万年初心者のための世界史ブックガイド

2008年10月10日

西部邁 『思想史の相貌』 (徳間文庫)

Filed under: 近代日本, 思想・哲学 — 万年初心者 @ 06:00

『思想の英雄たち』(文芸春秋)の日本版みたいな本。

福沢諭吉から福田恆存まで、近代日本の13人の思想家批評集。

夏目漱石などの文学者や伊藤博文などの政治家も含む。

短いページながら、密度は非常に濃い。

興味が持てそうなら、一度お読みになるのも宜しいかと思います。

なお西部氏の最近の著作では、『日本国憲法を読む 上・下』(イプシロン出版企画)はお勧めです。

この方の本は大学時代以来相当読んでますが、高坂正堯氏と違って、反発を感じたり納得できなかったりしたことがよくありました。

そういう感じが薄れたり濃くなったりという状態だったのですが、上記の本は違和感を感じる部分がほとんど無く、非常にすっきりと得心できるものでした。

吉野が天皇主権を認め国民主権を拒絶したことをもって、民本主義と戦後民主主義のあいだの根本的差異とするのはいささか皮相の見方である。というより、そのようにして国民主権の想念にこだわるのが戦後民主主義の誤謬だというべきかもしれない。吉野は天皇主権を法の哲理として承認したが、それを政治の外部に追放することによって、主権の概念そのものを実質的に骨抜きにしてしまった。加えて、吉野は天皇の意志と国民の意志とが連絡し合っていると主張しているのであるから、抽象的かつ形式的なるものとしての天皇主権は、それを国民主権と呼び替えたとて、実質的にみて大した差はないということになる。いってみれば、天皇主権といい国民主権といい、象徴のレベルにあるにすぎないのである。

政治論として主権の概念に固執しなかったのは、吉野の先見の明である。どだい、主権なるものを政治の場において構想するのは馬鹿気ている。少なくともそれは近代の政治にはふさわしくない。なぜなら、主権とは「何ものによっても制限されることのない最高権力」のことであり、そんな凄い権力は、天皇という個人においてであれ、特権階級という少数者においてであれ、国民という多数者においてであれ、所有されてはいけないものなのだ。「無制限の権力」をもつことができるのは、ほとんど定義的に、完全無欠の人間のみである。神とかいうものは、たぶん完璧な存在なのであろうが、権力の神授説を否定したところに近代の政治がはじまったのだ。

デモクラシーにとって、主権の概念が不必要であるばかりでなく有害でもあることについては、H・ハートやF・ハイエクといった高名な法哲学者がとうに指摘している。日本の憲法学者は、ほかのことについては外国の言説の輸入業者よろしくやっているくせに、この主権無用(さらには有害)論については一言も紹介しない。その理由は簡単で、国民主権を事あるごとに繰り返すのが、日本の憲法学者の仕事であり、ハートやハイエクの説を広めようものなら、彼らは仕事にあぶれてしまうのである。吉野は天皇主権を棚上げすることを契機にして、主権概念そのものをデモクラシーの議論から放逐した、または遮断した。そこが民本主義の最も面白いところだと私は思う。

広告

WordPress.com Blog.

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。