万年初心者のための世界史ブックガイド

2008年5月30日

林健太郎 『バイエルン革命史』 (山川出版社)

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同じ林氏の『ドイツ革命史』(山川出版社)が1848年の三月革命を主題にしているのに対し、本書は1918~19年のドイツ革命の一部を成すバイエルンでの革命を扱った本。

バイエルンは南ドイツに位置し、オーストリアを排除した小ドイツの中ではプロイセンに次ぐ大国で、1871年成立したドイツ帝国でも独自の地位を占めていた。

北ドイツのルター派に対してカトリック信仰が強く、郵便・鉄道・税制などで自主性を保持し、独自の外交特権や軍隊すら認められていた(バイエルン軍は戦時にのみ中央政府の指揮下に入ることになっていたらしい)。

第一次世界大戦末期、敗色濃厚の中、バイエルンでは反ベルリン・反プロイセンの気運が高まる。

キール軍港の水兵反乱の直後、11月7~8日独立社会民主党所属で独自の革命思想を抱いていたクルト・アイスナーという人物の煽動でバイエルンの首都ミュンヘンでほぼ無血の革命が起こり、ヴィッテルスバッハ王朝は倒れ、アイスナーを首班とする暫定政府が樹立された。

これはキール事件以後始めての現実の政府の転覆で、以後各地の革命の先駆けとなった。

アイスナーはレーテをロシアのソヴィエトのような独裁機関とすることを主張するボルシェヴィズムには反対しながらも、通常の議会主義も退け、レーテが議会に対する監督権を行使する体制を目指す。

1919年に入り、1月初めベルリンではスパルタクス団の蜂起鎮圧。極左派は衰退。

バイエルンでの議会選挙が行われバイエルン人民党(中央党系)、多数派社会民主党が勝利。アイスナーの独立社会民主党は惨敗。

議会に基く政府を要求する穏健派と、レーテ独裁を主張するアナーキストと共産党の極左派に挟まれ、アイスナーは苦境に陥る。

2月政権を放棄する意図を持ち議会に向かったアイスナーが極右派の青年によって射殺され、それに激昂した極左派が多数派社会民主党の有力者エアハルト・アウアーを狙撃、重傷を負わせる。

この二人の狙撃によって政局は流動化し、権力の空白を突いて、4月にランダウアーらのアナーキストが政権を奪取、バイエルン・レーテ共和国を宣言。

その一週間後、今度はレヴィーネ、レヴィーン率いる共産党が主導権を奪取。

しかしすでに中央での秩序回復を果たしていたエーベルト政権の討伐を受けて、このバイエルン共産政権は5月初めには壊滅。

以後のバイエルンは赤色独裁への恐怖から、逆の極端に振れ、ナチスを含む極右勢力の地盤の一つとなる。

しかもまずいことにアイスナー、ランダウアー、レヴィーネ、レヴィーンがすべてユダヤ系だったため、この革命が悪質な反ユダヤ主義を蔓延らせる土壌を提供してしまった。

(著者は最後にバイエルンがナチ運動の本拠ないし基礎とは言えないと書いているが。)

1918年ドイツ革命の中の、さらに特殊な事例を取り上げた本ですから必読とまでは言えませんが、非常に読みやすく面白い本です。

この林健太郎氏は宮崎市定氏と並んで、初心者向け啓蒙書の作者としては最高レベルじゃないでしょうか。

『ワイマル共和国』(中公新書)『二つの大戦の谷間』(文芸春秋)は内容的に古くさい部分もあるんでしょうが、しかしそれでも素人が読む入門書としては二つとも最高傑作といっていい出来だと思います。

前者の流暢極まりない文体と冷静穏当な史観、これ以上無いほど理解しやすい説明は、読み終えた後、滅多に感じない程の深い満足感を覚える。

後者も第一次大戦から始まり、ナチの政権掌握で本筋の叙述を終えてから、文化史の章を加えて、ヤスパースの『現代の精神的状況』オルテガの『大衆の反逆』で締めるという渋すぎる構成。

本書もお勧めしますが、以上の著作も未読の方は是非お読み下さい。

2008年5月26日

『アデナウアー回顧録 Ⅱ』 (河出書房)

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1950年ごろ、フランスが有力な炭鉱地帯のザール地方のドイツからの分離を図り、独仏関係が緊張する。

アデナウアーは逆にこれを奇貨として、フランス外相シューマンが提唱した超国家機構による石炭と鉄鋼の生産管理案(シューマン・プラン)に応じ、ジャン・モネと協力して、51年ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)条約に調印し、欧州統合の第一歩が踏み出される(発足は翌52年)。

このように国際機関で設立条約の調印と組織の発足がずれる場合があるのはややこしい。ヨーロッパ経済共同体(EEC)も57年ローマ条約調印、58年発足。

また1950年6月北朝鮮軍が韓国に侵攻し朝鮮戦争が勃発すると、弱体な警察と国境警備隊しか持たない西ドイツの安全保障を懸念する声が高まる。

東ドイツが「人民警察」という名称で実質的な軍隊を保持しており、北朝鮮と同じ行動によって西を「解放」するのではないかとの恐れが持たれた。

なお、当時の西ドイツは東ドイツの国家存在を全く認めていない。

60年代初め、ベルリンの壁が構築された頃に西ドイツに滞在した林健太郎氏は『昭和史と私』(文春文庫)で以下のように書いている。

そもそも当時の西ドイツ人は、東ドイツに対してドイツ民主共和国あるいはその略語DDRという名前を使わない。使うことがあるとすれば必ず「いわゆる」という言葉をつけて「ゾーゲナンテDDR」という。そして普通には「占領地帯」(ベザッツングスツォーネ)の略称である「ツォーネ」という言葉で呼んでおり、これは新聞紙上でもそうなのである。このように西ドイツ人は東ドイツの国家そのものを認めていなかった・・・・・

本書でも東ドイツは「ソ連地区」という呼び方が主になされており、一箇所だけ「いわゆるドイツ民主共和国」という言葉が出てきたはず。

69年成立のブラント社会民主党政権の東方外交までこの状態が続く。

朝鮮戦争の世界史的意義は冷戦の「世界化」と「軍事化」と言われる。

米中対立が始まり冷戦はアジアへも拡大、これまで核兵器の独占とマーシャル・プランのような経済援助政策に頼っていたアメリカが朝鮮での制限戦争において膠着状態の手詰まりに陥ったため、通常兵力の増強に乗り出す。

その一環として西ドイツの再軍備が検討されるが、フランスを始めとして対独警戒心は依然根強く、その道程は難航する。

フランス首相プレヴァンの提唱で、NATOの下に欧州防衛共同体(EDC)を結成しその枠内にドイツ軍を組み入れるという案(プレヴァン・プラン)が採用され、困難な交渉の後52年に条約が調印された。

この頃ソ連は西ドイツの再軍備を阻止するため、ドイツ統一のための交渉を西側に提案している。

これは必ずしも宣伝目的とは言い切れず、ソ連にとって最大の脅威となるドイツ軍の再建を防げるのなら、これまで常に拒否してきた全ドイツ自由選挙を容認して、東ドイツにすでに存在している共産主義政権を犠牲にして、中立・非武装の統一ドイツを認める可能性もあったと言われており、反ソ的な現実主義者の中でもソ連との交渉を一応は行うべきだと考えた人もいた。

しかしそのような中立ドイツが徐々に東側に侵食され影響下に置かれる懸念や再びドイツ・ナショナリズムが暴発する危険を思い、アデナウアーを含む西側指導者はドイツの西欧への統合を最優先とする政策を敢行した。

シューマン・プランが今日の統合欧州に繋がったのに対し、このプレヴァン・プランは54年フランス議会が条約批准を拒否したため、空中分解し、結局54年パリ協定によって西ドイツの主権回復と再軍備・NATO加盟が決定された。

本書の記述は53年までなのでそのことには触れられていない。

初心者がいきなり読む本ではなく、まず教科書レベルの史実を頭に入れて、国際政治史を1、2冊読んでから取り組むべき本ですが、なかなか良いです。

専門家が史料として用いるだけの本ではなく、素人が読んでも多くのことが得られる。

昔の中公文庫なら他社から出たこういう渋い本を収録して常時在庫してくれたんでしょうねえ。

今は無理かなあ・・・・・。

2008年5月22日

『アデナウアー回顧録 Ⅰ』 (河出書房)

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1949~63年西ドイツ初代首相を務めたコンラート・アデナウアーの回想録。

1968年刊。訳者は佐瀬昌盛。この翻訳書は全二巻で、1945~53年の部分のみ訳出。

今、30歳くらいから下の人は、「西ドイツ」なんて聞いてもピンと来ないんでしょうね。

私は物心ついた頃の日米の指導者が現首相の父上とカーターだったという世代の人間なので、当然ドイツは東西に分かれてた。

1990年のドイツ再統一の後、テレビのニュースで「ドイツのコール首相が・・・・・」なんて聞くと、かなり長い期間違和感がありました。

あとソヴィエト社会主義共和国連邦という国名には地名が入ってないわけですが、「ソヴィエト」というのが地名の一種のような感じがしてきて、小中学生の頃はロシアというのは「昔あったけど今は無くなった国」みたいな感覚でした。

いつにも増して話が脱線してるので元に戻します。

アデナウアーは1876年生まれ、カトリックの中央党に所属し、ワイマール共和国時代の1919年から33年ナチによって罷免されるまでケルン市長を務める。

戦争末期ヒトラー暗殺計画に関与したとして強制収容所に送られ、敗戦時に釈放。

1945年12月カトリックだけでなくプロテスタントにも門戸を開いた広範な穏健派を結集した保守政党、キリスト教民主同盟(CDU)を結成。(バイエルン州のみキリスト教社会同盟[CSU]の名称をとる。)

このCDUと左派の社会民主党(SPD)、中道派の小政党・自由民主党(FDP)が、1980年代に緑の党が進出してくるまで、西ドイツの主要政党となる。

米ソ冷戦の高まりと共に、東ドイツのソ連占領地域では、他の東欧諸国と同じく、社会民主党が共産党に吸収合併されて生まれた社会主義統一党による独裁体制が固まっていく。

それにつれて西側諸国ではドイツへの懲罰的処置を中止し、西ドイツを西欧の一員として強化する動きが出てくる。

1946年の米・英占領区の経済統合がその一つだが、フランスは依然対独警戒心が強くこの時点では占領区統合に加わらず。

しかし47年マーシャル・プランを期にフランスも徐々に態度を改める。

48年に入ると西ドイツ通貨改革とベルリン封鎖で東西の分裂がさらに深まる。(この通貨改革については本書では特にまとまった記述が無かった気がする。)

同年中、西ドイツ地域での中央政府樹立の目的で憲法制定会議が召集。

翌49年統一までの暫定憲法というニュアンスで基本法と名付けられた憲法制定、ドイツ連邦共和国成立、選挙でCDUを勝利に導いたアデナウアーが初代首相就任。

本書と合わせて、主に高坂正堯『外交感覚』(中央公論社)などで仕入れた西ドイツ政治の知識を確認すると、地方各州の権利を保障した連邦制を採り、議会で選出される儀礼的存在の大統領が元首、実際の政務は首相が行う。

死票が少なく「民主的」ではあるが小党分裂を招きやすい完全比例代表制をとって失敗したワイマール共和国の歴史に鑑み、5%以下の得票率の政党には一切議席を与えない条項を持つ比例代表制導入。

ナチスが猛烈な大衆運動によって台頭したことを反省し、直接民主政を可能な限り排除。

任期満了以外での国会解散・総選挙は基本的には無し(この前シュレーダーがやったのが戦後初めてと聞いた覚えがある)。

かつてナチと共産党の議事妨害で議会が麻痺状態となったことに鑑み、国会での不信任案は反対派が新たな多数派を形成し安定した政権を誕生させる見込みがあるときのみ有効とする「建設的不信任」制度を設ける。

民主主義擁護のためには結社の自由も一部制限が課され、共産党とネオ・ナチ政党にしばしば違憲判決が出されている。

小政党ながら中道派のFDPが議席を維持し、CDU・SPDと連立を組むことによって政治の左右への分極化を防ぐ貴重な役割を果たしてきた。

連邦共和国成立といっても、主権は制限され、占領法規は継続し、米英仏の高等弁務官が君臨し、経済力の制限、工業施設の撤去、ルール工業地帯の国際管理、外交権限の剥奪(建国当初外務省は無し)など様々な制約が課された。

これらを西側諸国との協調関係を維持しつつ取り除いていくアデナウアーの苦闘が記されている。

内政では個人と企業の自由とイニシアティブを尊重しながらも極端な競争による弊害の除去も目指した混合経済政策である「社会的市場経済」を採用、奇跡の経済復興を遂げる。

それにひきかえ、シューマッハー率いる野党SPDはソ連共産主義を徹底的に排撃しながら、マルクス主義的世界観になおもこだわり、内政では教条主義的な計画経済に固執し、外交では西側諸国との協調維持の必要を弁えずいたずらな高姿勢を取り、国益に反することしかしていないという印象を本書の記述からは受ける。

もちろん本書のように反対者の手に成る叙述からだけで判断するのは不当でしょうが。

第二巻は近日中に記事にします。

2008年5月18日

前田耕作 山根聡 『アフガニスタン史』 (河出書房新社)

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2001年9・11テロと米軍のアフガン攻撃の翌年刊と、便乗本みたいな刊行経緯のアフガニスタン史だが、内容は非常にしっかりしている。

この国は南部と東部に居住するパシュトゥン人(パタン人)が多数派民族で、他にタジク人、ハザラ人、ウズベク人、トゥルコマン人などの少数民族がいる。

国土の中央部東寄りにある首都カブール、西部のヘラート、南部のカンダハルという三つの最重要都市の位置だけ確認しておく。

アケメネス朝ペルシアに始まり、マウリヤ朝とバクトリア、クシャーナ朝、ササン朝ペルシア、イスラム、ターヒル朝、サッファール朝、サーマーン朝、ガズナ朝、ゴール朝、モンゴル、ティムール、ムガル朝とサファヴィー朝、と支配者は次々と替わり、18世紀半ばアフシャール朝のナーディル・シャーの統治下におかれたが、ナーディルが暗殺されたことによってようやく独立の機を掴む。

1747年パシュトゥン系ドゥラニ族に属するアフマド・シャーがアフガン王として即位、サドザイ朝をひらく。

だが王位継承争いが激しく、混乱の中で1835年ドスト・モハンマドが新たにバラクザイ朝を建てる。

(本書ではサドザイもバラクザイもドゥラニ族に属すると書いてあるが、「ドゥラニ朝」という場合普通サドザイ朝だけを指す模様。)

この時期、ロシアの進出を恐れるイギリスが、親英的政権の樹立を目指し、サドザイ朝の元国王を復位させる名目で侵攻、1839年第一次アフガン戦争勃発(教科書等では38年になっている)。

この戦争はイギリスの敗北と言われており、確かに派遣軍が全滅の憂き目に遭っているが、その後再派遣された軍が報復行為を行い、1842年終結した後ドスト・モハンマドが復位したが、外国軍の侵入の際はイギリスの軍事支援を受けるという条件付きであり、本書では事実上イギリスはアフガンの保護国・緩衝国化に成功したと書かれている。

1868年ブハラ、73年ヒヴァ、75年ホーカンドの三ハン国がロシアの保護領となると、イギリスは再度アフガンへの圧力を強め、外交団常駐などを求めるが拒否されると、1878年第二次アフガン戦争を起こし、一部領土の割譲・外交干渉権容認・イギリス使節のカブール常駐などを定め1880年保護国化。

といっても戦争末期のアフガン側の抵抗でイギリス軍は一切駐屯せず、その後アフガンは国王を中心に独自の近代化・中央集権化政策を進めるのだから、「保護国」という名称が与えるイメージよりは独立の色彩が濃い。

この辺はかつて教科書で得ていた知識が覆されるようで、なかなか面白い。

1919年、アマヌッラー王が第一次世界大戦でイギリスが疲弊したのを機に、外交主権奪還を目指して宣戦布告。

この第三次アフガン戦争で、完全な独立を達成。

1933年最後の国王ザーヒル・シャー即位。

第二次大戦後、パキスタン領内在住のパシュトゥン人を統合しようとする運動が起こり、対パキスタン関係が悪化。

非同盟主義のインドに対して親西側外交をとるパキスタンに対抗するため、アフガンは次第に不吉な対ソ傾斜を深める。

1973年国王が病気治療で国内に不在の時、国王の従兄で王族のダウドがクーデタを起こし、政権掌握。王制廃止と共和制樹立を宣言。

ザーヒル王時代一時融和策を取っていた対パキスタン外交で再び強硬策を採用、国内ではイスラム回帰運動を弾圧、ソ連への傾斜をさらに強める。

その後、アラブ諸国からの忠告もあり、ダウドがソ連と距離を置き始めると、1978年アフガンの共産主義政党である人民民主党が軍を煽動して「サウル(四月)革命」を起こし、ダウドを殺害、政権奪取。

急激な社会主義化政策が国民の反発を招き、反政府運動が激化。

タラキが大統領となるが、今度は人民民主党内での派閥争いが激化、79年にはタラキが殺害されアミンが取って代わる。

「民族共産主義者」としてアミンがソ連と距離を置くと、ソ連は79年12月大規模な軍事侵攻に踏み切り、アミン政権を打倒、親ソ的なカルマル政権を樹立(86年ナジブラ政権に替わる)。

ムジャヒディンと呼ばれるイスラム戦士ゲリラがアメリカの支援を受けて抵抗。

1988~89年ソ連軍撤退、92年ナジブラ政権が崩壊するがヘクマティアル派とラバニ派の対立を軸に、国内一致が見られず内戦が継続。

そのうち94年ごろからタリバンと呼ばれるイスラム原理主義勢力が台頭、数年のうちに旧ゲリラのムジャヒディン勢力を追い詰め、国土の多くを支配、ウサマ・ビン・ラディンがこの頃タリバン支配下のアフガンに入国。

01年テロ後、アメリカ軍の攻撃によってタリバン政権は崩壊、ムジャヒディンが作った北部同盟が政権を奪還したが、その後も混迷が続いてタリバン復活の兆しが見られるのはご承知の通り。

この最後ら辺は政治的に微妙な問題で喧しいところですが、本書の筆致はよくあるような一本調子の反米論でもなく、かと言って能天気な親米論でもなく、非常にバランスの取れた記述に思えて、かなり感心させられました。

前半部分はちょっとゴチャゴチャしていて読みにくいところもありますが、総合的には優れた通史だと思います。

2008年5月14日

古田元夫 『ホー・チ・ミン (現代アジアの肖像10)』 (岩波書店)

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またまたこのシリーズ。

まず言っておかなければならないのは、「岩波刊でこの人物ならどうせ教条的な内容だろう」という先入見は当たっていません(実は私も手に取る前は少々そういう偏見を持ってましたが)。

ホーに批判的ということはなく、むしろ高く評価しているが、少なくとも一昔前の聖人礼賛風の本ではないです。

ホー・チミンは1890年ごろ誕生。

青年期に日露戦争後のファン・ボイ・チャウの東遊運動には参加せず、むしろファン・チャウ(チュー)・チンの対仏融和的・漸進的独立論に近い立場を採る。

フランス留学中、反体制独立運動家となり、1925年ヴェトナム青年革命同志会、1930年インドシナ共産党を結成。

階級闘争と共に民族独立を重視し、広範な統一戦線を目指すホーの方針は、30年代の殆どの時期コミンテルンの路線と一致しなかったが、ヴェトナム在住の主要指導者が逮捕・処刑されていたため、1941年ヴェトナム独立同盟(ヴェトミン)指導者としてその地位を確立する。

その後、本書では1945年「八月革命」での反対派暗殺、急進的土地改革の弊害、風刺文学への弾圧など、北ヴェトナムの影の部分にもきちんと触れられている。

最初の殺害行為は『共産主義黒書コミンテルン・アジア篇』でも少し取り上げられているが、インドシナ共産党により「売国越奸」と認定された人物への組織的暗殺。

50年代半ばの土地改革は他の社会主義国と同じく極めて教条主義的態度で進められ、ディエンビエンフーで勇敢に戦ったヴェトミン兵士が帰郷すると実家が地主階層に分類されて財産没収の憂き目に遭っていたなんてこともあったらしい。

この時期、相当数の農民やカトリック教徒が南ヴェトナムに逃亡したと別の本で読んだ覚えがあります。

その少し後に中国の「百花斉放」や、土地改革の行き過ぎに関するヴェトナム労働党(1951年インドシナ共産党を改組)の自己批判に影響されて知識人の自由化運動が起きたが、結果として党の自己批判が反対派を炙り出す罠になってしまい、徹底した弾圧が行われたのも中国と同じ。

以上のような史実についてのホー個人の関与と責任をめぐって、公式主義的な左派的解釈と突き放した右派的解釈の合間をくぐり抜けていく著者の筆致が興味深い(皮肉でなしに)。

ホーは69年に死去。後継者のレ・ズアンがヴェトナム戦争勝利と南北統一を成し遂げるが、教条的な社会主義計画路線を続けたため経済は破綻、国際的にも孤立する。

86年にドイモイという名の改革開放政策が始まり、経済成長が軌道に乗り、95年米越国交正常化とASEAN加盟を実現した。

ホー・チミン個人の伝記としてよくまとまっており、読みやすい。

最初に書いたように史的解釈についても大きな偏りは感じられない。

ホーを政治家として評価する上で、「フランスおよびアメリカとの戦争という甚大な犠牲を伴う道を採る以外に民族の独立を達成する手段は無かったのか」という疑問を正面から提出しているのは、非常に真っ当で賞賛に値すると思います。

著者の答えは「インドシナ戦争が植民地主義の終焉を、ヴェトナム戦争が冷戦のそれを早めたと思われるので、ホーの選んだ道は正当化され得る」というもので、前半はまあその通りだと思いますが、後半は別段親米的立場に立たなくとも少々無理があるかなと感じます。

しかしそれは単なる意見の相違というもので、それで本書自体を否定するのは不当でしょう。

もちろん、ホーに対してより厳しい見方があってもよいわけですが、「偶像破壊」に性急な余り、事実関係の記述まで疑わしく思えるようになっては元も子もないので(例:ユン・チアン『マオ』)、このくらいの評価ならまあ穏当な範囲内じゃないでしょうか。

なかなかの良書だと思いますので、機会があれば是非どうぞ。

なお末尾の参考文献欄を眺めてたら、デービッド・ハルバースタム『ホー・チ・ミン』(角川書店 1971年)てのがあって軽い驚きを覚えました。

ハルバースタムと言えばアメリカの優れたジャーナリストで、ヴェトナムの泥沼に陥るアメリカを描いた『ベスト&ブライテスト 上・中・下』(朝日文庫)が有名ですが、ホー・チミン伝も書いてたんですね。

チャールズ・フェン『ホー・チ・ミン伝 上・下』(岩波新書)なんてのはイデオロギー色過剰の本に思えますから(この先入観も間違いかもしれませんが)、一度ハルバースタムの本を図書館で借りてみようかなと思います。

2008年5月10日

村嶋英治 『ピブーン (現代アジアの肖像9)』 (岩波書店)

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第二次大戦を挟んで二度首相になったピブンの伝記という形を借りたタイ現代史。

東南アジア諸国のうちでも、この国の政治的賢明さはずば抜けている。

帝国主義時代に独立を守ったこともそうだし、第二次大戦を最少の犠牲で乗り切ったこともそう。

戦後、東の隣国が過激な社会実験の地獄を見て、西の隣国が退嬰的な閉鎖体制の中に落ち込んでいったのに対して、安定した繁栄の道をたどることができたのもそう。

もちろん内部には少なからぬ軋轢もあったが、戦争と革命に引き裂かれた他の東南アジア諸国に比べれば、(そして日本と比べても)一度も国を誤ったことがないとの評価は当たっている。

19世紀後半からラーマ4世モンクット王、ラーマ5世チュラーロンコーン王と名君が二代続き、近代化政策を進め、東南アジアで唯一独立を維持する。

1910年6世ワチラーウット王即位。

第一次大戦に参戦し、列強との不平等条約の改定を進める。

この時期に限らず、本書を通じて要職に就いている人物で「~親王」という名がやたらと出てくる。

複婚制度のため王族の数が非常に多く、絶対王政時代には各種高官は親王によって占められていたので、覚えにくいし頭が混乱する。

今もサウジアラビアなんかはそんな感じですが。

幸い巻頭に王族一覧表が載っているので頻繁に参照しましょう。

この表は他の本を読む時にも役に立ちそうですね。

個人的にはこれだけで本書を買う価値があると思える。

1925年6世王死去、同母弟の7世プラチャーティポック王即位。

西欧思想の影響で、立憲政治を求める動きが強まる。

地方自治制導入や欽定憲法制定の試みもあったが、その前に人民党を名乗るグループによって1932年立憲革命が起こる。

革命後人民党の内部対立が始まり、33年計画経済の信奉者で左派色の強いプリディが追放される。

その後陸軍の人民党メンバーのうち、プリディ派との和解・妥協を支持するパホンと反対するソンが対立、二番手グループだったピブンが漁夫の利を占め軍内の影響力を強める。

パホンを担いだピブンがクーデタを起こし実権掌握、プリディは帰国し政府復帰、反革命派のボーウォラデート親王の反乱も鎮圧、翌34年にピブンは国防相就任。

35年人民党の専制に反対してプラチャーティポック王退位。

立憲革命の主導勢力たる人民党が議会制民主主義への移行を先延ばしし、暫定的な権威主義体制を続けたのに対し、国王が反対したため以後も王室が政治的自由の象徴としての求心力を持つことになった。

後継国王は7世の異母兄弟の子で幼少の8世アーナンタマヒドン王。

38年ピブン首相就任。

40年フランス降伏と日本軍の北部仏印進駐を機に、失地回復を目論む。

41年カンボジア西部の旧領土を回復、太平洋戦争開戦直後進攻した日本軍と短期間の交戦後、同盟関係に入り英米に宣戦。

戦況が不利になると日本と距離を置き始め、連合国と連絡。

44年ピブン辞任、摂政としてプリディが巧みに舵を取り、連合国から敗戦国ではなく被占領国としての扱いを受けることに成功する。

しかし46年8世王が自室で銃により謎の死を遂げると、無実のプリディにあらぬ嫌疑がかけられ、それを利用して47年ピブン派軍人がクーデタで政権奪取。

(後継国王は同母弟の9世プミポン国王。この方が現在も在位し国民の絶大な支持と敬意を集めている。)

翌48年ピブンが首相復帰。49年、51年の反対派クーデタを失敗させ長期政権続投を目論むが、57年不正選挙批判で反政府デモが起こる中、サリット元帥のクーデタでピブン政権は崩壊。

ピブンは日本に亡命し、64年死去。

内容が詳しく、かなり面白い。

しかし立憲革命前後だけが非常に詳細で、ピブンの首相就任から戦後の第二次政権まではあっさりと済まされているのが玉に瑕か。

それとピブン単独ではなく、サリット、タノム、プラパートなどの軍人政治家を一緒に記述してくれれば、対象時代範囲も広がってより便利だったんですが。

それだと紙数がとても足らないということもあるんでしょうね。

幸い、柿崎一郎『物語タイの歴史』(中公新書)がありますので、戦後タイ史はこれで補強して下さい。

本書もいい本だと思いますし、初心者が読めばかなり有益でしょう。

あと、今気付いたんですが、この「現代アジアの肖像」シリーズにはなぜかカンボジアの巻が無いですね。

シアヌークという絶好の対象人物がいて、この人の経歴をたどればカンボジア現代史が全部叙述できるはずなんですが。

まあ別の本を探しましょう。

2008年5月6日

堀米庸三 『正統と異端』 (中公新書)

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1964年刊の古い本で、中公新書の通し番号では57番とかなり早い。

現在は品切れのようですが、本書も中公新書の世界史関連本では超定番といった地位を占めていた模様。

古代から中世にかけての各種異端派をざっと紹介してあるだけの本かと思ったら、より焦点を絞った叙述で内容はなかなかハード。

新書版にしてはレベルが高い。

洗礼、叙品、聖体など、カトリック教会における秘蹟の効力についての論争が本書での主なテーマになっている。

客観主義的事効論(聖務重視論)=正統派と、主観主義的人効論(執行者重視論)=異端派との対立を軸にして、古代末期から中世盛期にかけての教会政治の流れを概観する本。

ローマ末期、デキウス帝、ディオクレティアヌス帝による迫害で一度棄教した聖職者による秘蹟が有効か否かという論争がおこり、アフリカを中心にしたドナトゥス派という異端者たちは無効論を主張し、寛容な立場を採るカトリック教会を攻撃した。

これは道徳的に厳格といえばそうだが、秘蹟の人効論を採った場合、教会内部で常に潜在する教義や利害の対立に絡み、対立者同士が相手側の秘蹟無効を宣言し合うと、宗教的統一を根底から覆す恐れがあった。

よって適切な執行条件さえ守られていれば秘蹟は有効である、なぜなら真に秘蹟を与えるのは神であって、執行者はその道具に過ぎないからという事効論が教父アウグスティヌス始め正統派の立場となる。

しかし、初期中世を通じてアウグスティヌスの教えはカトリック教会内で徹底されていたとは言えず、中世盛期に入って問題が生じる。

叙任権闘争の過程で、教皇グレゴリウス7世が人効論に近い立場を採り、反対派の叙階を含む秘蹟の無効宣言をしばしば行い、その手段の威力もあって1077年のカノッサの屈辱など一応勝利を得る。

その後、1122年ヴォルムス協約に向けて皇帝権との妥協の目処が立つと、カトリック教会は人効論を封印し、再び事効論に復帰しようとする。

しかし、叙任権闘争・十字軍によってかき立てられた宗教的情熱は人効論を武器にして既存の教会からの分離・自立を目指すアルビジョワ派(カタリ派)、ワルド派などの異端運動を惹起する。

かつてグレゴリウス改革の主役だったクリュニー修道会や11世紀末創設のシトー修道会は、その頃すでに急速に堕落しており、民衆の激情を吸収することができなかった。

そこで登場したインノケンティウス3世は、フランチェスコ修道会・ドミニコ修道会という托鉢修道会を認可し、宗教的情熱の捌け口を設け、それをカトリック教会の枠内に留めると同時に異端者の取り込みにも力を尽くす。

このインノケンティウス3世は中世教皇権絶頂期の教皇として高校世界史でも必ず暗記しなければならない人物ですが、その事績はジョン王破門を始めとする諸君主の圧伏、第4回十字軍提唱、「教皇権は太陽、皇帝権は月」という言葉など外面的なことだけが教えられ、その人間性はあまり知られていません。

それだけで判断するとただ権勢欲の強かった人物といったイメージだけを持っていた人もいるかもしれません(というか私が正にそうです)。

しかし本書を読んでそのイメージが変わりました。

最終的にアルビジョワ派弾圧を行ったものの、各種の異端認定については性急な決め付けを避け、出来得る限り慎重な調査と寛容を指示している。

また異端抑制においては、上からの強圧だけでは効果は無く、正統信仰の宣教者が異端者と同じく清貧の「使徒的生活」を行い、彼らと交わりながら粘り強く説得することが必要だとしている。

あからさまな賞賛の言葉は無いものの、著者の筆致からはこの教皇への好感が滲み出ている。

ある人物や史実について意外な一面を知り、今まで持っていたイメージを覆されるというのが歴史を学ぶ愉しみの一つですが、本書ような入門書でもそれを味わうことができるという一つの例ですね。

もちろんより高度な段階でさらにその印象が変化するということもあり得ますが、ひとまずはその通り理解しておけばいいでしょう。

以上、自分なりに内容を要約してみましたが、乏しい知識ゆえの誤読や用語の不正確さなどがあるかもしれませんので、ご自身で読んでご確認下さい。

最初は取っ付きにくい本ですが、短いページ数ながら読了するとかなりの充実感があります。

新書版でありながら比較的高度な内容、それでいて初心者でも十分読み解ける叙述。

これはなかなかの名著だと思います。

こういう手堅い啓蒙書はやはり常時在庫してもらいたいですね。

2008年5月2日

羽田明 他 『西域 (世界の歴史10)』 (河出文庫)

Filed under: 中央アジア — 万年初心者 @ 06:00

中央アジア史も個人的に非常に苦手な分野です。

北アジア史に関しては、中谷臣『世界史A・Bの基本演習』(駿台文庫)に、1.民族系統不明時代(匈奴・鮮卑・柔然)、2.トルコ時代(6~9世紀 突厥・ウイグル・キルギス)、3.三民族抗争時代(10世紀以降 漢人の宋・明 蒙古人の遼・元 女真人の金・清)という大まかな時代区分が載っており、受験時代から「これは便利だ」と思って覚えていた。

しかし内陸アジア史全体を把握するのはなかなか困難。

何が難しいといって、まず地名に馴染みが無い。

同じく『世界史A・Bの基本演習』に、「地名については教科書に北アジア・中央アジアの地図が載っているから必ずその位置を確認せよ。地名が直接問われることは少ないとしても、地名の位置がわからなかったら問題文を理解できない、すると空欄の歴史用語も正確にあてはめられない、という結果になる。」と書かれている。

受験時代を過ぎてもう問題を解く必要は無いのだが、概説書を読む上で地名がわからないと全く五里霧中の状態で、頭に入らないというは事実である。

モンゴル高原、陰山山脈、オルドス、ゴビ砂漠、甘粛、アルタイ山脈、ジュンガル草原、天山山脈、タリム盆地、タクラマカン砂漠、崑崙(クンルン)山脈、チベット高原、ヒマラヤ山脈、パミール高原、アム川、シル川、ソグディアナ、カラコルム山脈、ヒンドゥークシュ山脈といった地名の大体の位置関係を地図で確認しておきましょう。

特に天山山脈の北側が「草原の道」、南側が「オアシスの道(シルク・ロード)」(の主要幹線)だということ、パミール高原が東西トルキスタンの境目で近世において中国勢力とロシア勢力の境目にもなったことなどは押さえておく。

都市名では、敦煌・トゥルファン・クチャ・ホータン・カシュガル・ホーカンド・サマルカンド・ブハラ・メルヴ・ヘラートあたりが大体どこにあるのか言えるようになれば宜しいかと。(私もいまだあやふやですが。)

例によって話が逸れますが、中央アジア史だけでなく、世界史関係全般の本を読み続けていてつくづく思うのが、中学校の社会科で学んだ地理の重要性。

様々な人物や国家が興亡した歴史の舞台装置の地形や地名、民族・宗教の分布、気候・産業のあらましなど、これらの基盤をたとえ大雑把にでも理解しておかないと高校レベルの世界史を学ぶのにも支障がでる。

この手のことが覚束ない人は、阿呆らしいと思わず中学生向けの地理参考書でも買ってきて眺めるといいかもしれない。

閑話休題。

標準的概説を読んで苦手分野を補強しようと、本書を買う。

だが最初の方の先史時代の記述と西域探検史が、はっきり言ってタルい。

その後の記述も悪いとは思わないが、いろんなことが頭の中でピッタリ整理されて、「よくわかった」と実感できるような感じではなかった。

まあ対象となる時代そのものが複雑煩瑣であまり面白くないのと、読み手の私にも問題あるでしょうが。

後半部分からは面白くなってきて読むペースも上がりました。

全般的にみて、内容はまあまあといったところでしょうか。

特にお勧めしたいという本でもないです。

私みたいな初心者はウダウダ文句ばかり言わず、どんどん読んでいけと言われそうですが。

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