万年初心者のための世界史ブックガイド

2008年7月29日

読むべきではあるが読めない本

Filed under: おしらせ・雑記 — 万年初心者 @ 06:00

先日の記事で久しぶりに硬い本を取り上げましたが、この種の古典的なもので読めない本がまだまだ山ほどあります。

高校世界史で出てくるような思想・文学関係の本はひとまず置くとして、歴史書の類に限っても以下の通り読むべきだなあと思う本がいくらでも出てくる。

クセノポン 『ギリシア史 1・2』 (京都大学学術出版会)

ポリュビオス 『歴史 1・2』 (京都大学学術出版会)

アエリウス・スパルティアヌス 『ローマ皇帝群像 1・2』 (京都大学学術出版会)

イブン・ハルドゥーン 『歴史序説 全4巻』 (岩波文庫)

アレクシス・トクヴィル 『旧体制と大革命』 (ちくま学芸文庫)

ヤコプ・ブルクハルト 『イタリア・ルネサンスの文化 上・下』 (中公文庫)

ヨハン・ホイジンガ 『中世の秋 上・下』 (中公文庫)

マルク・ブロック 『封建社会 1・2』 (みすず書房)

フェルナン・ブローデル 『地中海 全10巻』 (藤原書店)

チャールズ・ハスキンズ 『十二世紀ルネサンス』 (みすず書房)

アンリ・ピレンヌ 『ヨーロッパ世界の誕生』 (創文社)

フリードリヒ・マイネッケ 『歴史主義の成立』 (筑摩書房)

テオドール・モムゼン 『ローマの歴史 全4巻』 (名古屋大学出版会)

E・H・カー 『ボリシェヴィキ革命 ソヴェト・ロシア史』 (みすず書房)

・・・・・・等々。

果たしてこの先以上の内、どれだけの本を読めるのか、考えると気が遠くなります。

例えば、「ブローデルの『地中海』は素晴らしい傑作だ」と聞かされても、私の場合「いくら名著でもそういう大部の社会史はちょっと・・・・・」と気後れしてしまうのはどうしようもない。

まあ所詮人間身の丈に合ったことしかできませんから読めなくても仕方ありません。

気力が充実した時にできるだけ手にとってみるようにはします。

ただ硬い古典であっても、エドマンド・バーク『フランス革命の省察』(みすず書房)トーマス・マン『非政治的人間の考察』(筑摩書房)のように私でもこれ以上無いほど面白く読めた本があるから、あまり躊躇するのも得策ではないかもしれない。

さらに一冊だけつけ加えれば、ヨハン・ホイジンガ『朝の影のなかに』(中公文庫)を挙げたい。

これまでこの本の素晴らしさについては何度か触れてきましたが、改めて強調したい気分です。

恐ろしい危機が襲い掛かる時代にあって、左右の政治的狂信に囚われるのを避け、伝統的な信仰を固守しつつ、静かに救いを待つという品位ある姿勢が宗教的崇高さすら感じさせる。

この本の秘めている叡智は本当にただごとではない。

本書は、世論の表層に現れる右とか左とかといったレベルの話から完全に超越した次元にある。

どんな立場にあっても本書に真摯に向き合えば、自省と謙虚さに導かれるはずだと思う。

どうしようもなく自堕落でくだらない生き方をしている自分ではあるが、こういう本を読んだ時だけ反省する気分になる。

思想関係の書物などほとんど読まないのに、本書だけは折に触れページを開き、その度に深い感銘を受ける。

私のような人間でもそう感じられるのは、本書の持つ力がどれだけ大きいのかを物語っている。

高坂正堯氏も苛立つことが多く眠れないときは本書を手に取り心を落ち着かせるとどこかで書いてらしたのを読んだ記憶があります。

とにかく一度手にとってみられることを是非お勧め致します。

これは何としても復刊してもらいたい本であります。

本当に何とかして下さい、中央公論様。

教養があるなしにかかわらず、じつに多くの人のばあい、生に対する構えは、いぜんとして、あそびと人生とに対する少年の心そのままである。さきにわたしはたまたま、永遠の青年期と呼んでしかるべき、あのひろくみとめられる精神状況について語った。それを特徴づけるのは、適切なことと適切でないことをみわける感情の欠落、他人および他人の意見を尊重する配慮の欠如、個人の尊厳の無視、自分じしんのことに対する過大の関心である。判断力と批判意欲の衰弱がその基礎にある。このなかばみずからえらびとった昏迷の状態に、大衆はひじょうな居心地のよさを感じている。ひとたび倫理的確信のブレーキがゆるむや、いついかなる瞬間にも危険きわまりないものとなりうる状況がここにある。

このような精神状態は、ただたんに、自分じしんの判断を下す意欲に欠けるところがあり、集団組織の画一化作用が、できあいのワンセットの考えかたを押しつけ、つねに思考が皮相に流れてしまうところからもたらされたというにとどまるものではなく、じつに憂慮すべくも注目すべきことに、おどろくべき技術の発展それじたいが、じつはこのような精神状態をひきおこし、これにたっぷり餌を与えているところのものなのである。人間は、この驚異の世界にあって、文字どおり子供のようだ。お伽噺の世界のなかの子供のようだ。飛ぶ機械で旅することができる、いながらにして地球の反対側と話をすることができる、自動機械を使ってちょっとつまむことができる、ラジオを通じてひとつの大陸全部を自分のものにすることができる。ボタンを押せばそれでよい。生がかれのほうにやってくるのだ。このような生は、かれを成熟させるだろうか。まさに逆だ。世界はかれのおもちゃになってしまったのだ。おもちゃを手にしたかれが子供のようにふるまうからといって、それになんのふしぎがあろう。

技術の完成、経済および政治の機能の有効なはたらきという塁壁は、これは、なんら、わたしたちの文化を野蛮の侵入から守るものではないのである。野蛮は、これをしてみずからに奉仕せしめる。野蛮は、完成された手段と結び、ますます力を増し、ますます圧制的にふるまう。

野蛮は、高度な技術の完成と手に手をとって歩くばかりか、ひろく普及した学校教育とも連れ立って進む。文盲率の減少でもって文化の程度を測るというのは、これは、すでに過ぎ去った時代の素朴な知恵である。学校で教える知識がどれほどの量であろうと、それはいささかも文化の財産を意味するものではない。視線をあげて現代の精神状況全般をみるに、このようなみかたは、これをほとんどおおげさなペシミズムと呼ぶことはできないのである、以下のように証言しなければならぬと考えるのである以上は。

いたるところに妄想と妄語がはびこる。かつてないまでに、人びとは、ことばの、合言葉の奴隷となって、たがいに殺しあう、相手を議論で屈服させるのである。世界は、憎しみと誤解を負わされている。愚かなものがどのくらいおおぜいいるか、過去にくらべて、どのくらい多いか、その比率を測ろうにも尺度はない。だが、愚かさは、以前にもまして旺盛に害毒を流し、高く君臨している。生半可な教養を身につけた、にぶい精神に対しては、伝統、形式、礼拝といったことへの敬意も、しだいに歯止めとしてはたらかなくなってきた。最悪の事態は、いたるところにみとめられる「真理ということについての無関心」であって、これは、政治的欺瞞の推賞ということのうちに、その極みにまで達している。

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