万年初心者のための世界史ブックガイド

2008年8月30日

ミルトン・オズボーン 『シハヌーク 悲劇のカンボジア現代史』 (岩波書店)

Filed under: 東南アジア — 万年初心者 @ 06:00

原著が1994年、翻訳は96年刊行の伝記。

「シアヌーク」というのはフランス語読みで、原語ではタイトル通りの「シハヌーク」が近いそうだ。

ポル・ポト政権による虐殺という最大級の悲劇があるので、小国でありながら関連本の多いカンボジア現代史ではあるが、対象年代とテーマの双方が幅広くて一般的通史として網羅性のあるものを探してみて、これが目に付いたので読んでみました。

1860年アン・ドゥオン王の死去後、二人の息子ノロドム王(在位1860~1904年)とシソワット王(1904~27年)が相次いで即位。

その間1863年にカンボジアはフランスの保護国となる。

シソワット王の後を継いだ息子のモニヴォン王(1927~41年)が死去した際、ノロドム家とシソワット家の継承争いをフランスが裁定し、モニヴォン王の娘とノロドム王の孫スラマリットの間に生まれたノロドム・シハヌーク(シアヌーク)が若干19歳で即位。

当時日本軍の1940年北部仏印進駐、41年南部仏印進駐によってフランス植民地体制が動揺しており、御し易い王として若いシアヌークを選んだという背景があった。

第二次大戦後、シアヌークは共和政を志向する急進独立派や北ヴェトナムの影響を受ける極左派などの圧力をかわしながら、復帰してきたフランスと巧みな交渉を行い、カンボジアを独立へと導く。

このカンボジア独立の年というのがはっきりしない。

46年の暫定協定でフランス連合内での内政自治権を承認され、49年フランス連合内での独立を果たし、53年に司法・警察・軍事権限が委譲され、54年に外交権委譲で完全独立という流れになっている。

本によって以上四つの年代のどれかが独立達成年とされている。

55年父親に譲位しスラマリット王即位、自らは殿下と呼ばれるようになり、人民社会主義共同体(サンクム)という政治組織を結成、王制社会主義というユニークな体制を唱える。

外交面では55年バンドンでのアジア・アフリカ会議出席後、やや中国よりの中立政策を推進し、54年結成の東南アジア条約機構(SEATO)への参加を拒否。

58年に中華人民共和国と外交関係を樹立するが、アメリカの援助も受けいれる。

60年父王が死去すると王位には就かず、国家元首に就任。

しかしカンボジアの中立路線を過度に容共的とみなす東西の隣国、南ヴェトナムとタイ、およびその支援者である米国との関係が徐々に悪化、シアヌーク暗殺未遂やクーデタ計画が起こる。

シアヌーク自身も対米不信を強め、63年にはアメリカの援助を拒否、65年には対米断交に踏み切る。

65年には北爆によってヴェトナム戦争のエスカレーションが進むが、将来ヴェトナムでの共産勢力の勝利は避けられないとみたシアヌークは融和策を取り、カンボジア東部国境での北ヴェトナム・ヴェトコン軍による補給基地建設を黙認する。

この政策には国内の右派勢力が反発し、加えて援助停止と経済建設の失敗、汚職の蔓延で西部農民の暴動、東部山岳民族の反乱が起こり、国内情勢は騒然となる。

シアヌークは国内では左派勢力を激しく弾圧していたが、ポル・ポト(本名サロト・サル)に率いられる極左勢力クメール・ルージュが徐々に不気味な頭角を現してくる。

70年シアヌーク外遊中に、右派のロン・ノル将軍が政権を奪取。

シアヌークは中国の支持を得て、かつての敵クメール・ルージュと共闘関係に入り、75年ロン・ノル政権は打倒されるが、シアヌークに独自の勢力はなく、実質クメール・ルージュの虜囚に等しい存在となる。

このポル・ポト政権下で、農村への強制移住、強制労働、大量虐殺が行われ、カンボジア国民は地獄を見た。

対外的な看板としての利用価値を認められたシアヌーク自身はようやく生き延びるが、子や孫や親族の多くが殺害される。

76年に最大の支援国である中国で毛沢東の死と極左派「四人組」逮捕が起こり、中国内政が穏健路線に舵を切ったことも、ポル・ポト政権がシアヌークを生かしておく決定をしたことに影響があったらしい。

本書でシアヌークに対して厳しい見方をすることが多い著者であるが、クメール・ルージュが勝利した後あれほど極端で残忍な政策を実行するとは誰にも予想できなかったとして、シアヌークの70年から75年の行動に関しては同情的である。

カンボジア国民の激しい反ヴェトナム感情はクメール・ルージュにも共有されており、ポル・ポト政権成立と同じ75年にサイゴンを陥落させ南北統一を達成したヴェトナムとの国境紛争が起こる。

78年末にヴェトナム軍がカンボジアに進攻、79年初頭にプノンペン陥落、親ヴェトナムのヘン・サムリン政権樹立。

国外に脱出したシアヌークはヴェトナム軍追放のため、怒りと嫌悪を押し殺しポル・ポト派と連携、それにソン・サン派を加えた三派で中国・ASEAN・米国の支持を得て82年民主カンボジア連合政府を樹立。

このソン・サン派を、以前私は旧ロン・ノル派と理解していたが、ソン・サン自身は元はシアヌーク経済・財政顧問で後に袂を分かった人物で、冨山泰『カンボジア戦記』(中公新書)によると一部に旧ロン・ノル派系統の人物が参加しているというだけだそうだ。

この後、国際情勢の緊張緩和を受け、89年ヴェトナム軍撤退、91年カンボジア和平協定締結、93年国連監視の下での総選挙を経て、シアヌークの国王再即位、連立政権樹立と相成り、ようやく安定と平和の道を歩むことになります。

なかなか良いです。

カンボジア現代史として過不足の無い記述でわかりやすい。

各章のページ数が短めなので読みやすい。

手堅い入門書としてお勧めします。

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