万年初心者のための世界史ブックガイド

2008年1月4日

山本俊朗 井内敏夫 『ポーランド民族の歴史』 (三省堂選書)

Filed under: 東欧・北欧 — 万年初心者 @ 06:00

1980年刊。類書が少ない中、比較的簡略な通史で読みやすい。

評価としてはまあまあだということをまずお伝えしておきます。

以下個人的備忘録のつもりで細かくメモした結果、異様に長い記事となりましたので、面倒に感じられる方は無視してください。

966年ポーランド王国初代君主ミエシュコ1世がキリスト教に改宗。次のボレスワフ1世の時に国土統一。

しかし王家の分割相続によって国の統一が弱まり、1241年にはモンゴル軍とのワールシュタットの戦いで国王ヘンリク2世が戦死する。

その後カジミエシュ3世(大王)(在位1333~70年)時代に繁栄を取り戻す。

領土を拡張し、クラクフ大学を創立、神聖ローマ皇帝カール4世とハンガリー王との争いを調停するほどだが、ドイツ騎士団の圧力に常にさらされる。

大王死後、ピアスト朝が断絶すると最後の後継者ヤドヴィガがカトリックに改宗したリトアニア大公国の君主ヤギェウォと結婚し、1386年リトアニア・ポーランド王国が成立。

現在はバルト海沿岸の一小国であるリトアニアだが、当時はロシア・ウクライナの住民を「タタールのくびき」から解放して、地図を見ると我が目を疑うほどの広大な領域をキエフを含む内陸部に占めていた。

1410年グルンヴァルト(タンネンベルク)においてヤギェウォはドイツ騎士団軍に圧勝し、以後両者の関係でポーランドは常に優位を保つ。

16世紀初めルター派に改宗した騎士団領が世俗のプロイセン公国となり、初代プロイセン公ホーエンツォレルン家のアルプレヒトはポーランド国王に臣従する。

しかし全人口の10%を占めるシュラフタという貴族身分の力が強く、ヨーロッパ各国が絶対主義体制を固める中で、中央集権化に遅れをとる。

著者はこの「シュラフタ共和国」を必ずしも衰退の原因とは見ず、16世紀はそれが有効に機能していた時代であり、その繁栄の上にコペルニクスに代表される文化の華が開いたとしている。

1573年ヤギェウォ朝断絶、選挙王制に移行。最初の国王はフランス王シャルル9世の弟アンリ(ヘンリク)・ヴァロワが選ばれたが、直後にシャルル9世が死去したため帰国、ヴァロワ朝最後の王アンリ3世となる。

以後の内政は無秩序な大貴族の寡頭制に堕し、国運は大きく傾く。

対外的にはイヴァン雷帝死後混乱が続きリューリク朝が断絶したロシアに侵攻し、スウェーデン出身でポーランド王に選ばれていたジグムント3世の子をツァーリとすることに一時成功するが、1613年ミハイル・ロマノフの即位によってそれも水泡に帰す。

直後のスウェーデン王グスタフ・アドルフの侵攻を退け、以後の三十年戦争では局外に立つが、1648年にウクライナのコサックが反乱を起こす。

蜂起したコサックがロシアに接近することによりウクライナはほぼ失われ、ロシア・スウェーデン両軍の攻撃を受け「大洪水」と呼ばれる混乱期となり、この時期プロイセン公国はポーランドの宗主権から離れる。

1683年オスマン帝国の第2回ウィーン包囲にあたって、ヤン3世ソビエスキが援軍として駆けつけキリスト教世界の救世主と称えられたが、内政は貴族の拒否権乱発と反宗教改革の勝利による偏狭なカトリック主義とで機能不全となり、都市は没落し農村は疲弊した。

ヤン3世死後、ザクセン選帝侯のアウグスト2世が即位、ロシアのピョートル1世と結んで1700年北方戦争に参戦。

スウェーデン軍侵入時、スタニスワフ・レシチンスキが一時即位するが、ポルタヴァ戦でロシアが勝利するとアウグスト2世が復位した。

18世紀初頭の二つの戦争――スペイン継承戦争(1701~14)と北方戦争(1700~21)――はヨーロッパの政情を大きく変えた。前者によってフランスのブルボン家は、スペイン王位を獲得したが、盛時の力を失った。一方マドリードを手放したオーストリアは、徐々に西ヨーロッパ問題から撤退し始め、バルカンへの進出を最大の政治目的とするようになった。他方、バルト海の覇権をめぐる北方戦争は、スペイン継承戦争を上回る変化を東ヨーロッパにもたらした。17世紀の強国、スウェーデンが消えた。これに代わってピョートル大帝のロシアが一挙にヨーロッパの政治舞台に登場した。

1733年アウグスト2世死去、その子アウグスト3世が即位すると、スタニスワフ・レシチンスキの娘と結婚していたフランス王ルイ15世は義父の即位を主張して、オーストリアに宣戦、ポーランド継承戦争(1733~35年)が勃発する。

本書では詳しい記述が無いので、ピエール・ガクソット『フランス人の歴史』吉川弘文館の『世界史年表・地図』などで補強すると、この戦争の結果ポーランド王位はアウグスト3世に、レシチンスキにはロレーヌ(ロートリンゲン)公の位が一代に限り認められる。(1766年彼の死後ロレーヌはフランスに併合された。ちなみにアルザスは三十年戦争後ウェストファリア条約でフランスに併合。ただし中心都市のストラスブールはやや遅れて違う経緯で仏領となる。ロレーヌのうちツール・ヴェルダン・メッツの各都市もウェストファリア条約での併合。)

以前のロートリンゲン公フランツはメディチ家断絶後のトスカナ大公国を与えられ、神聖ローマ皇帝カール6世の後継者マリア・テレジアと結婚する。

さらに先のスペイン継承戦争とラシュタット条約の結果、スペイン本国のブルボン家統治を認める代償としてオーストリアに引き渡された南ネーデルラント、ミラノ、ナポリのうち、ナポリがスペイン・ブルボン家に譲渡される。

なおラシュタット条約では、シチリア島はサヴォイ公国、サルディニア島はオーストリア領有だったが、1720年両者が交換され、サヴォイ公国はサルディニア王国となっていた。

1735年ナポリと共にシチリアも割譲され、この両地域は1860年ガリバルディに征服されるまでブルボン朝王国として存続することになる。

以上の領土の移動はかなり重要な史実のように思えるが、教科書には載っていない。

このポーランド継承戦争が高校世界史の範囲外なのは解せない。

読む方もウンザリでしょうが、書く方も疲れました。以後できるだけ簡単にいきます。

アウグスト3世死去後、ロシアの支持を得たスタニスワフ・ポニャトフスキが最後のポーランド国王として即位(在位1764~95年)。

彼は即位前ロシアに滞在中、エカチェリーナ2世の愛人だったという人物。

ポニャトフスキは国制改革を進めようと努力するが、ポーランドを緩衝国として利用しようとするロシアの政策が変化し、その姿勢は領土併合へと傾く。

1772年普・墺・露によって第1次ポーランド分割。

その後しばらく間が空き、国内の危機感の高まりを受け1788年の議会は改革を討議し、91年立憲君主制と議院内閣制、有産シュラフタ・上層市民の緩やかな融合を目指した「五月三日憲法」を制定した。

これはバークも賞賛したほどの穏和で漸進的な改革だったが、折悪しくフランス革命の混乱が引き起こされており、エカチェリーナ2世はこれに徹底した不信と敵意を示す。

1793年普・露による第2次分割。コシューシコは独立維持のため蜂起し、パリでジャコバン政権に援助を要請するが具体的支援は得られず、自らも捕虜になる。

1795年三国による第3次分割でポーランドは滅亡。

ナポレオン戦争時代、大敗したプロイセンとオーストリアの領土からワルシャワ大公国が作られるが、ナポレオン没落と共に消滅、ウィーン会議で大公国の元領土の多くがロシア支配下に入り、ロシア皇帝が国王を兼任するポーランド王国が作られる。

ロシア本国では影も形も無い憲法が王国には与えられるが、実質の運用は即停止され圧政が強まる。

1830年、46年、48年、63年の反乱は全て失敗。

19世紀末には近代的政党による反抗運動が始まるが、左派の「ポーランド王国・リトアニア社会民主党」のローザ・ルクセンブルクは階級闘争を最重要視し、独立運動の意義を認めなかった。

「ポーランド社会党」内ではやはり階級闘争重視の左派と民族独立重視の右派に別れ、将来の独立ポーランドにおける最重要人物ピウスツキはこの党の右派に属していた。

その他、漸進的・融和的方針を掲げるドゥモフスキの「国民連盟」「国民民主党」があった。

第一次大戦においてピウスツキは独・墺側で戦うが、ポーランド軍の独自性を強く主張したため当局に投獄される。

1918年ドイツ降伏によって釈放、ロシア革命後の混乱もあって独立を達成したポーランドの指導者となる。

1920年ソヴィエト・ポーランド戦争でワルシャワ前面に迫った赤軍を撃退し、有利な東方国境を制定するが、民族感情の対立からロシア白衛軍やウクライナ軍と協力せず、ソヴィエト政権打倒のチャンスを逃したのは、後世から見ると切磋扼腕せずにはいられない。

独立後も経済は不振で、訓練不足の議会制民主主義は機能せず、情勢が混乱を極めるとピウスツキは1926年クーデタを起こし、事実上の独裁権力を握る。

以後35年の死に至るまで政権を担当するが、ここで問題になるのが34年ドイツと結んだ不可侵協定である。

これも高校世界史では出ない事実だが、野田宣雄『ヒトラーの時代』によれば、これはヒトラー政権初の外交攻勢であり、ポーランドとの友好関係を誇示して、フランス・ソ連に圧力をかけることを可能にしたと評価されている。

それまでドイツ国防軍とソ連赤軍の秘密交流やラパロ条約のようにポーランドを敵視して独ソ間の連携が存在し、フランス・ポーランドがそれに対抗する形だったのが、以後35年の仏ソ相互援助条約のようなフランス・ソ連間の連携が生れた。

最終的な結果を見ればやはりこれは失敗と言えるのだろうが、ヒトラー政権成立時にフランスに対独予防戦争を提唱したが拒否されたピウスツキとしては自国の安全のために当時最善と思われる行動を取ったつもりだったのかもしれない。

第2次大戦と戦後の共産化以後の歴史も述べられていますが、自分がメモしたい部分は以上で終わりなので、これで止めときます。

最初に書きましたが、悪い本ではないです。

ただ中公新書の『物語ポーランドの歴史』が出る場合は、これ以上の出来を期待します。

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