万年初心者のための世界史ブックガイド

2008年2月17日

野田宣雄 『歴史をいかに学ぶか ブルクハルトを現代に読む』 (PHP新書)

Filed under: 史論・評論 — 万年初心者 @ 06:00

『ヒトラーの時代』と同じ著者。2000年1月刊。

ブルクハルト『世界史的諸考察』を紹介しながら、それに引き付けて現代の諸問題を著者が解説する本。

薄いし文章も平易なので誰でも読める。それでいて内容は深く鋭い。

これは絶対読むべき本だと思う。

19世紀末にブルクハルトが抱いた悲観的歴史観と現代の日本と世界の状況を考え合わせて背筋が寒くなったり、自分のことを省みて恥ずかしくなったりと、いろいろ複雑な感情に襲われる。

前半部分で古代以来の歴史観の変遷を辿っていますが、その中でヴィーコという人の記述が非常に面白く示唆的であった。

名前を聞いたことがあるというだけで他には全く知らないし、私の頭では理解するのは厳しいかもしれませんが、中央公論の「世界の名著」シリーズに著作が収められているようなので、一度挑戦してみようかなという気になりました。(追記:と思ったのですが、立ち読みした限りではやはり私が読めるような本ではないみたいですので、今のところ放置しています。)

話を表題の本に戻すと、かなり前の本ですから品切れなのも致し方無いのかもしれませんが、これは粗製濫造されてる他の新書と同列に扱っていい本ではないと思う。

こういう本こそ末永く入手可能状態で、広く読まれてほしいものです。

・・・・ヴィーコの歴史の見方は、各民族が原始社会から始まって万人平等の民主的な文明社会にいたるまで段階的に進歩・発展を遂げてゆく進歩史観の一つと思われるかもしれない。しかし、ヴィーコの歴史観のユニークな点は、すでに少し述べておいたように、こうして第三段階の民主的な文明社会に到達した民族が、ふたたび第一段階の原始状態に引き戻されると説く点である。彼は、ギリシアもローマもエジプトもフランスなどの西欧民族も、いずれも上記の三段階を経て発展するが、最後には、停滞し没落して出発点の原始状態に「再帰」せしめられると考える。

では、なぜ、第三段階の民主的な文明社会にまで到達した各民族は、出発点に「再帰」を余儀なくされるのか。それは、要するに、どの民族も折角手に入れた自由を乱用して堕落し、無政府状態におちいるからである。人間とは、自由を手に入れれば、それを無政府的あるいは無制限的に行使し、骨の髄まで堕落してゆくのである。そして、贅沢・柔弱・貪欲・嫉妬・傲慢・虚栄といった自分で抑制できない情念の奴隷と化してゆく。あるいは、嘘つき・ペテン師・中傷家・泥棒・臆病者・偽善者などのありとあらゆる悪習にまみれ切ってしまう。

腐敗した民族は、各自がまるで野獣のように自分自身の個人的な利益のことしか考えない習慣におちいってしまう。しかも、極端に神経質になるために、まるで野獣のように、ほんのちょっと気に障ることがあると、腹を立てていきり立つであろう。精神においても意志においても、市民たちは、この上なく深い孤独のなかで、各自が自分自身の快楽や気まぐれにしたがって生きている。そして、たとえ二人の人間の間でも、ほとんど合意に達することは不可能になってしまう。こうしたことすべてのために、彼らは執拗きわまる党派争いと絶望的な内乱を惹き起こし、都市を森と化し、森を人間の巣窟と化してしまう。

なぜ、十九世紀のヨーロッパは、こんなに不安定な時代になってしまったのか。ブルクハルトは、そのもっとも大きな理由の一つを「大衆の登場」のなかに見ようとする。大衆はあらゆる事態にたいして不満であり、すべての不都合なことを既存の状態のせいにする。ほんとうは、彼らを圧迫しているのは、人間の不完全さに由来するものであるのだが。

要するに、このバーゼルの歴史家は、いわは貴族主義的な立場から大衆社会にたいして容赦のない批判を浴びせる先駆者の一人である。「われわれが直面しているのは、一般的な平準化である」と見なすブルクハルトは、十九世紀の個性の喪失を嘆いて、次のような文句さえ吐く。「昔は愚かな者にしろ、自分自身の力で愚かだった」

ブルクハルトの十九世紀批判の矛先は、大衆の登場と並んで、アメリカ流のビジネスの浸透にも向けられる。・・・・・「これからは、どの階級や階層が、教養のほんとうの担い手になってゆくのだろう。どの階層が、今後は研究者・思想家・芸術家・詩人などの創造的個人を供給するのだろうか」「それとも、すべてはアメリカにおけるようにビジネスに化する運命にあるのだろうか」

だが、ブルクハルトの同時代にたいする診断のもう一つの重要な論点は、ビジネスの蔓延と手を携えながら、「国家の肥大化」がますます進展するだろうと見るところにある。・・・・・このような国家の肥大化は、ブルクハルトの眼から見れば、大衆民主主義の登場と深く関連している。普通選挙権が次第に拡大し、大衆による民主主義が一般化すれば、それは国家の肥大化を招き、ついには暴力支配に行き着く「大衆専制主義」に反転する。そもそも、大衆が願望する幸福とはすぐれて物質的なものであり、物質的な願望はけっして満たされることがない。そこで、大衆は、国家に向かって公共の福祉の名のもとに改革をもとめ続けるが、そうしたことは、結局は国家権力の増大をもたらすのである。

ブルクハルトにいわせれば、いわば「下から」国家のあらゆることが議論の対象にされるのが、十九世紀という時代の特徴である。その場合、どんな国家形態が最良かということも、しきりに議論に上る。だが、実際には、人びとは、自分の気分に応じて、国家の形態がつねに変化することをもとめているにすぎない。そして、このような国家をめぐる議論は、結局は、ますます大きな、ますます広汎な、国家の強制力をもとめる方向に向かってゆく。というのも、国家をめぐる議論の過程で繰り返し国家のための崇高なプログラムが起草されるが、そういうプログラム全体を実現するためにも、国家は強大な権力を必要とするからである。「こうして、国家の形態が議論の対象になればなるほど、国家の権力範囲は、ますます大きくなってゆく」

「そうだ。私は、彼らのすべてから逃れたい。急進主義者、共産主義者、工業家、高踏的教養人、高級ぶった批評家、思索家、抽象主義者、絶対論者、哲学者、ソフィスト、熱狂的国家主義者、理想主義者、あらゆる種類の何々派・何々主義者と称する人びとから逃れたい」

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