早く、「権利章典」によって立憲王政を確立したイギリスのようにはいかなかったのである。これは、主権の起源についての抽象的な議論をせずに、王権の制限、しかも時代と社会の流れにつれて変化しうる制限を具体的に定めたのであった。今日でもなお、議会における女王は、議員たちの中にある女王でありながら、主権者として、すなわち、すべての権力の起源として尊敬されているのである。中世的な意味を含んだフィクションとしての王権は、世界で最も強固な現実の一つである民主主義的な現実の中で、人々にとって、一種の潜在的な支えとして役立っているのだ。アメリカの独立革命では、1787年の合衆国憲法によって、権力は厳密に分離され、イギリス同様に流血の惨事は避けられた。たしかにそれは、堅固な階級制度から解放された新しい社会だからこそ、十全に機能したのだが。

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