万年初心者のための世界史ブックガイド

2007年11月2日

ヤコプ・ブルクハルト 『世界史的諸考察』 (二玄社)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 06:00

ホイジンガについて『中世の秋』を読まずに『朝の影のなかに』を読んだように、ブルクハルトについても『イタリア・ルネサンスの文化』は読まずにこれを読む。

「まず主著を読めよ」と思われるかもしれないが、いくら名著でもその種の文化史の本は私にとっては荷が重い。

古典的著作については、無理をせず自分でも読めそうなものだけ着実に読んでいくという方針でやってますので、このブログでご紹介できるものははなはだ少ない。

もちろん意欲のある方はこの手の本をどんどん読んでいって頂ければ、非常に有益だと思います。

さて、本書はブルクハルトが普仏戦争とドイツ統一の騒然とした世相の時期に行った、全般的歴史観についての講義を、その死後出版したもの。

歴史を動かすものとして、国家・宗教・文化という三つの力を想定し、その相互規制関係をあれこれ叙述している。

ちょっと理解しにくいところも多いが、全くチンプンカンプンというわけでもない。

「?」と思った部分があっても、そこで立ち止まらずどんどん読み進めていけばいいと思う。

所々で大いに考えさせられる文章に出会い、感銘を受ける。

読み終えた後、ずっしり胸にこたえるものがあった。

歴史思想の本としてはさほど難しくないし、非常に重要な内容を含んだ本だと思うので、未読の方には是非ご一読をお勧め致します。

国家の建設に対して契約説を説くことは荒唐無稽である。ルソーにおいてもそれはただ理念的な仮説的な応急手段として考えられているにすぎない。彼は過去においてどうであったかを示そうとせず、自分の説ではどうであるべきかを示すに止まるからである。いまだにどんな国家も真の契約、すなわちあらゆる面から自由意志による契約によって成立したことはない。なぜならば戦慄しているロマン人と勝ち誇るゲルマン人との間にあったような割譲とか和解のようなものは決して真の契約ではないからである。それ故にまた今後もどんな国家もそのようにして成立はしないであろう。そしてたとえそのようにして成立しても、それは弱体な産物であろう。なぜならば絶えず根底についての紛争が生ずるであろうから。

・・・・・近代文化は18世紀に始まって、1815年以来強大な力で前進する中で、大きな危機に向って急速に迫って行くのである。なお国家が一見旧態のままであった啓蒙時代においてさえすでに国家は民衆によって事実上暗くされていた。それは決して日々の出来事について論争する民衆ではなくて、哲人として世界を支配した人々によってである。すなわちヴォルテールやルソー等々のような人々である。ルソーの社会契約説は七年戦争よりはおそらくいっそう大きな「歴史的出来事」である。とりわけ国家は反省的思索、哲学的抽象の最も強い支配下に陥り、主権在民の理念が訪れ、ついで営利と交易の世代が始まり、これらの興味が次第に世界を規定するものとされてくる。

・・・・・下層からして見れば国家のどんな特殊の権利ももはや認められない。すべてが論議の的であり、否根本において国家についての反省的思索は気分次第で国家形式の絶えざる変化を要求する。

しかし同時にこの反省的思索は、それが周期的に国家のために立てるその崇高な全プログラムを国家が実現しうるために、国家からいつもいっそう大きないっそう広汎な強制力を要求する。きわめて奔放な個人もその場合は個人が普遍の下に最も強力に束縛されることを願うのである。

国家はこのようにして一方ではそれぞれの党派の文化理念の実現であり表現であるべきであるが、他方では市民生活のよそおう目も綾な衣裳しかもただこのことのために万能な衣裳にすぎないのである。国家はすべて可能なことをすることができるが、もはや何物もしてはならない。すなわちその現存の形式をどのような危機に対しても防禦してはならない――しかも結局また人はやはり何よりも国家の権力行使に参加したいと願うのである。

こうして国家形式はいつも論議しうるが、権力の範囲はますます増大する。後のことはまた地理的意味でもそうである。すなわち国家は今や少くとも当の国民全体とその上なお何かをも加えて包括すべきであり、国家権力の統一と国家の版図の大きさとが崇拝の対象となる。

国家の神権(生命や財産に対するそのかつての恣意的権力)が根本的に消えて行けば行くほど、ますます広く人は国家のためにその俗世的権利を拡張する。組合権はいずれにしても死滅し、妨げるものとてはもはや存在しない。ついに人はあらゆる差別に対して極度に過敏になる。大国家が保証する単純化や平均化ではもはや充分ではない。現在の文化の主力である営利感覚は交通のためだけでも普遍的国家を本来前提する、ただしこれに対しては個々の国民の特性やその権力感のうちにまた強力な対抗力が働いているのは勿論である。

その間にやがてそこここで地方分権化や自治、アメリカ的単一化等々を求めて呻吟する声が聞えるのである。

しかし最も重大なことは国家の使命と社会の使命との間にある限界がまったく乱れ去るおそれがあることである。

これに対してフランス革命がその人権の宣言をもって最も強い衝撃を与えたのであるが、一方国家はその憲法中で市民権について合理的な定義を与えることによって済ますことができれば、有難いと思ったに違いなかったであろう。

いずれにしてもその場合カーライルが正当にも注意するように、人はまた人間の義務や人間の能力、さらにまた国土の可能的な生産についても深く思いをめぐらすべきはずであったであろう。

人権を近代的に起草するとなればそれは労働権と生存権を含むことを要求するであろう。

人はまさに最大の主要事をもはや社会に任せようとは欲しない。なぜならば人は不可能な事をしようと欲し、しかも国家の強制のみがそれを保証しうると考えるからである。

「組織」といい、「制度」というものが現在の文筆上や出版上の流通機構を通じて迅速にひろまる結果として人はそれをどこでも持つことを要求するばかりでなく、また社会のしないことが解っていたり予感されたりするすべてのことを日毎に増える借方の帳簿の中で直ちに国家に決済を強いるのである。いたるところで要求は昂まりそれに応ずる理論も昂まる。しかも同時にまた19世紀の苦悩に満ちた大規模の喜劇の主たるものというべき負債もまた増えるのである。未来の世代の資産をあらかじめ蕩尽するこのやり方がすでに19世紀の本質的性格としての心なき驕慢を証しているのである。

結局のところ、どこかで人間の不平等にふたたび敬意が払われるようになる時がこよう。しかし国家や国家概念がその間に何を経験するであろうかは、ただ神々の知り給うところである。

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